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しばやんの日々(旧BLOGariの記事・コメントの復活) https://blog.goo.ne.jp/shibayan1954

初めてブログを書き始めたBLOGariブログの記事とコメントを再掲し、リンク切れ等を修正しました。

しばやん
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2018/03/20

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  • 淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3

    お昼に鱧料理を堪能し、再び淡路島のドライブを続ける。つぎに紹介したいのは淡路島の伝統芸能である人形浄瑠璃だ。大阪の文楽や徳島の阿波人形などのルーツだと言われており、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。淡路島人形浄瑠璃の歴史は南淡路市のHPに簡記されている。https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/jyoururi/ningyo.htmlが、もう少し詳しく知りたい人は、次のサイトが詳しい。淡路人形座http://awajiningyoza.com/study/history/淡路人形浄瑠璃生年研究会http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/1719/awajinin1.htmそれぞれ微妙に...淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3

  • 「国生み神話」ゆかりの神社を訪ねて、昼は鱧料理のフルコース~淡路島文化探訪の旅2

    淡路島は「国生み神話」の舞台でもある。高校時代に日本神話を学んだときは、史実でもない作り話にほとんど関心を持たなかったが、この歳になって実際に「古事記」や「日本書記」を読んでみると、結構面白いのだ。「国生み神話」は「古事記」と「日本書紀」とは微妙に異なるところがあるが、たとえば「古事記」にはこのように書かれている。「そこで天の神様方の仰せで、伊耶那岐の命(いざなきのみこと)・伊耶那美の命(いざなみのみこと)お二方に、『この漂っている国を整えてしっかりと作り固めよ』とて、りっぱな矛(ほこ)をお授けになって仰せつけられました。それでこのお二方の神様は天からの階段にお立ちになって、その矛をさしおろして下の世界をかき廻され、海水を音を立ててかき廻して引きあげられた時に、矛の先から滴る海水が積もってできた島が淤能碁呂(お...「国生み神話」ゆかりの神社を訪ねて、昼は鱧料理のフルコース~淡路島文化探訪の旅2

  • 淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1

    淡路島の文化財を調べていると「東山寺(とうさんじ)」というお寺に平安時代の仏像13体が国の重要文化財に指定されているのが目にとまった。この13体の仏像の由来を調べると、明治の廃仏毀釈の時に京都の石清水八幡宮護国寺(いわしみずはちまんぐうごこくじ)から淡路島のこの地に遷されたという記事を見つけて興味を覚え、この目で見たくなった。6月になって淡路島の鱧料理が旬を迎えたので、この東山寺や淡路島の面白そうなところを巡りながら食事を楽しむ日帰り旅行を計画し、先週行って来た。最初に訪ねたのはもちろん東山寺である。東山寺の事を書く前に、石清水八幡宮護国寺について書いておこう。以前このブログで、明治初期の廃仏毀釈までは、京都府八幡市の石清水八幡宮のある男山全体が「男山四十八坊」と言われるように圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎...淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1

  • 若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

    5月27日の日経の朝刊に、今から400年以上前に若狭湾で津波とみられる大波で多数の被害が出たとの記録があるという記事が目にとまった。記事によると、「…敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が4月上旬、敦賀市の依頼を受けて調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代に書きつづった日記『兼見卿記(かねみきょうき)』に、1586年に『丹後、若狭、越前の海岸沿いで家々が波に押し流されて人が死亡した』といった内容の記述があった」「…また当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にも『山のような波が押し寄せて家や人が流された』といった記述が見つかった。」と書いてある。早速この時の地震に関するルイス・フロイスの記録を探してみた。該当部分は「完訳フロイス日本史3」(中公文庫)の第60章にあった。...若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

  • 伝説の美女・小野小町とその後の伝承

    紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」(古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。)「...伝説の美女・小野小町とその後の伝承

  • 桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

    前回の記事で、京都府長岡京市にある長岡天神のことを少し書いた。「長岡京市」という名称は、以前わが国の都があった「長岡京」から名づけられたのだが、「長岡京」については、教科書にはあまり詳しく書かれていなかった。ネットで「長岡京」の地図を探すと、「長岡京」は今の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に跨っているかなり大きな都で、平安京の大きさと比べてもそれほど大差がないことが分かった。長岡京の中心部は「長岡京市」ではなく、むしろ「向日市」にあることは意外だ。次のURLでは長岡京の大極殿跡などの史跡のレポートが詳しく出ている。http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25343873.html光仁天皇の後を受けて即位した第50代の桓武天皇は、それまで都が置かれていた平城京を捨てて、延暦3年...桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

  • 菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

    「菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総本社とされている。下の画像は北野天満宮の本殿だ。どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、次のサイトの記事では3,953社なのだそうだ。https://nikkan-spa.jp/1262989「天満宮」では牛の像をよく見かけるのだが、これは「菅原道真公が丑年の生まれである」、「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの説があり、どこまでが真実なのかは今となっては良くわからないそうだ。しかし、...菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

  • 能勢町の古刹と天然記念物「野間の大ケヤキ」を訪ねて

    ゴールデンウィークの道路渋滞を避けて、一般道を通って大阪の北端にある能勢町に行って来た。能勢町はとてものどかな雰囲気で、美しい山並みと田園風景に結構癒される場所である。大阪の都心や住宅地で滅多に見られなくなった「鯉のぼり」も、この時期にここまで来るといくつも泳いでいる。昔懐かしい茅葺の家も点在している。茅葺屋根の民家の庭に「鯉のぼり」が泳いでいるのを見ると、数十年前にタイムトリップしたような気分になって、思わず何枚も写真を撮った。上の画像は蛙の鳴き声の聞きながら、「大日堂」の近くの民家を撮影したものだが、こういう景色はこれからもずっと残しておいてほしいものだ。能勢町には結構歴史の古い寺があるが、無人の寺もあるようだ。昨年に能勢町野間西山「今養寺」という寺で、国の重要文化財である平安時代の仏像「木造大日如来坐像」...能勢町の古刹と天然記念物「野間の大ケヤキ」を訪ねて

  • 栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

    藤原道長(966-1028)といえば摂関政治の全盛期を築き上げた人物で名高いが、この地位に昇りつめた経緯はすさまじいものがある。教科書を読むと藤原道長の「4人の娘が天皇の后(きさき)となった」と簡単に書いてあるが、その異常性は西暦で生存期間や天皇家との関係を付記しておくとよくわかる。道長の長女の彰子(しょうし:988-1074)は999年11月に一条天皇(980-1011)のもとに女御として入内させるが、翌1000年の2月に道長は彰子を皇后(号は「中宮」)とした。一条天皇には先立の后(定子)がおり皇子もすでにいたのだが、道長は定子を「皇后宮」と号することで一帝二后を強行したという。「中宮」というのは二人の后が並立する場合の、「皇后」に次ぐ后の称である。1008年に彰子は皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を出産し...栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

  • 関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)

    前回は関東大震災時における火災のことを書いたが、被害は火災ばかりではなかった。震源に近い三浦半島から伊豆半島にいたる相模湾沿岸では、地震そのものによる家屋の被害のみならず、山崩れや土石流及び津波の大きな被害も記録されている。まず、山崩れや土石流による被害はどうであったか。神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)の根府川集落で、白糸川上流で発生した土石流により64戸の家屋が埋没し、406人が死亡したそうだ。上は、土石流により倒壊した根府川集落の写真である。また、近くの熱海軽便鉄道の根府川駅では背後の山が崩れて、停車中の列車を海中に押し流して死者が300人出たそうだ。他にも足柄下郡米神で土石流による民家埋没で死者62人、横須賀でがけ崩れによる民家埋没で100人を超えるなどの記録があるが、伊豆半島では伊豆山は山崩れで...関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)

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