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2015/11/19

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  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(13)

    ここでレサマ=リマは、「タミエラ」という単語の言語的多面体としての機能について、美しくも危うい直喩と隠喩によって語りつくしている。「タミエラ」は「川の水に濡れた草の間をなめらかに這っていくヘビのように」見える、というのは、言語的多面体が意識の光源を反射して、様々な色彩に輝く姿を捉えているし、言語的多面体が「通り抜けたあと」では、周辺の単語たちがその反射熱によって「燃えあがりはじめ」るが、その時には言語的多面体としての「タミエラ」という単語は、炎を見つめながらじっとしているのだという風に読める。直喩として持ち出されたヘビが、いつしか隠喩としてのヘビにすり替わり、直喩は単純な放物線を描いてすぐに着地するのではなく、隠喩の作用によって重力の軛をしばらく逃れた後、「ずっと身をかがめたルビー色の山猫のように」という...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(13)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(12)

    とにかくこの二人のペダンティスムは互いによく似ている。と言うか、博物学に関する部分では、レサマ=リマがデュカスの影響下に書いていることが明らかに示されている。アルベルト伯父の手紙は、それがデュカスの影響を受けていることを宣言するに等しいもので、それを明示するために書かれているのだから、当然とも言える。しかし、他にも『パラディーソ』には『マルドロールの歌』の博物学的ペダンティスムを意識して書かれていると思われる部分がたくさんある。たとえば第9章でのフロネーシスの長い議論の中から拾ってみるとすれば、次のような一節にその典型を見ることができる。「木によじのぼる魚のひとつ、アナバス・スカンデンス〔キノポリウオ〕は、海岸線から百メートルも離れたところで、海洋ヨードによって肺の?が最大限にふくらんでいる状態で目撃され...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(12)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(11)

    一方私が常に比較対象にしてきたイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』における衒学的要素はどの様なものなのか。デュカスには当然、レサマ=リマのような歴史や哲学、文学、美術、音楽などの広範な領域におけるペダンティスムは存在しない。それはデュカスが『マルドロールの歌』を書いたのが20歳そこそこだったのに対して、レサマ=リマの『パラディーソ』は十数年かけて書かれ、1966年に出版されたもので、その時彼はすでに56歳になっていたのだから、それまでに蓄積した膨大な知識を惜しげもなく投入できたのである。しかしデュカスには、博物学的な知識があり、特に動物についての博識ぶりには目を瞠るものがある。そして、そうした知識は『マルドロールの歌』において、鮮烈な直喩表現に活かされている。第5歌からいくつか引用する。「いつも飢え...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(11)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(10)

    うっかりしていたが、隠喩について考える前に、もう少し直喩のあり方について触れておくべきことがあった。たとえば、主人公ホセの父ホセ・エウヘニオが若い時に祖母のムンダから、彼の進むべき進路についてアドヴァイスを受ける場面で、レサマ=リマはムンダばあさんの尊大さを次のような直喩で表現している。「老母は反駁しようのない尊大な様子で頭をもち上げたが、それはまるで、ロシアの女帝エカテリーナが重農主義者の陳情団を迎えて、最初は儀式ばった峻厳さの中に思いやりをにじませておきながら、じきに情け容赦なく、侮蔑的に、冷酷になって、その日の晩のうちにもう帰るようにと、代表団の笑劇的な退散のための橇を用意しようとしているみたいな感じだった。」このような歴史に関する蘊蓄を感じさせる直喩、しかもなかなか着地することなく、歴史上の出来事...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(10)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(9)

    以上のように『パラディーソ』には、「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ」の中で、歓喜に打ち震える比喩表現が無数に散りばめられている。前回引用した部分でいえば、「呪われた花飾り」や「浮氷の塊」、「電解質のコイルの黄金プレー卜」、「パンヤの木の精」や「笛吹く影」がそれに該当する。しかし、「本来の土地から引き離され」た単語たちは、必ずしも「歓びに満ちた動き」だけを見せているわけではない。それに続くセミーの反応がそのことを明らかにする。それらの単語は「彼の暗い、不可視の、名状しがたい通路に入って来る」のであり、〝彼〟がアルベルト伯父を指すのだとすれば、アルベルトの存在の暗部に入ってくることによって、それらの単語は不吉な様相を呈していくことになる。レサマ=リマはここで、漁師によって引き上...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(9)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(8)

    この二つの文章から、セミー少年のではなく、レサマ=リマの言語的体験がどのようなものであったか、そして具体的に言えば『マルドロールの歌』の衝撃がどのようなものであったかを推測することができる。第一に「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて」の部分は、まさに『マルドロールの歌』における、直喩と隠喩、とりわけ直喩のあり方を正確に表現している。そうした直喩はメルヴィンヌ少年の美しさを形容する直喩の場面(ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように、の部分)をはじめとして『マルドロールの歌』には無数に存在するが、もう一つ「単語がその本来の土地から引き離されて」いる極めつけを挙げておこう。「他者の肉の愛好者であり、追跡の有効性の擁護者である、アーカンサス州...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(8)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(7)

    『パラディーソ』は直喩と隠喩、それも奇っ怪極まりない直喩と隠喩に彩られた、というよりもそれらが充満した作品であり、そうした特徴はこの場面でのアルベルト伯父の手紙=散文詩に凝縮して表現されている。『マルドロールの歌』に見られる、比喩されるものから意図的に遠ざかろうとする長大な直喩は、「まるで、爪でフルートを握りしめているつもりのコンゴウインコが穴ぼこを絞るが、虹に運び去られるみたいだ」の部分に表れてくるし、海洋動物を大量に隠喩に動員するという『マルドロールの歌』の特徴も、「硬骨魚類―タツノポトシゴ?えら??」の部分で踏襲されている。アルベルトの手紙は、デュカスの『マルドロールの歌』へのオマージュに満ちた模倣なのだ。〝模倣〟と私が言ってしまうのは、アルベルトの手紙が『マルドロールの歌』の突飛さや暴力性を再現し...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(7)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(6)

    レサマ=リマの『パラディーソ』における『マルドロールの歌』の影響についてみてきたが、第7章には〝動かぬ証拠〟とでも言いたくなるほど、その影響が明白に示されている部分がある。伯父アルベルトの友人デメトリオの家に連れていかれたホセ・セミーが、友人アルベルトから受け取った手紙をデメトリオに読んで聞かせられる場面である。デメトリオは読み始める。それは言葉遊びに始まり、比喩されるものから遠く離れ、長くて奇態な直喩を経て、詩的な隠喩に至る一節である。この部分を読んで、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』を思い浮かべない読者は存在しないだろう。《ジムノオイコどもが、裸苦行者(ジムノソフィスタ)みたいに、サティのジムノペディを聞いている。まるで、爪でフルートを握りしめているつもりのコンゴウインコが穴ぼこを絞るが、虹...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(6)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(5)

    『マルドロールの歌』には、様々な動物が登場するが、とくに海洋生物が多く直喩や隠喩のために動員されている。リストを挙げれば、タコ、オットセイ、マッコウクジラ、サメ、シュモクザメ、エイ、アザラシ……ということになる。それらすべてが喩のために動員されているわけではないが、タコとサメが特に重要な役割を果たしている。第2歌で、マルドロールは「自分に似た者」あるいは「自分の生き写しの存在」としてのサメと海中で交合するのだし、同じ第2歌で彼は、タコに変身して「四百の吸盤をやつの脇の下にぴったり押しつけて、恐ろしい叫び声をあげさせ」るのである。ここで「やつ」とは〈創造主〉のことを意味している。デュカスはマルドロールのサメとの交合や、タコに変身して神を締め上げる様子を〝描写〟しているのだが、誰もそれを単なる描写とは読まない...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(5)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(4)

    たとえば第6章には、主人公ホセ・セミーの曾祖母メーラばあさんが、キューバ分離独立運動での武勇伝を語る場面で、次のような一節に出くわすことになる。「その口には、時間の配置も、食堂でトランプ遊びをしている者たちの沈黙も入ることがなかったが、すぐに例のごとき亡霊的な対話が彼らのことまで亡霊に変えてしまい、タロットの図表盤に近々やってくる自らの不幸の嘆きを読みとったり、黄泉川の小舟の上で自らが鞭打たれる音を聞くことになる日の近さを解読したりしている豪華絢爛たる封建領主のような姿をまとわせるのだった。」このような比喩するものが比喩されるものと密着するのではなく、比喩されるものから自由に遊離していく直喩表現に出会ったときに、私はレサマ=リマが『マルドロールの歌』の影響下で書いているのに違いないという確信を抱いたのだっ...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(4)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(3)

    イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』は、最終第6歌に出てくる「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように(美しい)」という一節によって有名であり、それがシュルレアリスムの先駆的な表現とみなされたのだったが、この部分の全体を読めば、それが奇態な直喩の連続の中にあって、最後のとどめを刺す役割を果たしていることが理解される。こうである。「彼は美しい、猛禽類の爪の伸縮性のように。あるいはまた、後頸部の柔らかい部分の傷口における、筋肉の動きの不確かさのように。あるいはむしろ、捕獲された鼠によって絶えず仕掛け直されるので、この齧歯目の動物を自動的に際限なく捕らえることができ、藁の下に隠されていても機能できる、あの永久鼠捕り器のように。そしてとりわけ、解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのよ...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(3)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2)

    このような溢れんばかりの直喩と隠喩によって構成された、濃密でスピード感に満ちた文章世界を、私は既に経験している。それはラテンアメリカ文学においてではなく、南米ウルグアイの首都モンテビデオで生まれ、13歳で父母の故郷であるパリに渡った青年イジドール・デュカスが、22歳から書き始めた散文詩『マルドロールの歌』の世界である。まず、デュカスの『マルドロールの歌』における特徴的な直喩表現についてみていこう。直喩の特異性はこの作品の冒頭からいかんなく発揮されている。第1歌(1)から引用する。「踵を返せ、前進するな、母親の顔をおごそかに凝視するのをやめ、崇敬の念をこめて顔をそむける息子の両眼のように。あるいはむしろ、瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように。それは冬のあいだ、沈黙を横切り、帆をいっ...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2)

  • ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(1)

    「ラテンアメリカ文学不滅の金字塔」というキャッチコピーに乗せられて、キューバの作家、ホセ・レサマ=リマの『パラディーソ』を購入し、読んでみることにした。レサマ=リマがいわゆる「ブームの時代」より前の世代の作家であることも知らずに読んだのだが、読み進むにつれて、これまで読んできたラテンアメリカ小説の、どの作品とも似たところのない作品だということを了解した。私にとってのラテンアメリカ小説の代表作を挙げるとすれば、チリの作家、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』であり、コロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』であり、メキシコのカルロス・フエンテスのゴシック長篇『テラ・ノストラ』であり、ペルーのマリオ・バルガス=リョサの歴史小説『世界最終戦争』であり、キューバのアレホ・カルペンティエールの『光の世紀...ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(1)

  • 「北方文学」第88号発刊

    「北方文学」第88号を発行しましたので、紹介させていただきます。先号より地方小出版流通センター扱いとなり、大手取次を通して全国の主要書店に少部数ではありますが配本されています。同時に紀伊國屋ブックウエブや楽天ブックスなどのネット書店でも検索して購入できるようになっています。今年、新潮社刊の『文藝年鑑』の「同人誌」の項で、真っ先に「北方文学」が取り上げられていますので、少しは注目されるかもしれません。巻頭は魚家明子の詩2篇。「夏の幻想」と「ノックする」です。最近の魚家の作品は生き生きしていて言葉に力があります。言葉の肌触りというか、手触りというか、それがしっかりしていて、読み流すことのできない作品になっていると思います。二人目は館路子の「霊地たる山に居て風と別れる」。いつもより短めの長詩で、死者の霊との交感...「北方文学」第88号発刊

  • 北方文学が文藝年鑑に紹介される

    日本文藝家協会編集・新潮社発行の『文藝年鑑』に「北方文学」の霜田と柴野の評論が紹介されました。霜田のは85号掲載のブルーノ・シュルツを論じた「ポ・リン/ここにとどまれ」と、86号の「「描かれた《ビルケナウ》」の向こう――ゲルハルト・リヒター展を観て――」。柴野のは東京の同人誌「群系」48号掲載の「アルフレート・クビーンの『裏面』をめぐって」と「北方文学」83号に掲載された漱石『明暗』論「夏目漱石『明暗』とヘンリー・ジェイムズ」。『文藝年鑑』は全国の同人雑誌一覧を掲載するなど、同人誌紹介に力を注いでいますが、内容について紹介されるのは初めてです。著者の越田秀男さんはずっと「図書新聞」の「同人雑誌評」を担当されている方で、「北方文学」が発行されるたびに紹介していただいてきました。この度の『文藝年鑑』での紹介は...北方文学が文藝年鑑に紹介される

  • 「北方文学」87号紹介

    「北方文学」第87号を発行しましたので、紹介させていただきます。今号より地方小出版流通センター扱いとなり、大手取次を通して全国の主要書店に少部数ではありますが配本されています。同時に紀伊國屋ブックウエブや楽天ブックスなどのネット書店でも検索して購入できるようになりました。どれほど売れるかは分かりませんが、最近発行のたびに「図書新聞」などで紹介され、「季刊文科」でも大きく取り上げられるようになってきましたので、少しでも全国の読者に届くことを願っています。巻頭は鈴木良一の〝これでも詩〟という「断片的なものの詩学」です。「新潟県戦後50年詩史」を10年にわたって書き継いできた鈴木が、虚脱状態を乗り越えて新たな境地を見せています。「1987年からの私の私的な行動を跡付けるチラシ=チラ詩」ということで、エッセイのよ...「北方文学」87号紹介

  • 井口時男氏講演会

    南魚沼市出身の文芸評論家井口時男氏の講演会が、7月1日南魚沼市浦佐の池田記念美術館で開催されます。東京の同人雑誌「群系」と新潟の同人雑誌「北方文学」、柏崎市の文学と美術のライブラリー「游文舎」の共催です。チラシをご覧ください。井口時男氏講演会

  • 諏訪哲史『偏愛蔵書室』(5)

    諏訪はあとがきで、次のように語っている。「本書では、新刊販促の意味も持つ通常の「書評」のように、おおまかな「あらすじ」を概観するなど、読者への「商品」案内の利便にはいっさい頓着していない。まるで無作為にぱっと本を開くかのような唐突さで、いきなり「文章」をフォーカスし、引用している。読書にとってはほんらい、全体は不要というか、あくまでも参考にすぎず、ひとつの極まった文章さえあれば、それだけで文学的トリップは可能だ。」確かに「あらすじ」など、ほとんどどこにも紹介されていない。このような書き方は、私には馴染みのもので、私自身このブログで小説を批評するときに、あらすじを書くことを極力避けてきたからだ。「全体は不要」というよりも、諏訪はやはり物語への評価を低くしているからであって、小説全体というものは把握されていな...諏訪哲史『偏愛蔵書室』(5)

  • 諏訪哲史『偏愛蔵書室』(4)

    ナボコフの項は本書の巻末に置かれていて、特別の意味を与えられている。だからナボコフの項の最後は『偏愛蔵書室』全体を締めくくる、次のような一節で終わっている。「なべての人の愛は「偏愛」である。それは純真であればあるほどむしろ背き、屈折し、狂気へ振れ、局所へ収斂される。人は愛ゆえ逸し、愛ゆえ違う。慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々。それこそが、僕の狭い蔵書室から無限を夢みて開く、これら偏愛すべき本たちである。」ここでは倒錯が本を愛し、本を読むことと結び付けられている。ひとに隠れ、秘かな悦びを求めて〝読む〟こと、これほどに倒錯的な行為があるだろうか。「慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々」を、人知れぬ隠微な悦びをもって、ひとつひとつ開いていく行為を倒錯と呼ばないわけにはいかない。花々が倒錯しているのではない。花々を開いて...諏訪哲史『偏愛蔵書室』(4)

  • 諏訪哲史『偏愛蔵書室』(3)

    以上、諏訪哲史の小説における「物語」「批評」「詩」の要素についての議論を、批判的に検証してきたが、私は諏訪の考え方を完全否定しているわけではない。彼がレーモン・ルーセルの項で言っていることは、あくまでも正しいと私は思う。「物語は普通、我々の物語元型への既知を巧みに利用し、それを模倣・再生する。つまるところ、すべての物語とは、既知の物語なのだ。」物語が既成の文学を補完するものでしかなく、制度としての文学を延命させるものでしかない、という考え方がここでは示されている。その意味で諏訪の言葉は正しい。しかし、〝未知の物語〟というものは存在し得ないのだろうか。想像力を全開にした驚異の物語は、未知の物語であり得るのであり、否定すべき物語の範疇を超え出ていくものとして評価できるのではないだろうか。それを物語と呼ばず、批...諏訪哲史『偏愛蔵書室』(3)

  • 諏訪哲史『偏愛蔵書室』(2)

    ただし、こうした考え方は、物語や批評、詩がそれぞれ独立して存在しているか、あるいは存在できるという固定的な考え方に結び付く恐れがある。たとえば、批評には物語がないかといえば、そんなことはないのであって、ミシェル・フーコーが自著『性の歴史』について「それもまた虚構である」と言ったように、哲学的論考でさえ虚構の一種として捉えることができるのである。私はこれまで批評だけを書き継いできたが、それが虚構であることを意識しないで書いたことはない。私は論理の筋道を〝物語〟のように構成してきたし、おそらく批評でさえそのように書かれざるを得ないのである。それが〝俗情との結託〟に陥るかどうかはまた別の問題である。また、批評が詩を孕む一瞬ということもあり得る。批評の文章を書いていく過程で、ある一文が啓示のようにしてもたらされる...諏訪哲史『偏愛蔵書室』(2)

  • 諏訪哲史『偏愛蔵書室』(1)

    三月までに諏訪哲史の『アサッテの人』を読むことになっていて、同じ著者による『偏愛蔵書室』という書評集を発見したので、さっそく読んでみることにした。古典的名作からマイナーな作品、初めて聞くような埋もれた作家の作品まで、百冊が取り上げられていて、私の読書傾向と近い部分もあり、面白そうだったので飛びついたのだった。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の項は、次のように書き始められている。「世界文学史上最高の小説である。誰がどんなに頭から湯気を出して反論しようが、この事実だけは動かし得ない。」いきなりこんな風に言われると、私のように大学でフランス文学を学びながら、この大長編を読んだことがないという破廉恥漢には、言うべきことがなくなってしまう。しかも諏訪はこの書評のたかだか本書で三頁の文章を書くために、『失...諏訪哲史『偏愛蔵書室』(1)

  • 「北方文学」86号紹介

    「北方文学」86号紹介「北方文学」第86号を発行しましたので、紹介させていただきます。先号発行の直後の7月7日に、古くからの同人米山敏保氏が胆嚢癌からの転移で亡くなりました。これで創刊61年を迎えた「北方文学」の第1次同人すべてが鬼籍に入ってしまいました。追悼特集を組むことにしました。米山氏がまだ20歳代だった頃の短歌作品と中期の小説作品を再録し、略年表を編集し、追悼文を数編載せてあります。老成した米山氏しか知らない我々にとって、若い時の短歌は目の覚めるような瑞々しさを持っています。また女性を描いて名人の域にあった米山氏の小説もお楽しみください。巻頭は魚家明子の詩2篇、「骨」と「さびしい石」です。彼女の短い詩作品は緊張感に溢れていて、詩人としての生きにくさを「ひりひりと」感じさせるものがあります。どの1行...「北方文学」86号紹介

  • 石川眞理子『音探しの旅』を刊行しました

    みんなこの街のどこかに住み、働きながら音探しの旅を重ねている自分が自分で在り続けるために(石川眞理子「音市場の朝に」より)A5判194頁定価(本体1,000円+税)柏崎市内書店で販売中2022年5月享年65歳で亡くなった石川眞理子の遺稿集。柏崎で「JAZZLIVEを聴く会」を設立し、日本海太鼓のメンバーとして活動、2007年の新潟県中越沖地震直後には、「かしわざき音市場」を立ち上げ定着させるなど、地方における音楽プロモーターとして八面六臂の活躍をして駆け抜けた石川の軌跡をたどる。石川眞理子遺稿集編集委員会の編集による一冊。昨年5月、石川眞理子さんの訃報に接したのは游文舎で「LPを楽しむ会」を開こうとしているときでした。「まさか」の思いで自宅に駆け付けた時、彼女は既に死に装束で布団に横たわっていました。乳癌...石川眞理子『音探しの旅』を刊行しました

  • 批評と亡霊

    このほど玄文社主人の文章が、アジア文化社の総合文芸誌「文芸思潮」85号に掲載されたので、紹介します。この号の目玉は「文芸評論の危機」と題した特集で、中でも井口時男氏を司会役とし、若手批評家4人が発言する座談会「文芸評論の現状ー危機と打開」が面白いと思います。ちなみにこの雑誌はアマゾンから購入できます。では長いですが、お読みください。批評と亡霊小学生の時からよく本を読む少年だったが、本当に文学に目覚めたのは、中学生の時、母方の祖父の家にあった屋根裏部屋の本棚に、ドストエフスキーの『死の家の記録』を見付けて読み、さらに『罪と罰』を読んで大きな衝撃を覚えてからだった。それからは文学というものが自分の中で最も大きなテーマとなった。中学時代はものを書くということはなかったが、高校生になってからは友人と回覧雑誌を作っ...批評と亡霊

  • 「北方文学」第85号紹介

    「北方文学」第85号が発刊されましたので、紹介させていただきます。発行直前に同人の坪井裕俊氏が急逝大動脈瘤解離で急逝され、昨年10月に亡くなった同じく同人の長谷川潤治氏と合わせて、追悼特集を組むことになりました。二人とも団塊の世代で、この世代はどうも長生きはできないようです。二人がまだ若かった頃の作品を再録し、略年表を作成し、追悼文を数編ずつ載せてあります。読んで二人のことを偲んでいただければ幸いです。巻頭は詩集『魚卵』で知られる三井喬子さんの寄稿作品です。題して「海堀とはかいぼりのことである」。題名も不思議な感じですが、中身も不思議なイメージに満ちています。「うるさい!」と怒鳴る池の主たる龍の存在感が中心にあって、この龍が何を意味しているのか?、池の水を抜く「かいぼり」とは何の象徴なのか?、いろいろ考え...「北方文学」第85号紹介

  • アルフレート・クビーン『裏面』(14)

    寓意するものと寓意されるものとの対応関係が一義的なものであれば、寓意されるものは寓意するものをすぐにでも駆逐してしまうであろうから、そこに幻想が生まれてくることはない。トドロフは第一の意味がすぐに姿を消すような作品の価値を低く見ていて、あからさまに寓意を目的とするような作品は幻想文学ではあり得ないといっているのである。また意味の二重性が併存するような作品においてもまた、結局は幻想性が失われてしまうとトドロフは言う。二重の意味が併存するのは、寓意するものとされるものとの関係が多義的であるためであり、寓意されるものがすぐには寓意するものを駆逐できないからなのである。ここで私の議論はトドロフの議論に交差することができる。ならば幻想性を保持するためには、一義的であれ多義的であれ、寓意そのものを放棄するしかない。トドロフ...アルフレート・クビーン『裏面』(14)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(13)

    以上のようにパテラは、神の似姿として造形されているが、それは遍在すると言いながら不在であり、約束を守ろうとせず、疲労に打ちひしがれた神としてなのである。ここには極めて現代的な神のイメージが示されているし、それはヨーロッパに関しての文明論的な探究の結果という意味さえ担っているように見える。だからパテラもまた多義的な存在であり、それを単に神の寓意として捉えることはできないのである。ところで、ツヴェタン・トドロフはその『幻想文学論序説』の中で、幻想文学と寓意との関係について、詳しく分析を行っている。寓意とはトドロフによれば、次のようなものである。「第一に、寓意は同一の語群に少なくとも二つの意味が存在することを前提とする。ただし、第一の意味は姿を消すべきだとされることもあり、二つの意味が併存していなければならぬとされる...アルフレート・クビーン『裏面』(13)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(12)

    アメリカ人ハーキュリーズ・ベルについて、彼が意味しているものについて寓意的に読み取ろうとしても、そう簡単にはいかない。時には経済至上主義的な勢力とも読めるし、彼が決起呼びかけの声明文に「呪術はたち切られねばならない!」と書いていることから、自由主義的な革命勢力を表象しているようにも読める。さらに声明文の最後で「すべての若者はルーチファー党員になれ!」と呼び掛けていることから、神と対立するものとして位置づけられているようにも見える。ルーチファーはルシファー、つまりは堕天使であり、悪魔と同一視されることもあるから、神の反対概念でさえある。しかし、アメリカ人はパテラを「サタン」と呼んで批判しているのであるから、本来の「光をもたらす者」として「サタン」に対立する存在とみなすこともできる。もともと「ハーキュリーズ」はギリ...アルフレート・クビーン『裏面』(12)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(11)

    アルフレート・クビーン『裏面』(11)一方、巨大化したアメリカ人ハーキュリーズ・ベルの変身の方は、グロテスクの極致ともいうべき相貌を見せていく。以下のような幻想場面を生理的な嫌悪感なしに読むことは難しい。「今度は私は、遙か向こうの方に、いまやパテラの恐ろしい大きさを自分のものにしたアメリカ人の姿をみとめた。ローマ皇帝を思わせるその頭は、ダィヤモンドの閃光をはなつ両眼を見ひらいていたが、彼は悪鬼につかれたような痙攣を起こしながら、自分自身と闘っており、途方もなく彎曲しふくれあがった血管が、首筋のあたりでうねうねと青味をおびた網目をえがきだしていた。彼はわれとわが首を絞めようとしていたのだ、――だが無駄だった!あらんかぎりの力で、彼は自分の胸を打ちたたいた。まるで鋼鉄のシンバルのような音響がして、その轟音は私の耳を...アルフレート・クビーン『裏面』(11)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(10)

    「第4章幻影――パテラの死」は、この小説の大きな山場となっていて、おそらくE・T・A・ホフマン以外の作家には到底書けないような幻想場面のオンパレードとなっている。ペルレの町の破壊の後に残された「私」は、なぜか不思議な爽快感に浸っている。この章は次のように始まる。「かつて感じたことのない軽やかな気持が私の身内にやどっており、甘味のある淡い香りが私の内側からこみあげてきた。私の感情は根底から変化をとげていたし、私の生命は目覚めた小さな?以外のなにものでもなかった。」この破壊の後の生命の高揚感はいったいどこから来るのであろうか。また何を意味しているのだろうか。すべてが無へと潰え去った後の爽快感は、破滅を前にした一種の開放感に似ているのかも知れない。あるいは、これから展開されていくパテラの断末魔の闘いに備えて、清澄な意...アルフレート・クビーン『裏面』(10)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(9)

    つまりエピソードは、不整合が表面化しないうちに、あるいは整合性が問われる前に、重ね書きされていくのだと言ってもよい。『百年の孤独』におけるエピソードの連続は重ね書きされたエピソードの波状攻撃のようなものであり、それによって不整合との批判を逃れていく。『百年の孤独』に一体いくつのエピソードが書かれているのか数えたことはないが、そこでは波状的な重ね書きが必要とされ、その結果として膨大な量のエピソードが続いていくのである。『裏面』の場合、異変のエピソードは小説の最初から出てくるわけではないから、それほど多くのエピソードが書かれてはいない。しかし、「第3章地獄」で最も重要なのは、『百年の孤独』の場合と同じように、エピソードの重ね書きであり、波状的生起なのである。ここでもう一度思い出してほしいのは、異変のエピソードが多く...アルフレート・クビーン『裏面』(9)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(8)

    私はマルケスの『百年の孤独』における、超自然的なエピソードの連続は、ラテンアメリカ文学についていわれるマジック・リアリズムの中核的な表現であり、それがマルケスの独創的表現方法であることに何の疑いも持ってはいなかった。それが彼の母親による〝語り〟の方法を取り入れたマルケスの創造によるものであることにも疑いは持っていなかった。しかし、『百年の孤独』が書かれた60年も前に、同じような方法で書かれた一人のオーストリア人画家による小説があったのであり、そのことに驚きを感じないでいることはできない。マルケスの『百年の孤独』の方法は、ヨーロッパの文学伝統とはまったく隔絶したものであるとされているが、そんな説がまったくの?であることが、クビーンの『裏面』によって証明されるのである。さて、クビーンの「眠り病」のエピソードの後には...アルフレート・クビーン『裏面』(8)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(7)

    「夢の国の没落」と題された第3部は、ペルレに現れたアメリカ人ハーキュリーズ・ベルがパテラと激しく対立する中で、夢の国が何か不可思議な力によって崩壊していくという内容になっている。私がこの小説を読んで最も驚いたのはこの第3部第3章「地獄」と題された部分に対してであった。この章はパテラ崩壊の予兆のいくつかがエピソードとして連続していくところで、その最初のエピソードが「眠り病」である。「眠り病」はハーキュリーズ・ベルがパテラを倒すための行動に打って出ようとする時に、彼自身と彼の周辺の現象として発生する。つまりそれはベルの政治活動を阻害する要因をなすのだが、それだけではなく「眠り病」はパルレの町全体、夢の国全体へと拡がっていく。「ベルレは、不可抗力の眠り病に冒された。眠り病はアルヒーフで突然起こり、そこから町と国へ広が...アルフレート・クビーン『裏面』(7)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(6)

    さらに付け加えるならば、ホフマンの幻想表現も、クビーンの幻想表現も極めて絵画的で、それが鮮明なイメージを結ばせるという点で共通している。グリューネヴァルトの《聖アントニウスの誘惑》では、鳥に棍棒を持った人間の腕を接合したり、ナマズのような顔の動物に人間の体を合体させたりしているのだが、イメージは現実の存在物とまったく同じレベルで現前している。絵画にはそのようなことが可能なのである。ホフマンの幻想表現もまた、グリューネヴァルトの絵画と同じように、人間の顔と鴉の体の接合、蟻と人間の脚の接合、あるいは毛虫と羽との接合が直接に絵画的イメージを喚起させる。言葉もまた現実の存在物と同じように、想像物を現前させることができるのだ。ホフマンの幻想描写が、他の作家のそれを大きく凌駕しているのはそのためだと言うことができる。あるい...アルフレート・クビーン『裏面』(6)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(5)

    クビーンの方は顔が次々に変貌していくのに対し、ホフマンの方では次から次へと奇態な悪鬼どもが姿を現すという違いはある。しかし私が指摘したいのは、想像力の働かせ方の共通性である。クビーンの引用からは「カメレオン」と「七面鳥」を拾うことができ、ホフマンの引用からは「蟋蟀」「鳥」「蜥蜴」「毛虫」「蟻」「馬」「梟」を拾い上げることができる。クビーンの先の引用に続く以下の場面でも、多くの動物の面貌がパテラの顔に現れてくることが読み取れるだろう。「次に現われたのは動物たちの顔だった――一頭のライオンの顔貌、それがやがてジャッカルのようにとがって狡猾な顔つきになり――それが鼻孔をふくらませた野生の雄馬に変り――鳥類になったかと思うと――次には蛇のようなものに変った。それは見るも恐ろしい眺めだったが、私は叫び声をあげようにも、あ...アルフレート・クビーン『裏面』(5)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(4)

    「第4章魔力のとりこ」から、「ある幻想的な物語り」とのサブタイトルを持つ、この作品特有の怪異な現象が始まっていく。最初の怪異は妻が街中でパテラと遭遇する場面になっている。妻はパテラの恐ろしい目に恐怖を感じ、不安状態から抜け出せなくなり、心身の不調に責めさいなまれることになる。結局これが要因となって妻は死に至るのであり、この場面は重要である。ここからこの物語の登場人物たちは何ものかの「魔力のとりこ」になっていくのだからである。絶望のあまり彷徨する「私」は、知らず知らずにパテラがいるであろう宮殿の前に佇んでいる。そこに入っていき、無数の部屋を通り抜けて、行き止まりの大きな部屋に達した「私」は、そこに眠ったまま笑い、しゃべり続けるパテラの姿を発見する。ここでパテラと「私」の妻の救いをめぐるやりとりがあるのだが、そこに...アルフレート・クビーン『裏面』(4)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(3)

    「私」はパテラに対する拝謁許可証をもらうために、アルヒーフ(役所)へ行ってそこで眠っている男を起こし、彼に訊ねようとするが、返ってくる返事は次のようなものである。「拝謁許可証を受けるのには、あなたの出生証明書、洗礼証明書、結婚証明書のほかに、父親の卒業証明書と母親の種痘証明書が必要です。廊下の左手にある十六号の事務室で、あなたの財産、学歴、所有する勲位の申告をなさってください。岳父の素行証明書もあれば結構なのですが、しかしどうしても必要だというわけではありません」名前を名乗ると彼はとたんに慇懃な態度を取るようになり、「私」は閣下と呼ばれる男の所に案内されるが、この閣下は拝謁許可証交付を約束しながらも、意味不明の演説をぶちかますのみで、まったく要領を得ない。しかも後日許可証が交付されたにも拘わらず、「私」は「翌日...アルフレート・クビーン『裏面』(3)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(2)

    「第2章パテラの創造」では、夢の国の相対的なイメージと生活の諸相が描かれる。まず、中部ヨーロッパとの決定的な違いについては、次のように説明されている。「全体として大ざっぱに言えば、ここでの状況は中部ヨーロッパのそれと似たりよったりだったが、しかしそこにはまた非常な違いもあったのだ!たしかに、町が一つあり、いくつかの村と、大きな領土と、川と湖が一つづつ、あった。しかしそのうえにひろがっている大空は、永遠にどんよりと曇っていた。けっして太陽の輝くことはなく、けっして月や星が夜、眼に見えることもなかった。永遠に変ることなく、雲が深く地上にまでたれこめていた。それが嵐のときに密雲となることはあっても、青い天空は私たちすべてのものの眼に閉ざされていた。」昼に太陽が輝きを見せることはなく、夜に月や星が光を放つこともない世界...アルフレート・クビーン『裏面』(2)

  • アルフレート・クビーン『裏面』(1)

    アルフレート・クビーン『裏面』(1)文学と美術のライブラリー「游文舎」が、3月21日から27日に予定している「大古書市」のための図書整理をしていた時、1960年から1970年代に刊行された河出書房新社の「モダン・クラシックス」のシリーズがかなりあることに気が付いた。そのラインアップを見ると当時全盛を極めていたフランスのヌーボー・ロマンの作家の作品を中心に、イギリス、アメリカ、ロシア(ソ連)、ドイツ語圏などのかなり珍しい作品を集めた意欲的な企画であったことが分かる。その後かなりの作品が文庫になったり、他の出版社から再刊されたりしているが、中にはこのシリーズでしか読めない貴重な作品もある。私はイギリスの作家ロレンス・ダレルの「アレクサンドリア・カルテット」四部作『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーブ』...アルフレート・クビーン『裏面』(1)

  • マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(3)

    この小説の背景にあるのは、1990年から2000年までペルーの大統領であった、アルベルト・フジモリの腐敗した政権である。ドクトルの名で登場する大統領の黒幕的人物は、ペルーの国家情報局顧問をつとめフジモリを補佐した、ブラディミロ・モンテシノスという実在の男である。フジモリの名は実名で出てくるのに、この男の実名を出さないのは、彼の黒幕的な性格を匂わせるためであろう。この小説で実は最も存在感が薄いのがこの男なのである。『チボの狂宴』(2000)では、権力の凶暴性を圧倒的なリアリズムで描いているし、他の小説でも政治権力が纏う恐怖感を描くのに成功しているのに対し、このドクトルはあまりに卑小で黒幕としての恐ろしさを感じさせない。ドクトルは、「デスタペス」の二代目編集長ラ・レタキータこと、フリエタ・レギサモンが乳房の間に隠し...マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(3)

  • マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2)

    話を『シンコ・エスキーナス街の罠』に戻そう。この小説のストーリー・ラインはおよそ4つある。一つは実業家エンリケ・カルデナスの妻マリサと、彼の弁護士ルシアノ・カサスベージャスの妻チャベラとのレズビアニズムと、それに巻き込まれて3Pの行為に至福の時間を過ごすエンリケの倒錯の世界。もう一つは二年前エンリケが騙されて参加した、娼婦たちとの乱交パーティの写真をネタに、彼を恐喝する「デスタベス」(暴露の意味)の編集長ロランド・ガロの動き。そして、ガロによってテレビの仕事を失い路頭に迷った、かつての吟遊詩人フアン・ペイネタのガロに対する怨恨。さらに、ガロを殺し、次の編集長フリエタ・レギサモンを利用しようとする、フジモリ大統領の側近通称ドクトルの暗躍。一見なんも関係もないとも思える4つのラインが交互に進行していって、最後に謎が...マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2)

  • マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(1)

    マリオ・バルガス=リョサの作品については、邦訳されたものはそのほとんどを読んできた。20作品にも及ぶ小説だけではなく、文学論やエッセイ、自伝まで、ただ一冊『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(1986)を除いてすべてを読んだ。この小説を除外しているのは、それが推理小説だからという理由であり、推理小説嫌いの私にはいっこうに食指が動かないからなのである。今回『シンコ・エスキーナス街の罠』(2016)を読んだので、2010年のノーベル文学賞受賞後の彼の小説3作も読み切ったことになる。しかし、ノーベル賞受賞後の彼の作品については、いずれもそれ以前の作品に比べて作品としての訴求力が弱いという感じを否めない。『つつましい英雄』(2013)はおそらく、リョサの作品の中で最も穏当で、精彩を欠いたものだったし、受賞第1作『ケルト...マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(1)

  • 佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(3)

    さて、佐藤春夫について悪口ばかり書いてしまったので、ここで「女誡扇綺譚」に目を転じてみよう。編者の須永朝彦によれば、この作品は様々なアンソロジーに採録されているので、ここでは採らなかったということだ。確かに私が読んだのも、東雅夫編「日本幻想文学大全」の『幻妖の水脈』の巻においてだった。この作品はおそらく、佐藤春夫の怪異譚の中では出色のものであるから、是非『新編日本幻想文学集成』にも収録してほしかった。この作品の初出は「女性」1925年で、1920年に台湾に旅行した経験をもとに書いた「台湾もの」の一編である。新聞記者である「私」が、友人で漢民族の血を受けた詩人世外民の案内で、台南の禿頭港を訪れ、そこにうち捨てられた大きな廃屋(廃墟ではなく)で怪異に出会うというストーリーである。その廃屋はかつての財閥沈一族の屋敷跡...佐藤春夫『新編日本幻想文学集成』より(3)

  • 佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(2)

    「新青年」的な要素は他にもあって、それは欧米の文学作品への言及という形で現れるペダアンティズムと、よく言えばモダニズム的な言説ということになろう。活動写真の俳優の名はウヰリアム・ウヰルスン(ポオの小説「ウィリアム・ウィルソン」から)というのだし、トマス・ド・クインシーの『阿片吸引者の告白』への言及もあれば、気障な英語を平気で遣うところもふんだんにある。このバタ臭さが「新青年」の大きな特徴であっただろう。確かに「大正夢幻派」というタイトルからも窺えるように、大正期ロマンティシズムの様なものが厳然としてあったのである。「新青年」に詳しいわけではないが、江戸川乱歩のペンネームは言うまでもなく、エドガー・アラン・ポオから来ているのだし、夢野九作や小栗虫太郎などもさかんに「新青年」に執筆していたのだった。「新青年」に拠る...佐藤春夫『新編日本幻想文学集成』より(2)

  • 佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(1)

    国書刊行会は1991年から1995年にかけて『日本幻想文学集成』全33巻を発行したが、2017年に新たに『新編日本幻想文学集成』を刊行している。一人の作家につき1巻だったものを、4から5人の作家をそれぞれ1巻にまとめ、旧版発行時以降に亡くなった安部公房・倉橋由美子・中井英夫・日影丈吉の巻を追加して、全部で9巻の叢書にまとめ直したのであった。ここまで日本の幻想文学を体系的にまとめたアンソロジーは他にはないので、私は老後の楽しみに全部読んでやろうという意気込みで購入したのだった。しかしこれまでに読んだのは安部公房と倉橋由美子だけで、すでに私の老後も黄昏が近づいているのだった。安部と倉橋について書こうと思ったのだが、倉橋についてはともかく、安部にはかなり失望してしまったので、その時は書けなかった。助走としてツヴェタン...佐藤春夫『新編日本幻想文学集成』より(1)

  • コルム・トビーン『巨匠』(3)

    生涯結婚することのなかったヘンリー・ジェイムズは性的不能者であったとか、同性愛者であったとか言われているが、私は伝記を読んでいないので詳しいことは分からない。トビーンが挙げているレオン・エデル著の5巻本の伝記があるそうだが、そんなものを読む気はしない。ジェイムズの自伝も3巻本が翻訳されていて、私はそのうち1巻だけは読んだが、それを読むことで何も得るものはなかったというのが正直なところである。だから2巻と3巻は手つかずの儘になっている。私には作家がどのような人生を送ったか、などということにはほとんど興味が持てない。私に興味があるのは、その作家が作品を通して何を実現したかということであって、それ以外ではない。トビーンの興味は私とはまったく違っている。彼の興味はジェイムズが作品の裏に何を隠したかというところにあるよう...コルム・トビーン『巨匠』(3)

  • コルム・トビーン『巨匠』(2)

    確かに退屈な小説である。お話は『ガイ・ドンヴィル』上演の大失敗のことから始まるのだが、主人公ジェイムズの感情の起伏や心理の機微が見えてこない。トビーンはこの小説に、ジェイムズに倣って視点の方法を取り入れ、ジェイムズその人を視点人物として他の登場人物たちとの接触を描いていくが、ジェイムズの小説に見られる見事な分析力が微塵もない。ジェイムズの小説もある意味では退屈であり、それは彼の小説にどのような目を見張るドラマもなければ、破局的な事件も起きないからなのだが、しかしそこには心理のドラマが圧倒的に展開しているのであって、感情の激発や心理の動揺はこの上なく徹底して描かれているからだ。そんな意味で確かにヘンリー・ジェイムズは、それこそ〝巨匠〟と呼ばれるべき大作家であったのだという思いを強くする。だからある意味で、ジェイム...コルム・トビーン『巨匠』(2)

  • コルム・トビーン『巨匠』(1)

    コルム・トビーンなどというまったく知らない人の本を読むことにしたのは、その本の副題に「ヘンリー・ジェイムズの人と作品」とあったからだ。私はずっとヘンリー・ジェイムズの作品を追い続けてきたし、これまで数冊の研究書も読んできた。しかしその中には日本人の書いたもの以外は含まれていない。ならば、外国人の書いたジェイムズの研究書を読んでみようという気になったのも不思議なことではない。これまでに読んだジェイムズの研究書は、中村真一郎の『小説家ヘンリー・ジェイムズ』(これは研究書というよりは評論)、青木次生の『ヘンリー・ジェイムズ』、歿後100年を記念して日本で出版された『ヘンリー・ジェイムズ、いま』などで、『ヘンリー・ジェイムズ、いま』は酷い内容だったが、それ以外の本からは色々と示唆を受けることができた。特に昨年9月に出た...コルム・トビーン『巨匠』(1)

  • 鈴木創士『分身入門』(6)

    ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽が我々にもたらす快感、それも単なる快感ではなく、〝苦痛=快感〟と言った方が相応しいような、両義性を帯びた快感について、鈴木はややぎこちなくではあるが、うまく言い当てている。マゾッホが出てくるのは、彼らの曲にVenusinFursがあるからで、マゾッホの主人公たちの「ひどい苦痛」が一面では快楽でもあるように、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音は、苦痛と快感において可逆的である。つまりは言葉の真の意味において倒錯的なのである。あの歪んだギターと調子の外れたヴィオラが、下手くそなドラムの上で執拗に同じ音を繰り返していくノイズ感溢れた曲に、普通なら苦痛を感じてもおかしくないのに、いつしかそれに快感を覚えるようになっていき、ついには中毒に到るという体験はヴェルヴェット・アンダー...鈴木創士『分身入門』(6)

  • 鈴木創士『分身入門』(5)

    第Ⅱ部は「イマージュ、分身」と題され、そこにはもっぱら映画と音楽についてのエッセイが収められている。その中の「映画、分身」という一編は、映画と演劇の違いについて語っているが、「演劇の仕種は行為であり、映画の仕種はイマージュである」という一文からも分かるように、鈴木は映画こそがイマージュの芸術であるということを言っている。演劇では生身の肉体がそこにあるが、映画にはそれがない。あるのはイマージュであり、分身そのものである。当たり前のことだが、鈴木が演劇よりも映画を好む理由がそこにある。演劇ではまったく同じ動作が繰り返されることはないが、映画ではまったく同じ動作が分身達によって永遠に繰り返されていく。そのことを鈴木は次のようにまとめている。「映画は何度も上映され、彼らは同じ動作を永遠に繰り返すだろう」「同じ動作、分身...鈴木創士『分身入門』(5)

  • 鈴木創士『分身入門』(4)

    ここから始まって、鈴木はニーチェ、夢野久作、ジャコメッティとジュネ、ベケット、サド、坂口安吾などを縦横に論じていくのだが、いつでもキーワードとなるのは「分身」である。ニーチェはワーグナーの妻コジマへの手紙に、自分がかつてディオニュソスであり、シーザーであり、ヴォルテールであり、ナポレオンであり、さらにあろうことか、あのキリスト(アンチ・キリストについて書いた人なのに)でもあったという妄想にも似た確信を書き綴っている。鈴木にとってそれは「絶対的分身」であり、「絶えず回帰する離接的綜合は、「イマージュ」のいってみれば物質的な絶対性、無軌道であまりにも幽霊じみた光と時間の物理学的関係を成立させているはずのもの」と言い得るものなのである。こうした言い方は序文での議論に共通していて、いかに彼がイマージュとしての分身という...鈴木創士『分身入門』(4)

  • 鈴木創士『分身入門』(3)

    鈴木は「抵抗する身体」ということを言うが、他者の言語に蹂躙されつつも、なおかつ残される中核の部分をそう名付けてもいいだろう。しかし、身体はそれ自体では思考され得ぬものなのであり、誤解を生じかねない表現ではある。それを私なりに言うならば、それはエルヴィン・シュレーディンガーが言った、単数形でしか存在し得ないものとしての「私」の意識ということになろう。こんなことを書いているといつまでも序文から抜け出せないので、鈴木が序文の最後に書いている一節を引用して、序文からの脱出を図ることにしよう。「芸術は消え失せ、分身は残る。分身の歴史は禁断のモンタージュであり、歴史の言いそこなった断片でもある。それは書かれなかったのだ。私は分身を、幾人かの量子物理学者にとつて反物質が016そうであるように、絶対的実在と見なしている。本書に...鈴木創士『分身入門』(3)

  • 鈴木創士『分身入門』(2)

    引用した文章について、物の分身とはヴァーチャル・リアリティのことではないのか、だとすればなぜこの文章を〝説得的〟などと言い得るのか、と反論する声が聞こえる。しかし、分身はヴァーチャルでもあり得ず、そこに実体として存在する。この文に続くのは次のような一節である。「いまやあらゆるイマージュはわれわれの暮らす世界のあちこちでアーカイブとして保存されている」あらゆる〝もの〟がデジタル情報として世界の到るところに格納され、あるいは再現されている。それらがデジタルである以上、模像にすらなり得ない実体なのである。それらは否応もなく実体であってしまうとさえ言えるだろう。そして鈴木が言うように、それらの情報を追体験すること、強迫観念に駆られるようにして追体験しようとすることは、精神病をしかもたらさず、「われわれは発狂するだろう」...鈴木創士『分身入門』(2)

  • 鈴木創士『分身入門』(1)

    「北方文学」84号にジェイムズ・ホッグの分身小説について書いた時に、私は〝分身論〟のようなものを参照することが全くなかった。世の中には数多くの分身小説があるから、分身について文芸評論的に、あるいは哲学的・理論的に書かれた本があるのではないかと思うが、なぜか私のアンテナに引っかかってこない。幻想小説についての理論的な書として評価の高い、ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』にも、分身について論じた部分はないし、ゴシック小説について書かれた何冊かの本にも、分身論を含んだものはなかった。もっとよく探せばあるのかも知れないが、とにかく私はホッグの『義とされた罪人の手記と告白』について論ずるときに、分身論というものをほとんど自前で構築するしかなかったのである。アントナン・アルトーの翻訳者として知られる鈴木創士の『分身入...鈴木創士『分身入門』(1)

  • 北方文学84号、400頁で発刊

    「北方文学」第84号が発刊になりましたので、紹介させていただきます。今号発行を前に新村苑子が高齢のため同人を去り、長谷川潤治が亡くなり、着実に高齢化による同人減少が続いているのに、今号はなんと400頁の超大冊となりました。これはやはり、一人一人の同人の創作意欲の高まりによるものと考えるしかないでしょう。特に今号は長めの小説を4本揃え、評論・研究の充実と相俟って、ページ数が激増したというわけです。巻頭は館路子の詩「虹への軽いオブセッション」で、詩を書く同人が減ってきていることもあって、ここが館の指定席になりつつあります。最近、文学作品をモチーフに書くことが多くなっていた館ですが、今回は〝虹〟がモチーフです。禁忌としての虹を追い求める〝あなた〟とは何か?なにかこれまで捨て去ってきたものへの慚愧の思いさえ感じさせます...北方文学84号、400頁で発刊

  • ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(5)

    ここまで書いてきて、昨年9月に出たばかりの、大畠一芳著『ヘンリー・ジェイムズとその時代』という本を読むことになった。序章として書き下ろしの「アイルランドから新大陸アメリカへ――ジェイムズ家の三世代」という論考が置かれている。これはアイルランドの農民に生まれたウィリアム・ジェイムズが、アメリカに移住して成功を収め、その子ヘンリー・ジェイムズと、そのまた子供たちウィリアム・ジェイムズとヘンリー・ジェイムズが生涯働くことなく、好きなことに専念できる環境をつくったという物語である。ウィリアムとヘンリーという名前が何度も出てきて紛らわしいが、我がヘンリー・ジェイムズからすれば、アメリカで成功したのは祖父ウィリアム・ジェイムズであり、その子ヘンリーは彼の父親である。父ヘンリーは祖父の厳格なプロテスタンティズムに反旗を翻して...ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(5)

  • ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(4)

    さて、話はクリスチーナ・ライトのことに移らなければならない。この女性の一見自由奔放に見えながら、実は母親の虚栄のためにがんじがらめにされているというあり方は、『鳩の翼』のケイト・クロイが置かれた情況によく似ている。クリスチーナは母のライト夫人が望む良縁を受け入れざるを得ない立場に置かれている。ライト夫人が借金をしてでもそのために費やしたお金は膨大なものに登り、クリスチーナは財産のある男と結婚しなければ、母の借金を返済することができないからだ。『鳩の翼』のケイトもまた、叔母のラウダー夫人に支配されている。夫人は、ケイトの恋人デンシャーと彼女との結婚を、彼に財産がまるでないが故に受け入れることができない。さらに、ケイトには零落した父と姉がおり、彼らの窮状を救うためにも財産のある男と結婚しなければならないのである。そ...ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(4)

  • ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(3)

    視点という方法についてもう少し述べるならば、ヘンリー・ジェイムズの小説は視点の方法に貫かれているが、視点人物を一人に限定した作品と、視点人物を複数に設定してそれを切り替えていく作品との二通りがあることを、言っておかなければならない。ジェイムズの作品には『ロデリック・ハドソン』や『聖なる泉』『使者たち』など、視点を主人公か副主人公に設定し、唯一の視点から小説を展開していく作品と、後期の『鳩の翼』と『金色の盃』のように、複数の視点人物が登場し、その切り替えの中から新たなドラマを創出していく作品があるのだ。これを執筆順に見ると、後期三部作の最初の作品である『使者たち』までは、すべて単一の視点に立った作品であり、複数の視点人物を登場させる作品は、最後の二作『鳩の翼』と『金色の盃』に」限定されていることが分かる。ジェイム...ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(3)

  • ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(2)

    『使者たち』のストレザーは、チャドとヴィオネ夫人の関係に対して傍観者的な位置にいる。彼はチャドの変貌について、それがヴィオネ夫人の高潔な人格による感化がもたらしたものと考え、チャドをアメリカに連れ戻すことを断念し、ミイラ取りがミイラになるごとく、アメリカ人の物質的価値観に対して、ヨーロッパ人の精神的価値観の味方に転じるのである。しかし、ストレザーはパリにおける彼の案内人であるゴストリー嬢に対しても、何事かを訴えようとしているかに見えるヴィオネ夫人に対しても、決して積極的に動こうとはしない。あくまでも傍観者として、恋愛関係に入ることを避け続け、チャドとヴィオネ夫人に対しては観察と考察を続けるのみである。『ロデリック・ハドソン』のマレットもまた、ハドソンと彼がアメリカに置いてきた許嫁ガーランドとの関係について、自身...ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(2)

  • ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(1)

    この半年あまり、わが「北方文学」の84号(近日刊行)に「欲望の他者への差し戻し――ジェイムズ・ホッグの分身小説」を書くために、JamesHoggのThePrivateMemoirsandConfessionsofaJustifiedSinnerを、四苦八苦して原語で読んだりしていたため、ブログを更新する意欲を失ってしまっていた。しかし、ジェイムズ・ホッグ論を書くにあたって、過去に書いておいたこのブログの「ゴシック論」が大いに役に立ったので、ブログを書き続けることの重要性を認識しているところだ。「北方文学」の原稿も書き上げ、一段落したので、最近新訳の出たヘンリー・ジェイムズの『ロデリック・ハドソン』を読むことにした。小説を読むことに関しては、「困ったときのバルザック」を信条にしていて、何を読むか迷ったときにはバル...ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(1)

  • 「北方文学」第83号紹介

    「北方文学」第83号が発刊になりましたので、紹介させていただきます。今号は執筆者が少なかったのですが、長編作品が多く244頁の大冊となり、同人の創作意欲が健在なことを感じさせます。巻頭に田原さんの詩「母を悼む」を2篇掲載。田原さんは近頃母親の郭秋娥さんを亡くされたそうで、「母の葬儀」は文字通り中国式葬儀の様子を克明に描いています。日本の仏式葬儀との大きな違いを感じさせます。「赤いマホガニーの棺」とあり、重さが1トン、クレーン車で吊って墓穴に入れるというから驚きです。高級家具に使うマホガニーを棺桶に使って、使者を鄭重に弔うということですね。館路子の長編詩「白く燃える火のオード」が続きます。先号から動物シリーズに代わって、文学作品をテーマにした連作ということになりましょう。川端康成の「雪国」と鈴木牧之の「北越雪譜」...「北方文学」第83号紹介

  • フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(3)

    イッポリートはこの告白文を読み上げた後、ピストル自殺を図るが、雷管が装填されていなかったため失敗に終わる。この自殺未遂にドストエフスキーが、どのような意味を込めているのか、はなはだ不可解なところがある。自分の死を自分自身で決すると表明しておきながら、ピストル自殺に失敗するなどまるで茶番であり、そう意図しているのであれば、作者はイッポリートの告白の内容そのものを、カリカチュアとして描いていることになるが、そう読んでいいのだろうか。イッポリートの年齢は18歳に設定されているから、自殺失敗の結末はイッポリートの思想の未熟さを示しているとも読めるが、必ずしもそうとばかりも言えない。ドストエフスキーのどの小説を読んでも、登場人物の思想に対する〝肯定と否定〟の同時性はいつでも指摘されるのであり、そうした大きな矛盾こそがドス...フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(3)

  • フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(2)

    ほんとに三つ巴がこの小説の根幹をなしているのであれば、第1部と第2部の間にあったはずの、三人の6か月にわたるモスクワ滞在について、ドストエフスキーはなぜ一切を省略したのだろう。そこで何があったのか、ムイシキンとの結婚を直前にしてナスターシャが逃げ出したことは、他のところで仄めかされているが、なぜそんな大事なことを省いてしまったのだろう。本来ラストシーンにつながる重要な伏線はそこで張られるべきなのであり、そうでないと第4部のラストシーンの本当の意味が明らかにならないのではないか。しかし、そんな大事な場面を省略したということは、それを作者のミスや不注意と考えるわけにはいかないということを逆に示している。意図的な省略に決まっているのだ。これをもし黙説法という高等技術だというならば、それは行き過ぎであって、ほとんど失敗...フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(2)

  • フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(1)

    まだ少し時間の余裕があるので、亀山郁夫の新訳が出たドストエフスキーの『白痴』を読み返してみることにした。ドストエフスキーの後期五大長編は、五十年来ことあるごとに読んできて、『未成年』以外はそれぞれ3~4回読んでいる。中でも『カラマーゾフの兄弟』は4回読んで、読むたびに新鮮な読書体験をすることができ、私はこの作品が世界文学史上最高の小説だと思っている。『白痴』はおそらく2回目か3回目になると思うが、『未成年』は別として、ドストエフスキーの作品の中であまり好きになれないと言うか、よく理解できない作品として位置づけられる。主人公ムイシキン(従来ムイシュキンと表記されてきたが、亀山がムイシキンと表記しているので、それに倣う)に対して、他の作品の主人公たち、ラスコーリニコフやスタヴローギン、イワン・カラマーゾフほどに感情...フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(1)

  • アルベール・ベガン『真視の人 バルザック』(3)

    アルベール・ベガンはバルザック作品中の人口統計から見て、そこに娼婦の占める割合が現実世界におけるよりも、異常に高いことに注目している。19世紀にあって貧困層の若い女性の職業はごく限られたものであり、女工、女中、そして娼婦になることくらいしかお金を得る道がなく、街には娼婦が溢れていたという。レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの『パリの夜』などを読むと(この人は18世紀の作家であるが)そんな社会状況がよく分かる。しかしそれにしてもバルザックの小説にはたくさんの娼婦が登場して、主要な役割を果たしているから、彼には娼婦の世界に対する偏執的な嗜好があったとしか考えられない。ベガンは次のように言っている。「要するに娼婦たちは淑女の利己主義から解放されており、自分を大事に取っておいて計算づくで愛情を与える者の慎重さを欠いているから、...アルベール・ベガン『真視の人バルザック』(3)

  • アルベール・ベガン『真視の人 バルザック』(2)

    アルベール・ベガンは本書のエピグラフとして、ボードレールの書いたバルザック評価の一節を掲げている。「バルザックのあの大いなる栄光は、彼が一観察家とみなされることにあったと知り、私はたびたび驚いたものである。かねてから私には、彼の主な長所は幻想家(visionaire)、それも熱情的な幻想家というところにあるような気がしていたからだ。すべて彼の創造人物たちは、彼自身を燃やしている生命の熱を授けられている。貴族階級の最頂から平民の最下層にいたるまで、彼の『人間喜劇』の中のありとあらゆる俳優が生に対してどん欲であり、争闘のなかで積極かつ狡猾であり、悲運にあって忍耐強く、楽しみに飽くことを知らず、献身において天使のごときこと、現実世界の喜劇が呈している以上のものがある。要するにバルザックにあっては、どれもこれも天才を具...アルベール・ベガン『真視の人バルザック』(2)

  • アルベール・ベガン『真視の人 バルザック』(1)

    私設図書館として私どもが運営する「游文舎」で、アルベール・ベガンの『真視の人バルザック』という本を発見したので、早速読んでみた。アルベール・ベガン(1901~1958)はスイスの学者で、その大著『ロマン的魂と夢』が有名。その本は学生時代に買って読み、大きな感銘を受けて今でも大切にしている。『ロマン的魂と夢』はドイツ・ロマン派研究の書でもあり、それがフランス・ロマン派に与えた影響について詳しく論じた名著であり、私は大学の時、興味を持ったジェラルド・ネルヴァルに影響を与えた、ドイツ・ロマン派について知りたいがために、その本を購入したのであった。「真視の人」というのは耳慣れぬ日本語であるが、visionnaireの訳であり、普通であれば〝幻視者〟と訳すところであるにも拘わらずそうしたのは、訳者の西岡範明によれば、vi...アルベール・ベガン『真視の人バルザック』(1)

  • オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(5)

    ルイ・ランベールのような青年の極端に観念的な精神性が、ある種の幼稚さに支えられていることは、バルザックが言うまでもなく自明であり、それは極めて危険な状態である。本人は自らの観念性を自分の偉大さを証明するものと思っているかもしれないが、それは彼が観念によって、観念というもの自体の高みへと引きずり上げられているだけであって、決して彼の偉大さを証明しない。どこかで必ず破局がやってくる。破局は現実に直面した時の敗北という形で訪れることもあれば、自らの先行きに恐怖を感じて撤退するという形でやって来ることもある。彼が分裂病者でなければそうした破局は致命的なものとはならないが、ルイのような分裂者の場合、破局は致命的なものとして訪れる。ルイの場合それは恋愛と結婚ということをきっかけとしてやって来る。ユダヤ系の資産家の娘ポーリー...オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(5)

  • オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(4)

    さて、この小説が「人間喜劇」の中の「哲学的研究」に位置づけられ、その中でも特別な光を放っているのは、そこでスウェデンボルグの思想やルイ自身の思想についての多くの議論が行われているからである。『セラフィタ』でもそうした議論はあったが、『ルイ・ランベール』の方がその比重は大きく、まさに〝哲学小説〟と言うにふさわしい内容を誇っている。まずその『天界と地獄』についての読解は、ルイによって語られたものとして、この小説の語り手(バルザック自身と言ってもよい)によって、以下のように要約されている。人間の内部にはお互いに違う二つのものが住んでいて、その一つは天使的な存在であり、もう一つは物質的な存在である。人間はその天使的な気高い性質を育てることに専念しなければならず、そうすることによって「天界を開く鍵」が与えられる。人間たち...オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(4)

  • オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(3)

    実は私にもそのような観念の世界での友人が、高校時代に一人だけ存在した。『ルイ・ランベール』はバルザックの自伝的小説だと言われているが、彼もまたルイのように学生生活の中で孤立を深めながらも、観念の世界での友人を得ることがあったのかもしれない。それはルイにとっても、バルザックにとっても唯一の救いであり、慰めであっただろう。しかし、それだけでは済まない。ことはそう簡単ではない。そのような二人は共謀ともいえるような精神生活の中で、さらに観念の世界を肥大させ、純化させることになるからである。互いが互いにとって救いであると同時に、そのような二人は観念の世界でのライバルでもあって、お互いに刺激し合い情報を交わす中で、さらに難しい本に挑戦し、相手よりも高みに到ろうとする競争意識が強く働く。そして一人でいるときよりもさらに孤立は...オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(3)

  • オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(2)

    ルイ・ランベールは幼少期から聖書に親しみ、10歳の頃には読む本を寄附してもらうために町中を歩きまわったという。そしてスウェデンボルグの『天国と地獄』という神秘思想の本に出会い、決定的な影響を受けるに至る。当時まだフランスではほとんど知られていなかったその本を読んでいるところを、ナポレオンと生涯対立したことで知られるスタール夫人に見出され、援助を受けて高等中学に入学するのである。この時ルイはまだ14歳。今の日本でいえば中学2年生というところ。〝身につまされる思いがした〟と私は書いた。私もまた中学生の時に親に与えられた世界文学全集によって、文学の世界へと運命づけられたという思い出がある。教養主義的に考えればそれは慶賀すべきことと思われるかも知れないが、本にのめり込むことには必ず大きな代償がつきまとう。本というものは...オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(2)

  • オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(1)

    バルザックの『幻滅』について書いてから、5か月が経過しようとしている。この間、「北方文学」82号の原稿があったり、同人の霜田文子の本『地図への旅』編集作業があったりして忙しかったのだが、相変わらずバルザックはよく読んでいた。水声社から出ている『バルザック幻想・怪奇小説選集』の第3巻も読んだ。同じく水声社の『バルザック芸術/狂気小説選集』の第1巻も読んだ。また国書刊行会から昨年秋に出た、本邦初訳の『サンソン回想録』も読んだ。どれも面白く読んだのだが、ブログに書こうという気にならなかったのは、やはり自分の原稿に集中する必要があったからだ。『バルザック幻想・怪奇小説選集』は「神と和解したメルモス」を読むのが目的だった。『幻滅』について書いたときに、バルザックが創造した最も偉大な登場人物ヴォートランの人物像が、マチュー...オノレ・ド・バルザック『ルイ・ランベール』(1)

  • 「北方文学」第82号刊行

    「北方文学」第82号が発刊になりましたので、紹介させていただきます。80号、81号と同人の死が相次ぎ、追悼特集を余儀なくされましたが、今号は幸い追悼の必要はありませんでした。それにも拘わらず264頁の大冊となり同人の旺盛な創作意欲を感じさせます。巻頭に館路子のいつもの長詩。このところ動物をモチーフとした作品を書き続けてきましたが、今号の「雪あるいは古書が秘するファム・ファタール」では動物は登場せず、谷崎潤一郎の「細雪」と「春琴抄」がモチーフとなっています。しかも大正生まれの母親が残した昭和24年の粗悪な紙質のそれらの本は、母の記憶をも呼び起こします。なにか書評を思わせるような一編です。詩がもう一編。大橋土百の「DeathトピアのためのCollage」。いつもの俳句ではなく現代詩で、大橋独特の土着的精神は感じられ...「北方文学」第82号刊行

  • 新刊 霜田文子著『地図への旅』

    霜田文子氏の『地図への旅―ギャラリーと図書室の一隅でー』を刊行しました。『未完の平成文学史』の著者である、元日本経済新聞文化部編集委員、浦田憲治氏のまえがき掲載。帯文を紹介します。文学と美術が奏でる美しい旋律読んで感じるのは、美術評論家や文芸評論家の本とずいぶん肌合いが異なっていることだろう。あたかも岸田劉生や小出楢重らの画家が書いた評論やエッセーを読むかのような、心地よい官能性がある。霜田さんのもつ明晰な頭脳、豊富な読書体験、旺盛な知的好奇心に加えて、美術作家としての柔らかで鋭敏な感受性を感じとれる。文学と美術が見事に共鳴し、美しい旋律を奏でている。本書は、文学や美術などの芸術が「知性や感性の冒険と遊び」であることを教えてくれる。元日本経済新聞文化部編集委員浦田憲治(まえがきより)取り上げられた作家たち川田喜...新刊霜田文子著『地図への旅』

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(12)

    話が19世紀的リアリズムのことに戻ってしまったが、以上のような議論は19世紀的リアリズムの今日における有効性の領域を確定するものだと私は思う。フランスでは20世紀半ばにヌーボー・ロマンが勃興し、バルザックに代表される19世紀的リアリズムは全否定され、バルザックが諸悪の根元であったかのように言われたこともあったが、ヌーボー・ロマンは世界文学に行き詰まりと停滞をもたらしただけで、すぐに消え去ってしまった。20世紀半ば過ぎの所謂ラテン・アメリカ文学のブームは、19世紀的リアリズムの復権と、物語の再興をもたらした。魔術的リアリズムという言葉はもともと矛盾を孕んでいるが、リアリズムが否定されているわけではない。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は物語の再興という意味で、ヌーボー・ロマン的なものへのアンチテーゼであったが、...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(12)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(11)

    今、私は宮下志朗という人との『読書の首都パリ』という本を読んでいて、その第Ⅰ章に「発明家の苦悩――バルザックとブッククラブ」という項があり、それを読んでバルザックがなぜ『幻滅』において、あれほど印刷業界と出版業界のことを生き生きと書くことができたのか、その理由を知ることができた。宮下はバルザックについて「かつて印刷・出版の世界でベンチャービジネスに乗り出して、手痛い失敗をこうむった借金男」と書いている。バルザックが莫大な借金に追いまくられて、小説を量産していたことは知っていたが、その借金の原因が印刷・出版にかかわるビジネスであったことは知らなかった。バルザックの生涯についての本の一冊でも読んでいれば、そんなことは常識的に分かることなのだが、私はそもそも作家の伝記のたぐいを好んで読む習慣を持たない。文学作品がその...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(11)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(10)

    以上のカルロス・エレーラの言葉を一般論として読み、「世間の人間は孤独に耐えきれずに、自らの運命の協力者を欲するが、自分はそうではない」という矜持の言として、それを捉えることはできない。カルロスは続いてリュシアンに、次のように内心を吐露してみせるのだからである。「わしは孤独の人間。ただ一人生きている。僧服をきてはいるが、坊主の心はもたん。わしは献身ということが好きで、こいつがわしの欠点でな。この献身でもってわしは生きている。」だがカルロスは、自分もまた一般論に該当する「孤独に耐えきれずに、自分の運命の協力者を欲する」者だと言っているのである。さらにその協力者のためなら、どのような献身も厭わないとさえ言う。この稀代の悪人には似合わぬ「献身」の精神こそ、ヴォートランの悪人としての真の二重性を示すものである。このような...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(10)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(9)

    カルロス・エレーラことヴォートランもまた『浮かれ女盛衰記』において、放浪者メルモスのような八面六臂の活躍をすることになるのであり、その行動はリュシアンとエステルを救うことにおいて善であり、そのために彼等の周囲の人間に損害を与えることにおいて悪である。この二重性の中にはヴォートラン自身の精神性が含まれているはずであるが、それがどのようにしてであるのか、『浮かれ女盛衰記』を読んだだけでは理解できない。最初に私が書いたように、なぜカルロスは、縁もゆかりもない若者リュシアンの窮状を救おうとするのか、という疑問に『浮かれ女盛衰記』は答えてくれない。それに答えてくれるのは『幻滅』において、破滅の末自殺を決意したリュシアンとカルロスが出会う場面である。『浮かれ女盛衰記』でカルロスは、いわゆる〝義賊〟として活躍していた。つまり...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(9)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(8)

    さて、いよいよヴォ―トランという人物について語らなければならない。ヴォートランの人物造形は私には、マチューリンの『放浪者メルモス』の主人公メルモスにその多くをよっているとしか思えない。その証拠としてバルザックの青年期の作品『百歳の人』LeCentenaireoulesdeuxBéringheldを挙げることができる。この若書きの小説は1822年の刊行で、当時マチューリンの『放浪者メルモス』が翻訳されて、フランスで人気を博していたという。前にも書いたように『百歳の人』はあまり出来のよい小説ではなく、明らかに『放浪者メルモス』の二番煎じにすぎない作品だが、若きバルザックがこのメルモスという人物に深い共感を寄せていたことは、充分読み取ることができる。「二人のベランゲルト」というのは、この小説の二人の主人公と言ってもよ...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(8)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(7)

    だが、リュシアンの破滅への行程はまだ終わってはいない。彼の破滅を決定づけるのは、親友ダヴィッドの名を騙った手形偽造である。ジャーナリズムというものをよく知らずに犯す失敗や、賭博上の失敗などは、まだ許せないこともないが、親友の名を騙った手形偽造というのは、明らかに犯罪行為であり、信義にもとる行為であるからである。それによってダヴィッドとその妻エーヴ(リュシアンの妹)が、どのような苦境に陥っていくかというのが、『幻滅』におけるもう一つの重要なプロットである。ダヴィッドは印刷屋の経営者としてよりも、新しい製紙法の発明の方に精力を傾けていき、もう少しで成功というところまで漕ぎつけるが、彼の周りではその発明による経済的利益を簒奪しようとする者たちが様子をうかがっている。そんな時に、リュシアンの偽造手形によって借金を背負っ...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(7)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(6)

    「セナークル」のメンバーたちはこのように、文学や哲学というものに係わる時に、策を弄してのし上がろうなどという野心を抱くことなく、貧困に耐えながらひたすら研鑽に励むことによって、世間に認めさせようという、いわば古めかしい知識人像を代表している。しかしリュシアンには彼等のような忍耐力がない。リュシアンにとって成功の手段は、唯一金である。《ああ、なんとかして金をえること!金だけがああいう連中をひざまずかせる唯一の権力なんだ》というのがリュシアンの考えであり、それによって彼は失敗を運命づけられてしまうのだと言ってもよい。リュシアンが次に接触するのは出版業界である。彼が「シャルル九世の射手」という自分の小説を売り込もうとすると、無名の作家の作品などほとんど相手にされず、足元を見られて買いたたかれそうになる。また彼の詩集に...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(6)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(5)

    一方主人公リュシアンは、ダヴィッドとは対照的な人間として描かれていく。リュシアンの詩人としての才能をパリで開花させるという欲望に火をつけるのは、バルジュトン夫人である。彼女はリュシアンにリュバンプレという母方の貴族の家名をつけるため、パリの貴族社会に取り入って、国王の裁可を売るという計画をも唆し、天才の政治学を吹き込みさえする。それは次のようなものだ。「大きな仕事を完成しなければならないので、天才は誰の眼にもあきらかなエゴイズムをしいられ、自分の偉大さのために一切緒を犠牲にせねばならぬ。(中略)天才は天才にのみ所属している。彼のみがその手段の審判者である。天才だけがその目的を知っているのだから。で、おきてをつくり直すべき人が彼であるから、かれはすべてのおきてを超越しているべきだ。」まるでドストエフスキーの『罪と...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(5)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(4)

    この小説の最初に出てくるのは印刷業界である。ダヴィッドの父ジェローム・ニコラ・セシャールは無学の印刷工で、フランス革命恐怖政治の時代に、死んだ親方の後を引き継いで免状を取得し、印刷屋の経営者となる。セシャールは貪欲でずるがしこい男であり、職人を酷使し、息子に対しても厳しい扱いをするのだった。「学校の休みの日は《お前を育てるのに骨身をけずってはたらいた気の毒なおやじに恩がえしできるようにしっかり世渡りの道をおぼえろよ》といいながら、息子に活字ケースにむかってせっせと働かせた。」バルザックは印刷業界内部における階層についても詳しく書いている。印刷工は文字が読めなくてもできる仕事であり、文選工はそうではないから、自ずからそこにインテリジェンスの違いというものがある。確かに現代の日本においても50年くらい前までは活版印...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(4)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(3)

    登場人物が多いということは、作品が長いということに当然帰結するのであって、『幻滅』は東京創元社版全集の中でもっとも長大な小説である。ということはバルザックの作品の中で最も長い小説ということになる。上巻232頁、下巻303頁で、合わせて535頁の大作である。全集で上下巻に分けて収載されているのは他に『浮かれ女盛衰記』しかなく、こちらは上巻372頁、下巻129頁で合計501頁である。二つの小説はリュシアン・ド・リュバンプレを主人公とする一つの小説とも見なされるから、両方合わせれば1000頁を超える大長編ということになる。『幻滅』は最後に、自殺をしようとするリュシアンを救うカルロス・エレーラの出現の段階で終わっているから、カルロスことヴォートランの活躍を待って初めて完結する一つの物語なのである。つまりこれは「人間喜劇...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(3)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(2)

    ヘンリー・ジエイムズは、1905年のバルザックをめぐる講演の中で、次のような発言を行っている。「彼には他の大作家に見られぬ特徴があります。読者に好都合なように、ある特定の作品が群を抜いて他のものよりすぐれているということが言えないのです。」つまりジェイムズは、バルザックの作品は「人間喜劇」という大きな「一つのかたまり」であって、その中から特定の作品を取り出して優劣を言うことには意味がないということを言っている。「読者に好都合なように」とは、多くの作品を持つ大作家に接する時に、代表作だけを「好都合」に読んで済ませることができないということも意味していて、読書の効率ということを考えた時には、誠にバルザックという作家は読者にとって不都合な作家なのである。さらにジェイムズは次のように言う。「作品の一つが傑出していて他の...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(2)

  • オノレ・ド・バルザック『幻滅』(1)

    随分長いことこのブログから遠ざかっていたが、そろそろ復帰しなければならない。今年3月と4月は、「北方文学」にヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』についての論考と、「群系」にリービ英雄についての文章を書くことに費やした。5月と6月の大半は「北方文学」の編集に時間を取られていたから、7月になってようやく好きな本を自由に読むことができるようになった。5月から今月までにバルザックを三作読んでいる。最初に『百歳の人――魔術師――』。この作品はバルザック青年期の習作とも言うべきもので、はっきり言って出来はよくない。この作品は明瞭にチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』の影響が窺われ、出来そこないのメルモスといった印象しか受けない。『百歳の人』を読んで一番強烈に感じたことは、『放浪者メルモス』のマチューリンがいか...オノレ・ド・バルザック『幻滅』(1)

  • 「北方文学」81号紹介

    「北方文学」第81号が発刊になりましたので、紹介させていただきます。80号に引き続いて今号も追悼特集を組むことになってしまいました。最後の創刊同人であった大井邦雄氏が今年1月に亡くなってしまったからです。大井氏は早稲田大学名誉教授であり、定年後もシェイクスピア研究をライフワークとして続け、2014年にはハーリー・グランヴィル=バーカーの訳述で日本翻訳文化賞特別賞を受賞しています。シェイクスピア研究の泰斗、大場建治氏はじめ、多くの同僚の方や弟子の方々から追悼文をいただきました。同人の追悼文も5本掲載しました。かなり詳細な略年譜も作成しました。大井氏本人の作品も2編掲載しています。「北方文学」第2号掲載の詩「パンと恋と夢」と、第59号掲載のウィルフレッド・オーウェン論です。シェイクスピア研究に一生を捧げた大井氏の原...「北方文学」81号紹介

  • オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(4)

    『ワシントン・スクエア』の大きな特徴は、35の章からなる小説において、ほとんどの章が登場人物1対1の指し向かいの構図を持つということである。こうした特徴はジェイムズの後期3部作で集大成を見ることになるもので、特に一番最後の『金色の盃』でその構図は完璧なものとなる。なぜそんな構図にするかというと、ジェイムズが登場人物の一人ひとりを1対1の構図におくことによって、そこに心理的な緊張の場を作り出す意図があるからである。そんな構図はフランスの心理小説において顕著なものとなっているが、1対1の場面ではじめて、一人が一人の人物に対して、その本来の姿を顕わにすることが可能だからである。『ワシントン・スクエア』は心理小説としての特徴を持っていて、1対1の対決の場面はさまざまな組み合わせで実行されるが、終局的には父スローパー博士...オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(4)

  • オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(3)

    ではバルザックの『ウジェニー・グランデ』と、ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』を比べて読んでみよう。二つの小説のあらすじから紹介していくことにする。『ウジェニー・グランデ』は守銭奴の父グランデ氏の圧政の下にある従順な娘ウジェニーが、破産して自殺したグランデ氏の弟の息子シャルルと相思相愛の仲となるが、お金のことしか考えない父親に対して次第に自立した女性として成長していく物語ということになろうか。一方『ワシントン・スクエア』は、人間として完璧な父親スローパー博士への敬愛と、彼女に結婚を申し込んだモリス・タウンゼントへの愛とのはざまで苦しみながら、自立していくキャサリンの物語ということになる。『ウジェニー・グランデ』との違いはグランデ氏がお金のためならどんな汚いことでもやり、自分の吝嗇を家族に対しても強制...オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(3)

  • オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(2)

    ヘンリー・ジェイムズが〝バルザックの教訓〟と言う時、それは人生上の教訓や、道徳上の教訓を意味していない。バルザックの小説は〝いかに生きるか〟などというテーマを追っているのではないからだ。たとえばバルザックが、『従妹ベット』の高級娼婦ヴァレリーを愛していたとしても、それは彼女の生き方が正しいという理由によっていない。ジェイムズの〝教訓〟というのは、ほとんど小説作法上の〝教訓〟というに等しい。たとえば次のようにジェイムズが語るのも、作家とその作中人物の関係のあり方という方法上の問題に帰結するだろう。「この上なく生命感に溢れる強烈な個性の持ち主を愛したことによって、バルザックははじめてあのように見事な作中人物を次々に活躍させられたのです。作中人物の見せるさまざまな動き、つまり作者の手を離れ、それぞれの性格に基づいて自...オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(2)

  • オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(1)

    『セラフィタ』の余韻の残る中、次に選んだのはオノレ・ド・バルザックの最高傑作とも言われる『ウジェニー・グランデ』である。とにかくバルザックの名作といわれる作品を優先的に読むことにした以上、この作品は欠かすことができない。しかし、もう一つ大きな理由がある。それはヘンリー・ジェイムズの中期の作品『ワシントン・スクエア』が、バルザックのこの作品の影響下に書かれたという話を読みかじったからである。『ワシントン・スクエア』は大傑作とは言えないかも知れないが、ヘンリー・ジェイムズの特徴をよく示した作品であり、比較して読んでみない手はないと私は考えたのだった。ヘンリー・ジェイムズはフローベールやゾラ、モーパッサンなどと交流があり、フランス文学に対する理解には並々ならぬものがあったが、彼が一番愛したのはバルザックであったように...オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(1)

  • オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(4)

    以上のような結論の前に「動いているけれど、生き物ではないもの、思想を生むけれど、精神ではないもの、悟性が形を持ったものとしては捉えることのできない生きた抽象物で、どこにも存在しないけれど、どこにでもみられるもの」という、《数》についての定義が行われている。《物質》をしか信じない者にとっても、《数》に立脚しなければ人間の生そのものが成り立たない。《数》は物質ではないがどこにでもあり、実在物ではないが「生きた抽象物」なのである。《数》は《精神》そのものではないが、《精神》によって生み出された概念である。《数》を信じないではいられないというのであれば、《神》もまた信じないで済ませることはできない。《数》が《精神》が生み出す概念であるならば、《神》もまたそのようなものとしてある。「悟性が形を持ったものとしては捉えること...オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(4)

  • オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(3)

    セラフィタ(セラフィトゥス)に愛を拒絶されたウィルフリッドは、彼女(彼)の中に不可思議な存在を感じ取り、彼女(彼)について訊ねるために、ミンナの父親ベッケル牧師のもとを訪れる。ベッケル牧師は「スウェーデン館」に、父母の時代からの使用人ダヴィッドと暮らすセラフィタ(セラフィトゥス)の生い立ちについて、二人に話す。ベッケル氏によれば、彼女(彼)はスウェーデンの神秘思想家スウェーデンボリに心酔した父母が、ノルウエーにやってきて建てた「スウェーデン館」に残した子供なのであった。父親はセラフィッツ男爵といって、スウェーデンボリに最も愛された弟子であり、母親は女性の中に《天使霊》を求める男爵のために、スウェーデンボリが幻視の中に探してきた、ロンドンの靴屋の娘だという。二人は「スウェーデン館」で世に隠れて暮らし、セラフィタ(...オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(3)

  • オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(2)

    以上引用してきたような緻密な描写は、必ずしもリアリズム文学に特有のものではない。それは緻密であると同時に正確でもある一方、想像力を全開にした奔放なものでもある。想像力を駆使しながらも、ロマンティックな感情に流されず、あくまでも現実感をもたせることを優先して、この様な描写は続いていく。フランスならバルザックの後輩にあたるロマン主義作家、テオフィル・ゴーチエの『ミイラ物語』に、これと同質の描写を見出すことができる。エジプト古代の王の墳墓を発掘する考古学者たちが、そこに発見する驚くべき石棺と、その内部の装飾や財宝についての、延々と続く稠密な描写がそれである。『ミイラ物語』もまた幻想小説であるが、そのような描写は作品にリアリティを与えるために欠かすことのできない作業なのである。バルザックもまた『セラフィタ』の冒頭におい...オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(2)

  • オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(1)

    もうしばらくすると私は、「北方文学」81号の原稿のために、ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』と『金色の盃』を読み直さなければならないのだが、今月いっぱいは好きな本を自由に読むことができる。そんなときに短編集は小説を読む楽しみが一編ごとに途切れてしまうために、お勧めではない。なんといっても長編に限る。そしてまたまたバルザックを読むことにしたのだが、それは彼の作品が冒頭から一気に没入することを許してくれるからだ。どの作品を読んでもその小説世界にすんなり入っていくことができるし、『絶対の探求』の冒頭のような延々と続く背景説明も、私には心地よい。『セラフィタ』を今回選んだのは、この作品がバルザックの小説の中では、極めて珍しい幻想小説として位置づけられるものだからだ。『セラフィタ』は東京創元社版の全集に含まれておらず、日本...オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(1)

  • ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(3)

    この小説のテーマが男同士の〝信義〟と、男女間の〝恋愛〟の問題に絞られているとすると、そのいずれの場合においても掘り下げが足りないという印象を拭えない。『信頼』が、あの圧倒的に完成度の高い『ある貴婦人の肖像』の直前の年に書かれたということが信じられない。男同士の問題について言えば、妻に迎えたブランチ・エヴァーズとの危機の中で、ロングヴィルがアンジェラと婚約したことに傷つけられたライトが激昂して、あろうことか「妻と別れるから、もう一度私にチャンスをくれ」などと、アンジェラに迫る場面、このあり得ない行動に対して、私は大きな違和感を覚えざるを得ない。もしこの時、ライトが正気だったのだとしたら、ロングヴィルとアンジェラは二人で慎重に彼を説得しなければならないし、反対にライトが狂気に陥っているのだとすれば、彼に対応すること...ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(3)

  • ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(2)

    問題なのはこの最初の遭遇の後、ヘンリー・ジェイムズが主人公ロングヴィルとヴィヴィアン母娘との偶然の出会いを、むやみに多用しすぎていることである。まずロングヴィルは親友ゴードン・ライトに、バーデン・バーデンに呼び寄せられる。彼が恋をしているので、その対象である女性が結婚に相応しい相手かどうか、評価して欲しいというのである。ロングヴィルはバーデン・バーデンに向かい、そこでライトの意中の女性がアンジェラであることを、偶然の出会いによって知ることとなる。この第二回目の遭遇は小説のプロットにおいて欠かせぬもので、ここで他の主要な人物(と言ってもあとこの二人しかいないが)ブランチ・エヴァースとラブロック大尉も登場してくるので、許容範囲としなければならない。いただけないのは第三回目の遭遇である。ロングヴィルが「アンジェラは結...ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(2)

  • ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(1)

    ヘンリー・ジェイムズの相当にマイナーな作品『信頼』Confidenceが、翻訳されていることを知ったのは最近のことで、あまり大きな期待もせずに買って読んでみることにした。なにせ、ジェイムズが自選の「ニューヨーク版全集」に入れなかった初期の作品であるから、大傑作でなどあるはずもないからである。それにしてもずっとヘンリー・ジェイムズを翻訳で読んできて、意外にもこの作家の作品が思ったより多く、日本語に翻訳されていることに気付く。もっともよく読まれているのが『ねじの回転』で、それ以外は今日日本の読者にはほとんど読まれていないのではないかと思っていたが、必ずしもそうでもないかも知れない。2016年に出た、ヘンリー・ジェイムズ歿後百年記念論集『ヘンリー・ジェイムズ、いま』の書誌によれば、三巻ある自伝も翻訳されているし、主要...ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(1)

  • オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(3)

    ここで〝病気〟というのは、夫モルソーフ伯爵の精神病のことを言っている。彼の病気はおそらく、双極性障害(躁鬱病)のようなもので、鬱状態が続いたかと思うと、突然他者に対して攻撃的になったり、陰湿な皮肉を繰り返したりする。モルソーフ伯爵は他人にとって苦痛にしかならない存在なのである。フェリックスとモルソーフ夫人とは二人で、この扱いの難しい病人の世話を続けるなかで、愛を育んでいく。どんな障害があってもそれは、二人の愛を高めることにつながっていくというわけである。しかし、こうした障害があるということと、それによって二人が四六時中緊張を強いられていたために、彼らの愛が肉体的なものに発展しないで済んだとも言えるのである。あるいは逆に、それが肉体的なものとならなかったがために、二人は二人ながらにその欲望を禁じられ、愛の発露を失...オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(3)

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