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  • 糸と声の魔法

    市民会館のホールには、 手作りの幕と控えめな照明。 近所のお母さんたちが演じる人形劇に、 子どもたちが前のめりになっていた。 3歳の娘も、その中のひとり。 舞台の目の前、 子どもたち用のかぶりつき席。 ひときわ大きな目を舞台に向けている。 親である私は、後ろに設置された席に座っていた。 最初は 「途中で飽きるかな」と思っていたが、 それは完全に間違いだった。 布のうさぎが「にんじん、にんじん!」と歌うたびに、娘は小さく体を揺らす。 人形の動きを観察して、 合わせて、 自分も体を動かすが。 私はというと、 ただ見守るだけのつもりだったのに、 不思議とその空気に引き込まれていた。 糸で操られた動き…

  • ナポリタンにすがる夜

    終電。駅からの帰り道。 風がシャツのすそをひらひらと揺らす。 一歩ごとに足が悲鳴をあげる。 顔は疲労とマスカラでにじんでいた。 OLはマンションのドアを開けると、 着替えもせずに床に倒れ込んだ。 「無理…無理すぎる…」と声にならない言葉をつぶやく。 それでも腹は減る。 何も、ない。 唯一の希望、冷凍庫の奥から引っ張り出したのは—— 「ナポリタン、いた…!」 ふらふらの足取りでレンジにセット。 チンの音すらも遠くに感じる。 テーブルに腰を落とし、フォークを握る手が震える。 ひと口。 甘くて、しょっぱくて、妙に安心する味。 「あぁ…今、世界で一番おいしいかも」 体力の限界とナポリタンの炭水化物が、…

  • 日曜午後のドブル合戦

    日曜の午後、外はじっとりとした梅雨空。 どこにも出かける気が起きず、 家族3人はリビングに集まった。 「今日は何しようか」と父が言えば、 「やることないー」と娘がソファでゴロゴロ。 母が本棚からひょいと取り出したのは、 ボードゲーム『ドブル』だった。 「久しぶりにこれやろうよ」 娘の目がきらりと光る。 父は「また負ける気がする…」とつぶやきながらも、 ちゃっかり座布団を引いてスタンバイ。 丸いテーブルにカードを広げ、勝負開始。 「いちご!」「キャンディ!」「猫!あ、違った、フクロウ!」 娘の声が元気よく響き、 父と母は目を凝らしてカードをめくる。 みんな、すぐに本気モードに。 娘は次々にカード…

  • また始めればいい朝

    朝4時半、アラームが鳴る。 けれど今日も、スヌーズに指が伸びた。 そして、次に目を開けたのは6時すぎ。 「あぁ、またか……」 そう思いながら、慌てて着替えて化粧して、朝食もとらずに家を出た。 最近、少しだけ仕事の重荷が増えた。 そのせいか、頭の中も部屋の中もずっと忙しい。 帰宅しても疲れてしまって、洗濯物がそのまま。 床に鞄を置いて、そのまま寝てしまう日もある。 それでも、朝活だけは続けたかった。 万年筆で手帳を開いて、アファメーションを書いて、 マインドマップでビジュアライゼーションを描く。 静かな朝の空気の中で、自分のことだけを考える時間。 それが、私にとって大事な“呼吸”だった。 でも、…

  • OL、金曜夜にフルスイング

    終電にはまだ早いが、心はもう最終下車。 スーツ姿のOLは、腕まくりしながら駅前のバッティングセンターに吸い込まれた。 今日のランチは5分で胃に押し込み、会議では「それ、前回言いましたよね?」と無言の圧を受け、 帰りがけにはエレベーターの「閉」ボタンを全力でプッシュされた。 つまり、打ちたかった。 何かを。 もう、何でもよかった。 レンタルヘルメットを深めにかぶり、バットを手に取る。 右手のネイルとバットの無骨さがまったく噛み合わないが、気にしない。 目の前のピッチングマシンから、球速120kmの球が放たれ―― 空振り。 そして、腰が「ピキッ」と鳴った。 2つとなりの高校生(明らかに野球部。坊主…

  • インクの音

    部屋に灯るのは、小さなデスクライトひとつ。 外はすっかり夜更けで、窓の向こうに見える街も、 静かに呼吸をしているようだった。 彼女はそっと万年筆のキャップを外す。 カチリという小さな音が、 眠る家の中に微かに響いた。 今日のページを手帳に開き、 ゆっくりとペン先を走らせる。 「朝、なんとか起きられた。 天気は晴れ。昼は会議が長引いて疲れた。 でも、同僚の差し入れのコーヒーが嬉しかった。」 万年筆が紙をなぞる音だけが部屋に流れ、 まるで世界と自分だけが繋がっているような錯覚に陥る。 最後に、今日の自分に一言。 「よくがんばった。」 そう書き終えると、そっと手帳を閉じ、 インクの香りを名残惜しそう…

  • また、やっちゃった

    「また、やっちゃった」 画面の明かりが、真っ暗な部屋をぼんやり照らしている。 スマホのスピーカーから、【春とヒコーキ】のやたら元気な声が聞こえる。 「女が二郎にくるんじゃねぇ!」 ――そんな声を最後に、彼女は眠ってしまっていた。 目を開けると、カーテンの隙間からは街灯の明かり。 スマホは顔の横、まだYouTubeが再生中。 時間を見ると、1時13分。 「……最悪。」 今日こそはちゃんと歯を磨いて寝るって、 昼間の自分は確かに決意したのに。 コーラ飲んで、ポテチ開けて、動画見ながら笑って、気づいたらこのザマ。 半分夢の中で起き上がる。 中途半端に覚醒した頭で、洗面所へ向かう。 スリッパを引きずる…

  • 夏のスーツと一口の誘惑

    梅雨が明けたその日、駅のホームはすでにサウナのようだった。 スーツの袖を腕まくりしながら、彼女は唇を噛んだ。 ——今日は飲まないって決めたじゃん。 目の前の自販機に、冷え冷えのコーラ。キラキラと水滴をまとい、まるでCMのように「開けたら最後、あなたを裏切らないよ」と語りかけてくる。 バッグの中には、マイボトルに詰めた常温の麦茶。健康志向。無糖。エコ。 でも今欲しいのは、あの炭酸の刺激と喉を突き抜ける清涼感。 スーツの中のシャツが背中に張りつき、首元から一筋の汗が伝う。 腕まくりしたその腕がピクリと動く。 小銭……いや、待て。今日を乗り越えれば、自分に少し自信がつく気がする。 目をそらして、深呼…

  • カオス棚、整えたい日

    土曜の朝。 洗い終えた食器を抱えて、 食器棚の前で立ち尽くしていた。 「……なにこれ」 大小バラバラの皿たち。 キャラクター付きのプラカップ、 娘の離乳食期の名残。 新婚旅行先で買ったペアのマグカップは なぜか上下で別の段に離れ離れ。 スープカップの中に醤油皿が入れ子のように収まっているのを見て、思わず笑った。 「カオスすぎるでしょ」 ちょっとだけ整理しよう、と始めたつもりが、 「これも懐かしい」「これはまだ使えるかも」と、 手は止まりがち。 結局、テーブルの上には “思い出”と“実用性”が入り混じった選手たちが ずらりと整列する。 気づけば娘が足元にきて 「おなかすいたー」とぐずり始めた。 …

  • スライムとカーペットと午後の格闘

    「ママー、みてー!」 3歳の娘がにっこり笑いながら、スライムを高々と掲げた。薄紫の半透明な物体が、ぷるぷると揺れている。 「すごいねぇ……。あんまり床に落とさないでね」 母はキッチンで洗い物をしながら、なんとなくそう返した。スライムとはいえ、あの子が一番楽しみにしていたガチャ景品。きっと大事に遊ぶだろうと思っていた――が。 「ママー……とれない……」 その声がした瞬間、母の脳内には「イヤな予感」という文字が点滅した。 リビングに向かうと、そこには―― カーペットにめり込んだスライム。 その上で指を指して固まる娘。 「なんでよりによって、毛足の長いとこに……!」 母は無言でスプレーを取りに行き、…

  • ぐだぐだ親子の休日

    「なぁ、やる気ってどこから来ると思う?」 父はベッドの上でゴロンと横になったまま、天井を見つめながら問いかけた。 「うーん、おやつ?」 隣で同じくだらしなく横たわる娘が、即答する。ぬいぐるみを握りしめたまま、くるっと父に顔を向けた。 「それは……たしかに正解かもしれん。」 父は笑いながら、娘の髪をくしゃっと撫でた。朝から何もする気が起きない日曜日。洗濯も掃除も後回し。食パンは昨日の残りで済ませた。 娘はちょこちょことお絵描きをしては、ベッドに戻ってくる。父は何度かPCに手を伸ばしかけて、結局何もしないまま寝転んでいる。 「きょう、どこもいかないの?」 「うん、きょうは“どこにも行かない日”なん…

  • 窓の外の速さ、ノートの中の遅さ

    新幹線が静かに加速する。 窓の外の景色は、どんどん形を失って、線のように流れていく。 彼女は通路側の席に腰を落ち着け、足元のバッグから一冊の手帳を取り出した。 革の表紙に、ところどころ爪の跡。使い慣れた証だった。 目的地までの1時間半。 読書アプリも、動画も、メールの返信もあるけれど―― 今日は、あえて書くことにした。 パチリと開くと、前の週のページに「やりたいことを100個書く」とだけメモされている。 中身は白紙のままだった。 「100個も思いつくかな……」 そうつぶやきながら、ボールペンを手に取る。 ——「山に登る」 ——「朝6時に起きる」 ——「スパイスカレーを作る」 ——「ちゃんと断る…

  • また山を登ってしまった

    月に一度だけと決めている。 それ以外は行かない。 それが、自分ルール。 「2番さん、にんにく入れますか?」 豚山のカウンター席で、紙エプロンを首にかけ、髪をきゅっと後ろで留めたOLは、迷いなくこう答える。 「全部、マシマシで」 ──仕事を頑張ったときのご褒美、それが「山」だった。 仕事に疲れた金曜の夜、癒しはこの巨大な丼に詰まっている。 野菜、アブラ、にんにく、そして圧倒的な豚の重み。 一口目のスープで胃が目を覚まし、もやしの山を越えるたびにストレスが霧散していくような気がする。 「ふふふ、今週も登頂成功ね……」 そう笑っていたのは、半分を超えたあたりまで。 突如として、胃が「帰れ」と訴え始め…

  • 小さな言葉、大きな問い

    「その言い方はやめなさい。 他人の外見のことを、そんなふうに言うものじゃない。 自分が言われたら、嫌でしょう?」 そう言った瞬間、3歳の娘は大粒の涙を流しながら 大声で泣き始めた。 でも反論はしなかった。 私は「よし、ちゃんと伝えた」と思った。 はずだった。 だけど夜になって、妙なもやもやが胸の奥に残った。 本当にそれでよかったのか? そう問いかける声が、自分の中から聞こえてきた。 たしかに、「自分が言われたら嫌かどうか」は一つの基準になる。 けれど、あのときの私の違和感は、 そこじゃなかった気がする。 外見。たかが顔。髪型。服。 本質とはまったく関係のない、どうでもいいはずの部分。 それを面…

  • 土曜日、誰もいないオフィスで

    土曜日の朝。 電車の本数が少ない。 スーツの人もまばら。 通勤中の彼女は、 自販機の缶コーヒー片手に無言だった。 昨日の残業が、まだ身体に残っている。 目の奥が重い。口紅も適当。 でも「やらなきゃ終わらない仕事」は、 待ってくれない。 --- いつものビルに着いた。 誰もいない静かなフロア。 電子音ひとつ響かない。 彼女はPCを立ち上げ、 黙々と作業を進めていく。 「……なんで土曜日に私だけ……」 ふとそう思いかけたとき、 手を止めてスマホを開いた。 SNSには「休み最高!」「朝活カフェ」なんてハッシュタグが並んでいる。 (いや、今は見なければよかった) --- 昼を過ぎて、やっとビルを出る。…

  • スーツは、抜歯に不向き

    昼休み、おにぎりを頬張っていたとき、 ふと呟いた。 「……なんか、奥歯のあたりがイタイ。」 ——いや、正確には三日前から痛かった。 しかし社会人たるもの、 虫歯ごときで仕事を休んではならぬ。 プレゼン、上司の顔色、金曜の飲み会。 すべてが優先されるべき案件だった。 だが本日13時47分、奥歯が「ズドン」と鼓動を打ったのを最後に、彼女は観念した。 歯医者、即予約。 そして17時、会社から逃げるようにして駆け込んだ。 「虫歯ですねー。それから、親知らずも暴れてますねー。」 白衣の歯科医はサラリと言った。 「今日、抜いときましょう」 (えっっっ ちょ ぬ、ぬく……今!?) 「今がチャンスです。ほら、…

  • 通勤電車でのメモ

    いつものように、ぎゅうぎゅうの通勤電車に揺られながら、彼女はiPadを取り出す。 器用にApple Pencilを取り出すと、画面にすばやく文字を書き始めた。 「9時 朝礼 部長の機嫌確認」「11時 企画会議」「13時 外回り(雨かも)」 ホーム画面の隅には「早く転職したい」の文字が小さく書き残されているが、それに触れる余裕はない。彼女のiPadは、もはや第二の脳だった。 吊り革につかまりながら、空中で文字を書く姿に、隣のサラリーマンが一瞬だけちらりと視線をよこす。でも彼女は気にしない。車内に揺られることよりも、頭の中が揺らがないことの方が大事なのだ。 ひとつひとつの予定に、小さくスタンプを押…

  • うどんとOL

    山梨出張のついでに、彼女はひとり、 噂に聞いていた「吉田うどん」の名店に立ち寄った。 パンツスーツにビジネスバッグ。 どう見てもこの趣ある古民家の雰囲気には場違いだが、 彼女にはどうしても食べてみたいという執念があった。 店の中は、畳敷きに低いテーブル、 柱の傷に年季があり、 ふすまの向こうからはほのかに煮干しと醤油の香りが漂ってくる。 「お待たせしました、肉うどんです」 運ばれてきたのは、湯気を立てる一杯の吉田うどん。 太く、コシの塊のような麺。 その上には炒めたキャベツと甘辛い馬肉。 食欲をそそるが、箸で麺を持ち上げた瞬間から、 その異常なまでの“弾力”に軽くひるむ。 「よし…仕事の鬼、う…

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