画一的な見方から脱却してみよう。そこに新たな歴史の視点が開けるかもしれない。
Essays on Japanese history trying to get a unique point of view.
九州なのか大和なのかをめぐる邪馬台国の論争は古くから続いているが、近年は九州説が優勢なようだ。九州説が有力となったきっかけは古田武彦さんの「邪馬台国はなかった」に始まる新しい考察の登場だろう。三国志を読み解くこの新しい視点は多くの人々を魅了した。しかし、古田史学自体は『東日流外三郡誌』で大きく躓いて、一挙に信用を失なうことになった。なぜ古田さんは、このような偽書の罠に陥ってしまったのかを考えてみたい。 邪馬台国論争に参入した古田さんの主張によれば、従来の説に欠けていたのは資料批判である。松下見林以来、日本書紀に従い、日本の中心地は大和以外にあり得ないことを前提として中国文献もそれに合わせて読み取るということが行われてきた。まったく合理的とは言えない考え方が長らく史学を支配しており、誰もそこから踏み出せていなっかったという鋭い指摘であった。 魏志倭人伝には邪馬壱国と書いてあるのに..
記紀の成り立ちを考える前提として文字の使用がいつ始まったかが重要であるが、これに言及する人は少ない。文字を獲得した国家が最初にやることは自らの正当性を担保する歴史の編纂である。記紀以前にも何らかの書物があったかもしれないが、そう古いものではなかったはずだ。政権は長期にわたって勝手な歴史記述を許したりしない。 文字の使用が本格的になったのは600年頃だと考えられるが、断片的な記録としては雄略期にさかのぼることもあり得る。日本書紀が巻14の雄略記から書き始められていることは、近年の文体研究ではっきりしたと言える。それ以前の部分がβ群であり、雄略記はα群に属す。これまでも、雄略記は古い儀鳳暦を使い、その前の部分が逆に新しい儀鳳暦になっていることや、巻13に巻14の引用があったりすることから、日本書紀は雄略記から書きだされたとは言われてはいた。 日本書紀の執筆が雄略記から始められた理由..
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