・昭和43年8月29日(木)曇り時々強風(腹痛五日間続く、ロンドン見物)今朝も同じ時刻に腹が痛くなって来た。これで5日間連続であった。朝が来るのが恐ろしくなって来た。明日こそ治っているであろうと朝食を申し込んでおいたが、三日間続けて取れなかった。今朝もベッドで40分間位、激痛が治まるのを我慢した。最近、満足に食事が取れない状態になってしまった。取れたのはシーラやジャネットの家の夕食だけだ。近頃は日本に居た時の一食分のカロリー摂取量であろう。食べたくても、食べられないのだから仕方なかった。今日はウェールズへ行く前の日であり、シーラと会う約束はなかった。今日は何処へ行こうか、市内地図を広げて思案した。そしてピカデリー・サーカスやトラファルガー広場等のある繁華街の東側、テムズ川の左岸一帯TheCity(シティ)へ行っ...腹痛五日間続く、ロンドン見物~ロンドンの旅
・昭和43年8月28日(水)曇り(シーラの友人宅訪問とキスの見解)この後シーラと私は駅前からバスに乗ってジャネット宅へ行った。今回、私達はバスの2階に上ったので街の景色が良く見えた。「シーラ、2階からだと景色が良く見えるね」と私。「そうだね。でもヨシ、話が上手になって来たね」とシーラに言われた。ジャネットの家(ロンドン郊外の中西部ウェムブリー)へは、バスの2階から物珍しそうに、街並みを楽しみながら行ったので直ぐ着いた感じがした。ジャネット、そしてジェネットのご主人も歓迎して私を迎え入れてくれた。ご主人は間もなく仕事の都合で出掛けてしまったが、彼はなかなかの知日家で、シーラやジャネットも知らなかった日本のSONYやカメラの製品、或いは自動車等の良さを知っていた。シーラがSONYのトランジスター・ラジオをプレゼント...シーラの友人宅訪問とキスの見解(その2)
・昭和43年8月28日(水)曇り(シーラの友人宅訪問とキスの見解)昨日は雨が降ったり止んだりで、観光をするには生憎の天候であったが、彼女から貰った地図付き案内書の本を参考にし、腹痛に耐えてロンドン見物をした。そして今日、私はシーラの友達のMrs.JanetTomlin(ジャネット・トムリンさん。以後「ジャネット」と言う)の家へ、シーラと共に遊びに行く予定であった。午後5時30分、WembleyParkst(ウェムブリー・パーク駅。Bakerloo又はMetropolitan-Lines)でシーラと会う約束になっていた。今朝も腹痛に襲われ、ベッドで唸って治るのを待った。その後、ペアレントに「昨日と今朝、お腹が痛く食べられなかったので、2日分の朝食代金を返して下さい」と私は払い戻しを請求した。「食事の用意をしていた...シーラの友人宅訪問とキスの見解(その1)~ロンドンの旅
・昭和43年8月26日(月)曇り時々晴れ(腹痛とシーラ宅再訪問)一泊食事なしの宿泊代1ポンド以上は高かったので、ユースへ移る事にした。私は世界各国ユースの住所録の本を持っているので、シーラから貰った市内地図本を頼りに移動した。しかしこの移動が今日、腹痛に苦しみ、非常に辛かった。私が泊まろうとしたユースは、郊外のピカデリー・ラインにあった。そのユースへ行こうとして、地下鉄パディントン駅から電車に乗ろうと切符を購入していたら、急に腹が痛くなって来た。昨日は午前8時から9時頃の間、少し腹の調子が悪かった。でも今日は非常に痛く、私は改札口前附近の片隅で、うずくまってしまった。イタリア旅行中の2日間、腹痛で悩まされた事があったが、今日はそれを上回る痛みで苦しんだ。腹痛の原因は多分、食事内容の変化、食事の不規則(取る時間も...腹痛とシーラ宅再訪問~ロンドンの旅
・昭和43年8月25日(日)晴れ(ロンドン観光とシーラの手料理)その2ロンドン観光後、シーラの住んでいる部屋へ行く事になった。ロンドン中心地から地下鉄に乗って20分位、Brent(ブレント)と言う駅で降りた。この辺りは、住宅街でイギリスらしい家々が建ち並び、静かな環境の中にあった。シーラの住んでいる家は、駅から10分位のその一画にあった。この辺りの住宅は個々の家はなく、二階建ての細長い住宅(英国では一般的な住宅、英語でTerracedHouse)であった。日本流で言えば長屋で、一つの建物に複数の家族が区切られた空間に住んでいる家であった。下は老夫婦が、そしてシーラは2階の部屋を借りて住んでいた。部屋は、1DKの間取り、良く整理整頓された如何にも女性が住んでいる明るい感じの部屋であった。シングルベッド、テーブル、...ロンドン観光とシーラの手料理~ロンドンの旅
・昭和43年8月25日(日)晴れ(ロンドン観光とシーラの手料理)その1興奮の一夜が明けた。今日はシーラの案内で、ロンドン見物がとても楽しみであった。これは私の今回の旅行に於ける最大イベントでもあった。朝食を取らずペンションを出た。昨夜のカフェ店前へ歩いて4分程、9時40分に着いて暫らく待った。私の聞き違いでこの場所にシーラが果たして来るのか、ちょっと心配であった。しかしそれは取り越し苦労で、シーラは丁度、10時に遣って来た。イギリス人は時間を守る国民、と言われているが、シーラはまさにその通り、きっかり10時に着いたので驚きであり、不思議であった。彼女が近寄って来たら香水の香りがして来て、心地良かった。そして彼女の白系ジーパンスタイルがとても似合っていた。彼女がジーパンを履いて来たのは昨夜、私がジーパンを持ってい...ロンドン観光とシーラの手料理(その1)~ロンドンの旅
・昭和43年8月24日(土)晴れ(ヴィクトリア駅で捜し回る)その2イギリスのDover(ドーバー)駅から再び列車に乗り換えた。列車はロンドンのVictoria(ヴィクトリア)駅に向かって田園の中をひた走り、ほぼ定刻通りの午後7時35分、ロンドンのヴィクトリア駅に到着した。シーラに既に知らせてあるように、私は列車から下車したらその場を動かず、万が一の為に昨日作った『SheilaMorgan』と書いたプラカードを高く掲げ、胸をドキドキさせながら彼女が現れるのを待った。彼女は必ず私の手紙を受け取っているはず、そしてきっと迎えに来ている、と信じていた。お互いに初めて会うのだが、写真を交換したその顔だけが頼りであった。実際に実物と写真では、見方によって大分違うので、分るかどうか不安であった。しかし一回り見渡しただけでも、...ヴィクトリア駅で捜し回る~ロンドンの旅
*ペンフレンドの話第1章の項で述べたが、私が高校2年の時にシーラと文通を始めた。彼女から最初に来た手紙は、1961年(昭和36年)9月2日付けが最初であった。彼女は、イギリスのウェールズ地方のColbren(コルブレン=NeathやSwanseaから近い)に、両親と弟の4人で住んでいた。彼女は当時15歳、私は16歳でした。送ってくれた彼女の写真は美しかった。「ダークヘアーにグリーンの目をしている」と自身言っていた。彼女の父は文通を始めた最初の頃、炭鉱労働者であったが、閉山になり現在は無職との事。彼の名はIvor(アイボー)、母はSal(サル)、そして弟はKenneth(ケネフ)と言う名であった。7歳の時にシーラと一緒に撮った弟の写真は、かわいい感じであった。以後7年間、私はシーラとお互いの自分の事、家の事、学校...ペンフレンドの話~ロンドンの旅
・昭和43年(1968年)8月24日(土)晴れ(マサオとの別れ、イギリスへ)その1今朝、早めに起きた。身体を拭いて頭を洗い、そして髭も剃った。今日、7年間文通を続けているSheilaMorgan(シーラ・モーガン)に会う為、イギリスへ行く日であった。午後0時30分の列車であるが、早めに出立する事にした。マサオの好意で部屋を無料で使わせてもらった上、とても親切フレンドリーに接してくれて本当に有り難かった。そんな彼と別れるのは、名残惜しかった。別れる際に彼は「私はもう少し経ったらこの部屋を去り、スペイン領のある島に行くが、良かったらYoshiも来いよ。そこは別天地だ。モロッコも面白い所だから、行ければ行った方が良い。Yoshiに又会えることを楽しみにしているよ」と言って、その島の場所を教えてくれた。「有り難う。これ...マサオとの別れ、イギリスへ~ロンドンの旅
西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の話~二度目のパリにて
*西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の話西欧を旅して一ヶ月間過ぎた。この間、私が使った金額は100ドルであった。1日平均3.3ドル、勿論ビールもタバコもやっていた。観光に市電やバスを使った事があるが、歩いて行く事が基本であった。1日約千円で一回り旅をする事が出来た。そんな訳で、ソ連を出てから1度も一流ホテルやタクシーを使った事はなかった。これからも又、使うつもりはなかった。今後ともこれを私の旅の信条として、貫いて行きたいと思った。歩く事によって街の様子も分るし、その街を肌で感じる事も出来た。大体、ヨーロッパの都市・町は、小さいので、パリを除けば、殆んど歩いて観光が出来た。先進西ヨーロッパ諸国は、日本より物価が高かった。特に、北欧では5~8倍で特に酒、タバコが高かった。それなのに如何して『1日3.3ドル』...西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の話~二度目のパリにて
・昭和43年8月19日(月)晴れ(知日家のオランダ人)ユースを出て中央駅まで歩いて行った。自転車通勤の人々で、街は賑やかであった。列車はアムステルダム発パリ-行き、8時54分フランスのTEEエトワールド・ノール号の全席座席指定であった。列車の旅は、5時間位の予定、ドアは全自動、座席は綺麗な4人掛け、前のテーブルには真っ白い布で覆われていて、高級感がある列車であった。車掌の制服が、カッコ良かった。TEE国際列車の車掌は、大概年配のベテランが担当していた。4人掛け用の座席は、私の他、年配のアメリカ人夫婦と40歳台のオランダ人紳士であった。4人でトランプをして車中の一時を過ごした。アメリカ人夫婦が途中下車した後、オランダ人と話をした。彼は日本の色々な事を知っていて、かなりの知日家であった。パリに到着したのは、午後2時...知日家のオランダ人~二度目のパリにて
・昭和43年8月18日(日)曇り時々雨(オランダの生意気な子供達)アムステルダム2日目の今日、私は市内観光へ出掛けた。昨日、列車から降りたアムステルダム中央駅は、赤レンガ作りで東京駅に似ているので驚いた。東京駅は、この中央駅を真似して造ったのか。この中央駅前から幾つも観光船が発着していた。市内運河巡りもあれば、アムステルダム港巡りもあった。私は後者の港巡りの観光船に乗った。客は私の他、地元の子供2人であった。どんよりして霧がかかり、周りの景色はぼやけて良くなかった。乗船して来た地元の子供が非常に人懐っこく、直ぐに仲良くなってしまった。私が日本人であると分ると、余計であった。彼等は日本のカメラやオートバイの良さ、そしてサッカーやその他のスポーツの事も良く知っているので感心してしまった。彼等は、小学2年か3年生ぐら...オランダの生意気な子供達~アムステルの旅
・昭和43年8月17日(土)雨(外国で初めて散髪をして貰う)*参考=オランダの1ギルダーは、約99円(1セントは、約99銭)。ミュンヘンから9時間で、列車はアムステルダムに定刻通り、午前8時に到着した。欧州の列車は、時間がルーズである、と本で読んだ事があるが、私の乗った全ての列車は、ほぼ定刻通りに発着し、事故等で遅れた事はなかった。所で、オランダの本当の呼び方は、Netherlands(ネザーランド)又はNederland(ネーデルラント)であり、Holland(オランダ)は俗称であるとは知らなかった。ユースに着くと既に、多くのホステラーが受付に列をなして並んでいた。昼前なのに泊まる人が大勢いた。私も並んだ。1時間ぐらい待って運良く泊まる事が出来た。宿泊施設は2箇所に分かれていて、私の宿泊場所はこちらのユースで...外国で初めて散髪をして貰う~アムステルダムの旅
・昭和43年8月16日(金)晴れ(ミュンヘンの変貌、ビールとバー)12時09分、列車は3時間の旅を終え、ミュンヘン駅に到着した。駅を出てから私は駅近くの公園のベンチに腰掛けて、タバコを吹かしながら休んでいると、色んな人に話し掛けられた。「0.4マルクとタバコ1本交換してくれ」と浮浪者風の男に頼まれた。又、私の隣に座っていたイギリス青年には、「イギリスは月50ポンド(1ポンド=約1,000円)程しか稼げないので、ノーグッドだ」と聞かされた。暫らくして日本女性(?)がフンでもスンでもなく、私の前を通り過ぎて行った。こんな時、同じ邦人としてチョッと寂しい感じがした。日中の太陽の下は暑い(でも、日本と少し違って、蒸し暑さがない)が、日陰は涼しかった。暫らくの間、私は今後の事についてベンチに座って考えた。その結論として、...ミュンヘンの変貌、ビールとバー(その2)~ミュンヘンの旅
・昭和43年8月16日(金)晴れ(西ドイツの鉄道員と美味しいビール)*参考=西ドイツの1Mark(マルク)は90円、1Pfennig(ペニッヒ)は90銭照井と折角再会したが、別れて旅をする事にした。何も彼と喧嘩別れ、或は気まずい思いをして別れるのでもなかった。照井はもう少し私と共に旅をしたかったようであったが、ただ『お互いに1人旅の方が良いのでは』と私が判断したまでの事であった。理由は、『私には私の旅があり、照井には照井の旅がある』と言う、ただそれだけの事であった。彼はもう1日か2日、ここに滞在する予定との事であった。別れ際に、「照井さん、元気で旅を続けて下さい。昨夜は取って置きのラーメン、本当にご馳走様でした」と私は礼を述べた。「中里さんも元気で。縁があったら、又何処かで逢いましょう」と彼。それは偽りのない照...西ドイツの鉄道員と美味しいビール(その1)~ミュンヘンの旅
・昭和43年8月15日(木)雨後晴れ(即席ラーメンをご馳走になったが)6時に起きた。車窓から見ると、列車は高い山間部を縫うように走っていた。いつInnsbruck(インスブルック)に停車したのか、分らなかったが、いつのまにかTirol(チロル)地方を走っていた。列車の両側は3000m以上の山々が幾重にも連なり、真夏なのに残雪もかなりあった。本当に車窓からの景色は最高で、私はその眺めに首っ丈であった。私と照井は、リンダウと言う西ドイツ領の一つ手前の駅、オーストリアの最西端Bregenz(ブレゲンツ)で下車した。この町の近くにLakeBoden(ボーデン湖)があり、観光地化された町であった。我々は疲れていたのでユースで休んでから街へ出掛け、その足でボーデン湖へも行って見た。そこで1時間16シリング(224円)の手漕...即席ラーメンをご馳走になったが~オーストリアの旅
・昭和43年8月14日(水)晴れ(あの照井さんとウィーン駅で再会)翌朝、私が顔を洗っていたら、昨夜騒いでいたドイツ人の彼等に、「貴方は何人か」と聞かれた。「私は日本人だ」と言った。彼等はそれ以上の事を言わず、黙って立ち去って行った。洗面所やベッドルームで何人もの人に、「昨夜はよく言ってくれた」と握手を求められた。昨夜の様に外国に来て、英語で欧米人に注意を言えるようになった事に、私自身が驚いた。どこからそんな勇気が沸いて来たのであろうか、『私も成長した者だ』と自分で感心してしまった2日間滞在しようかと考えていたが、ユーレイルパスの有効期限の事を考えると、ゆっくりも出来ないので、ユースに1泊滞在しただけで、ウィーンを去る事にした。ウィーン中央駅構内で時刻表を探していたら、7月23日にストックホルムで別れた、あの照井...あの照井さんとウィーン駅で再会~オーストリアの旅
・昭和43年8月13日(火)晴れ(トイレの落書きとドイツ人を唸り飛ばす)*参考=オーストリアの1シリングは、約14円(1Gloschenは、約14銭)。ローマからウィーン駅に9時頃到着後、私は時刻表が何処にあるのか、駅構内をうろついていたら、トイレへ行きたくなった。大の方なのでドアを開けて入ったら、落書きがたくさん書いてあった。中には芸術的(?)なズバリ性器や性交の落書きもあった。『洋の東西関係なく、用を足しながら落書きを書くものだなぁ』と変に感心した。用を足した後、それでは私もその作品に参加しようと考えていたら、急に清掃係のおばちゃんが戸を開けてしまった。それにしても用を足した後なので良かったが、鍵を掛け忘れた自分が悪かった。お陰様で(芸術?)作品を書き損じてしまったが、つまらない事をしなくて良かった。私は有...トイレの落書きとドイツ人を唸り飛ばす~オーストリアの旅
・昭和43年8月12日(月)晴れ(ローマからウィーンへ)ペンションを去る時、400リラ余計請求された。よく聞くと、「昨日の朝、バスを利用したであろう」と言うのだ。本当に頭に来るペンションだ。トイレとバスは、“同じ場所”(ユニットになっている)にあるので、私がトイレに入った時に、ここの主人はバスに入るのではないかと、バスとトイレに面した通路の前を宿泊客がバスを使っているか如何か、うろうろして監視していたのであった。昨日の朝は、トイレ使用が長くなり、主人はバスを使用したと思って請求したのだ。トイレ使用やバス使用をいちいち監視していて、最後の最後まで感じが悪い嫌なペンションであった。勿論、400リラは払わなかった。正午のローマ発ウィーン行きの列車に乗った。同じコンパートメントにアメリカ女性が乗って来て、2人だけであっ...ローマからウィーンへ~オーストリアの旅
*日本人の団体旅行と団体行動の話『日本人は、集団にならなければ何も行動出来ない』、とある本に書かれていた事を思い出した。コペンハーゲン市庁舎前広場やアムステルダムのダム広場での日本人若者達の群れ、そしてパリやローマで日本人団体旅行者を見掛けた。特に団体旅行者は印象的であった。旗を掲げてJTBの係員又はガイドに導かれ、忙しそうに名所・旧跡から次の名所・旧跡へと、時間に追われて見学していた。そしてその団体は、幼稚園児の如くゾロゾロと集団をなし、博物館や歴史的観光名所に於いて大声を出し、或はバカ笑いしながらの観光見物、その幼稚的な行動は、日本人である私も恥ずかしい感じがした。他の国の団体旅行者を全く見掛けなかったので、余計に日本人の団体が目立った。確かに団体旅行は、宿泊施設、見るべき有名な所、ルート、交通機関等が決め...日本人の団体旅行と団体行動の話~ローマの旅
・昭和43年8月11日(日)晴れ(ローマ見物)――観光の話は省略――△トレヴィの泉にて~アメリカ人旅行者と「再びローマに戻って来られる様に」と願いを掛けて後ろ向きにコインを投げ入れる。ローマ見物~ローマの旅
・昭和43年8月10日(土)晴れ(苦しみに耐えローマへ)ピサは、ピサの斜塔で誰でも知っているが、私は『大寺院の鐘楼』であるとは知らなかった。ペンションから近くにあり、午前中の早い時間に見物に行った。△ピサの斜塔(CFN)10時05分、ローマ行き急行列車に乗った。朝、水を飲んだ所為なのか、急いで駅へ来て乗り込んだ所為なのか、或いは、昨日からの胃の具合が治っていないのか、再び腹が痛くなって来た。直接の原因か如何かはっきり分らないが、昨日から腹が痛かったにも拘らず、そしてあれ程に注意していたにもかかわらず、水道水を空腹と喉の渇きで我慢しきれずに、飲んでしまった。車中で2時間近く、「ウーウー」唸って我慢して治るのを待つだけであった。言葉が通じぬ異国での一人旅、体調不良、胃痛は、最悪で辛かった。腹痛と不安が一杯の列車の旅...苦しみに耐えローマへ~ローマの旅
おばさんに怒鳴られ、腹痛に苦しむ~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
・昭和43年8月9日(金)晴れ(おばさんに怒鳴られ、腹痛に苦しむ)サボナの街へ散策に出掛けた。ホテルで軽い朝食を取ったばかりなのに、お腹が空いてた。それは当然で、昨日の朝、軽食を食べてから夕食にパンと果物を食べた以外、今朝まで満足に食べていなかった。途中、屋台で売っていた果物を買って食べながら歩いていたら、今度はスイカを切り売りしている屋台があった。1切れ70リラ(42円)なので、試しに買ってみた。冷たくて美味しかった。その屋台のおじさんに、安いレストランを尋ねたら場所を教えてくれた。そろそろお昼になったので、教えて貰ったその店に入った。店内は感じが良く、600リラ(360円)の料理(スパゲッティ、肉料理、野菜料理、パン)を注文した。イタリアでは、値段的にも量的にも普通の食事であったが、私にとっては贅沢であった...おばさんに怒鳴られ、腹痛に苦しむ~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
サボナでホテル捜しに街の中を彷徨う~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
・昭和43年8月8日(木)晴れ(サボナでホテル捜しに街の中を彷徨う)*参考=イタリアの1リラは、約60銭(10Centesimiは6銭)チェックアウトして旅券を戻して貰おうとしたら、マネージャーが居ないので20分位待たせられた。待っている間、私はブローチと話をした。そして折角彼女と友達になったのに別れの時が来た。残念だし、何か寂しかった。でも私は旅人、行かなければならなかった。彼女と話をするのもこれが最後、お互いの住所を交換し、手紙を書く事を約束し合って別れた。セルベールを午後1時04分、マルセイユ行き2両編成のジーゼル列車に乗った。マルセイユからミラノ行きTEE国際急行列車に乗り換えた。この列車の車内で鼻持ちならぬ嫌な感じの日本人(ブルジョアのドラ息子)に会ったり、二度ばかり下車しそこなったりした。Savon...サボナでホテル捜しに街の中を彷徨う~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
フランス人高校生と出逢う~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
・昭和43年8月7日(水)曇り(フランス人高校生と出逢う)△セルベールの海岸(CFN)、私が泊まった場所は、向って高台であった。昨日、スペインのマタロからフランス国境の小さな町・セルベールの安いホテルに一泊した。朝食は海辺に面した大広間の食堂で取った。そこから青い海、回りの山々、そして、山の中腹にあるキャンプ場が見えて、展望はとても良かった。こんなに素晴らしい場所が余り観光地化されていない、正に穴場であった。昨日、ホテル代が安かったので朝の食事は付かないと思っていたが、付いて良かった。朝食は、トースト2枚にマーガリンとママレードを付け、野菜サラダ、そしてコーヒーの軽食であった。朝食は素晴らしい景色を眺めながら食べたので、余計に美味しかった。今日、家族や友達へ手紙を書いたり、日記を付けたりして過ごした。書き終り、...フランス人高校生と出逢う~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
旅友の鈴木、そしてリータとの別れ~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
・昭和43年8月6日(火)晴れ(旅友の鈴木、そしてリータとの別れ)昨日、私と鈴木は話し合って、別々に別れて旅をする事になった。彼が私の気持を傷つける事を言ってしまっては、私としても一緒に旅をする気持になれなかった。我々は、どうやら外国にも慣れて来たし、別れても旅が出来る、と思った。否、最初から1人旅が出来たのだ。ただモスクワで意気投合し、「共に旅をしよう」と、それでここまで一緒に旅を続けて来たのだ。本当に楽しい日々であったし、彼が居るだけで寂しさも紛れたし、心強さもあった。午前9時頃、列車はバルセロナに到着した。彼は前からここで下車するつもりであった。「それでは」と言って彼は席を立った。「日本に着いたら手紙を書いて下さい。又、会いましょう。元気で旅を続けて下さい」と私は言ったが、彼は無言でカナダ人女性と共に下車...旅友の鈴木、そしてリータとの別れ~マタロ、セルベール、サボナ、ピサの旅
・昭和43年8月5日(月)晴れ(旅友との意見相違とリータとの出会い私と相棒は早めに起き、バルセロナ行きの座席予約の為、中央駅へ行った。鉄砲を持った多くの兵隊や警官が駅周辺や駅構内で見受けられた。そんな状況の中、我々はあっちへ行ったり、こっちへ来たりして時刻表を捜し求めた。我々はスペイン語が分らず、駅員は見当たらず、時刻表が何処にあるのか分らなかった。そして又、あちこちと駅構内を歩き回り発車時刻表を探したが、分からず全く嫌になってしまった。8時40分頃駅に来て、12時00分の“Barcelona”(バルセロナ)行きがあるのが分るまで、かなりの時間を費やしてしまった。それでは12時のバルセロナ行きに乗ろうとしたら、予約で既に一杯で乗れない、との事であった。我々は、他の列車の予約を取る為、列に並ばなければならなかった...旅友との意見相違とリータとの出会い~マドリードの旅
*マドリードの印象の話マドリードに来て驚いたのは、警察官や兵隊がやたら目に付いた事であった。スペインの国民にとって悲しい事だが、まぁ今日になってもフランコの様な独裁政治を続けている国は、西ヨーロッパで“スペイン”(ギリシャは軍事政権)だけであった。大きな通りの全ての四つ角で、兵隊が土のうを積んで機関銃を通りに向けて警戒し、また主要な場所や中央駅の各出札口、或はホームに警察官や兵隊が鉄砲を担いで警備していた。彼らは民衆や乗客を威圧していて、権力・武力によって抑え付けている感じがした。『学生や若者による暴動が起こり、スペインは近い将来、情勢が変わり、民主国家になるであろう』と今まで各国を見聞して来た過程で、容易に想像が出来た。スペイン人の背の高さは、一般的に私と同じか、チョッと高いぐらいであった。しかし、警官・兵隊...マドリードの印象の話~マドリードの旅
・昭和43年8月4日(日)晴れ(フランコの独裁国家)目が覚め、起きて外を見た。それは素晴らしい光景であった。木が生えていない半砂漠化の岳地帯を、列車は縫うように走っていた。山々が幾重にも連なり、そして列車はそれを越えて行った。列車はマドリードに着いて、我々は地下鉄を使ってユースへ行く事にした。マドリードの地下鉄は、酷かった。電車は古く、速度は遅く、車内は本も読めない暗さ、おまけに座席は木製、駅構内は暗く、汚い感じであった。言葉が全く通じず、苦労し不安な状態であった。乗り換えシステムが理解出来ず、4ペセタも無駄なお金を使ってしまった。20円と言ってもケチケチ旅行している私にとっては、無駄にしたくない金額であった。1ペセタは5円と言っても、こちらでは1ペセタを50円の感覚にしておいた方が良さそうであった。スペインは...フランコの独裁国家~マドリードの旅
・昭和43年8月3日(土)晴れ(陽気なスペイン人)*参考=スペインの1ペセタは、約5円(10センチモは、50銭)。旅行用トランク(当時、車付きは無かった)は、持ち運びが大変なのと、8月20日頃に再びパリに戻って来る予定なのでマサオの部屋に置いて、私と鈴木はマドリードに向けて出発した。私は軽い手提げ用バッグを昨日買って、必要最低限の荷物をその中に入れた。前もって座席予約したIrun(イルーン)行き列車は、モンパルナス駅を午後2時05分、余裕を持って出て来たので充分、時間があった。我々は、時間が来るまで駅前のカフェでゆっくりコーヒーを飲んで時間を過し、その後その列車に乗車した。イルーンは、大西洋側のスペイン領で、フランスとの国境近くにある町であった。我々を乗せたパリ発の列車は、そこに午後9時に到着した。Madrid...陽気なスペイン人~マドリードの旅
ファッションと食べ物の話~私が見た事、感じた事 in Paris
*ファッションの話パリは、ファションの街と言われているが、トップモードの女性は意外と見掛けなかった。どちらかと言えば東京の方がファション的かなぁ、と言う一面もあった。しかし、そこはフランス女性。田舎臭くなく、何処となくシックで洗練された感じがした。とは言っても、夏のパリは観光客が多く、パリジェンヌはバカンスに出掛け、私が見掛けた女性の多くは、パリジェンヌでなく他国から来た観光客だったかも知れません。*食べ物の話フランスは、食道楽の国であった。下町の魚屋、八百屋等を覗いて見ると、私が訪れたどの国よりもパリのお店は、商品の種類やその量が豊富であった。私は、当時日本になかったカフェテリアに何度か入った事があったが、その店の料理が意外と安く、しかも大変美味しかった。料理を自分の目で確かめられ、自分の好きなだけ取る事が出...ファッションと食べ物の話~私が見た事、感じた事inParis
お巡りさんの話とフランスパンの話~私が見た事、感じた事 in Paris
*お巡りさんの話パリのお巡りさんは、特色、特徴があった。彼等は丸い帽子を被り、交通整理、パトロール、或は観光客の道案内をしたりして、市内のあちこちで見掛けた。彼等は、一般の人達より背が高くスラットとしていて、皆ハンサムであった。お巡りさんは、パリのもう一つの『顔』とも言えた。*フランスパンの話日暮れともなれば、そのままのフランスパンを3つも4つも持ち抱え、通りを歩いている主婦や労働者を見掛けた。60~70㎝の長いパンを何も包まない(非衛生的と思えるかも)で持ち歩く姿は、日本人にとって変わった格好であり、大都会の真ん中で市民生活が丸見えであった。それは正にパリの食生活を嗅ぐ思いであった。このフランスパンは、とても硬かった。なかなか噛み切れなくて、とうとう歯茎が痛くなってしまった。アハㇵハ・・・。<buttoncl...お巡りさんの話とフランスパンの話~私が見た事、感じた事inParis
*メトロの話パリの地下鉄(メトロ)について感じた事を書いておく事にした。言葉が分らなくてもパリのメトロは、本当に利用し易かった。ドアは手動式であるから、乗る時、降りる時に自分で開ける仕組みになっていた。開けたドアは、出発する前に自働的に閉まるので、自分で閉める必要はなかった。ドアを開ける場合、チョッと重いので、かよわい女性が乗降する時、手を貸してあげるのがここでのエチケットであった。美しい女性に、「メルシー」と言われると良い気分がした。降車駅又は乗換駅が分らない場合は、各駅に電光行き先表示板駅地図があった。ボタンを押すと経路、乗換駅が点滅され、不案内旅客にはとても便利であった。駅構内は、電車を“乗る通路”(乗車通路)と駅を“出る通路”(出口通路)が別個に分かれていて、通路で乗る人と降りる人がぶつかり合う事はなか...メトロの話~私が見た事、感じた事inParis
セーヌ川の畔(ほとり)の話~私が見た事、感じた事 in Paris
*セーヌ川の畔(ほとり)の話パリ中央に流れるセーヌ川の畔は、人々が集い、色々な人の為のエリアになっていた。ギターに合わせて歌う若者達の為の場所だったり、ヒッピー達の屯する為の場所だったり、恋人達が愛を確かめ合う為の場所だったり、観光に疲れた我々の為の場所だったり、釣り人の為の場所だったり、日光浴をする為の場所だったり、芸術家達が絵を描く場所の為だったり、セーヌ川は多種多様な人々の為の場所であった。セーヌ川は、正にそのままパリの風物詩であった。そして、セーヌ川に沿って絵葉書や版画、或いは絵画等を観光客相手に売る店が結構多かった。又、ルーブル美術館近くのセーヌ川の橋にチョークで絵を描いている若人達が多く居た。パリは、まさに『芸術の都』、そんな雰囲気に溢れている街であった。△セーヌ川の畔にて(後ろはノートルダム寺院)...セーヌ川の畔(ほとり)の話~私が見た事、感じた事inParis
「ブログリーダー」を活用して、旅日記さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。