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MORI MORI
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2015/11/22

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  • ある大雪の日の春樹さん一時行方不明事件

    「ピーター・キャット」で冬にリクエストが多かったアルバムで記憶にあるのは、デューク・ジョーダンの「フライト・トゥー・デンマーク」。真っ白な雪景色の森の小径にたたずむデューク・ジョーダンのジャケットが印象的。特にA面最初の「危険な関係のブルース:No Problem」は、忘れられないメロディーライン。雪景色のジャケットと共に、心を静めてくれる一曲だった。デンマークは行ったことがないが、ノルウェーの夏は知っている。夏至の頃は白夜で、夜中の2時頃が夜明けで、夜の10時頃が日没。反対に冬至の頃は、午前10時が夜明けで、午後2時には日没となる。北欧の冬は厳しい。しかし、彼らはそれを楽しむ術を知っている。…

  • 村上春樹さんチョイスのバンドで「ピーター・キャット」ライブ演奏の熱い夜

    「ピーター・キャット」では、ほぼ毎月二回、日曜日の夜にライブ演奏を行っていた。出演のあるジャズマンによく言われた言葉がある。10枚のアルバム買う金があったら、半分はライブに使った方がいいと。俺たちのライブに来て!というのもあるが、それを置いても真実だと思う。生に勝るものはない。セッ ションにおける各自の息づかいや、メンバー同士のバトル。特に観客とのグルーブ感は、その場にいないと本当には分からない。しかも、ホールでなく小さな店 でやるわけだから、その臨場感は半端ない。子宮に響くと言った女性がいるのも分かる。レコードやCDでは聞こえない周波数も感じることができる。 ◆ 女優の加賀まりこさ んが「上…

  • 人生は、ジャズと酒とバラの日々。村上春樹さんが教えてくれたカクテルあれこれ

    「ピーター・キャット」のお酒は、ビールはキリンのラガーだった。キリンだから、輸入ビールはバドワイザー、ハイネケン、ギネスなども置いていたと思うが、確かな記憶がない。ウィスキーは、開店の74年発売のロバート・ブラウン。 オン・ザ・ロックや水割りは、オールド・ファッションド・グラスで。シングル、ダブルは、メジャーで量ってグラスに入れた。レモンスライスを添えるのが珍しかった。後にカティーサークとシーバス・リーガルも入れたかな。学生なんて普段は、トリスやレッドを飲んでいたから、ロバート・ブラウンなんて本当に贅沢な高級酒だった。当時、通称だるまと呼ばれるオールドは既に爺臭い酒というイメージだったから、新…

  • わが家の定番となった「ピーター・キャット」村上春樹さん夫妻考案のサンドウィッチあれこれ

    「ピーター・キャット」では、村上春樹さん夫妻が考案したサンドウィッチを出していた。全部で7、8種類ほどあって、昼を任された時は、仕込みが結構大変だった。そのうちのいくつかは、わが家の定番となった。私が元妻に教えたのである。息子達は最近まで、それが村上春樹さん由来のサンドウィッチとは知らずにいた。わが家の定番となったレシピを書いてみるが、いずれも完全なオリジナルではない。微妙に修正されていたりする。まあ、早い話が完全には思い出せないのである。チェルノブイリ3年後のノルウェーに行った時に被曝したせいかもしれない。 ◆ 【コッドロー・サンド】 最初から聞き慣れないメニューだと思う。コッドローとは、タ…

  • ももクロでもハチクロでもないが、私の美大生時代はスラップスティック。まだベトナム戦争中、基地もあった

    『ハチミツとクローバー』 というアニメとドラマがある。通称『ハチクロ』という。なんでも武蔵野美術大学がモデルらしい。評判になったので、立ち読みしたり、ドラマも少しは観たことがある。映画の予告も結構流れていたので一応知っている。ちゃんと観たらしい友人は、あんなもんじゃなかったよな、と言っていたが、正直どんなものなのか分からない。ただ、出てから10年位してからだったか、ある時、大学関係者に聞いたら、もう今は普通 の大学生と同じだと言われた。君たちの様な、変わり者はもういないと。変わり者かい!? ちなみに私は上川隆也ではないが、ももクロでなく、℃-ute一押しである。異論は認める。ただし、私は愚民化…

  • 70年代は、ニューシネマ。そして私はシネマフリークになった

    「ピーター・キャット」のバイトをしている時も、忙しい中よく映画を観に行った。当時、デートといえば映画を観に行くことではなかったかな。もちろ ん一人でも男友達とも行ったが。よく行ったのは、渋谷の全線座。いわゆる二番館である。300円で2本立てであった。ロードショーをやる封切館は高くて、 よほどの事がないと行けなかった。よほどの事というのは、女の子とつき合い始めたばかりとか、まあそういうことだ。国分寺にも北口に「国分寺名画座」が あったが、入ったことはなかった。普段はポルノ映画上映で、もし入る所を同級生や下級生の女の子にでも見られたら大変だしね。 ◆ その後、大学3、4年時に住んだ国立では、旭通り…

  • 70年代は、オーディオブーム。そのために必死で「ピーター・キャット」等のバイトをした日々

    「ピーター・キャット」のオーディオ・システムは、プレイヤーが、デンオンDP3000。カートリッジが、シュアーV15III。プリメインアンプ が、サンスイAU6600。スピーカーが、JBL・L88プラスだった。JBLのスピーカーは、最高級のパラゴンが吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」にあった。同じ吉祥寺の「アウトバック」は、アルテックのA7だった。その力強い音は、数多くのジャズファンを魅了した。パラゴンなど、夢のまた夢だったが、 できる限り最上の音を求めて、必死にアルバイトをして買ったのが、以下のシステムである。それ以前は、ステレオといえばオールインワンだったが、コンポー ネント・ステレオといって…

  • 70年代、雑誌が作ったアメリカブーム みんなアメリカが好きだった・・わけではない

    「ピーター・キャット」には漫画は置いてあったけれど、決まった雑誌は置いていなかったと思う。ジャズの『スイングジャーナル』や『JAZZ』は、春樹さんが持って来てあったかもしれない。70年代というのは、雑誌文化が一気に花開いた時代だった。それまでは漫画雑誌を除けば、『平凡パンチ』と『週刊プレイボーイ』があっただけ。中学生の頃は、『ボーイズライフ』という本を買っていた。ジェーン・フォンダの水着写真を覚えている。『平凡パンチ』と『週刊プレイボーイ』が、全共闘世代や団塊の世代の雑誌とすれば、ポスト団塊の世代の雑誌は、『POPEYE/ポパイ』と『Hot-Dog PRESS/ホットドックプレス』にヌード・グ…

  • 村上春樹夫妻も驚いたチーズの赤いロウ事件「ピーター・キャット」おつまみ編

    「ピーター・キャット」のおつまみは、ナッツ類の乾きものから、チーズ、オイルサーディンの缶詰、トマトサラダ、レーズンバターなどに、軽食のサンドウィッチが何種類か。夜は、それに加えて陽子さんが作って来る肉じゃが等のちょっとした日替わりメニューがあった。今でこそピスタチオやジャイアントコーン、カシューナッツなどは、100円ショップでも買えるが、当時はまだまだ珍しいものだった。「ピーター・キャット」で初めて食べたという人も多かったのではないだろうか。 ◆ ピスタチオが日本に入って来たのは以外と古く、文政年間に長崎に渡来したといわれている。中国では阿月渾子と書き、古来婦人用の催淫剤(媚薬)であると書かれ…

  • 「ピーター・キャット」を出て国分寺の街を歩けば・・その2

    「ピーター・キャット」を出て、丸山通りの坂道を登る。殿ケ谷戸公園横の坂道を登る。ある日のこと、坂道を登っていると、拡声器で名前を呼ばれた。「○○ 君、キリキリ歩きませい! ○×△□×◇!(喜劇新思想体系のセリフ)」と、国分寺中に聞こえる様な大きな音量で。歩いている人は、皆一斉に音源、ついで彼が拡声器を向けている私を見る。何だ!?と思って見ると、ちり紙交換の軽トラの窓から、「船問屋」のマスターが、拡声器を持って喚いている。確かその時は、まだ左翼系の書店で、 しょっちゅう公安警察が踏み込んでいた。その後、家族を呼び寄せて家庭料理の飯屋を開いた。「ピーター・キャット」では、小柄でほっぺたの膨らんだ彼…

  • 「ピーター・キャット」を出て国分寺の街を歩けば・・その1

    「ピーター・キャット」を出て北口へ行こうとすると、東へ100mほど歩いてから、南町二丁目の交差点を左折し、国分寺街道を北へ。JR(当時は国鉄)の ガードをくぐって左手の石段を上り、ビジネス千成ホテルの脇の小路を抜けて大学通りへ出るしかない。その頃の国分寺駅には自由通路がなく、西武線に乗るた めには、入場券を買わなければならなかった。そうでなければ、都立殿ケ谷戸公園(当時は造成中)の坂道(丸山通り)を上って、花沢橋陸橋を渡るしかなかっ た。国分寺の街は、まるでどこかの国の様に南北に分断されていたのである。実に不便であった。だいたい昭和31年にできるまで。南口はなかったのだそう だ。 ◆ スーパー…

  • 村上春樹さんが絶対にかけちゃだめと言ったアルバム

    「ピーター・キャット」でかけてはいけないLPというか、演奏家というのがあった。これは純粋に春樹さんの好みであって、たとえ常連さんが、これいいよと 持って来ても、かけられないものはかけられないわけだ。当時の雑誌の取材でも答えているように、キース・ジャレットやチック・コリア、ダラー・ブランドは 一枚もなかった。マイルス・デイビスも、ビッチェズ・ブリュー以降のものは、それこそ一枚もなかった。当然フリージャズも一枚もなかった。それが店のカラーになっていたわけで、別に気になるということもなかった。聴きたければ自分の部屋で聴けばいいわけだから。 ◆ 色々なところで書いている様に、春樹さんはスタン・ゲッツが…

  • 国分寺「ピーター・キャット」のインテリアを描いてみた

    国分寺「ピーター・キャット」の店内を描いてみようと思い立ったが、まともな資料がないことに気がついた。写真がない。なぜ撮らなかったかわからない が、ない。営業中はフラッシュをたくわけにいかないというのもある。私は当時、発売されたばかりのオリンパスOM-1を持っていた。撮ろうと思えば撮れたはずだが・・。ちなみに今、これは次男が使っている。店内を掲載した当時の雑誌を探してみたが、75年の『JAZZ』に載ったものぐらいだった。仕方がないので、記憶の中で当時の店内に旅をしてみることにした。 ◆ 目を閉じてアパートを出るところから。味噌ラーメンの「コタン」、定食の「あかぎ」を右に見て、並木の歩道を駅の方へ…

  • 「ピーター・キャット」でバイトをした武蔵美の三人組

    前々回の記事で書いた様に、そんなわけで私たち三人組(写真・74年初夏のキャンパスで)は、「ピーター・キャット」でアルバイトを始めた。実家に出した手紙の中に、17日間の実際のカレンダーを表記したものがあった。面白いのでスキャニングしてみた。一年の時は、まだ実技は基礎過程、プラス一般教養の講義だったため、結構時間にゆとりがあった。そのためアルバイト三昧の生活であったことが分かる。 当時は、携帯電話はもちろんないし、学生がアパートに電話を入れるというのも稀だった、同級生では芦屋のお嬢様がひとり入れていたような記憶があるだけだ。債券が高かったし、学生の分際で持てるものではなかった。よって、実家への連絡…

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