喉から手が出るほど欲しい男が、壁を隔てた向こうの部屋にいる。その事実を改めて認識した途端、レイン・エイムズは身震いするほど怖気づいた。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。広々としたパウダールームの壁に凭れかかったレインは、さして深く考えもせず、安易に誘いに乗ってしまったことを早くも後悔し始めていた。レインが手に入れたくてたまらない男とは、砂の神杖の神覚者であり、魔法魔力管理局局長のオータ...
「パルチザン!」茂みの向こうに蠢くような異様な気配を察知するやいなや、レインは杖をかざしながら呪文を唱えて固有魔法を繰り出した。一斉に放たれた無数の長剣が樹枝の間を縫うように命中し、地面を大きく揺らして激しくのたうち回っている様子が窺える。攻撃の手を緩めずに標的目がけて立て続けにパルチザンを浴びせると、木々をなぎ倒す凄まじい音とともに、茂みの中から全長15メートルほどの巨大な蛇が姿を現した。じっと睨...
全身がぽかぽかと温まるなり、オーターと交互に身体と髪を洗い、レインは再び湯を張った真っ白な琺瑯のバスタブに浸かった。男ふたりで入っても、ゆったりと脚を伸ばせる広さだ。アメニティとして用意されていたラベンダーの香りがするエプソムソルトを加えた湯は、ちょうどいい温度を保っている。「オーターさんってタフですよね。気もよく回るし」「そうか?」グラスに注いだミネラルウォーターで喉を潤してから肩越しに言うと、...
三月中旬の金曜日。その日、レイン・エイムズはオーター・マドルとともに、魔法界の東部エリアに出張していた。午前中は現地視察のため、ほうきに乗って街を一巡して市民の暮らしぶりを見て回り、午後は魔法局東支部のそばにある老舗ホテルで開催された、魔法魔力及び魔法道具に関するシンポジウムに出席した。魔法界の首都には統治機関である魔法局本部が設置されているが、東西南北の四つのエリアの主要都市にそれぞれ支部が置か...
う…ん……、という小さな声とともに傍らで身じろぐ気配がして、唐突に目が覚めた。無意識に瞼に触れながら、顔を横に向ける。ぼやけた視界に飛び込んできたのは、寝返りを打ってこちらを向いた恋人の姿だった。目の焦点が合わない中、徐々に意識がはっきりしてくる。ベッドからわずかに上体を起こしたオーター・マドルは手を伸ばし、サイドテーブルに置いていた丸眼鏡をかけた。恋人であるレイン・エイムズが羽根枕に片頬を埋めたま...
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喉から手が出るほど欲しい男が、壁を隔てた向こうの部屋にいる。その事実を改めて認識した途端、レイン・エイムズは身震いするほど怖気づいた。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。広々としたパウダールームの壁に凭れかかったレインは、さして深く考えもせず、安易に誘いに乗ってしまったことを早くも後悔し始めていた。レインが手に入れたくてたまらない男とは、砂の神杖の神覚者であり、魔法魔力管理局局長のオータ...
自席について眺めていた手許の書類から顔を上げるなり、オーター・マドルは短く息を吐いた。気休めに過ぎないが、おもむろに丸眼鏡を外して鼻の付け根を指先で揉む。強度近視により網膜や視神経に持続的に負荷がかかるため、疲れ目は日常茶飯事だった。特に、目の酷使で疲労が蓄積される夕刻は症状が顕著に表れるようで、ものが見えにくくなるのだ。椅子の背凭れに寄りかかって瞼を閉じようとしたら、ほのかに甘い香りがオーターの...
一刻も早く帰途につきたいがために、半ば捨て鉢になっていたのかもしれない。言葉を発した直後、いくらなんでも厚かましすぎたかと臍を噛んだレインに対し、オーターの決断は早かった。少しも酔った様子がない男は取り出したほうきに跨るなり、「行くぞ」と声をかけてくる。あまりのスピーディーさに瞬間、呆けてしまい、すぐに反応できなかった。「何をしている。門限に間に合わなくてもいいのか」「あ……、いや、それは困ります」...
通りすがりの店員に酒をオーダーし、傍らのコートラックに長外套をかけているオーターにレナトスが声をかける。「どうした? 予定変更か?」「明日、急遽会議をすることになったから、早めに切り上げて帰ってきた」オーターは抑揚のない声で鷹揚に返しながら、ボックス席の前で立ち止まった。非日常感をいざなう落ち着いた淡い色味の照明の下で、理知的な相貌にやや疲労の色が滲んでいる。何かトラブルでもあったのだろうか。「そ...
「試作品を関係各所で使用してもらったところ、精度をもっと上げた方がいいとの意見が多数出たので、今、製造工場で試行錯誤を繰り返しているところです。特にこのエッジ部分ですが……」「なるほど」応接スペースのテーブルに広げた資料の中で、設計図の一箇所をレインが指差すと、目の前のオーターが鷹揚に頷く。イノセント・ゼロ対策として、新規開発中である戦略兵器の魔法道具に関しての現況報告だった。顔を上げたオーターは、...
レインは消えることのない過去の重みを胸に刻んで、魔法界の基盤の仕組みを変えるべく神覚者になった。それゆえ、魔法が使えずとも神覚者になる、この世界の認識を変えると、前代未聞の挑戦をしようとしているマッシュにどうしても自分を重ねてしまう。生まれつき魔力を持っていない魔法不全者は神から祝福されない者として世間から差別され、人権がないも同然だ。異分子扱いで殺処分が義務づけられ、誰しもが絶望するところだが、...
正直なところ、聞き入れられる可能性は限りなく低いと、レインは踏んでいた。事の発端は、本屋で購入したウサギの写真集だった。写真とともにウサギの主要な生息地がいくつか紹介されていたのだが、レインの目はそのうちのひとつに釘付けになった。なぜならば、帰路の途中でその上空を通過するからだ。誘惑に駆られてしまい、是非とも立ち寄ってみたいと、瞬時に強く思った。しかし、冷静になってみて、こんな話をオーターにできる...
よく晴れた空の下、レインはふかふかな芝生の上に四肢を伸ばして寝っ転がっていた。うららかな春の日差しをいっぱいに浴びた大きな樹木の木陰に心地よい西風がそよそよと吹き、ツートンカラーの柔らかい前髪がふわりとなびく。うーんとひとつ大きく伸びをしてから起き上がると、驚いたことにレインの周りをウサギたちが取り囲んでいた。立ち耳、垂れ耳、長毛種、短毛種といった、さまざまな種類のウサギが一羽、二羽、三羽、四羽……...
オーターとともに向かったのは広大な湖からさほど離れていない、夕闇に染まった田園風景が広がる小さな村だった。敢えて探す必要もなく、外観から一見してわかった宿屋を訪ねてみると、入り口付近のカウンター内にいた年配の女主人に感じよく出迎えられる。ふたりを認識するなり驚愕の表情を浮かべたが、すぐさま恭しくお辞儀をされ、シーサーペントを退治したことに対して謝辞を述べられた。村内放送でも流れているのか、それとも...
「パルチザン!」茂みの向こうに蠢くような異様な気配を察知するやいなや、レインは杖をかざしながら呪文を唱えて固有魔法を繰り出した。一斉に放たれた無数の長剣が樹枝の間を縫うように命中し、地面を大きく揺らして激しくのたうち回っている様子が窺える。攻撃の手を緩めずに標的目がけて立て続けにパルチザンを浴びせると、木々をなぎ倒す凄まじい音とともに、茂みの中から全長15メートルほどの巨大な蛇が姿を現した。じっと睨...
全身がぽかぽかと温まるなり、オーターと交互に身体と髪を洗い、レインは再び湯を張った真っ白な琺瑯のバスタブに浸かった。男ふたりで入っても、ゆったりと脚を伸ばせる広さだ。アメニティとして用意されていたラベンダーの香りがするエプソムソルトを加えた湯は、ちょうどいい温度を保っている。「オーターさんってタフですよね。気もよく回るし」「そうか?」グラスに注いだミネラルウォーターで喉を潤してから肩越しに言うと、...
三月中旬の金曜日。その日、レイン・エイムズはオーター・マドルとともに、魔法界の東部エリアに出張していた。午前中は現地視察のため、ほうきに乗って街を一巡して市民の暮らしぶりを見て回り、午後は魔法局東支部のそばにある老舗ホテルで開催された、魔法魔力及び魔法道具に関するシンポジウムに出席した。魔法界の首都には統治機関である魔法局本部が設置されているが、東西南北の四つのエリアの主要都市にそれぞれ支部が置か...
う…ん……、という小さな声とともに傍らで身じろぐ気配がして、唐突に目が覚めた。無意識に瞼に触れながら、顔を横に向ける。ぼやけた視界に飛び込んできたのは、寝返りを打ってこちらを向いた恋人の姿だった。目の焦点が合わない中、徐々に意識がはっきりしてくる。ベッドからわずかに上体を起こしたオーター・マドルは手を伸ばし、サイドテーブルに置いていた丸眼鏡をかけた。恋人であるレイン・エイムズが羽根枕に片頬を埋めたま...
どうしたことか、集中力が持続しない。執務室で部下からの報告書に目を通し終わったレインは、顔を上げて深々と溜息をついた。神覚者に選ばれて二ヶ月が経ち、早くも疲労が蓄積されているのだろうか。壁掛け時計に目をやると、時刻は午後五時に差しかかろうとしていた。正規の勤務時間はあとわずかで終わるが、レインは毎日一時間ほど残業するようにしている。そうしなければ、慢性的に仕事が溜まってしまうからだ。イーストン魔法...
「誰だ、貴様。何を勝手な真似をしておる」足許がふらついてバランスを崩し、すんでのところでオーターに抱き留められてほっとしたのも束の間、憤慨したダルトンが詰め寄ってきた。思いきり寄りかかっている現状に決まりが悪くなったレインは、パールピンクのイブニングドレスの長い裾が足に纏わりつくのに四苦八苦しつつ、どうにか体勢を整えてオーターから離れる。「まさか横から掻っ攫うつもりじゃあるまいな」「掻っ攫うとは笑...
自分は今、何をやっているのだろうか。頭では理解していても、感情がまったく追いついてこなかった。こんなことをするために神覚者になったつもりはないと、気づかれないように何度も溜息をつく。「サイズはちょうどいいですね」「…………」男のスタイリストによって剥き出しの上半身に装着され、レインは壁に立てかけた姿見鏡に映る自分を見た。だが、とても正視できなくて、すぐさま顔を背ける。諦めの境地でいたとはいえ、冷静に客...
「ここまでで何か質問は?」「ありません」すっかり日課になっている執務室での引継ぎ中、いつものように素っ気なく尋ねられ、レインは書類に目を落としたまま即答した。ところが、数秒経っても、応接スペースの正面に座っている指導役は言葉を発しようとしない。ふと視線を感じて顔を上げると、相変わらず無表情のオーターが丸眼鏡越しにこちらを見据えていた。 「その髪の色は染めているのか?」物珍しさからか、これまで数え切...
長い冬の寒さがいまだに残る一方で、草木が芽吹き始め、春の訪れが感じられる季節となった。首都近郊の湖中央に聳え立つイーストン魔法学校においても、年度末である三月は卒業式や編入試験関連などで登校日が少なく、実質春休みに突入している。趣味に勤しむ、友人と娯楽に興じる、実家に帰るなど、過ごし方はさまざまだ。しかし、そんな中でも、のんびりしていられない生徒が約一名いた。予定時間を十分ほど過ぎて三寮合同会議が...
十二月初旬。その日、隙間時間に魔法局本部内のカフェテリアへ足を向けたレイン・エイムズは、奥のテーブルにひとりで座っている親友の姿を見つけた。人影がまばらであるため、向こうもすぐにこちらに気づき、片手を上げてくる。レインはカウンターで注文したホットコーヒーを受け取るなり、魔法人材管理局所属のマックス・ランドのいるテーブルを目指した。互いに、「お疲れ」「お疲れさん」と挨拶を交わし、レインはティーカップ...
「市民たちも大変楽しみにしておりますので、神覚者様、是非ともご協力のほど、よろしくお願いします」十月某日。魔法局本部にある第三会議室に集められた神覚者八名の前で、局員であるカイセ・ツッコミーはそう言って頭を下げた。ロの字に設置された長テーブルに着席していた全員が、また貴重な休日に駆り出されるのか……、といった微妙な表情を浮かべている。当然ながら、オーター・マドルもそのうちのひとりだった。神覚者は魔法...
厄介事を一番引き受けたくなさそうなオーターが名乗り出てきて、レインは嘘だろ……、と絶句した。イノセント・ゼロとの最終決戦で、冷酷非情かつ合理的思考の持ち主は仲間のために己を犠牲にして戦い、その姿はこれまでレインがオーターに対して抱いていた印象を大きく覆すものだった。マッシュの件で意見が対立していたが、オーターが態度を軟化させたことによってそれもなくなり、今では普通に接している。ただ、お互いに口数が少...
「目的地まであと五キロです」斜め前の助手席からミニョクの控えめな声が聞こえてきて、ジョンヒョンは閉じていた瞼を上げた。先ほどからタブレットPCを操作しながら、同時にスマートフォンで事務所にいる舎弟と連絡を取り合っている。緊迫した空気にさらに加わるように、ジョンヒョンのスーツの内ポケットから着信音が鳴った。悠然とスマートフォンを取り出し、通話ボタンをタップする。「俺だ」『ソンです。イランが今こちらに到...
『Proud Cane』 続編戦の神杖の神覚者であるレイン・エイムズは今春、イーストン魔法学校を卒業し、その日も朝から魔法局本部で職務に従事していた。肩書はこれまでと同様、魔法道具管理局局長だ。卒業と同時にアドラ寮を退寮し、利便性を考慮して魔法局本部の近くに小さな屋敷を購入した。弟であるフィン・エイムズが長期休暇中、気兼ねなく帰省できるようにするためでもある。学生でなくなったことにより、レインは学業との両立...
いつになく静かで安らかな夜だった。まるで時が止まったかのように言葉もなく抱き合っているふたりの間に、かつてないほどの穏やかな空気がゆったりと流れているからだろうか。ふっつりと会話が途切れてもなお、ヨンファはジョンシンの肩に頭を預けるようにして、すっかり馴染みきった温もりに寄りかかっていた。胸許に深く抱き留められていると、スーツの上着越しでも触れ合った箇所からジョンシンの体温が沁み入るように感じられ...
魔法局本部へ帰局してからも、苛立ちは一向に収まらなかった。オーター・マドルは苦虫を嚙み潰したような表情で局内を歩きながら、今日何度目かの溜息をつく。――仕事の合間を縫って出向いたというのに、なんなんだ、あの態度は。怒りの原因は、今しがた会ってきたレイン・エイムズだ。オーターの辛辣かつ断定的な口調に動じる様子もなく、いつもの取り澄ました顔で真っ向から挑戦的な態度を取ってきた。何事にも関心が薄そうな印象...
手のかかる後輩と言葉を交わして別れたあと、レイン・エイムズは重要な責務があるため、イーストン魔法学校のアドラ寮へ急ぎ戻ることにした。思わぬ策略により、またもや余計な仕事が増えてしまった。これでは、身体がいくつあっても足りない。夕刻に差しかかる前には到着したいが、ギリギリ間に合うといったところか。レインは昨年から学生と神覚者の二足の草鞋を履き、学内と学外で多忙な日々を送っている。前年度、年間を通して...