伝統を愛するカトリック信者です。カトリック教会について書きます。
私はカトリック信者です。カトリック信者にふさわしい者ではありませんが、日々思ったことを綴ってみたいと思います。
今一度この画像をご覧下さい。これは手でイエズス様を受けることの危険性を表しています。心がすごく痛みますがこれは現実です。ある海外の神学生が実際ホスチアの粉がどのように手に付着するかを手袋を使って数回実験した画像があります。実験中全ての回で付着が認られました。以下の画像です。言葉よりも雄弁に物語っていますのでこれに関しては多くは書きません。前回、私はコロナ対策以前にまずイエズス様が私たちにとってどういうお方なのかをまず考えるべきだ、と提案しました。東京大司教区では21日から『公開ミサ』が徐々に解禁されるようです。それでも東京大司教区の大司教さまは以前の状態には戻らないだろうとした上で以下の指針が出されました。『6月21日からの教会活動の再開に向けて カトリック東京大司教区』5:しばらくの間、ミサでの奉納も行いませ...人間の考えではなく
先月は聖母月でしたが、今月はイエズス様の聖心の月です。イエズス様の祝日が続きます。6月7日に三位一体の主日がお祝いされ、来る11日は聖体の祝日、14日は御聖体の荘厳祭、19日はイエズス・キリストの至聖なる聖心の大祝日を迎えることになります。さてイエズス様とは、どんなお方なのでしょうか。宗教を問わず多くの人が人としての模範として2000年以上の長きに渡って敬意が払われてきました。最高の人間として敬われてきたことは間違いがありません。犠牲と忍耐の人そして優しさの人であったり、正義の人であったり、徳のある人であったり、罪の無い完璧な人として、または奇跡を行う人として信じられてきました。キリスト教はイエズス様を天主として拝んでいます。それは三位一体の第二位のペルソナが聖母を通して人間になったお姿がイエズス・キリストなの...手による聖体拝領は口での聖体拝領よりも危険です
多くの人がコロナ禍でミサに与れない状態は前回の記事で書きました。しかし海外の記事に興味深いブログやニュースがいくつかありました。『パンデミック中に行われたライブミサは第2バチカン公会議の典礼の弱点を強調した』、というのです。中には古代(伝統)のミサこそコロナ禍の時代に必要なのではないか、というのもありました。もともとの執筆者の多くは伝統ミサ(トリエントミサ)の存在を知らなかったかまたは詳しいことは知らなかったといいます。しかしライブミサやYouTubeなどで伝統ミサの存在を知りそして気が付いたのだそうです。まず伝統の典礼は祭壇と聖櫃が繋がっており司祭が聖櫃に向かって祈りを捧げているということ、逆に新しい典礼は司祭が会衆に向かって祈りを捧げていること。そして新しい典礼は大きな声で会衆が聞こえるように声を発している...コロナ禍における典礼の問題
ブログを更新しない間に実に多くのことがありました。親愛なる読者の皆様もご苦労されていらっしゃるかと思います。今年の四旬節は武漢ウィルスのパンデミックが発表され私たちの生活や社会等はもちろん、教会を取り巻く環境も大きく変化をしました。それは現在までに至っています。逆にこの静けさの中で多くの人が『聖』なるものを見つめ直す良い機会が与えられたのでは無いかと思っています。なぜなら私もその1人で、昔の恩師からの言葉を思い出したのです。「神様は悪からも善を引き出すことがおできになる」。どんな悪い状況でもどんな辛いときでも私たちの主は最後の最後まで私たちを導いておられるということ。どこにでも回心の機会が与えられているという事を忘れてはいけないのだと思います。だから「常に感謝しなさい、祈りなさい」ということを実感するのです。さ...コロナ禍における私たちにの信仰
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