おばちゃん達と子供達を引き連れて万屋へ~ユーゴスラビアのヒッチの旅
△荒涼とした大地の旅は人恋しい心境になる(この絵を二度使用)ーPaintedbyM.Yoshida・昭和43年11月27日(水)晴(「おばさんの家に泊めて」と懇願)ここは、Leskovac(レスコヴァツ)と言う地方都市の郊外であった。昨夜、遠く右方向の高い位置に幾つも灯が見えたのは、この町の夜景であった。このレストラン兼キャンプ場は、その町から坂を下りて来て丁字路の右脇に位置する所にあった。軽く食事を取り、ゆっくりコーヒーを飲んでからレストランを後にした。30分間ヒッチした後、トラックをゲットした。割かし直ぐに乗せて貰う事が出来た。200キロぐらい乗せて貰い、TitovVeles(ティトフヴェレス)辺りで降ろされた。私は既にマケドニア共和国に入った。ここ(ティトフヴェレス)は、首都・スコピエからかなりの離れてお...おばちゃん達と子供達を引き連れて万屋へ~ユーゴスラビアのヒッチの旅
・昼食抜きの理由の話前にも書いた様な気がするが再度、何故昼食を食べずに旅をしているのか、その理由を話したいと思います。ヒッチハイクは、基本的に食べたくても食べられないのだ。誰かに乗せて貰っている間は、お昼だからと言って、レストランや食料品店へ寄って貰う訳にいかなかった。又、降ろされた場所に食料品店や食堂、レストランがあれば良いのだが、無かった。私はヒッチ中、街の中以外に食料品店、食堂・レストラン、ドライブインを見掛けなかった。特にユーゴのこの街道は、町から離れているので、それらしき店が無いのも当然であった。それでは前の日に用意しておけば良いのであるが、泊まったユース等の近くに食料品店があれば良いのだが、大体に於いて無かった。それに前の日に準備しておくのも億劫であったし、第一金が掛かる。食べられなければ食べない、...昼食抜きの理由の話~ユーゴスラビアのヒッチの旅
・ヤンキースピリットの話今朝(1968.11.26)、共にユースを出たアメリカ人は、インドやパキスタンをヒッチした、大ベテランの旅人であった。その彼は5年間、世界中旅をしているとの事であった。それにしても男女問わずアメリカ人は、何処へ行っても気後れせず旅をしているので、いつも感心するのであった。アメリカ人根性(ヤンキースピリット)は、あの西部劇に見られる開拓魂から来ているのであろうか。日本人に無いポジィテブな面がある、と思われる。アメリカ人は何処へ行っても母国語の英語が使えるし、外国人と接しても〝気後れしない態度〟(異人との接触・交流に慣れている民族)、経済的にも我々よりずっと恵まれているので行動の範囲が広く、そして、『我々が世界をリードしている』と言う自負を持ち、あの体格で闊歩していた。アメリカ人の精神、言語...ヤンキースピリットの話~ユーゴスラビアのヒッチの旅
△寒風が吹く荒涼とした原野をギリシャに向けて歩を進める私-PaintedbyM.Yoshida・昭和43年11月26日(火)晴後曇(寒風吹く中のパンク事故)ヘンリーは「もう一泊する」と言う。私は5年間も世界中を旅しているアメリカの旅人(昨夜遅く、ユースに到着した)と共にユースを去り、ベオグラード郊外の街道に出た。彼は私と反対のイタリア方面へ向かって行った。地理や方向感覚が分からず、それに言葉の障害でユースへ辿り着くにも、郊外へ出るのもいつも苦労をするが、それでいて何とはなしにユースに着くし、又自分の行きたい方向への道路に着くから不思議であった。この道路は、2車線で整備され、絶対的に交通量が少ないが、平面交差が多い所為か、今日1100キロと行かない内に2度、交通事故の惨劇を見てしまった。いずれにしても、『私が乗っ...旅の心情~ユーゴスラビアのヒッチの旅
・旅人の話ヨーロッパのユース、或いはその他の所で、各国の多くの旅人と出逢って来た。一番見かけたのがアメリカ人、その次にカナダ人、イギリス人、オーストラリア人と、如何してか英語を母国語としている国が目立った。そして次にドイツ人、フランス人、オランダ人、北欧人でした。黒人に逢ったのは、スウェーデンのユースの時に1回だけであった。南米人、ソ連及び社会主義諸国の人、そしてアジア人の旅人とは、一度も会わなかった。『旅をする』と言う事は、経済的裏付けがないと出来ないので、目立ったのは先進諸国、所謂アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアを含む西ヨーロッパの人々であった。そして、後進国の人達は、経済的、政治的に旅が出来ない現状であった。そう言う意味に於いて、日本人に割りと多く出逢ったのは、後進国ではなくなり、先進国の仲間入...旅人の話~ユーゴスラビアのヒッチの旅
・昭和43年11月25日(月)晴れ後曇り(ベオグラード観光と盗難事件)今日、昨晩知り会った感じの良いカナダ人のヘンリーと共に市内、そしてベオグラードの古城見物に出かけた。その古城は、市の北端ドナウ川とサヴァ川の合流した場所にあった。古城から市街、ドナウ川とサヴァ川の眺めが、とても素晴らしかった。又城内には、中世の刀剣、鉄砲、絵画、骨董類等、数多く展示された博物館があった。素晴らしい古城にも拘わらず、観光客は少なかった。そしてドナウ川から吹く風は、強く冷たかった。ユースに着いたら相棒のヘンリーが、「リックの中からトランジスターラジオが無くなっている」と騒ぎ始めた。「Yoshiも調べた方が良い」と言うので、私もリックの中を調べた。すると、確かにある筈の万年筆が無くなっていた。部屋には3人宿泊していて、私とヘンリー、...ベオグラード観光と盗難事件~ユーゴスラビアのヒッチの旅
・ユーゴスラビアの話ユーゴは、複雑な国家なのだ。その理由は、一つの国家であるが、2つのアルファベット文字を持ち、3つの宗教があり、4つの言葉があり、5つの民族が共存し、そして共和国が6つもあるからであった。『バルカン(半島)は、世界の火薬庫』と学校で教わった事があった。各共和国は、第2次世界大戦以前にも、何回かの戦火を経験し、分裂と混乱を繰り返して来た。大戦中、ナチス・ドイツに侵略されたが、チートがパルチザンを結成し、勇敢に戦い、侵略から解放に導いたのだ。大戦後、その偉大な指導者・チート大統領によりこの複雑な国家が統一され、そしてユーゴは、ソ連とは一味異なった社会主義を目指しているのであった。それは、同じ社会主義国家であるが、ユーゴの方がソ連と比べて自由な雰囲気に溢れている様な感じがしたし、ある一面、西ヨーロッ...ユーゴスラビアの話~ユーゴスラビアのヒッチの旅
・昭和43年11月24日(日)曇り(ピーチカと美味しいワイン)中年のおばさんが起こしに来た。時計を見ると、まだ5時半前ではないか。いくらなんでも起きるには、まだ早過ぎた。早く起こされたので、「ブゥブゥ」独り言を言いながら、又ベッドへ潜ってしまった。6時前、又おばさんが入って来て、「わぁわぁ」訳の分らない事を大声で言いながら今度は、叩き起こされた。何がどうなっているのか、まだわめき散らしていた。私は何も悪い事をしていないのに、如何して怒っているのか、面食らってしまった。如何もそのおばさんの様子から、「もう遅いので直ぐ起きて、部屋から出て行ってくれ」と言っているようであった。仕方がなく、ペンションを出た。私は宿泊施設で6時(おばさんにしてみれば、こんなに遅くまで寝ていて、と言う感じであった。)に追い出されたのは、生...ピーチカと美味しいワイン~ユーゴスラビアのヒッチの旅
△ユーゴスラビアに入った途端、荒涼とした大地に変わり寂しさが漂うユーゴスラビア・ヒッチの旅(荒涼とした原野を越えて)・昭和43年11月23日(土)晴れ(社会主義国・ユーゴスラビアに入る)*参考=ユーゴの1Dinar(ディナール)は25円、1Para(パラ)は25銭歴史あるトリエステの町から道幅の狭い石畳の道路を国境に向かって歩いた。両側は、古い建物が建ち並んでいて、ユーゴスラビア(正式名称はユーゴスラビア社会主義連邦共和国。以後「ユーゴ」と言う。)へ行く主要道路であるが、走っている車は無かった。道は上り坂になっていて、その途中、小さな食料品店があった。お昼用のパンを買おうと思い、店に入った。その店は田舎の商いで、店内は薄暗かった。声を掛けたら奥から出て来たおばさんは私を見た途端、「店から出て行け」と言った様な大...荒涼とした原野を越えて~ユーゴスラビアのヒッチの旅
・昭和43年11月22日(金)晴れ(イタリア国境の町にやっと辿り着く)又、日高と共にユースを去り、乗合舟に乗った。しかし鉄道のサンタルチア駅近くで下船しなければならないのに、駅を間違えて3駅乗り越し、50リラ又払って戻った。無駄なお金を費やしてしまった。その乗り越した訳は、美しい大運河・カルナグランテに見惚れてウッカリしていたのだ。それにしても美しいヴェネチアを1泊しただけで去るのは、残念な気持で一杯だ。金銭的余裕があればゆったりと、もう2~3泊程したかった。リベルタ橋を渡って本土に戻らなければならないので、ターミナルからバスに乗った。そうしたらリヨンのユースで逢い、翌日共にバスに乗って郊外へ出た、あのカナダ人男女2人が乗っていた。我々は周りの乗客がいるにも拘らず、大きな声で再会を喜び合った。聞けば、昨夜は同じ...イタリア国境の町にやっと辿り着く
日本の縁日や夜店で売っている綿飴や焼きイカが売っていた~イタリアのヒッチの旅
△さやかになびく潮風、青い空に青い運河。古の宮殿、寺院が静かな青の水面にその影を落としている。水に囲まれたヴェネチアは、旅情豊かな雰囲気を醸し出し、おおらかな、そして心豊かにしてくれた。ヴェネチアの乗合船にての私。・昭和43年11月21日(木)晴れ(ヴェネチア観光で旅情を楽しむ)昨夜知り会った髭を生やしている鈴木、そしてカナダ人のアーロンと共に3人でヴェネチア観光をする事になった。所で、Venice(ヴェニス)をイタリア語でVenezia(ヴェネチア)と言うので、ここでは、「ヴェネチア」と言う呼び名で統一した。ヴェネチアは本土と海を隔てているので、市内に入るのに本土と島を結ぶ長い橋(リベルタ橋3.5キロ)を渡った。私はこれで3度渡っているのであった。1度目と2度目はローマからウィーンヘ行った時、列車は真夜中の1...日本の縁日や夜店で売っている綿飴や焼きイカが売っていた~イタリアのヒッチの旅
△カルナグランテ(運河)とサンマルコ寺院(ヴェネチアにて)昭和43年11月20日(水)晴れ(外国で初めての高速道路)今日も良く晴れていて、ヒッチには最高の天気であった。しかしそれに反してヒッチ率は、駄目であった。と言うのは、パルマからVerona(ベローナ)迄の100キロ強を、朝から午後の4時近くまで懸かって移動しただけであった。ベローナ~ヴェネチア間は高速道路になっていて、私はゲートで侵入を断られた。料金所のおじさんは親切で、「ここ(ゲート入口)にいれば、乗せてくれる車が来るので待っていなさい」と言ってくれた。私はボール紙にVenezia(ヴェネチア)と書いて、車が通る度にドライバーにそれを示して、乗せてくれるのをゲート手前で待った。既に5時近く、薄暗くなりかけている頃、運良くガソリン車が停まり(ゲート前だか...ヴェネチアに辿り着く~イタリアのヒッチの旅
・昭和43年11月19日(火)晴れ雪曇り(リヴィエラからアペニン山脈を越えて)ジェノヴァのユースは、高台にあった。直ぐ前が道路、それを挟んでその向こうが、何処までも見渡せる海岸、そしてさらに大海原が果てしなく広がり、とても景色の良い場所であった。朝食を済ませ、又、今日も旅が始まる。そんな時、余りにも素晴らしい眺めなので出発前、暫し足も止まってしまった。昨日来た時は、既に暗かったので何も分らなかった。今こうして今日1日が始まろうとするその瞬間に、この景色を眺めていたら、『自然は、不思議なものだなあ』と感じるのであった。そうこうしている内、昨夜、言葉が通じ合わなくても心が通じ合ったノルウェーからの旅人ピンターがユースから出て来た。この景色をバックに2人で写真を撮った。その後、私達は道路に出た。ピンターは右ニース方面...ドライブを楽しむ~イタリアのヒッチの旅
*「旅は良いなあ」からの続きです。*ユースホステルの話〝ユース〟(『YouthHostel』ユースホステル)に泊まるには、財団法人ユースホステル協会の会員にならなければならなかった。諸事情によりヨーロッパでは、極力ユースに泊まる為、私は出国前の5月14日に会員になった。会員になれば、「IYHF」=InternationalYouthHostelFederation(国際ユースホステル連盟)に加盟している全ての国のユースホステルに適用される。大抵の国(共産圏諸国、中近東諸国、インド、アフリカ等は除く)は、この連盟に入っていて、各主要都市及び地方・地区にユースがあり、我々ヒッチハイカーにとっては、安く宿泊出来るので有り難い施設であった。食事付ですと勿論、宿泊料もアップします。ユースによって2食付き、又は朝食だけ、或...ユースホステルの話~イタリアのヒッチの旅
イタリアのヒッチの旅(旅は良いなぁ)・昭和43年11月18日(月)晴れ(コートダジュールの素晴らしい景色)内陸部フランスは、本当に寒かった。しかしここニースは温暖で、本当に気持が良かった。日中、ジャンバーを着ていると、暑いぐらいであった。ニースは、CotedAzur(コート・ダジュール)の中心で、この他に有名なカンヌ、モナコがある。この辺り一帯は、世界的にも有名な海水浴場のリゾート・タウンでもあり又、冬は暖かいので、避寒地としても最適なのだ。ニースを中心に別荘が道路を隔てた山側に数多く散在していたし、その反対の海岸線沿いには、ホテルが建ち並び、それがずっと連なっていた。しかしそれにも拘らず今日は月曜日、しかも夏期休暇、或はクリスマス休暇期間ではないので、海岸や街は閑散としていた。天気は良いし、地中海も青々として...旅は良いなぁ~イタリアのヒッチの旅
・昭和43年11月17日(日)雪のち晴れ(こんな嫌な感じは初めて)起きたら雪はまだ降っていてガッカリであった。今日の天候は、ヒッチするのに最悪の状態を予測して、ユースを出た。リックを背負い、片手にバッグを持った手は、非常に冷たかった。こんな日もあろうかと思って買ったフード付きジャンパーは、雪を凌ぎ、体の体温を防いでくれたが、手袋無しで、その冷たさに悩んだ。片方の手をポケットで温めておいて、一方の手が悴んで来たら逆にして、その冷たさを凌いだ。ユースから街道までは直ぐ近くで、思っていた以上に早めに1台目をゲット出来た。午前中だけで3台釣れた。ヒッチ率は、最悪を予想していたので嬉しかった。南下するにしたがって、天候は雪からみぞれ、そして曇りから晴れて来た。3台目でバランスから200キロ稼ぎ、マルセイユに着いた。ちょう...ヒッチの旅は、常に人々の善意で・・・~フランスのヒッチの旅
昭和43年11月16日(土)曇り後雪(バランスのヒッピーとダンスをする)昨日と同様、今日も日高と共にバスに乗り郊外に出た。バスの中に、ユースで会ったヒッチハイカー達も乗っていた。余談であるが11月22日、その内のカナダ人男女2人と再びヴェネチアの郊外へ出るバスの中で出会っている。所で、リオンのバス運賃は距離制でなく、〝時間制〟(乗車時間で運賃が高くなったり安くなったりするする仕組み)であった。今日は又一段と寒さを感じた。今にも氷雨か雪が降りそうな、そんな空模様であった。1台目、2台目と乗り継いで行ったが、とうとう雪が降り出して来た。土曜日と悪天候でヒッチ率は悪く、道路端に立っていると、とても辛かった。叉、いつもの様に昼抜きで腹が減り、加えて手袋が無いので手が冷たく、寒さが一段と身に沁みた。それでもロンドンで買っ...手が冷たい、手袋が欲しいョ~フランスのヒッチの旅
・昭和43年11月15日(金)曇りのち雨(最長距離ヒッチと日高君)同じマルセイユ方面へヒッチする日高と共にバスに乗り、パリの郊外に出た。あちこちの道路上の水溜りは、氷が張っていた。今日は一段と寒かった。郊外の街道に出たら直ぐ、彼は車をゲットして去って行った。私も今日は早めにヒッチが出来て、パリを去った。2台目の車は、長く乗る事が出来た。フランスの家並みや田園風景を眺めながら、そして野を越え、山を越えて車は走った。Lyon(リオン)に入る前の山岳地帯から雨が降り出し、薄暗くなって来た。雨の降りしきる山中でも何組かのヒッチハイカーがこの車に対して合図を送っていた。しかしこの中年男性ドライバーは彼等を無視して、幾つかの山を越え、峠を下り、リオンへひた走った。この車に400キロ位、乗ったであろうか、今日は本当にラッキー...一気にリオンへ~フランスのヒッチの旅
・昭和43年11月14日(木)晴れ(3度目のパリ)1度目、そして2度目に訪れた時は夏で、パリは観光客で賑わっていた。今は落ち着きを取り戻した様であるが、晩秋のパリはなんとなく寂しい感じがした。落ち葉が舞い、行き交う人々はコートの襟を立て、足早に歩いていた。そして通りにあるカフェ店のテーブルも寒い為か、あれ程賑わっていたお客も今は居らず、閑散としていた。ユースで知り合った日高修吾さん(以後、敬称省略。大阪府豊中市出身)と共にそんなパリの街へ散策に出掛けた。名残尽きないパリを明日、旅立つ。花の都・パリの印象を心に秘めて・・・。晩秋のパリの様子~フランスのヒッチの旅
・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)ロンドンに滞在していた時は、毎日曇りか小雨の日が続いて、部屋にいると居たたまれない気分であったが、フランスに渡ってから3日間連続して晴れの日が続いていた。天気が良いと、それだけで気分も晴れた。そう言う意味で人間の心は、天候でも左右され・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)るのか、ましてヒッチの旅には有り難い。今日も昨日に続いてヒッチの旅が続いた。1台目、2台目、3台目と乗り継ぎパリへと向かった。しかし乗車区間が余りにも短かったので、パリへ近づいていない様な感じであった。車に乗っている時は良いのだが、降ろされて道路に立っている時は、とても寒く、辛かった。イギリスに滞在していた時は、寒い日もあったが、こんなに寒くな...ホモの車に乗ったアメリカ人~フランスのヒッチの旅
・昭和43年11月12日(火)晴れ(ヒッチの効率の悪さ)イギリス人の彼と共にユースを去り、ヒッチし易いブローニュの郊外の街道に出て、そこで左右に別れた。1台目は、1時間半ぐらいしてやっと釣り上げた。2台目はゲットしても直ぐ逃げられてしまった。この地方は、昼から2時か3時頃まで店を閉じてしまうので、昼食用のパンも買えなかった。今日も腹を空かせてのヒッチの旅。3台目でブローニュから37キロ位パリ寄りのMontreuil(モントルーユ)と言う町に辿り着いた。リックを背負いバッグを片手に持ち、見知らぬ街をトボトボ歩いて郊外に出て、再びヒッチ合図をした。4台目は7キロほど行って直ぐ降ろされた。乗せてくれた車は畑の中に消えて行った。降ろされた場所は何も無い、両側にジャガイモ畑の地平線が見渡す限り広がる畑のど真ん中であった。...ジャガイモ畑の中で立ち尽くす~フランスのヒッチの旅
・昭和43年11月11日(月)晴れ(イギリスとフランスの天候の違い)イギリスのドーバーから船で、フランスのカレーへ渡った。4度目の船旅、そしてとうとうイギリスを離れたのであった。11時頃出航、私はデッキでイギリス本土が見えなくなるまで眺めていた。イギリスは厚い雲で全土が覆われていて、暗く寂しい国の様な感じであった。この天候の様に私のロンドン生活も同じであった。生活も天候に左右されるものであろうか。それでも過ぎ去ってしまえば、数多い楽しい思い出を残してイギリスを去るのは、感無量であった。胸が張り裂ける思いで、いつまでもイギリス本土の方に目をやっていた。イギリスとフランスを結ぶこの航路(この区間)は最も短く、2~3時間の乗船であった。フランスに近づくにつれて、天候は晴れて来た。それは全く対照的な天候で、空が突き抜け...腹ペコのイギリス人と出会う~フランスのヒッチの旅
これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話
・これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話今、私が持っている旅費はトラベラーズチェックで230ドル(1ドル360円。外貨持出し最高額500ドルの内、ソ連の旅行代金は70ドル建てで、既に200ドル使った)、イギリスのお金10ポンドと少々の小銭、それに15万円相当のM&M乗船券引換券(これはエールフランスの航空券も買える便利な券)でした。私はこのM&M乗船券の書替え手続きの為、ロンドンに滞在しなければならなかった。それに滞在したお陰で内側からイギリスの情勢やロンドンについて知る事が出来、更に色々な体験する事が出来ました。しかし、レストランの皿洗いの仕事は生活するのにやっとで、今後の旅費の足しには、全くならなかった。金銭的な事だけを考えたら、手持金を余り減らさずに滞在する事が出来た、と言うだけであ...これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話
フランスのヒッチの旅(千里の道も一歩から)・昭和43年11月10日(日)曇り後晴れ(惜別の情でロンドンを去る)明日、ロンドンを去る予定であったが、何もする事が既に無い状態で部屋に居るのは、寂しくて堪らず、1日早く出立する事にした。昨日、予め旅支度、身の回りの整理をしておいたので、1日早くても問題は無かった。今後の旅について考えるとここ2・3日、部屋に居ると居ても立っても居られない気持であった。そして今、ロンドンをいざ去ろうと思うと、如何してか寂しさ、悲しさが募った。朝食を軽く済ませた。今朝、霜が下りて特に寒かった。ストーブ料金がまだ残っていたので、暖を取ってから部屋を出た。思えば一宿一飯、そしてこの部屋を借りるのにお世話になったミルスおじさんにその後、一言もお礼を言わずロンドンを去る事は、本当に心苦しかった。早...惜別の情でロンドンを去る
・人生(旅)の話(昭和43年10月25日付けの友達へ送った手紙の一部)前文・・・は省略します。旅に出て、『人生とは』と考えるのも大事であると思うのです。旅の仕方も十人十色あるように、人生も人それぞれ違ったその人の人生がある、と思う。従って、『人生とは、こうあるべきだ』と定義する事は出来ないと思う。又、定義出来ない所に人生の面白さがある、と思う。よく人は人生を旅に例えますが、私も旅をして実感し、本当にその通りであると思った。何故なら、『旅は、プロセス(過程)であり、人生もプロセスである』と思うからだ。しかし、今までの私の人生は、意義ある又は楽しんでいる人生であったのか。それはむしろ、プロセスでなく、毎日が決まりきった、若しくは繰り返しの生活であった。これは何も私だけでなく、多くの人達もその傾向があるように思われた...ロンドンを間もなくして去るその日々~人生(旅)の話
△市長就任披露行列(PFN)・昭和43年11月9日(土)晴れ(旅に想いを巡らす)今日はロンドン市長行列の日。今日は晴れ、晴れの日が5日振りに再び来たのは珍しかった。しかし大分寒くなった。ガスストーブを使うのには、器具の投入口にお金を入れなければならなかった。今までお金を無駄にしたくなかったので我慢していたが最近、我慢出来ず使うようになった。今日は既に何もする事が無かったので、部屋の中に閉じこもっている状態であった。火事騒動があった日から毎日、大家のおばさんは火事を起こしたおばさんに罵声を浴びせ「出て行け」と怒鳴り散らしていた。私は大家のおばさんの方が行き過ぎではないかと感じていた。今日も午前中、4階の方で又、怒鳴りあっているのが聞こえた。いつもとどうも様子がおかしいので行って見たら、4階の階段近くで2人がお互い...ロンドンを間もなくして去るその日々~旅に想いを巡らす
・昭和43年11月8日(金)曇り(初めての魚料理)今日、再びマービルアーチの病院へ行き、コレラの予防接種をして貰った。これをもってロンドンでしなければならない用事は、全て済ませた。後はシンガポールに向けてロンドンを去るのみであった。途中各国の査証は、必要になった時点で取れば良いと思った。途中ルート変更もあるし、例え取っていても、いつその国へ入国出来るのか分からなかった。したがって今、慌てて取る必要が無かった。そう思うと、『如何してイラクやイランの査証を取ったのか』と思った。マービル・アーチから通い慣れたボンドストリート駅まで歩いて戻って見た。レストランの皆はどうしているのか、気になった。しかし既に辞めた身なので、店の中へ気楽に入れなかった。外から中の様子を眺めたが、相変わらず忙しそうであった。午後、ロンドンを去...ロンドンを間もなくして去るその日々~初めての魚料理
ロンドンを間もなくして去るその日々~2階のマリアンと知り合う
△2階に住んでいたマリアンワッツ・昭和43年11月7日(木)雨後曇り(2階のマリアンと知り合う)昨夜、私はシーラ、そしてシーラの友達のジャネットと別れて来た。真っ直ぐにアパートへ帰れない状況であったので、いつものパブに立ち寄り、それから帰った。あれ程に会いたかったシーラと昨夜別れ、今日は寂しさが余計に感じていた。私は既にロンドンに滞在している意義を無くしていた。そして今、雨が降っているので1人部屋に居ると余計に憂鬱であった。部屋の電気を点けないと、まるで夜の様に暗かった。その様な状況で今日、私は朝から居たたまれない感じに襲われていた。ロンドンでしなければならない大事な用事も無ければ、観光も殆んど終ったし、行って見たい所も特に無かった。2・3の用事を済ませば、後はロンドンを去るのみであった。楽しかった事、面白くな...ロンドンを間もなくして去るその日々~2階のマリアンと知り合う
ロンドンを間もなくして去るその日々~火事騒動とシーラとの別れ
△私の部屋の上、4階部屋の火事騒動(PaintedbyM.Yoshida)・昭和43年11月6日(水)曇り(火事騒動とシーラとの別れ)朝の5時頃か、はっきりは分らないが、「ファイアー、ファイアー(火事だー、火事だー)」と家主のおばさんの悲鳴に近い声と同時にドアを激しく叩く音がして、眠りから覚めた。窓の外を見ると火の塊が、1つ又1つと、上から落ちてくるのを確認した。私の部屋の上、4階が火事現場と推測した。私はズボンを前と後を逆に履いてしまうほど慌ててしまい、そして一瞬何をしたら良いか分らなかった。直ぐ気を取り戻し、現金、トラベラーズチェック、旅券、乗船券類を腹巻に押し込め階段を駆け下りた。階下でおばさんは、「ファイアー、ファイアー」と言いながら、半狂乱の状態であった。火事現場がどんな状態であるか分らないが、私はお...ロンドンを間もなくして去るその日々~火事騒動とシーラとの別れ
ロンドンを間もなくして去るその日々~査証を取るのも国際情勢が大いに関係
・昭和43年11月5日(火)曇り(査証を取るのも国際情勢が大いに関係)今日はガイ・フォークスの日(GuyFawkesDay)であった。イラク大使館へ行って、査証を取得した。イラクまで行くなら、『イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の聖地・イスラエルへ行かない手はない』と自分の手持金、行先の国の情報や自分の知識、能力、体力を省みないで、『旅への想い』だけが飛躍して行った。イスラエルへ行くなら、レバノンから国境を越えて行ける。レバノンとイスラエルは、紛争(戦争)状態である事は承知していた。しかし、両国の国境付近の状況を見たいので、行けるものなら陸続きで行って見ようと思った。そんな理由でレバノンの査証を取りに大使館へ行った。大使館員から、「レバノンから何処へ行くのですか」と笑顔で聞かれた。「陸続きで国境を越えて、イスラエ...ロンドンを間もなくして去るその日々~査証を取るのも国際情勢が大いに関係
ロンドンを間もなくして去るその日々~査証の取得等、旅への準備
ロンドンを間もなくして去るその日々・昭和43年11月4日(月)晴れ(査証の取得等、旅への準備)今日は珍しく晴れた。その前はいつ晴れたのか、分らない程だ。多分、私がウェールズから帰って来て以来ではないか。念の為、日記を調べたら9月20日以来、45日振りの晴れであった。毎日毎日どんよりとした曇りか小雨では、気分も滅入っていた。しかし久し振りに晴れたので、今日は何となく気分が良かった。昨日、家族や友達へロンドンから最後の手紙を書いて過ごした。私は字も文も下手なので、手紙を書くだけで1日掛りであった。手紙と言えば、私の友達の1人N君へ、「ロンドンを去る」と手紙を書いたら、10月15日付けで彼から返事が届いた。彼からの手紙はいつも楽しく、心がこもっていた。そんな理由もあり、彼は私の良き理解者である、と勝手に私は思っていた...ロンドンを間もなくして去るその日々~査証の取得等、旅への準備
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