源氏の参謀である梶原平三。 その人となりを知る貴重なエピソードでもありますが、坂東武者には共通の感覚として、仲間意識がとても強く、自分の部下にはとても人情篤い人々が多い印象が、平家物語では印象深く描かれています。 これはどうしても平家物語が
あなたの「書けない」を「書きたい」へ 作文や小論文の書き方指導、国語対策や受験メンタルケアなど
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4/24 武士の鏡 畠山家の長 重能のエピソード 平家物語7巻70章「平家一門都落ち」その1
さて、平家一門の都落ちがいよいよ本格的に始まります。この、一度支えを失ってしまうとパニックになってしまうと総崩れ……という流れが平家には要所要所に見られますが、逆に言うのならばそのパニックから立ち直ることがどれだけ難しいかということなのでし
4/17 ただ一つの歌に生涯をかけた武士 平忠度 平家物語7巻68章「法皇鞍馬落ち」その3
平忠盛の六男として生まれた忠度。その生まれや出生の詳細ははっきりとは解っていませんが、その中の一つには藤原家の娘を母に持つ説も存在しています。おそらく、忠度の歌の才能は、平家からではなく、公家の血筋からなのではないか、という考えが当時からあ
4/10 持ち出された三種の神器 摂政に見捨てられた平家 平家物語7巻68章「法皇鞍馬落ち」その2
法皇が居なくなったことが解ったとたん、平家は本格的に動き始めます。この流れを思うと、後白河院の嗅覚の鋭さと運強さは目を見張るものがありますし、ここで法皇と共に都を去っていたのならば、かなりその後の状態は変わるはずですし、逆に言うのならば法皇
4/3 自分だけ抜け出した法皇・後白河院 平家都落ちの始まり 平家物語7巻68章「法皇鞍馬落ち」その1
さて、有名な平家都落ちのくだりへと入っていきます。東海道では頼朝に負け、北陸道では義仲に負け、更には様々な軍団がどこから攻めてくるのか解らない怖さからパニックになり、上から下から大騒ぎとなります。(まぁ、そこで行家の名前が出てくるあたり、「
3/27 知らぬは平家ばかりなり 平家物語7巻67章「平家の一門願書」
比叡山と義仲の間に書簡のやり取りがあったことなど露知らず……南都は無理だけれども、叡山なら何とかなるのではないか、という下心が透けている書簡なのですが、南都と叡山は最澄がいたころからの犬猿の仲なので、南都と関係性が悪くなっても比叡山との仲は
3/20 義仲の巧みな交渉術 平家物語7巻66章「義仲山門牒状」その3
さて、義仲の快進撃の噂が日本全国に響き渡ったあたりで突然比叡山に届いたお手紙。それに対する返答として、山門は上から下から大論争となりました。その中で興味深いのは、仏の教えを体現することが主たる存在意義のお寺が、「平家は落ち目だ。開運している
3/6 義仲の巧みな交渉術 平家物語7巻66章「義仲山門牒状」その2
さて、牒状の本題です。これまでのあらすじを読んているかのごとくに、以仁王の令旨が巻き起こした源氏旗揚げの切っ掛けが書かれおります。これは、平家物語が巻物として出来る間、どれほどの間が空いたかははっきりと分かっていませんが、誰もが巻物を手元に
2/27 義仲と比叡山との駆け引き 平家物語7巻66章「義仲山門牒状」その1
倶利伽羅峠の戦い後の義仲上洛までの流れです。越前から京都に上るには、どうしても近江(滋賀)を通らなければなりませんが、山を通るにしても、地上を通るにしても、京への北からの出入り口には、がっつり両方とも比叡山延暦寺の僧兵が待ち構えていました。
2/20 錦の直垂のエピソード 宗盛とのやりとり 平家物語7巻64章「実盛」その2
老兵実盛の最期のエピソードです。髪の毛を洗った後、白髪が現れて、黒く染めていたことが解った実盛ですが、何故錦の直垂(本来ならば大将しか身につけられない、高級な鎧)を付けていたのか。その謎が、今回、授業で読んでいない場所に書かれています。実盛
2/13 説話的人格 実盛の最期 平家物語7巻64章「実盛」その1
歴史に名高い倶利伽羅峠の戦い。義仲の戦略的に有名な話であり、平家の2度目の惨敗といってもよいので、やはり栄枯盛衰は記憶に刻まれやすいのがこのエピソードからも解ります。この斎藤別当実盛。最後の所領はどこだったのかなと思って調べてみたら、生まれ
2/6 平家の撤退戦と義仲の嗅覚 平家物語7巻63章「木曾の願書」その2
有名な「実盛」へのつなぎともいえる部分。偶然ですが、年始に新歌舞伎の演目で、「実盛」が上演されていたのを今知りました(笑)見に行けばよかった……目立つのは、やしり義仲の軍を率いる大将としての嗅覚です。目の前の勝利に酔わず、自分が配置した軍の
1/30 平家を「音」で脅かした義仲 平家物語7巻63章「木曾の願書」
今回は木曽義仲の戦いで有名な、「倶利伽羅峠の戦い」の始まりを読んでいきます。この倶利伽羅峠の戦い。何故名高いかというと、「源平盛衰記」のエピソードが有名だからです。牛の背中に火をつけた藁を載せ、平家の軍になだれ込ませた、という「火牛攻め」平
1/23 戦のハッタリと根回し 平家物語7巻62章「火打ち合戦」その2
富士川での敗走は別としても、こうやって戦いのくだりを読んでいると、当時でも戦は「情報戦」と「心」が肝心なのだということが解ります。「情報戦」は、ハッタリだろうが何だろうが、自分たちのいる場所を隠し、相手が「そこに敵がいる」と思わせられるかど
1/16 裏切り者による義仲の苦戦 平家物語7巻62章「火打ち合戦」
さて、平家物語らしい合戦の始まりです。清盛が亡くなり、その喪が明け、本格的な頼朝討伐が始まります。本格的に坂東に兵を送る前に、まず京の治安を守るための北陸への出兵になりますが、平家はあっという間に負けたのでは? というイメージとは違い、やは
1/9 大姫の悲劇はここから始まる 義仲と頼朝の人質交渉 平家物語7巻6章「平家北陸下向」
さて、時代は「鎌倉殿」でも描かれた義仲との談議に移ります。清盛の弔いが終わった平家側が、頼朝を成敗しようと軍隊を整えておりました。その折、木曾義仲が北陸道で兵を整えているとの話に、遠い坂東への出兵ではなく、近い北陸からの平定を平家は望み、義
12/26 吾妻鏡 承應3年6月小 後半 義時死後の政子と泰時の動向
なんとなく、まだ鎌倉時代に心が奪われている状態です(笑)話は戻って……吾妻鏡の続きですが、泰時に対するデマが鎌倉では流れていた、という書かれ方ですが、これが本当なのかどうかはあやしいと言われております。何故かというと、承久の乱の総大将は泰時
12/19 吾妻鏡 承應3年6月小 義時絶命の瞬間。吾妻鏡での描かれ方
吾妻鏡でのそれぞれの絶命の瞬間はあっさりだったり、実朝の暗殺のように、とても創作性が強そうなぐらいにずらずらっと書かれていたり、様々な描き方をされているのですが、鎌倉幕府でおそらく一番の権力者である義時の最期は非常にあっさりです。脚気であっ
12/12 吾妻鏡 治承3年5月 政子の歴史的演説を吾妻鏡で読んでみよう
いつもとは打って変わって、漢文調の吾妻鏡になります。漢文はとても堅苦しく、難しく感じますが、一定のパターンがあり、それに慣れてしまえば実はとても訳しやすいものになります。でも、官職名は唐式なので、読みなれないですよね。ちなみに義時の官職。右
12/6 清盛の出生の秘密 平家物語6巻56章「祇園の女御」その2
古今東西、権力者に愛された女性たちの悲劇、喜劇は数多く存在しますが、それと同時に下賜も多く存在しました。後宮で飼い殺しにされるよりは、忠臣の正妻として扱われた方が幸せの場合もありますし、もちろんその逆もあり得るのでしょう。もらえるのならば、
11/30 清盛の出生の秘密 平家物語6巻56章「祇園の女御」その1
2012年度(ちょうど10年前ですね)に大河ドラマとして放送された「平清盛」の元ネタになった部分です。清盛の父親は、忠盛ではなく、白河院だったと言われている逸話を設定として採用しております。これは面白いのですが、日本の政治は西洋と違って、「
11/21 弔いもなく戦支度へ 平家物語6巻55章「入道死去」その3
この清盛の死の描写ですが、あまりにも文学的であり、常軌を逸している描写が多くありますが、それだけこの清盛の急死は、当時の人々にはあまりにも信じられず、あのような偉業を成し遂げた人が、普通の死に方をするはずがない、という思い込みが働いておりま
11/15 人であるならば避けられない死の運命 平家物語6巻55章「入道死去」その2
人間として、決して避けられないもの。「死」が清盛に訪れます。その死後の京の都の様子が描かれるのですが、京の貴族が何よりも厭うのは、「死の穢れ」です。おそらくは、平安末期であったとしても貴族たちはそれを何よりも避けるので、おそらくこの弔問は武
11/7 現代でも原因不明の病で死ぬ清盛 平家物語6巻55章「入道死去」その1
ページを上げるのが大変遅くなりました。(体調戻りました。ありがとうございます)さて、永遠に続くかに思えた平家の栄華も、崩壊に向かって加速度を高めます。清盛の失策は何だったのか。もちろん、一つの失策が崩壊につながったわけではないと思うのですが
10/31 たった1度の勝敗が総崩れの切っ掛けに。 平家物語6巻54章「義仲謀叛」
さて、とうとうメインのパートがやってきました。平家物語の醍醐味。栄枯盛衰の、枯、と衰の部分です。富士川の敗戦もそうですが、アレはまだ「戦っていない」ということと、総大将が若い維盛(富士川の戦い時、19歳 数え年21歳)であったので、まだそこ
10/24 京に戻った矢先の暗雲 平家物語6巻51章「高倉の院崩御」
さて、長い平家物語もちょうど中間地点。ここまでは当時の朝廷の状態がどうであったのか。平家の中の人々がどうであったのか、という今の小説で言うのならば「前フリ」のような部分でしたが、ここから怒涛のように様々な歴史的出来事が毎回起こってきます。恐
10/11南都 南都焼き討ちは、故意か過失か 平家物語5巻50章「奈良炎上」その2
平家物語の中では、南都炎上は夜戦の為に灯した明かりが、風で煽られて燃え移ってしまった、とありますが、本当はどうであったのかと史実の中でも判断が多数存在しています。が、この前後に書かれていた、特に藤原氏関係の日記からは、僧兵たちを「悪兵」と表
2022年度共通テスト、本試験の問2。小説問題の解説と解法です。 マークテスト。特に、共通テスト特有の小説の読み方を説明します。
10/3 平家と南都のいざこざ 暴徒の南都 冷静な対処の清盛 平家物語5巻50章「奈良炎上」その1
さて、富士川の戦いが終わった後、異例の除目があり、さらには清盛がいきなり都(福原)を遷都して、旧都(京の都)に戻る算段を付けます。そもそも清盛が福原に遷都したのは、後白河上皇を京から引き離しておきたい、ということと、仏教勢力から距離を取って
9/26 平家をあざ笑う落書の妙 平家物語第5巻48章「富士川」その3
富士川の、無様な敗北シーンは瞬く間に日本(ひのもと)すべてに広がります。更にここで面白いのは、頼朝が追撃をしなかったことです。石橋山での敗北の記憶が鮮明だったのか、それとも北条家をはじめ、坂東の武者達を完璧に統率しているわけではない、という
9/19 怯えが敵の姿を大きくする 平家物語第5巻48章「富士川」その2
さて、世に名高い富士川の戦いの始まりです。けれど、この戦いは戦いというにはあまりにもお粗末な状態で、平家敗走の印象が強くついてしまった戦いでもあります。ある意味、坂東の土地では、坂東同士で争わせた方が良かったのでは……と思わずにはいられませ
9/12 富士川合戦の序章 平家軍に広まるうわさ 平家物語第5巻48章「富士川」その1
さて、歴史に名高い(笑)富士川の戦い。やはりこの平家物語が源氏側の立場で後世書かれたことが解るのは、石橋山の戦いの詳細は、あまり書かれていないことです(笑)石橋山で敗れた後、本来ならばそのまま忘れ去られても良かったであろう存在の頼朝が盛り返
9/5 平家きっての和歌の名手 忠度と宮腹の女房の和歌 平家物語5巻47章「平家東国下向」その1
怪僧文覚の飛んでもエピソードの次は、雅な和歌の世界と恋愛のお話です(笑)ギャグのはちゃめちゃ漫画の後に読む少女漫画のようなアップダウンですが、順番だから仕方がない(笑)ここで出てくるのは重盛の嫡男・維盛。この維盛、授業でも話しましたが光源氏
さて、この文覚のシーン。平家物語の主たる流れからすると、あまり関係がないのですが、どうしてもこの髑髏のくだりだけは読んでいただきたくて、この部分を取り上げました。胡散臭い(げふん)僧侶が何故にこんなにまで名前が残っているかというと、この圧倒
8/22 文覚が伊豆へ下ったとんでもない理由 平家物語第5巻46章「文覚」その3
さて、とんでも僧侶の文覚さんが、どうして伊豆に下ることになったのか。そもそも、この勧進帳を引っ提げて院の御所へ突撃するなんて暴挙、まともな人間だったら出来るはずがなく、その一点だけとってもやはり常人とは全く違う感覚を持っていたことが解ります
8/8 文覚と後白河院の強引すぎる出会い方 平家物語第5巻46章「文覚」その2
「事実は小説よりも奇なり」という英国の詩人バイロンの言葉はあまりにも有名ですが、最近の大河を見ていると本当にそう思ってしまいます。そんなこと、あるか!!と思わずにはいられない記述が古典を読んでいると多く見つけられるのですが、この文覚という人
大河ドラマでは、登場時からとても異色を放っていた僧侶、文覚。以仁王の令旨といい、この文覚の訪れといい、頼朝が蜂起するきっかけが同じ時期に何回も訪れるのは、やはり時代が平家に対抗する存在を欲していたのかもしれないと、しみじみ思ってしまいます。
7/257/27 11時~に移動 朝敵の歴史 平家物語第5巻44章「頼朝謀反」その2
頼朝謀反の知らせを聞いて、激怒した清盛。その後の朝廷の対応が描かれています。平治の乱の時点で、頼朝は元服したばかりの13歳。その後21年間伊豆で幽閉されるわけなのですが、21年前に何があって頼朝が助命されたのか。平治物語によれば、捕らえられ
7/18 頼朝の謀反がどう福原に伝わっていたか 源平合戦の始まりの章 平家物語第5巻44章「頼朝謀反」
思わず……大河の3~5話を見返してしまいたくなるこの展開。中ごろに「さらば、とくして事の出で来よかし」とありますが、この頼朝の挙兵が、福原遷都で求心力を失っていた清盛にとっては痛恨の一手になったのが感じられます。「早く大ごとが起こればいい」
7/11 平家転落のフラグ?? 平安末期のホラー話 平家物語第5巻42章「物怪の巻」
平家物語を読んでいると、脇役の人たちもしっかりと名前と出自が書かれているので、大河ドラマで出演している人たちが自然と頭の中に浮かんできてしまいます。昨今、古文漢文は教育に不必要、という論理がまるで正論のように語られていますが、逆にだったらど
2022年読書感想文の書き方講座のお知らせです。 7月26日(火)、8月5日(金)の10時~12時 小学4年生~6年生が対象となります。
7/4 王朝文化の象徴 和歌と今様 平家物語5巻42章「月見」その3
今回は、タイトルは月見となっておりますが、高校の教科書で取り上げられている名前では、「待宵の小侍従」となっております。内容は、すたれていく都と共に寂れていくかもしれない王朝文化の和歌と今様の、名残を惜しむように、返歌の文化や、和歌が上手い女
7/1 旧都を偲ぶ貴族たちの哀愁 平家物語5巻42章「月見」その2
軍記物の平家物語ですが、今回の部分は旧都を偲ぶ貴族たちの和歌の応酬が描かれています。新しい都の建設しか考えられない清盛と、寂れていく都であっても、住み続ける人々の姿。こういう風に見てみると、桓武帝が遷都をしたときは成功し、清盛が行った時には
6/20 寂れていく旧都・平安京 平家物語5巻42章「月見」その1
さて、高校2 or 3年生で必ず読む、有名な箇所。その冒頭は、花の都であった平安京が寂れていく様子から描かれます。桓武天皇にあやかって、福原に強引な遷都を行った清盛ですが、流石にこれは功を焦った行動でした。あれほど慎重に足固めをし、行動をし
知れば100倍面白い 丹後局のパワハラ名シーン~その言葉の裏に隠された真実~ 鎌倉殿の13人24話「変わらぬ人」解説
2022年度、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第24話「変わらぬ人」の解説です。 丹後局の大姫や北条政子に対する恐怖のパワハラシーンが話題になっておりますが、どうしても語りたくて記事を書いております。 平安末期の宮中事情から考えると、あのシーンはむしろパワハラとは真逆の意味を持ちます。政子の無知の恐ろしさも含めて、解説いたします。
6/13 桓武帝からの平安京の推移 平家物語5巻41章「都遷し」その2
都遷しの後半。神話時代の天皇から、どう都が推移していったのかを並べていきます。あまりに長いので授業ではカットしましたが、江戸時代の識字率の高さや、読み物として平家物語が普及していたことから、学校がないのにこういう本から過去の日本人は歴史を学
6/6 清盛の失策 強引な都遷しの理由 平家物語5巻41章「都遷し」その1
有名な清盛の都遷し。おそらく慎重な清盛が起こした最大の失策、と言っても良いほど強引な遷都でした。後世、なぜここまで強引に遷都を強行したのかが研究されていますが、栄華を極めた清盛が思い通りの世を造り出したかったから、という定番の考え方が最近で
5/30 平家が後の世まで非難される発端 栄達よりも重い罪 平家物語4巻39章「高倉の宮最後」その3
平家物語に限らず、古典を読んでいると陰陽師に代表される占い師が良く出てきます。ただ、これは本当に能力があったかどうかは疑わしく、怨霊の存在をとても重視していた平安の人々にとって、ある意味占いはとても相性の良い未来予測だったのでしょう。ここに
5/23 争いの後始末 平家は以仁王の血筋をどうさばいたのか 平家物語4巻39章「高倉の宮最後」その2
争いには必ず、原因があります。この原因は良く語られますし、「なぜか」という問いかけもよく研究されていますが、その結末。争いの結果、破れた人々がどうなったのかは、あまり話題に上ることはありません。因果、というものはどんな状態でもワンセットです
5/16 歴史を変えた以仁王の最後 平家物語4巻39章「高倉の宮最後」その1
さて、歴史を変えた男。以仁王の最後のシーンです。どんなドラマでも、この以仁王は令旨を出した瞬間の記録は残っているのですが、大概その最後まで書かれている歴史書は少ないです。それもそのはずで、準備不足で挙兵をし、「きっと兵が集まるはず」と思い込
5/2 歴史を変えた令旨の発案者 三位入道頼政の死 平家物語4巻38章「頼政最後」その2
さて、頼政の最後のシーンです。この、主の首を切って持ち去る、もしくは隠すシーンですが、この「戦乱で負けた将軍の首を戦利品として持ち帰る」という習わし。一体、何時から始まった風習なのか、少し気になったので調べてみました。するし、これを世紀に記
4/28 平家の川渡 常識か力業か 戦略の食い違い 平家物語4巻38章「頼政最後」
宇治川の攻防も決着が近づいてまいりました。義経の鵯越の逆落としもそうですが、思ってもみないところから急襲されると軍隊がもろいのは、大群であるがゆえに、臨機応変に動くことができない事と、意思統一が計れないから混乱してしまうのでしょうね。超えら
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源氏の参謀である梶原平三。 その人となりを知る貴重なエピソードでもありますが、坂東武者には共通の感覚として、仲間意識がとても強く、自分の部下にはとても人情篤い人々が多い印象が、平家物語では印象深く描かれています。 これはどうしても平家物語が
さて、今度は搦手ではなく大手(本隊)の先駆けです。 この河原兄弟なのですが、当時の誉れはまず先陣の先駆けでした。 味方に勝利をもたらす士気にかかわる行動ですし、危険が常に伴い、更には実現できるのは一人きり、となれば、十代から二十代の、まだ経
さて、先駆けレースの結果の部分です。 この部分で、熊谷・平山の血気盛んな部分は、坂東武者らしいなぁとしみじみ思うのですが、受ける平家側の不手際がやはり目立ちます。 奇襲を受けて、扉を開けず、更には挑発にも乗らずにかなり冷静に対処しているので
さて、平安貴族の静かな権力争いとは違い、何が何でも物理で名誉を勝ち取る坂東武者は、必要があれば人を偽ることも戦場ではOKとされております。(笑) 誉れを何よりも重んじるのに、戦場では人をだまして、出し抜いても良いのかなぁ? と個人的にいつも
一の谷の鵯越の決戦が近づく中、やはり問題になるのは、「誰が先陣の誉れを得るのか」という事です。 「先んずれば人を制す」の精神がここまで徹底しているのも、面白い。 最終的に勝を手に入れる、という考え方よりも、目の前に転がっている褒美を誰が手に
2024年版大河ドラマ「光る君へ」第9話でも注目される花山天皇と藤原道兼の名シーン。 高校古典の教科書で必ずと言っていいほど取り上げられるこのシーンを、テスト対策も含めて現代語訳・文法・解説をしていきます。
筑摩書房の論理国語から、夏目漱石著「現代日本の開化」を解説します。もともとは講演の内容である今作は、1911年。明治44年に行われた講演の内容ですが、明治の終焉を控えた時期に文明開化に浮かれていた世情の中、外発的に行われた開化は、どんな影響を人々に及ぼしていくのかを漱石が語りました。現代にも通じる鋭い漱石の視点から、外からの圧力で変わることの歪さを解説します。
甚だしいネタバレが散見される平家物語ですが、軍記物の常として、「これは皆、もう知っているから」というのが、常識としての大前提だったのが見て取れるのは、面白いところです。 これは、源氏物語との違いなのですが、源氏にはネタバレが一切書かれていま
さて、鵯越の逆落としが徐々に近づいてまいりましたが、義経の輝かしい武功でありつつも、同時に物語にすら、坂東武者たちとの微妙な距離感が漂っています。 実際にどうであったかは本当に分からないのですが、荒くれものでありながら、反面人情家で人の気持
夜中に奇襲を受け、あっさりと三草山に布陣した平家は痛手を受けて撤退します。その撤退の仕方が、屋島まで一気に退却しているので、平家側の「陸はダメだ!! 海なら追ってこない!!」と焦りを物語っております。 そして、一の谷では軍略の会議が行われま
さて、布陣も固まり、源氏側が軍を進めていきます。 大手側が範頼。 搦手が義経なのですが、この三草山攻略が、後の一の谷へとつながっていきます。 当時の進軍の図になりますが、大手の範頼は海岸線を京から真っすぐ須磨に向かうのに対し、搦手の義経はほ
ざっくりと除目と言う行事について、この部分で語られていますが、この役目を任官するという行為は、朝廷のみに許されている権威の象徴となります。 三種の神器と同じで、天皇のみに許されている行為をすることによって、「正統派の天皇はこちらだ!!」と主
さて、西国での平家の動向ですが、能登殿、平教経の活躍が凄まじく、平家随一の猛将であったことが伺えます。 源氏の猛将を義経とするのならば、平家の猛将はこの教経に成ります。 この時の年齢は、若干23~24歳。 義経とほぼ同い年のこの猛将は、この
さて、義仲が滅びた後、とうとう九郎義経が京に入り、本格的な平家討伐の準備が整います。 その義仲が京で暴れている中、もし平家が攻め込んできたら三つ巴の戦いになり、どうなっていたかは分からないのですが、その時、平家は平家で泣き暮らしていたわけで
さて、平家物語屈指の滅びのシーンと評され、どこか朗らかさが感じられる頼朝軍の行軍の様子とは違い、悲愴さがにじみ出ている義仲軍のその後ですが、市中引き廻しの上さらし首。樋口にいたっては、引き廻しの上、六条河原で処刑。 これは史実に照らし合わせ
さて、義仲の軍が敗走を続ける中。 源平合戦の発端と言うか、厄災を振りまきながら行軍している疫病神というか、中々にすごい逃げっぷりを見せている十郎蔵人=源行家ですが、世の風を読み、権謀術数に長けていても、実際の軍隊指揮に関しては全く才能がなか
平家物語の中でも屈指の名シーンであり、一人の武者の最期をここまで華々しく語っている場面は、他にはありません。 他の名シーンはどちらかというと、世を儚んで嘆きながら、というのが定番なのですが、ここまで嘆きの部分がなく、最初から最後まで戦いの中
さて、長年古典の教科書に採用され続けている有名な名文です。 (+敬語の初歩を学ぶ題材にもなっております(笑)) 長い長い平家物語の中で、巴の登場は義仲が都落ちをする直前の名前での登場と、この最後の軍姿のみです。(もちろん、後世描かれた源平争
義仲の軍は側近以外は、平家に支配に反発した地方の軍勢の寄せ集めです。 それでも戦いとなれば用をなしたので、そのまま京に連れてきたことと、京内での具体的な戦闘もなく勝ってしまったことが、その悪い面を引き出しました。平家に勝ったのだから、平家の
さて、宇治川の戦いで義仲軍を蹴散らし、一気に京の中心部へと軍をすすめた義経。 義仲の基本戦法は、軍を複数に分けて配置し、包囲戦を行うことがこれまでの定番でした。地の利が圧倒的に強い北国での戦闘ならばそれも通用したのでしょうが、地の利が少なく
さて、平家一門の都落ちがいよいよ本格的に始まります。この、一度支えを失ってしまうとパニックになってしまうと総崩れ……という流れが平家には要所要所に見られますが、逆に言うのならばそのパニックから立ち直ることがどれだけ難しいかということなのでし
平忠盛の六男として生まれた忠度。その生まれや出生の詳細ははっきりとは解っていませんが、その中の一つには藤原家の娘を母に持つ説も存在しています。おそらく、忠度の歌の才能は、平家からではなく、公家の血筋からなのではないか、という考えが当時からあ
法皇が居なくなったことが解ったとたん、平家は本格的に動き始めます。この流れを思うと、後白河院の嗅覚の鋭さと運強さは目を見張るものがありますし、ここで法皇と共に都を去っていたのならば、かなりその後の状態は変わるはずですし、逆に言うのならば法皇
さて、有名な平家都落ちのくだりへと入っていきます。東海道では頼朝に負け、北陸道では義仲に負け、更には様々な軍団がどこから攻めてくるのか解らない怖さからパニックになり、上から下から大騒ぎとなります。(まぁ、そこで行家の名前が出てくるあたり、「
比叡山と義仲の間に書簡のやり取りがあったことなど露知らず……南都は無理だけれども、叡山なら何とかなるのではないか、という下心が透けている書簡なのですが、南都と叡山は最澄がいたころからの犬猿の仲なので、南都と関係性が悪くなっても比叡山との仲は
さて、義仲の快進撃の噂が日本全国に響き渡ったあたりで突然比叡山に届いたお手紙。それに対する返答として、山門は上から下から大論争となりました。その中で興味深いのは、仏の教えを体現することが主たる存在意義のお寺が、「平家は落ち目だ。開運している
さて、牒状の本題です。これまでのあらすじを読んているかのごとくに、以仁王の令旨が巻き起こした源氏旗揚げの切っ掛けが書かれおります。これは、平家物語が巻物として出来る間、どれほどの間が空いたかははっきりと分かっていませんが、誰もが巻物を手元に
倶利伽羅峠の戦い後の義仲上洛までの流れです。越前から京都に上るには、どうしても近江(滋賀)を通らなければなりませんが、山を通るにしても、地上を通るにしても、京への北からの出入り口には、がっつり両方とも比叡山延暦寺の僧兵が待ち構えていました。
老兵実盛の最期のエピソードです。髪の毛を洗った後、白髪が現れて、黒く染めていたことが解った実盛ですが、何故錦の直垂(本来ならば大将しか身につけられない、高級な鎧)を付けていたのか。その謎が、今回、授業で読んでいない場所に書かれています。実盛
歴史に名高い倶利伽羅峠の戦い。義仲の戦略的に有名な話であり、平家の2度目の惨敗といってもよいので、やはり栄枯盛衰は記憶に刻まれやすいのがこのエピソードからも解ります。この斎藤別当実盛。最後の所領はどこだったのかなと思って調べてみたら、生まれ
有名な「実盛」へのつなぎともいえる部分。偶然ですが、年始に新歌舞伎の演目で、「実盛」が上演されていたのを今知りました(笑)見に行けばよかった……目立つのは、やしり義仲の軍を率いる大将としての嗅覚です。目の前の勝利に酔わず、自分が配置した軍の
今回は木曽義仲の戦いで有名な、「倶利伽羅峠の戦い」の始まりを読んでいきます。この倶利伽羅峠の戦い。何故名高いかというと、「源平盛衰記」のエピソードが有名だからです。牛の背中に火をつけた藁を載せ、平家の軍になだれ込ませた、という「火牛攻め」平
富士川での敗走は別としても、こうやって戦いのくだりを読んでいると、当時でも戦は「情報戦」と「心」が肝心なのだということが解ります。「情報戦」は、ハッタリだろうが何だろうが、自分たちのいる場所を隠し、相手が「そこに敵がいる」と思わせられるかど
さて、平家物語らしい合戦の始まりです。清盛が亡くなり、その喪が明け、本格的な頼朝討伐が始まります。本格的に坂東に兵を送る前に、まず京の治安を守るための北陸への出兵になりますが、平家はあっという間に負けたのでは? というイメージとは違い、やは
さて、時代は「鎌倉殿」でも描かれた義仲との談議に移ります。清盛の弔いが終わった平家側が、頼朝を成敗しようと軍隊を整えておりました。その折、木曾義仲が北陸道で兵を整えているとの話に、遠い坂東への出兵ではなく、近い北陸からの平定を平家は望み、義
なんとなく、まだ鎌倉時代に心が奪われている状態です(笑)話は戻って……吾妻鏡の続きですが、泰時に対するデマが鎌倉では流れていた、という書かれ方ですが、これが本当なのかどうかはあやしいと言われております。何故かというと、承久の乱の総大将は泰時
吾妻鏡でのそれぞれの絶命の瞬間はあっさりだったり、実朝の暗殺のように、とても創作性が強そうなぐらいにずらずらっと書かれていたり、様々な描き方をされているのですが、鎌倉幕府でおそらく一番の権力者である義時の最期は非常にあっさりです。脚気であっ
いつもとは打って変わって、漢文調の吾妻鏡になります。漢文はとても堅苦しく、難しく感じますが、一定のパターンがあり、それに慣れてしまえば実はとても訳しやすいものになります。でも、官職名は唐式なので、読みなれないですよね。ちなみに義時の官職。右
古今東西、権力者に愛された女性たちの悲劇、喜劇は数多く存在しますが、それと同時に下賜も多く存在しました。後宮で飼い殺しにされるよりは、忠臣の正妻として扱われた方が幸せの場合もありますし、もちろんその逆もあり得るのでしょう。もらえるのならば、
2012年度(ちょうど10年前ですね)に大河ドラマとして放送された「平清盛」の元ネタになった部分です。清盛の父親は、忠盛ではなく、白河院だったと言われている逸話を設定として採用しております。これは面白いのですが、日本の政治は西洋と違って、「