大阪市から京都府木津川市を経由して三重県津市に至る一般国道である、国道163号線北田原交差点の北側にある小高い山が「北田原城跡」。頂上には関西電力の高圧鉄塔が立ち、眼下には大阪と三重県を結ぶ旧街道・清滝街道が東西に、また、現・大阪府交野市から岩船街道を通って奈良県に入る国道168号線がすぐ西側を南北に通っており、絶好の監視所だったであろう。鉄塔の辺りが一の曲輪跡と言われており、北へ向かって尾根伝いに道があり、二の曲輪などがあったと言われている。坂ノ上丹後守の城と言われているが、江戸時代、享保年間に編纂された「大和志」によると「田原壘(とりで)同村ニアリ、北田原ハ、坂上氏之ニ據(よ)リ、奥田原ハ奥田原兵蔵・同元右衛門ノ據ル所ナルモ共ニ事跡詳ナラズ」とだけあり詳細は不明。ただ、「星のまち交野・私部城の歴史をたどる奈...富雄川流域探索「大和北田原城跡」
石の鳥居を潜って進み、三叉路を左(北)方向に曲がると、右手に池がありその先に52の石段の参道が見える。関係はないと思うが猿沢池の石段も52段。本殿脇にある六角石燈籠は正徳元(1711)年8月吉日、高山村奉納と彫られた常夜灯があり、彫が深くはっきりと読める。「749年に東大寺の大仏の守護神として大分県宇佐神宮から八幡神が迎えられ、大和入りした場所がこの高山八幡宮といわれている。「本殿は重要文化財に指定されており、鎌倉時代には、叡尊が、当地で菩薩戒(ぼさつかい)を授け、高山地域の領主であった『鷹山氏』の氏神として栄えました。…」と生駒市デジタルミュージアムなどにある。また、公開はされていないが、彩色された鎌倉時代末期と推定される木造の狛犬、一対がある。富雄川流域探索「彩色された狛犬があるのだが…」
竹林園と富雄川を挟んでの西側旧道「上大北」のバス停から約240㍍程南へ戻ると右側少し高台にフェンスが見える。もともと「大雄寺」と呼ばれていたが、明治以降「大庵寺」と呼ばれるようになったそうだ。それらしい標識は見当たらない。児童公園も兼ねているのかボール投げなど禁止事項が書かれた看板がある。空き地に石仏や宝篋院塔などが一ヶ所にまとめられていた。蓮弁に座する石仏や舟形に彫られた中にはめ込まれた「入れ子型」の地蔵石仏がある。崩れかかった建物が一棟あり、雰囲気的には本堂だったのだろうか。その左側には屋根の下で片膝突いたやさしい顔の元明4辰(1784)年十一月十八日建立の如意輪観音坐像があり、基礎部に「那智山」と「一番」が交差して彫ってあり奉納者名が読める。「西国一番那智山」とは、那智の大瀧に対する古代信仰から始まったと...富雄川流域探索「大庵寺」
室町時代の中頃、この地の領主であった鷹山氏(高山氏)出身で、高山頼栄の次男で連歌師であった高山宗砌(そうぜい)が「わび茶」に通じた人であり、村田珠光の依頼を受けて茶道具の茶筅(茶筌)を考案したのが始まりとされている。茶筌は、用途、流派によって使う茶筌の先の穂立ちや、竹の種類、糸の色などが異なる60種類以上もの茶筌が作られ、それらが展示されている「高山竹林公園」。毎年2月頃、近くの田圃では竹の乾燥のため、約1.5mに切りそろえられた数十本の竹が、円錐状に傘の骨組みのように組まれ、日光にあて、寒風にさらす「竹の寒干し」作業の最盛期に入り高山町の風物詩になっている。寒干しのあと1年ほど倉庫で寝かせてから製品に加工されるという。また、園内の南側一段下がった所に圓楽寺跡がある。中世生駒市北部を支配していた鷹山氏の菩提寺、...富雄川流域探索「茶筌の里」
高山城跡の西直線距離約200mの所にある。境内には普通の民家風の建物があり、元は墓堂だった。浄土宗で本尊は阿弥陀如来とある。墓地が北側一面に広がっている。元、奈良県議だった奥野誠亮氏揮毫の「忠魂碑」があるので、この地区からも多くの戦士が出征したのであろう。向露寺墓地は元禄2(1689)年開基とされている。有井山家文書永代向露寺記録(元文3(1738)年には「和州添下郡高山村向露寺元来庄田村大北村和田村三ヶ村之墓所也」と記載されている。(添下郡=奈良市北西部、大和郡山市北西部、生駒市北部)。今日の暦:(1874)年、台湾出兵を決議、5月22日台湾上陸。富雄川流域探索「お寺に見えない向露寺」
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