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しばやんの日々(旧BLOGariの記事・コメントの復活) https://blog.goo.ne.jp/shibayan1954

初めてブログを書き始めたBLOGariブログの記事とコメントを再掲し、リンク切れ等を修正しました。

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2018/03/20

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  • 伝説の美女・小野小町とその後の伝承

    紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」(古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。)「...伝説の美女・小野小町とその後の伝承

  • 桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

    前回の記事で、京都府長岡京市にある長岡天神のことを少し書いた。「長岡京市」という名称は、以前わが国の都があった「長岡京」から名づけられたのだが、「長岡京」については、教科書にはあまり詳しく書かれていなかった。ネットで「長岡京」の地図を探すと、「長岡京」は今の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に跨っているかなり大きな都で、平安京の大きさと比べてもそれほど大差がないことが分かった。長岡京の中心部は「長岡京市」ではなく、むしろ「向日市」にあることは意外だ。次のURLでは長岡京の大極殿跡などの史跡のレポートが詳しく出ている。http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25343873.html光仁天皇の後を受けて即位した第50代の桓武天皇は、それまで都が置かれていた平城京を捨てて、延暦3年...桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

  • 菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

    「菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総本社とされている。下の画像は北野天満宮の本殿だ。どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、次のサイトの記事では3,953社なのだそうだ。https://nikkan-spa.jp/1262989「天満宮」では牛の像をよく見かけるのだが、これは「菅原道真公が丑年の生まれである」、「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの説があり、どこまでが真実なのかは今となっては良くわからないそうだ。しかし、...菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

  • 能勢町の古刹と天然記念物「野間の大ケヤキ」を訪ねて

    ゴールデンウィークの道路渋滞を避けて、一般道を通って大阪の北端にある能勢町に行って来た。能勢町はとてものどかな雰囲気で、美しい山並みと田園風景に結構癒される場所である。大阪の都心や住宅地で滅多に見られなくなった「鯉のぼり」も、この時期にここまで来るといくつも泳いでいる。昔懐かしい茅葺の家も点在している。茅葺屋根の民家の庭に「鯉のぼり」が泳いでいるのを見ると、数十年前にタイムトリップしたような気分になって、思わず何枚も写真を撮った。上の画像は蛙の鳴き声の聞きながら、「大日堂」の近くの民家を撮影したものだが、こういう景色はこれからもずっと残しておいてほしいものだ。能勢町には結構歴史の古い寺があるが、無人の寺もあるようだ。昨年に能勢町野間西山「今養寺」という寺で、国の重要文化財である平安時代の仏像「木造大日如来坐像」...能勢町の古刹と天然記念物「野間の大ケヤキ」を訪ねて

  • 栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

    藤原道長(966-1028)といえば摂関政治の全盛期を築き上げた人物で名高いが、この地位に昇りつめた経緯はすさまじいものがある。教科書を読むと藤原道長の「4人の娘が天皇の后(きさき)となった」と簡単に書いてあるが、その異常性は西暦で生存期間や天皇家との関係を付記しておくとよくわかる。道長の長女の彰子(しょうし:988-1074)は999年11月に一条天皇(980-1011)のもとに女御として入内させるが、翌1000年の2月に道長は彰子を皇后(号は「中宮」)とした。一条天皇には先立の后(定子)がおり皇子もすでにいたのだが、道長は定子を「皇后宮」と号することで一帝二后を強行したという。「中宮」というのは二人の后が並立する場合の、「皇后」に次ぐ后の称である。1008年に彰子は皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を出産し...栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

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