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戦国ジャーナル https://sengoku-journal.com/

戦国時代に活躍した大名・武将や有名な合戦、この時代の文化や年表、コラムなどをリアルな画像といっしょに楽しめるサイトです。大河ドラマなどを観て戦国時代に興味を持たれた方は、ぜひ当サイトで学びを深めて、より作品を楽しんでください!

当サイトでは、各武将の生涯や合戦の様子を最新のAI技術を使用してビジュアル化しています。ただの読み物ではなく、雰囲気を楽しみながら読めるので初心者の方にも楽しんでいただきやすいサイトとなっております。

住所
福岡県
出身
北九州市
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2016/08/19

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  • 島津歳久|秀吉に抗い兄に討たれた島津四兄弟の智将

    島津歳久は島津貴久の三男で、義久・義弘・家久と並ぶ島津四兄弟の一人。「智計並びなし」と評された知将として三州統一と九州制覇を支えたが、豊臣秀吉に最後まで抗い、梅北一揆に連座して兄・義久に自害を命じられ、1592年に竜ヶ水で散った。

  • 酒井忠次|家康を支えた徳川四天王筆頭の宿老

    酒井忠次は徳川家康の人質時代から付き従った最古参の宿老で、後世に徳川四天王の筆頭と称された。東三河の旗頭として吉田城を預かり、長篠の戦いでは鳶ヶ巣山奇襲で武田勝頼を破った。だが信康事件では嫡男を救えず、家は子・家次を経て庄内藩主家へ続いた。

  • 島津義久|九州を席巻し薩摩を守り抜いた島津の太守

    島津義久は薩摩島津氏の第16代当主で、弟・義弘ら四兄弟を束ねて薩摩・大隅・日向の三州を統一し、耳川や沖田畷の勝利で九州を席巻した。1587年に豊臣秀吉へ降伏して家を保ち、関ヶ原後も巧みな交渉で本領を守り抜き、1611年に79歳で没した。

  • 雑賀孫市|信長を退けた雑賀鉄砲衆の頭領

    雑賀孫市は紀州雑賀衆を率いた鉄砲傭兵集団の頭領で、鈴木孫一の名で知られる。石山合戦で本願寺方として織田信長を苦しめ、天正5年の雑賀攻めでも鉄砲と地の利で大軍を退けた、戦国屈指の鉄砲衆の将である。

  • 大友宗麟|九州六カ国を制したキリシタン大名

    大友宗麟は豊後を本拠に北九州六カ国を制した戦国大名。ザビエルを迎え南蛮貿易で栄え、自ら洗礼を受けたキリシタン大名として知られる。耳川の戦いで島津に大敗して衰退し、秀吉に救援を求めた波乱の生涯と信仰の真贋を読み解く。

  • 島津義弘|関ヶ原の敵中突破で名高い「鬼島津」

    島津義弘は薩摩島津氏の猛将で、木崎原や泗川の戦いで寡兵をもって大軍を破り「鬼島津」と恐れられた。1600年の関ヶ原では西軍として奮戦し、敵中正面突破の「島津の退き口」で薩摩へ生還、家を守り抜いて1619年に85歳で没した。

  • 島津家久|釣り野伏せで龍造寺・長宗我部を討った四兄弟末弟

    島津家久は島津四兄弟の末弟で、釣り野伏せを駆使した戦国屈指の戦術家。1584年の沖田畷で龍造寺隆信を、1586年の戸次川で長宗我部信親を討ち取り、九州統一目前まで島津の勢いを押し上げた名将。

  • 斎藤龍興|信長に美濃を奪われ流浪した道三の孫・斎藤家最後の当主

    斎藤龍興は1561年に14歳で美濃国主となった斎藤道三の孫。重臣の相次ぐ離反と信長の猛攻で1567年に稲葉山城を失い、越前に流浪した末に天正元年(1573年)に26歳で没した斎藤家最後の当主。

  • 朝倉義景|越前に咲いた文化大名の栄光と滅亡

    朝倉義景(1533-1573)は越前を治めた朝倉氏最後の当主。信長包囲網に加わりながら上洛の好機を幾度も逃し、一乗谷の高度な文化都市を守り続けた。しかし天正元年(1573年)、信長の侵攻と家臣の裏切りで一乗谷は灰燼に帰した。

  • 天正壬午の乱|1582年 旧武田領をめぐる三国争奪戦

    1582年、本能寺の変で織田の支配が崩れた旧武田領(甲斐・信濃・上野)を、徳川家康・北条氏直・上杉景勝が奪い合った争乱。神流川の敗戦で滝川一益が退場し、寡兵の徳川が黒駒で北条を退け、国衆の離合の末に甲信の大半は徳川の手に落ちた。

  • 四国征伐|1585年 秀吉が長宗我部を降した四国平定戦

    四国征伐は天正十三年、羽柴秀吉が弟秀長に十万余の大軍を委ね、阿波・讃岐・伊予へ三方面から侵攻し、四国をほぼ統一した長宗我部元親を土佐一国へ屈服させた平定戦。一宮城の攻防と降伏の実像、四国統一の射程を史料から読み解く。

  • 小谷城の戦い|1573年浅井氏滅亡と長政の最期

    天正元年(1573年)、織田信長が北近江の小谷城に浅井長政を攻めた包囲戦。朝倉氏の滅亡、羽柴秀吉の京極丸奪取、久政・長政父子の自刃、お市と三姉妹の脱出までを史料に沿って読み解く。

  • 甲州崩れ|武田家が一月で滅んだ天正十年の崩壊

    天正十年、織田信忠と徳川家康の侵攻を受けた武田勝頼が、わずか一月たらずで滅んだ甲州崩れ。木曽・穴山・小山田の離反連鎖、高遠城に散った仁科盛信の死闘、天目山の最期までを、勝頼暗愚説など後世の俗説の射程とともに史料から読み解く。

  • 紀州征伐|1585年秀吉が紀伊を平定した太田城水攻め

    紀州征伐は天正十三年、羽柴秀吉が根来衆・雑賀衆を討った紀伊平定戦。根来寺は焼失し、太田城は紀ノ川を引く長大な堤で水攻めにされ、首謀者の首と引き換えに城兵が助命された。日本三大水攻めの一つの実像を史料から読み解く。

  • 本圀寺の変|1569年三好三人衆の将軍襲撃と六条合戦

    永禄十二年正月、織田信長の不在を突いた三好三人衆が将軍足利義昭の仮御所・本圀寺を襲撃した政変。明智光秀ら近臣の籠城と細川藤孝・三好義継らの援軍が桂川で三好勢を撃退し、信長が二条御所造営へ動く契機となった六条合戦を読み解く。

  • 姉川の戦い|1570年織田徳川と浅井朝倉の激突

    1570年、近江国姉川で織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉景健を破った合戦。妹婿・長政の裏切り、磯野員昌の十一段崩し、徳川勢の側面攻撃まで、辛勝の実相と通説の射程を丁寧に解説。

  • 小山田信茂|勝頼を見捨て武田を滅ぼした郡内の譜代家老

    小山田信茂は武田の譜代家老にして郡内領主。岩殿城への退避を勝頼に勧めながら笹子峠を封じて離反し、武田滅亡を決定づけた。だが背信を許されず、信茂は一族もろとも甲斐善光寺で処刑される。裏切り者か苦渋の決断か、その実像を検証する。

  • 井伊直政|井伊の赤鬼と呼ばれた徳川四天王

    井伊直政は今川に追いつめられた井伊家の遺児から徳川家康の寵臣へ駆け上がった猛将。武田の赤備えを継いで「井伊の赤鬼」と恐れられ、小牧・長久手から関ヶ原まで先鋒を担い、近江佐和山十八万石で彦根藩の礎を築いた徳川四天王の生涯を追う。

  • 本多忠勝|無傷を謳われた徳川四天王の猛将

    本多忠勝は徳川家康に過ぎたるものと称された徳川四天王の猛将。名槍・蜻蛉切を手に五十七度の合戦を無傷で生き抜いたと伝わり、小牧・長久手では寡兵で秀吉の大軍に立ちはだかった。鹿角の兜と大数珠を背負った戦国屈指の武人の生涯を追う。

  • 利休と秀吉はなぜ決裂したか|茶の湯の真相

    千利休の侘茶と豊臣秀吉の黄金茶室は、単なる美意識の違いではありません。北野大茶会、聚楽第、利休切腹までの流れを追い、茶の湯に潜んだ権力闘争が決裂を生んだ真相を、事件順に詳しく解説し明快に結論づけます。

  • 千利休と侘茶|桃山の価値観を変えた美意識

    千利休と侘茶は、豪華さを競った安土桃山で静けさと不足の美を極めた文化です。二畳の茶室や黒楽茶碗は、豊臣秀吉の時代に価値観をどう変えたのか。現代の茶道、和のデザイン、もてなしの思想へ続く魅力を読み解きます。

  • 絵画・障壁画|桃山権力が生んだ美

    金碧障壁画と水墨の屏風は、戦国から安土桃山へ向かう権力と美意識を映した絵画です。狩野永徳や長谷川等伯は何を描き、城や茶の湯に何をもたらしたのか。鑑賞のポイントから現代美術や空間演出への影響まで解説します。

  • 南蛮文化|戦国日本を変えた交流と衝突

    南蛮文化は、1543年以降に来日したポルトガル人や宣教師が日本にもたらした大変化です。鉄砲、キリスト教、パンやガラスは社会をどう変えたのか。有馬晴信らの時代背景と、現代の食や工芸に残る影響まで解説します。

  • 食・酒|戦国武将を支えた兵站と宴

    湯漬けや酒宴、南蛮菓子は、戦国武将の兵站と権力演出を支えた食文化です。織田信長や豊臣秀吉の逸話から、食が外交や統治をどう変えたかを解説。現代の和食、日本酒、郷土料理へ今も豊かに息づく楽しみ方も紹介します。

  • 茶の湯|戦国武将が愛した政治と美

    茶の湯は、戦国武将が美意識と権力を示した総合文化です。織田信長や豊臣秀吉、千利休が茶会と名物道具を通じて政治を動かしました。なぜ重要だったのか、今に続く茶道の作法と鑑賞の魅力まで深く丁寧に読み解きます。

  • 芸能・文学|乱世が磨いた表現文化

    能・狂言・連歌や軍記物は、乱世を生きた武将と庶民の心を映した表現文化です。織田信長が舞った敦盛にも時代精神が宿ります。何が人々を魅了したのか、鑑賞の入口から現代芸能や歴史文学への影響まで深く解説します。

  • 甲冑・武具|戦国武将を映す機能美

    当世具足や変り兜は、戦国の実戦で磨かれた防御と威信の象徴です。伊達政宗らの個性は意匠に表れ、武具は美術へ発展しました。なぜ人を惹きつけるのか、見どころから現代の甲冑展示や武者文化まで詳しく解説します。

  • 佐々成政|さらさら越えに賭けた不屈の猛将

    佐々成政は織田信長の黒母衣衆筆頭から越中一国の主となった猛将。本能寺の変後は柴田勝家に与し、さらさら越えで家康に再挙を促した。秀吉降伏後は肥後を得るも国人一揆で改易、尼崎で切腹。猪武者か悲運の忠臣かを史料で追う。

  • 真田昌幸|徳川を二度退けた表裏比興の謀将

    真田昌幸は武田信玄に「我が眼」と称されたと伝わる知将。武田滅亡後は北条・徳川・上杉を渡り歩き、二度の上田合戦で徳川の大軍を退けた。秀吉に「表裏比興の者」と評された乱世の謀将の生涯と、犬伏の別れの決断の意味を追う。

  • 服部半蔵|徳川を支えた鬼の半蔵と伊賀者の真実

    服部半蔵正成は徳川家康に仕えた「鬼の半蔵」である。忍者の頭領のイメージで知られるが、実像は槍を振るう三河武士で、本能寺の変ののち伊賀越えで家康を救い、伊賀者を率いた指揮官だった。半蔵門に名を残した生涯の虚実を史料から照らす。

  • 石川数正|徳川を出奔し秀吉に走った謎の重臣

    石川数正は徳川家康を幼少から支えた三河譜代の重臣である。酒井忠次と並ぶ西三河の旗頭・岡崎城代として外交を一手に担いながら、天正十三年に突如徳川を出奔し豊臣秀吉のもとへ走った。出奔の謎と松本城主としての晩年を確度づきで読み解く。

  • 平蜘蛛|松永久秀が抱いた名物茶釜と信貴山の伝説

    平蜘蛛は戦国の名物茶釜として松永久秀が秘蔵した平釜です。同時代茶会記『松屋会記』と近接名物記『山上宗二記』『清玩名物記』、後世軍記『川角太閤記』の記述差から信貴山落城の三つの伝承を読み解きます。

  • 乙御前の釜|お多福に似た名物茶釜と信長・秀吉の伝来

    乙御前の釜は、お多福を思わせるふくよかな姥口の名物茶釜。『信長公記』が記す、羽柴秀吉への褒美に釜を取り出した記事を軸に、柴田勝家伝来説や現存品の同定問題を、同時代史料と後世茶書に分けて読み解く。

  • 御館の乱|1578年 上杉家を二分した家督争い

    1578年、上杉謙信の急逝が引き金となった家督争い。景勝と景虎が春日山城と御館に分かれて越後を二分し、武田勝頼の離反と北条援軍の遅れが景虎を孤立させた。鮫ヶ尾城に散るまでを史料で読み解く。

  • 上杉景虎|御館の乱に散った謙信の養子

    上杉景虎は北条氏康の子に生まれ、越相同盟により上杉謙信の養子となって自らの初名「景虎」を授かった貴公子です。謙信急逝後の御館の乱で景勝と家督を争い、武田勝頼の離反と北条援軍の遅れに孤立し、鮫ヶ尾城に自刃した悲劇の生涯をたどります。

  • 織田秀信|三法師と呼ばれた信長の嫡孫

    織田秀信(三法師)は織田信忠の嫡男・信長の嫡孫として生まれ、三歳で清洲会議に担がれた。岐阜十三万石の城主となるも関ヶ原で西軍に与して敗れ、高野山へ追われた悲運の貴公子の生涯を、嫡流没落の謎とともに確度づきで読み解きます。

  • 森蘭丸|信長が最も信頼した小姓

    森蘭丸(成利)は織田信長の小姓筆頭として奏者・取次を担い、本能寺の変で主君を守り十八歳で討死した近習です。美少年・寵童という後世の像の虚実と、兄の旧領を継いだ実務家の素顔を確度づきで読み解きます。

  • 穴山梅雪|武田を裏切った一門衆と伊賀越えの最期

    穴山梅雪(信君)は武田信玄の甥にして娘婿、武田二十四将に数えられた御一門衆筆頭。甲州征伐で勝頼を見限り徳川家康に通じ武田滅亡を決定づけた。本能寺の変直後、伊賀越えの途上で土民に襲われ落命。裏切り者か現実主義者かを確度づきで読み解く。

  • 足利義昭|室町幕府最後の将軍と信長包囲網

    足利義昭は室町幕府第十五代将軍である。織田信長に擁立されて上洛したのち対立し、武田・朝倉・浅井・本願寺・毛利を結ぶ信長包囲網を主導した。槙島城で京を追われ幕府は事実上滅亡。傀儡か策士かの実像を確度づきで読み解く。

  • 森長可|鬼武蔵と恐れられた信長の猛将

    森長可は「鬼武蔵」と恐れられた織田家の猛将。十三歳で父・可成の遺領を継ぎ、甲州征伐の戦功で信濃海津城主となるも、小牧・長久手の中入りで舅・池田恒興とともに討死。猛将か蛮勇かを確度づきで読み解きます。

  • 堀秀政|名人と謳われた信長の懐刀

    堀秀政は「名人久太郎」と称された織田信長・豊臣秀吉の側近である。取次や奉行を巧みにこなし、山崎・賤ヶ岳・小牧長久手で武功を重ねて越前北庄十八万石を領した。小田原の陣中に三十八歳で早世した万能の将の生涯を、確度づきで読み解く。

  • 織田信雄|乱世を生き抜いた信長の次男

    織田信雄は信長の次男で、北畠家を継ぎ伊勢を領した武将です。本能寺の変の後は秀吉と結んで弟・信孝を退け、小牧・長久手では家康と組んで秀吉に抗戦。改易と流転を経て大名に返り咲き、織田の血を江戸に残した生涯を確度づきで読み解きます。

  • 池田恒興|小牧・長久手に散った信長の乳兄弟

    池田恒興は織田信長の乳兄弟として側近に重んじられ、清洲会議では宿老の一人に列した武将です。本能寺の変の後は秀吉に従い摂津・美濃を領しましたが、小牧・長久手の中入りに敗れ長男と討死。縁と実力の両面から確度づきで読み解きます。

  • 織田信孝|賤ヶ岳に散った信長の三男

    織田信孝は信長の三男で、神戸氏を継ぎ四国攻めの総大将に抜擢された武将です。本能寺の変後は山崎で光秀を討ち、清洲会議で柴田勝家と結んで秀吉に対抗。賤ヶ岳の敗北を経て野間で自害した生涯を確度づきで読み解きます。

  • 斎藤利三|明智光秀を支えた筆頭家老と春日局の父

    斎藤利三は美濃斎藤氏に生まれ、稲葉一鉄を経て明智光秀の筆頭家老となった武将です。本能寺の変で先鋒を務め山崎に敗れて斬首されますが、娘の福は春日局として大奥を束ねました。謀反の主導か実行役かを確度づきで読み解きます。

  • 明智秀満|湖水渡りと坂本城に殉じた左馬助

    明智秀満は光秀の重臣・娘婿。本能寺の変に従い、山崎敗戦後の左馬助の湖水渡り、坂本城で名物茶器を堀秀政に託して一族と自刃した最期まで、三宅弥平次の出自や明智光春との混同を史料と軍記を分けて解説します。

  • 備中高松城の戦い|秀吉の水攻めと清水宗治の最期

    天正十年、羽柴秀吉が備中高松城を沈めた水攻め。足守川を堰く堤で城を孤島と化した最中に本能寺の変が起こり、城将・清水宗治は城兵の助命と引き換えに舟上で辞世を残し自刃した。秀吉の水攻めと和睦の実像を史料から読み解く。

  • 中国大返し|秀吉が天下を掴んだ十日間の強行軍

    天正十年、本能寺の変の報に接した羽柴秀吉が、備中高松城の陣から山崎まで約二百三十キロを十日たらずで駆け抜けた強行軍。和睦・撤兵・兵站・調略が噛み合った機動の実像と、事前察知説など後世の俗説の射程を史料から読み解く。

  • 清水宗治|水攻めに散った備中高松城主の最期と生涯

    備中高松城主として羽柴秀吉の水攻めに耐え、本能寺の変の直後、城兵の助命と引き換えに舟上で辞世を残し腹を切った毛利方の城将・清水宗治。忠臣の鑑か、本能寺さえなければ死なずに済んだ悲劇の城主か。その生涯と最期を史実と伝承から読み解く。

  • 小寺政職|黒田官兵衛を世に出した御着城主の興亡

    小寺政職は播磨御着城の城主で、黒田官兵衛を家臣に抱えた武将です。織田と毛利のはざまで毛利方に転じ、本拠を失って流浪しました。黒田家譜が伝える暗君像の偏りを踏まえ、史料から政職の実像を読み解きます。

  • 細川忠興|茶を愛し刃に生きた文武両道の智将

    明智光秀の娘ガラシャを妻とし悲劇の最期を見送り、千利休の高弟「利休七哲」に数えられた茶人「三斎」でもあった細川忠興。関ヶ原で東軍として戦い豊前小倉を得た武と茶の生涯を、苛烈な武人か風雅な茶人かという問いとともに読み解く。

  • 本願寺教如|東西分立を生んだ主戦派の法主

    本願寺教如は顕如の長男で、石山合戦で徹底抗戦を主張した主戦派の法主です。父との対立や秀吉の隠退処分を経て、家康の寺地寄進により東本願寺を創立し、東西分立に至る生涯を確度づきで読み解きます。

  • 吉川経家|鳥取城に殉じた悲運の城将の生涯

    毛利方の城将として因幡鳥取城に入り、羽柴秀吉の「鳥取の渇え殺し」に四ヶ月耐えた末、城兵と領民の助命と引き換えに自刃した石見吉川氏の武将・吉川経家。忠義に殉じた義将か、捨て駒にされた悲劇の城将か。生涯と最期を史実と伝承を腑分けしてたどる。

  • 鳥取城の戦い|渇え殺しに散った吉川経家の覚悟

    天正九年、羽柴秀吉が因幡・鳥取城に仕掛けた兵糧攻め「鳥取の渇え殺し」。米の買い占めと付城の包囲で城内を飢餓地獄へ追い込み、城将・吉川経家は城兵の助命と引き換えに自刃した。三木の干殺しを徹底化した兵糧攻めの実像を、史料に沿って読み解く。

  • 小早川秀秋|関ヶ原で寝返った金吾中納言の生涯

    豊臣秀吉の猶子として育ち、小早川隆景の養子となった金吾中納言・小早川秀秋。関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍勝利を決定づけた寝返りの真相と、わずか二十一年で絶えたその生涯を、近年の早期寝返り説まで含めてたどる。

  • 細川藤孝|古今伝授を背負い乱世を生きた文人大名

    室町幕府の幕臣から織田信長・豊臣秀吉へと主を移し、関ヶ原では田辺城に籠城した細川藤孝(幽斎)。和歌・連歌・茶の湯から有職故実までを修め、古今伝授を受け継いだ文人大名の生涯を、変節漢か乱世の賢人かという問いとともに読み解く。

  • 上月城の戦い|見殺しにされた尼子再興軍の最期

    天正五年、羽柴秀吉が中国攻めの緒戦で奪った播磨・上月城。秀吉はここに尼子勝久と山中鹿介の尼子再興軍を入れたが、毛利の大軍に囲まれ、信長は救援を断念する。見殺しにされた尼子主従の最期と再興の夢の終わりを、史料に沿って読み解く。

  • 有岡城の戦い|信長に叛いた荒木村重と妻子の悲劇

    天正六年、織田信長に叛いた荒木村重と摂津・有岡城の戦い。説得の決裂、黒田官兵衛の幽閉伝承、一年に及ぶ包囲と兵糧攻め、村重出奔ののちに残された妻子一族の処刑までを、信長公記など史料に沿って読み解く。

  • 宇喜多秀家|関ヶ原に散り八丈島に生きた最年少の五大老

    宇喜多秀家は備前の梟雄・直家の子に生まれ、豊臣秀吉の猶子として最年少で五大老に列した大名。岡山城主・備前美作の大大名から関ヶ原で西軍を率いて敗れ、八丈島へ流されて五十年、八十四歳まで生きた生涯をたどる。

  • 高山右近|信仰のため領国を捨てたキリシタン大名

    高山右近は摂津高槻・播磨明石を領したキリシタン大名で利休七哲の茶人。1587年の伴天連追放令でも棄教を拒んで領地も身分も捨て、前田家の庇護を経て慶長の禁教令でマニラへ追放され客死。2017年に福者へ列せられた生涯をたどる。

  • 中川清秀|賤ヶ岳に散り秀吉の天下を呼んだ摂津の猛将

    中川清秀は摂津茨木城主から羽柴秀吉の与力大名となり、賤ヶ岳の戦いで大岩山砦を死守して討死した武将です。荒木村重の有岡城離反、織田信長への帰順、秀吉との義兄弟の契り、大岩山の最期までを史料の確度を分けて解説します。

  • 片桐且元|豊臣と徳川に引き裂かれた秀頼の家老

    賤ヶ岳七本槍の一人として豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は遺児・秀頼の傅役・家老となった片桐且元。方広寺鐘銘事件で徳川との板挟みに陥って大坂城を退去し、豊臣滅亡の直後に世を去った悲運の生涯をたどる。

  • 安国寺恵瓊|外交僧から大名へ栄達し関ヶ原に賭けた男

    安国寺恵瓊は安芸武田氏の遺児から毛利の外交僧となり、信長の没落を見通す書状を残し、備中高松城の講和をまとめ、僧の身で伊予に大名領を得た人物です。関ヶ原で西軍に賭けて散るまでの栄達と転落を読み解きます。

  • 三木合戦|羽柴秀吉の干殺しと別所長治の最期

    天正六年からの約一年十ヶ月、羽柴秀吉が播磨・三木城の別所長治を付城と土塁で囲んだ兵糧攻め「三木の干殺し」。加古川評定の俗説から、城兵の助命と引き換えの自刃まで、史料に沿って読み解く。

  • 宮部継潤|僧形のまま大名となった秀吉古参

    比叡山の山法師から羽柴秀吉の調略で織田方へ転じ、因幡鳥取5万石の主となった宮部継潤。豊後検地奉行も担い中務卿法印を称した僧形の実務派の生涯を、史料の層を分けて読み解く。

  • 黒田長政|武勇と調略で関ヶ原を制した福岡藩祖

    黒田長政は、軍師・黒田官兵衛の嫡男として人質の少年期を生き延び、関ヶ原の戦いでは吉川広家への調略と本戦の武功で東軍の勝利を支え、戦後に筑前五十二万三千石を得て福岡藩祖となった武将です。武勇と智謀の二面を史料の層を分けて読み解きます。

  • 別所長治|三木の干殺しに散った播磨の若名門

    別所長治は織田信長から離反して毛利・本願寺・荒木と連動し、羽柴秀吉の兵糧攻め「三木の干殺し」を約一年十か月耐え抜いた播磨の若名門。城兵助命と引き換えに二十三歳で自刃し、後世に悲劇の城主として顕彰された播磨の若き当主である。

  • 山中鹿介|尼子再興に七難八苦を祈った悲劇の名将

    山中鹿介(諱は幸盛)は出雲尼子家臣として永禄9年(1566)月山富田城落城後、京都東福寺から尼子勝久を擁立し再興運動を主導。天正6年(1578)上月城落城後、備中阿井の渡しで毛利方により殺害された悲劇の名将である。

  • 九鬼嘉隆|鉄甲船で海を制した志摩の海賊大名

    九鬼嘉隆は織田信長・豊臣秀吉に仕え、1578年の第二次木津川口の戦いで大船と大鉄砲を駆使し毛利水軍を破った志摩の水軍大将。鳥羽城を築き、関ヶ原では西軍に与し、子・守隆と東西に分かれた末に答志島で自害した。

  • 尼子勝久|上月城に散った尼子再興の旗印

    尼子勝久は新宮党粛清の難を逃れ京都東福寺で養われた尼子一門の若武者。1568年頃に山中鹿介幸盛らに迎えられて還俗し尼子家再興運動の旗印となったが、1578年に播磨上月城を毛利大軍に囲まれ、信長の救援放棄なく26歳で自刃した。

  • 大谷吉継|関ヶ原に義を貫いた豊臣の智将

    大谷吉継は豊臣政権の奉行衆・軍監として実務を支え、越前敦賀を任された武将です。関ヶ原では石田三成と西軍に立ち自刃しました。病・白頭巾の像、五奉行誤認、実名「吉隆」を史料の確度で読み分けます。

  • 筒井順慶|大和を率いた興福寺衆徒と「洞ヶ峠」の真相

    筒井順慶は興福寺衆徒の家格を持つ大和国人として松永久秀と大和支配を争い、織田信長の下で大和国主となった。日和見の代名詞「洞ヶ峠」の俗説と同時代史料の実像を、史料の濃淡で書き分けて解説します。

  • 佐久間信盛|織田家の古参重臣と十九ヶ条の折檻状

    佐久間信盛は織田信長の宿老として石山本願寺攻めの大坂方面を任された古参重臣だったが、天正8年(1580年)の十九ヶ条の折檻状で高野山へ追放された。「退き佐久間」の異名や折檻状の内容を、同時代史料と後世の評価に分けて解説します。

  • 信貴山城の戦い|松永久秀の爆死と平蜘蛛茶釜の伝説

    1577年十月、松永久秀が信長へ二度目の謀反を起こし大和信貴山城に籠城した戦い。織田信忠軍に包囲され十月十日落城、平蜘蛛茶釜をめぐる伝説が語られる合戦を、後世軍記の爆死伝説と『信長公記』『多聞院日記』の一次史料を照合しながら読み解く。

  • 丹羽長秀|信長の腹心「米五郎左」と越前北庄123万石

    丹羽長秀は織田信長の譜代家臣として安土城築城を統括し、賤ヶ岳合戦後に越前北庄を中心に若狭・越前・加賀二郡を領した。後世「米五郎左」と称された実務派の生涯を、同時代史料に即して解説します。

  • 手取川の戦い|1577年 謙信が織田軍を破った北陸決戦

    1577年九月、上杉謙信は加賀手取川で柴田勝家率いる織田北国軍を破った。七尾城落城から謙信書状写・『信長公記』巻十までの史料を整理し、上杉が語り織田が沈黙した合戦の実像を読み解く。

  • 豊臣秀次|失脚した関白と「殺生関白」像の形成

    豊臣秀次は、秀吉の甥として関白を継承するも、文禄四年(1595年)に高野山で切腹に追い込まれた武家関白です。八幡山城・聚楽第での文芸庇護と、「殺生関白」像を相対化する現代研究の再評価をわかりやすく解説します。

  • 蜂須賀小六|野盗伝説と川並衆を率いた秀吉の股肱

    蜂須賀小六(正勝)は織田信長・豊臣秀吉に仕え、四国征伐の取次役・修理大夫として活躍した古参家臣。江戸期太閤記が描いた野盗・川並衆像と、同時代史料に見える実務家像を併置して解説します。

  • 浅井長政|信義と悲劇の同盟者

    浅井長政は、織田信長の妹お市を娶り義兄弟となりながら越前朝倉との協調を選び、元亀争乱で信長と対峙した近江北部の戦国大名です。野良田合戦・姉川合戦・小谷城落城を経た若き当主の決断と三姉妹に連なる後世評価を解説します。

  • 今川義元|海道一の弓取りと桶狭間のスタダスト

    今川義元は太原雪斎に学び花倉の乱を制して駿河・遠江・三河を統べ、甲相駿三国同盟と仮名目録追加で東海有数の戦国大名となるも、永禄三年(一五六〇年)桶狭間で織田信長に討たれた、後世に「海道一の弓取り」とも称される今川氏当主です。

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