*パリの街角の話パリの観光は基本的に歩いて回った。それによって楽しい事、新しい発見や色々な風物に接する事が出来た。保守的とも伝統的とも言えるフランスの心と誇りを、今でも脈々と受け継いでいる何が感じられた。彼等が住んでいる建物は何処へ行っても歴史を感じ、非合理性であっても旨く生活に調和させ、そして合理的に使っているようであった。通りのウィンドーデスプレィーは実に美しく、感心した。儲け主義に走らず、殆どのお店は午後7時頃に店を閉じていた。しかしショーウィンドーはシャッターを降ろさず、明かりをつけて夜の散歩する人々を楽しませてくれていた。またメトロの入口や橋の上、或はちょっとした所に新聞・雑誌の売店(キオスク)があったりした。市内には大小の公園、広場、或は凱旋門があった。そこは市民のオアシスであり、憩いの場であった。...パリの街角の話~私が見た事、感じた事inParis
私のパリ滞在は、1968年7月30日(午後到着)、31日、8月1日、2日、3日(午後マドリードへ出発)、8月19日(午後到着)、20日、21日、22日、23日、24日(正午ロンドンへ出発)、11月13日(夕方到着)、14日、15日(イタリアへ出発)と言う事で、足掛け14日間滞在し、正味1日中パリに滞在したのは8日間でした。そして滞在期間中、全てを見物に費やした訳ではなかった。強いて言えば、パリは私のヨーロッパ旅行の中継基地と言う感じで、休養したり、次の旅の準備をしたり、日記や手紙を書いたりして過した時間の方が多かった。しかしそんな状態でも極力、私は観光に出掛けた。ここにパリについて私が見た事、感じた事、体験した事等をここに纏めた。*パリの観光巡りの話パリは、セーヌ川によって南北に2分されていた。見所は川に沿った...パリの観光巡りの話~私が見た事、感じた事inParis
・昭和43年8月2日(金)晴れ(語り合いとアラビックコーヒー)9時~10時頃まで寝ていた。私と鈴木が起きたら、マサオは温かいコーヒーを煎れてくれた。我々3人は、コーヒーを飲みながら色々な事を語り合った。その後、昼食用の買物に3人で出掛けた。近所の商店は、結構買い物客で賑わっていた。マサオは我々の為に魚を買い、それを料理してくれた。昼食は、フランスパン(細長く硬いパン)、トマトとレタスの野菜サラダ、味付けが良く非常に旨い魚料理、そしてワインであった。久し振りに豪華な食事であった。「我々に食事代を出させて下さい」と言っても、マサオは頑として聞き入れなかった。彼の生活は、ゆとりがあるように見えなかった。むしろ、最低な生活状態にも拘らず、私と鈴木を持て成してくれたのだ。そんな彼の気持を心から有難く思った。午後も3人で再...語り合いとアラビックコーヒー~パリの旅
・昭和43年(1968年)8月1日(木)晴れ(マサオは優しかった)昨日、私は日記を纏めて書いたり、部屋で休んだりして過ごした。そして今日、鈴木と私はホルを出てマサオの部屋へ行って見た。今日も彼は居なかったが、ドアは施錠されていなかった。彼はイギリスから帰って来て、何処か用事で出掛けているのだと思った。彼から手紙で、『いつでも自由に使っても構わない』と言う承諾を得ていたから、私はそうする事にした。我々は10畳程の広さの部屋へに入った。部屋には足の無い使い古したベッドが直に床にあり、そこに毛布2枚、そして壊れそうな箪笥に似た物入れが1つあるだけであった。天井からは裸電が『細長い赤布』と共に垂れ下がっていた。その他は、部屋に何も無かった。明かりを点けても薄暗い部屋、これでは本や新聞等が読めない状態であった。ビデ付きト...マサオは優しかった~パリの旅
・昭和43年7月30日(火)晴れ(国際急行列車の旅)*参考=フランスの1フランは、約70円(1センチムは70銭)。闇の中を列車は、一路パリへとひた走った。コペンハーゲン~パリ間はデンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー、そしてフランスの5ヶ国が存在して、列車(我々)が入出国の度に夜中にも拘らず、各国の係官が旅券の提示を求めに来た。その上更に1つの国で2回程、乗車券の検札に来たので、睡眠が取れる状態ではなかった。夜行列車なのでもう少し考えて貰いたいものだ、と思った。フランス領内は田園の中をひた走り、パリに着いたのが午後3時20分であった。乗車時間は18時間から19時間、睡眠不足が加わり疲れた旅であった。所で、パリは田園の中にドカーン存在していた。と言うのは、麦畑の中から急に都市になったからであった。東京は、たんぼや...国際急行列車の旅~パリの旅
・昭和43年7月29日(月)晴れ(コペン見物とヌード写真集)今夜、20時55分の列車でパリへ行く事にした。充分な時間があるので、今日も我々はコペンハーゲンの観光を楽しんだ。―――観光の話は省略―――市内観光後、我々は特に目的意識もなく街を散策していたら、1つ発見した事があった。それはフリーセックスの国・スウェーデンのストックホルムより、ここのコペンハーゲンの方がヌード写真集の本屋がたくさんあった。それらの写真集は無修整(大事な部分に透かしがない)なので、良くあそこが拝めて、男性にとって嬉しい限りであった。日本のヌード写真集はパンティーを着用しているか、あそこの部分をぼやかしてあり、リアルさが無かった。『北欧のお土産』にと思ったが、買うのを止めた。我々はその代わりに飽きる程、それらのヌード写真集を立ち見した。日本...コペン見物とヌード写真集~コペンハーゲンの旅
・昭和43年7月28日(日)晴れ(童話の国のコペンハーゲン中央駅の様子)*参考=デンマークの1クローネは52円(1オーレは、52銭)。スウェーデンのヘルシングボリから、今度は連絡船に乗り換え、Denmark(デンマーク)のHelsingor(ヘルシングエーア)へ渡った。ハルデン~Copenhagen(コペンハーゲン)間は、列車から他の列車へ、列車から連絡船へ、連絡船から又、列車への乗り換えの為、不案内、言葉の不自由さ、肌寒いし、夜中で眠いし、鈴木と一緒でも何か寂しい辛い旅であった。ブルガリアの女性が泣いてしまうのも理解出来た。国境での出入国手続きは、旅券に出入国証明の押印だけで簡単であった。列車は、ヘルシングエーアから2時間程でコペンハーゲンに到着した。朝の7時、コペンハーゲンの駅はやっと眠りから覚めたようであ...童話の国のコペンハーゲン中央駅の様子~コペンハーゲンの旅
日本の鉄道、特にある鉄道会社では、過剰な程にホームや車内放送をしているように感じられた。車掌によっては車内に居たたまれない程の大きな音量で、何度も同じ事を放送する人がいた。何度も放送する事、或は、決まりきった事を放送する事が『旅客にサービスの提供』している、と私は思わなかった。ましてや大きな音量で、しかもしつこい放送は、止めて貰いたいだけであった。パリやロンドンの地下鉄を含むヨーロッパの鉄道は何処へ行っても到着、発車、乗り換え、終点到着、忘れ物注意喚起等の一切の車内放送、或はホーム案内放送をしていなかった。旅客が列車行き先名、時刻表、駅名表示板等を見て、旅客の責任で乗降や乗り継ぎをしていた。したがって車内や駅構内はとても静かであった。私は『案内放送は無用である』と言っているのではありません。もう少し案内放送の仕...鉄道の案内放送の話~サルプスボルの旅
・昭和43年7月27日(土)晴れ(ハルデン城で美女に出逢う)近所の銀行へ行って両替をして、ユース代を払って出た。今日、何処へ行くかまだ決まっていなかった。駅に着いたらHalden(ハルデン)行きの列車が来たので、それに乗った。ハルデンは国境の町、向こう側はスウェーデン領である。ハルデンはサルプスボルの隣町、キロにして30km程度であるから直ぐに着いた。我々は、コペンハーゲンへ行く事にした。そこへ行くには、Halsingborg(ヘルシングボリ)へ行かねばならなかった。駅員に尋ねると、午後8時40分にヘルシングボリ接続の列車を教えてくれた。ハルデンでその時間までは、まだ充分あった。そこで、「何処か観光をしたいので、良い所を教えて下さい」と駅員に尋ねたら、ハルデン城を教えてくれた。我々はそこへ見学しに行く事にした。...ハルデン城で美女に出逢う~サルプスボルの旅
リュックサック(リュック)を背負っての旅の話~サルプスボルの旅
都会や田舎を歩き回る旅になる事は、出発前から考えられていた。しかし、山登りやハイキングをするのではないから、『リュックサックを背負って海外旅行する』と言う発想は、日本出発前はなかった。事実、ソ連経由グループ35~40人程の内、リュックサックの人は1人であった。勿論、その人は私と同じ若者であった。彼の服装はジーパンにラフなシャツで、周りの日本人からは異質な存在であった。彼はそんな格好をしていたので、『日本人の面汚し』と言った様な目で見られていた。本当は彼の様なラフな服装が旅をするのに一番適していて、旅がし易いスタイルであったのだ。町内会、農協、或は会社や職場旅行に於いて年配の方は勿論、若い人も背広で旅行し、ラフなスタイルはいなかった。当然、背広スタイルであるからリュックを背負っての旅行は、考えられなかった。まして...リュックサック(リュック)を背負っての旅の話~サルプスボルの旅
・昭和44年7月26日(金)晴れ(目の前の列車に乗って)オスロを北上してフィヨルドを見たいが、物価の高い北欧をなるべく早く脱出したいので、私と鈴木は南下する事にした。オスロの東駅に着いて時刻表を見ていたら、1人の日本女性に出逢った。彼女は、「イギリスで英文速記を学ぶ為、こちらに来た」と言う。私は高校1年の時に半年ばかり、早稲田式速記クラブに入部していた事があるので分るのであるが、日本語でも大変なのに英文速記を習うとは、大した目的を持っている女性がいるものだ、と感心した。成功を祈るのみだ。外国で勉強しその目的を達成するのは、容易でないと思った。そして努力しても、多くの者が色々な諸事情で途中断念するのであろう事は、想像に難くなかった。△ストックホルム港にて~左は旅の友の鈴木、右は私13時40分発のSarpsborg...目の前の列車に乗って~サルプスボルの旅
ヨーロッパでは公衆トイレが少なく、あっても有料が多かった。市内観光巡りは有料・無料問ずトイレ探しに苦労するので、出掛ける前に必ずトイレへ行っておく事が懸命であった。トイレ探しの秘訣は、大きい公園、観光名所地、博物館、美術館、中央駅(パリやロンドンの地下鉄駅には無い)、公共建物等に普通ある。観光中や散策中、トイレへ行きたくなくても、気が付いたらそれらの場所を頭に入れておく事が大切であった。パリやロンドンに居た時、トイレへ行きたくなったが、近くにあるトイレが分らず、ワザワザ電車に乗って、知っているトイレへ行った事もあった。所で、無料トイレは洋の東西を問わず、それはむしろ汚いのが常であった。そして、所によってはトイレ内に落書きがあった。その中には芸術的な、楽しくなる様な、或は、物凄いそのものズバリのイラスト(絵)やコ...トイレの話~オスロの旅
・昭和43年7月25日(木)晴れ(オスロ観光)△ヴィーゲラン彫刻公園(CFN)私のノルウェーの知識、イメージは、海賊バイキング、フィヨルド、漁業、捕鯨、それと船舶製造で、これ位しかなかった。そんな私であるが、地図を頼りに市内観光に出掛けた。‐‐‐‐観光の話は省略‐‐‐‐夜、ユースでアメリカ人、フランス人、南アフリカの白人等とトランプをして過ごした。それは、国際色で楽しい時間であった。旅をしていると色々な国の人に出会えるから楽しみの一つだ。その後、私はユースの娯楽室で少し髭を生やし、旅慣れたある日本人を見掛けた。この時、彼が荻さん(仮称、以後、敬称省略)であるとは、知らなかった。勿論この時、私達は互いに話もしなかった。こちらに来て以来、今夜が初めてユースのベッド部屋で寝られる事が出来た。△オスロ街角にて-私と民族...オスロ観光~オスロの旅
・昭和43年7月24日(水)晴れ(海賊バイキング末裔?)その2*参考=ノルウェーの1クローネは、約50円(1オーレは、約50銭)。私と鈴木はストックホルムからヒッチでオスロ駅前に到着した。そこでウロウロしていたら、ヘルメットを被り、紺の戦闘服を着て、そしてブーツを履いた警察官らしき人が、スクーターに乗って近寄って来た。一瞬、何者かと思ったが、かわいい感じの女の子であった。彼女は、ツーリストビューローのガイドさんであった。△オスロ駅前にて~ツーリストビューローのガイドさんと私「何か困っている事がありますか」と彼女に尋ねられた。「大丈夫です。今、仲間の女性二人がユース宿泊の為に電話問合せに行っています」と私。「何処から来たのですか」と彼女。「日本からです。それにしても貴方はかわいいね。ヘルメットと制服がとても似合う...海賊バイキング末裔?(その2)~オスロの旅
「お腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・~ストックホルム~オスロ間ヒッチハイクの旅
・昭和43年7月24日(水)晴れ(「お腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・)その1私と鈴木は7時に起き、ユースの外にあるフードスタンドでソーセイジ入りパン(日本では当時、ホットドックはなかった)とコーヒーで軽い朝食を取った。それからオスロ方面の街道に出て、9時30分からヒッチを始めた。130~150台程の車が通り過ぎて、なかなか乗せてくれそうな車は通らなかった。我々は相当な時間を費やし、やっと1台目の車に乗せてもらい、それから2台の車に乗り継ぎ、ストックホルム~オスロ間のキロ標識がある地点にやって来た。その直後、大野と山下が手を振りながら通り過ぎて行った。その場所で我々はさらに立ち続け、向こうから来る車に願いを込めてヒッチ合図を送った。その車は通り過ぎて行ったが、50m程行過ぎてから停まり、バックして戻って来...「お腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・~ストックホルム~オスロ間ヒッチハイクの旅
ヒッチとは、ヒッチハイキング又は、ヒッチハイクとも言う。車を停めて無料で乗せてもらう、誠に図々しい旅行の一つの方法あり、相手の親切心だけが頼りであった。当時、ヒッチは西ヨーロッパで若者旅行者の間で流行っていた。ヒッチの仕方は、ドライバーから見て遠く前方に、『ヒッチをしているな』と言う認識と、『乗せて上げよう』と決断するまでの時間的、距離的な空間が大事であった。そしてヒッチをしている場所が、車を停められる余地があるのか、停まった時に後方車に追突されず、且つ安全であるのか、ヒッチハイカーにとっては、その場所選びが非常に重要であった。ヒッチ合図は、親指を延ばし、残り4本の指は折り曲げ、親指の先を行き先方向に指します。そして左側通行の国は右から左へ、右側通行の国は左から右へ車が来たらその親指を数回振ってヒッチ合図をドラ...ヒッチハイクの話~ストックホルム~オスロ間ヒッチハイクの旅
ヒッチでオスロまで競争~ストックホルム~オスロ間ヒッチハイクの旅
・昭和43年7月23日(火)晴れ後時々雨後曇り(ヒッチでオスロまで競争)8時30分頃、大野さんから電話で、「今からオスロに向けてヒッチハイクで出発する」と連絡があった。私と鈴木もヒッチでオスロへ行く事にした。照井は列車でスウェーデンを北上するとの事。我々は照井と別れなければならなかった。振り返れば照井とは、ソ連経由の一団でモスクワ滞在中に知り合い、メトロホテルへ飲みに行き、鈴木と共に意気投合した間柄であった。それ以来6日間、共に旅をして来た仲間であった。旅とは、人との出逢いであり又、別れる運命であった。寂しいが、それが旅なのだ。彼の今後の旅の幸運を祈った。ヒッチするには郊外に出ての方がやり易いと判断、私と鈴木は地下鉄に乗った。ストックホルムの地下鉄駅のホーム側壁は、カラフルで色々な絵が描かれ、各駅によってそれが...ヒッチでオスロまで競争~ストックホルム~オスロ間ヒッチハイクの旅
西ヨーロッパの大都会では、至る所ヒッピーの姿が目に付いた。このストックホルムも例外ではなく、街を歩いていると、あちこちと屯(たむろ)しているヒッピー達を見掛けた。しかし、ここのヒッピーは、他のヒッピーと比べて上から下まで、ファッション的でセンスが良かった。女性は特に美人ぞろいで、さすが“スウェーデン”、と思った。日本ではこの国をフリーセックスの国、と言うイメージを抱いていた。私は最初、ヒッピーに対し少し違和感がありました。しかしその内に何も感じなくなり、ヨーロッパに来て1ヶ月後には親しみを感じて来た程であった。そして最後には私もヒッピー気取をするようになってしまった。そんな事で、私の感じたヒッピーについて話をしてみようと思います。彼等は、人に金品をたかったり、暴力行為をしり、悪意を持って迷惑を掛けたりしていない...ヒッピーの話~ストックホルムの旅
・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海の船上で17歳の若者と口論)*参考=スウェーデンの1クローネ(Krone)は約70円、1オーレ(ore)は70銭。昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝なければならなかった。非常に寒く眠れず、長い夜であった。日本の夏は、夜でも非常に蒸し暑いので、『いくら北欧でもカーデガンがあれば大丈夫であろう』と思い込んでいた。『外国へ行って見たい』と強い想いがあった割には、私の諸外国についての認識不足、知識不足は甚だしかった。私が持って来た衣類と言えばカーデガン1着、靴下数組、パンツ数枚、半袖下着数枚、半袖シャツ2枚、ワイシャツ2枚、背広1着、ズボン1着であった。どちらかと言えば、夏向きの洋装であった。緯度的に考えれば、それなりの支度が必要であったが、それが私の認...バルト海の船上で17歳の若者と口論~ストックホルムの旅
・昭和43年7月21日(日)晴れ(黄金のバルト海)ストックホルムへの船は午後2時の出航なので、まだ4時間程あった。我々は荷物を船会社の事務所に置かせてもらい、波止場からヘルシンキ市内へ散歩に出掛けた。その後、我々4人は港に戻り乗船した。出航の際、先程知り会った自称学生で写真家の青木さん(仮称)が大きな日の丸を振って我々を見送ってくれた。私は異国の最果ての港で、日の丸の旗を振って見送ってくれた青木さんを、いつまでもデッキで眺めていた。△ヘルシンキ港を出港前にて-左から山下、大野、鈴木、私、○、○そして照井。船の中は、国際色豊かであった。日本人は、同じソ連ツアーの仲間が9人居た。夕食は食堂で2日振りにナイフとフォーク付きの食事で、ポークソーテ、ポテトチップス、ミルク、そしてパンが出された。これは船賃の中に含まれてい...黄金のバルト海~ヘルシンキの旅
・昭和43年7月20日(土)晴れ(倹約旅行の始まり)*参考=フィンランドの1マルカは約113円、1ペニアは約1.1円。5時半に起きた。ここ数日間、5時間以上寝た事がないのに、如何言う訳か体には何ら影響がなかった。旅をしている緊張感からであろうか。ホテルでの朝食は無く、バスは6時に出発し、駅へ向かった。6時頃のレニングラードの街は、太陽がかなり高く昇って真昼の様なのに、まだ眠っていた。広い通りには人っ子1人おらず、静寂さを保ち、経済活動は全く停止していた。あたかも街全体が死んでいる様な感じであった。しかし、後1時間か2時間で活動しだすのだ。共産国家・ソ連の旅も終った。私はバスの車窓から移り変わる街の様子を名残尽きない思いで眺めていた。ヘルシンキ行き列車は7時50分、予定通り発車した。今度は個人個人の新い“ヨーロッ...倹約旅行の始まり~ヘルシンキの旅
・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は、変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラード(現在は『サンクトペテルブルグ』と改称)は、ソ連第2位の都市、帝政ロシア時代の首都(ペトログラード)でもあった。ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「Thisisoneofthemostfamousandbeautifulbuildings」と言って終るのが口癖と言うか、案内の一つの形式であった。...白夜を楽しむ~レニングラードの旅
バスの運転手は、これ又例外ではなく、太った中年女性が殆ど占めていた。しかも、“運転手一人”(関東ではまだ、ワンマン運転による運行は一般的でなかった)で車掌が居ないバス、それが珍しかった。乗客は、所定の位置にある券売機へコインを入れて切符を買っていた。これは小さい切符で、前もって買ってある大きい切符は、乗客自ら切符を切って改札をしていた。乗客自身が車掌の仕事をするのであった。従って、不正乗車しようと思えば出来るのであるが、そんな事をする人は、“モスクワにはいない”(私はそう信じている)のだ。皆、乗車マナーが良く、又、混んで切符を買えない時は、券売機の傍に居る人に頼んで切符を買って貰ったりしていた。私は、社会主義社会の一つの縮図を見た様な思いがした。地下鉄もそんな感じであった。乗る人は、『乗客』ではなく『利用者』で...モスクワのバスの話~モスクワで見た事、思った事。
モスクワの若い女性は、均整の取れた美しい子が多かった。その反面、中年になったおばさんは、殆ど恰幅がよかった。多分、脂っこい物を多く食するからであろう。それとも民族性なのであろうか。ソ連の女性は、結婚しても共稼ぎが原則になっているのか、あらゆる方面に進出していた。タクシー、大型バス、トロリーバスの運転手は勿論の事、地下鉄の電車運転士も彼女達が占めているのに驚いた。貫禄ある女性の運転士を見ると頼もしさを感じた。しかし、その反面よく観察すると、男性は兵役に回されてか、その労働力不足を女性達が補っているのではと思われる程、街に軍服を着た軍人達を多く見掛けた。気付いた点ですが、何処へ行っても婦人達(若い女性やおばさん)は、皆スカート(欧米で流行っているミニスカートは見受けなかった)を履いていて、ズボン(スラックス)を履い...モスクワの女性の話~モスクワで見た事、思った事
*モスクワの地下鉄の話モスクワの地下鉄(MeTPOミツロ)は、全線均一の5コペイカ(20円)でした。利用者(社会主義国だから『乗客』とは言わない)は改札を入る時に5コペイカの硬貨を投入口に入れるだけで入場が出来た。入れないでそのまま改札口を通ろうとすると、鉄の棒が横から出て来て、改札通路を遮断する仕組みになっていた。大きな駅の何通路もある改札口でも改札係員は一人で、ただ利用者が通過するその状況を見ているだけでよかった。改札の合理化はモスクワが最初であろう。叉、全線均一であるからこそ出来るこのシステムに、私は率直に感銘した。改札を入ってホームへ行くのに地下深く(100メートルから200メートル位)エスカレーターで降りて行った。こんなに深くホームがあるは戦争の時、市民を守るシェルターの役目をしているとか。ホームは大...モスクワの地下鉄の話~モスクワで見た事、思った事
・昭和43年7月18日(木)晴れ(モスクワの印象)△モスクワのある果物売店(キヨスク)にて~昨日、飲み屋を探していると果物を売っている小さな売店を見掛けた。品数、種類も少ない、それなのに長い行列を作ってまで買い求めていた。そんな光景が珍しく、私は写真を撮ったらおばさん達に睨まれ、そして捲し立てられる様に怒鳴られた。凄く怖かった。どうも市民生活を撮ってはいけない感じであった。今日も観光バス(愛称カモメ号)で市内観光をした。案内役は、昨日の女性であった。市内観光が終り、午後0時30分頃に赤の広場の指定集合場所に戻ると、私と橋本さんを残し、バスは既に行ってしまった。2人で如何しようか話をしていたら、暫らくしてJTB現地付添人の清水さんが戻って来た。そして3人は市内循環バスでホテルに戻った。お陰様で私はモスクワのバスに...モスクワの印象~モスクワの旅
・昭和43年7月17日(水)小雨後曇り(社会主義に思う事)―観光の話は省略。―午後は自由時間となり、自分の好きな所へグループを作って出掛けた。私は橋本さんと(本人の話によれば)大学准教授(実際は自衛隊員であったらしい)の“森本敏さん”(野田政権当時の防衛大臣、現在は拓殖大学院の教授で度々テレビに出演している)の3人で、有名なゴーリキ通り(モスクワの銀座)へ出掛けた。外国での散策と言うか、ブラブラと街を歩くだけでも物珍しい物を発見したり出逢ったり、とにかく色々な物に対して新鮮さを感じ、とても楽しかった。その足で我々は革命博物館へ行った。ロシアの第1、第2革命、及び10月革命等に於けるレーニンの革命の記述、それから彼が使った椅子、机、ノート等日用品が展示され、革命が起こるべきして起こった印象を得、偉大なレーニンの再...社会主義に思う事~モスクワの旅
原野のシベリアを列車と空の旅~鉄道と初めての空の旅(その2)
・昭和43年7月16日(火)晴れ(原野のシベリアを列車と空の旅)その2話を戻すが、バスの中から垣間見たハバロフスクの印象は、建物(公共・住宅問わず)や広い道路はよく整備されて、道路脇のポプラ並木と本当に良く調和されていて、落ち着いた感じがした。又、日本では何処でも見掛ける商業的看板類が、ソ連ではそれらがなく、街の規模の割に大通りも閑散としていた。我々の感覚としてシベリア第一の都市にしては、余りにも殺風景な感じであった。我々グループはレストランで昼食を取った後、空港へ行った。到着した後、搭乗時間が何時だかさっぱり分からなかった。3時間以上待たされて、やっと“プロペラ機TU114型機”(私がどうして飛行機の型を知ったか分らない)に搭乗する事が出来た。△ソ連製プロペラ機TU114型機(ネット写真=PFN)生まれて初め...原野のシベリアを列車と空の旅~鉄道と初めての空の旅(その2)
・昭和43年7月16日(火)晴れ(原野のシベリアを列車と飛行機の旅)朝起きると、列車はシベリアの原野を走っていた。私にとって生まれて初めて見るソ連の雄大な景色と大地。行けども行けども家は見当たらなかった。延々と続く白樺の森、それを過ぎると草原が広がる地平線であった。果てしなく続く大地、その光景は尽きる事がなかった。食堂車で朝食を取った後、乗船仲間達と通路に出て、又この景色を眺めていた。すると昨夜の女性乗客係2人がやって来た。誰かが彼女達にロシア民謡を歌ってくれるようお願いしたら、彼女達は嫌がる素振りもせず、カチューシャ、トロイカ、トモシビ等を歌ってくれた。大変上手で、しかもその歌と景色がマッチして、皆の心の奥深くジーンと来るものがあった。我々も彼女達と一緒に日本語でそれらのロシア民謡を歌って列車の旅を楽しんだ。...原野のシベリアを列車と空の旅~鉄道と初めての空の旅
・昭和43年7月15日(月)晴れ(初めて見る外国と鉄道技師との出逢い)*参考=ソ連の1ルーブルは、約400円(1コペイカは約4円)早朝から晴れていた。旅にとって天気が良いのは一番、身も心も晴れ晴れであった。海も穏やかで、ハバロスク号は一路ナホトカ港へ向かっていた。船旅は3日目になり、航海も終りに近づきつつあった。船酔いも治り、体調は良かった。午前中、デッキで大海原を眺めていたり、日光浴をしたり、写真を撮ったりして過した。午後1時30分頃、遥かかなたに陸地が見えて来た。段々近づくにつれて山脈が連なり、山々が真っ白な雪で覆っているのが確認できた。何と言う山脈であろうか、知る由もなかった。空は青々と何処までも続き、山脈とのコントラストが美しかった。『ようこそソ連へ』と言ってくれている様で、ソ連の旅が楽しみであった。午...初めて見る外国と鉄道技師との出逢い~鉄道と初めての空の旅
・昭和43年7月14日(日)曇り(船旅を楽しむ)船旅2日目だ。船酔いも和らぎ、船内の生活も慣れつつあった。船の仲間達も落ち着きが出て来たように感じられた。私はデッキで海原を眺めていたり、娯楽室で過したり、読書をしたり、又船の仲間達と話をしたりして、のんびりとした時間を過した。船旅の楽しみは、なんと言っても食事の時間であった。我々のテーブル係りの20歳ぐらいの女性とロシア語で「ドーブラェウートラ」で始まり、食事が出されると「スパシーバー」、そして、食事の終りは「ダスビダ‐ニャ」で終る。それはたわいもない言葉であるが、彼女も愛くるしく言ってくれるので、同席の仲間も大喜び、そして和やかな雰囲気でいつも食事が終るのでした。不安を抱いた初めての海外旅行であり、初めて接する異国人とこの様に楽しく過せる事が出来て、皆の心も本...船旅を楽しむ~船旅
私は旅に出るに当たって、『下記の原則』を心に秘めた。①家族、友達、そして人様に決して迷惑を掛けないようにする事。②『旅の苦労は買ってでも』と言う意気込みを持つ事。③多くの人と接し、出来れば友達を作る事。④出来れば長く滞在、或は、働いてその国の内側と生活を肌で感じる事。⑤出来る限り多くの国を見て回り、色々な経験や体験をする事。・昭和43年(1968年)7月13日(土)晴れ(出発前の出来事と出航)いよいよ出発の日だ。この旅路に何年想いを馳せて来た事か。私の大事な1歩が今、始まった。狭山ヶ丘駅1番電車に乗る為、4時30分に起きた。天候は晴れで、幸先は良かった。それにしても今日は、眠かった。それは無理もなかった。昨日、私は職場へ挨拶に行って、その足で丸の内のJTBへ行き、ヘルシンキ~ストックホルム間の乗船券および傷害保...出発前の出来事と出航~船旅
昭和43年5月下旬のある日、休暇願を会社に提出した。内容は、『私は長い間、海外旅行をしたいと願っておりました。ここに現実の運びと成り、付きましては6ヶ月間の休暇を取りたいと思いますので許可をお願い致します。旅行予定計画は、出発前の準備その他1ヶ月間、ヨーロッパ旅行2ヶ月間、イギリス滞在1ヶ月間、帰国の為の乗船日数2ヶ月間、合計6ヶ月間です。』と言うものでした。勤務終了後この願い書を、「お願いします」と言って最初に職場のA上司に渡した。彼は何を渡されたのか、不思議そうに封を開いて読み始めた。そして、「本当か、冗談だろう」と笑いながら言って、信じようとしなかった。「本当です。宜しくお願いします」と私は真面目な、本当の気持で言った。「そうか、分った。今日は既にボスは帰ったから明日、渡しておくから」今度は彼も信用したよ...会社の旅行許可は
両親の承諾を得て、まずは第一関門突破。次は行き場所を何処にするか、という事であった。しかし、ここまで来たら余り迷わなかった。イギリスのロンドンに7年以上文通しているSheilaMorgan(シーラ・モーガン)が居るので渡航先は、“ヨーロッパ”(ここで言うヨーロッパ『欧州』は、西ヨーロッパ『西欧』の事である)、そして最終目的地は、イギリスと決めた。ヨーロッパは他の国へ比較的簡単に陸続きで行かれるし、又、多くの国へ訪れる事も出来る。しかも、アメリカより歴史があるのでその点、見所もたくさんあるし、ヨーロッパの魅力の多くはそこにあると思った。早速、イギリスの彼女に手紙を書き、ヨーロッパへ行く旨を伝えた。又、「イギリスへ行ったらウェールズの貴女の家に1・2週間泊まりたい」と言う事も書いたら、彼女から直ぐに返事が来た。最初...旅の目的地と出国準備
就職してから単調な仕事が5年程続いた。そして私は会社の寮で生活していた。寮生活最後の頃、寮生の親睦と寮生活の向上の為、自分が先頭になって寮の自治会規約を纏め、総会を開催し、会を設立して自ら自治会長になり、その自治会活動をして過した。それでも、仕事も寮生活も終りに近づきつつあった。昭和43年春頃、ヨーロッパ、又は、アメリカへ行って帰って来られる最低限の旅費50万円が貯まった。それは知らず知らずの内に、と言う感じであった。そして、夢が実現しそうに成るにつれて、嬉しさに反比例して、『分らない、不安な、そして心配な事』が存在するようになって来た。それらは、『①外国と言っても何処へ行くのか。ヨーロッパかアメリカか、その他何処へ回ろうか。②向こうで病気になったらどうしようか。行って無事に帰国出来るのか。③会社は如何するのか...旅への決断と両親の許可
汽車と言えば、蒸気機関車の思い出があります。私は幼い時から『シュシュ』と黒煙と白い蒸気を吐きながら、背よりも高い“丸い鉄の塊”(動輪と言う言葉を知らなかった)が回るその力強さ、『ボォー』と腹の底まで響く汽笛、そして何とも形容し難い煙の匂いが好きでした。又ある反面、蒸気機関車が近くを通り過ぎる時、引き込まれる様なある種の怖さを感じ、その機関車に対する畏敬の念を感じていました。幼稚園や小学校低学年頃は、よく蒸気機関車の絵を描いていたものでした。又、両隣の幼友達のミコチャンとマコチャン(私より1つ年上)と3人で『停車場』(駅の事を『ていしゃば』と言っていた。)へ蒸気機関車を見に、よく行ったものでした。そんなある日、F町は良く晴れて雪が無いのに、列車の屋根にたくさんの雪が積もっているその光景が不思議でならなかった。小学...小さな旅~蒸気機関車の思い出の話
*その2、沼田への旅の話昭和38年8月上旬のある日、『今度は、サイクリング自転車で日本一周しよう』と思い付き、F市を11時頃に出発しました。このサイクリング車は、2番目の義兄の物でした。私が高校3年の時、市ヶ谷の海上自衛隊基地に勤務していた兄が、「不用なので使って良いから、取りに来なさい」と言ってくれました。往きは列車で、そして帰りはこの自転車で国道17号(中仙道)をひた走り6時間要してF市まで戻って来ました。この時が私にとっての初めての小さな旅でした。田舎の高校生の私が東京の道路を知る訳もなく、ただ大宮・高崎方面の道路標識を頼りに、夢中でペダルを踏みました。大宮を過ぎた辺りから尻が痛くなって来て仕方なかったが、無事に戻れて本当に良かったことを覚えています。話は戻しますが、F市を発って本庄まではアスハルトの道で...その2、沼田への旅の話
その1、浜松への旅の話高校卒業後の昭和38年4月○○会社に入社し、その4月下旬のある日、『外国へ行けないのなら日本国内だけでも無銭旅行しよう』と思い立ちました。持ち合わせは、1~2か月分の給料(卒業は3月中旬だが2月から出社していた。)しか支給されてないから、1万円程であった。通勤にいつも利用している直江津発のF駅6時15分発の富士行き上り列車に乗り、私は会社や両親に無断でそのまま東京駅から下ってしまった。行く目的地もないので、横須賀線に乗り換え、その日は2番目の義兄のアパートに立ち寄る事にした。兄が帰るまで港を散歩して過ごし、その夜は兄のアパートで1泊しました。『無銭旅行しよう』と思い付きで出て来たので、特に計画を立てた訳でも、行きたい場所もないので、次の日は目的もなく東海道線を下りました。天気の良い日で暖か...小さな旅~その1、浜松への旅の話
第1章プロローグ学生時代『私が外国に憧れ、そして、旅に出たい』と漠然と想うようになったのは、いつ頃であったのであろうか。見知らぬ異国の旅、ふらっと小さな駅を1人列車から降りる。言葉も、方向も分らない静かな町。幸せそうな家々が建ち並び、そして、私など見向きもしないで人々が通り過ぎて行く。1人公園で物思いに深け、明日は何処へ行くのか宛てのない旅。感傷的に、そして、哀愁を感じるそんな旅を。確かそれは、昭和35年(1960年)の高等学校1年の秋頃であったであろうか、私のクラスの右後ろの席に居た“中村君”(G市から通学していて眼鏡を掛けていた人)が、フイリッピン人と文通しているのを知った。それに刺激された私は、『自分も異国の人と文通をして見たい、外国を肌で感じて見たい』と言う事から始まったのだと思う。所が、私は英語で手紙...学生時代
まえがき昭和43年7月13日、私は横浜から船で出国し、昭和44年7月6日の実家へ帰るまでの1年間、多くの国を旅して来ました。私はそれぞれの国で見聞した事、体験した事、感じた事、思った事等を日記に書いていました。この本は、その日記帳に基づいて書いたものです。当時、私は23歳の若造で世間知らず、且つ、色々な事についての知識、能力、或いは常識等がありませんでした。従ってその行動は、突飛で考え方の面でも、幼稚な所が多くありました。その様な私でありますので、読者の皆様は、その辺りを十分ご理解して頂ければ、幸いです。私が就職した昭和38年の初任給は、1万2千円でした。夏季ボーナスは支給されず、暮れのボーナスは2万5千円支給されました。しかしそのボーナスも、キャノンカメラを購入したら、無くなりました。私が旅の為に退職する23...私の旅日記の前書き
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