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2015/05/16

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  • 「あゝ岸壁の母」③生きていた息子

    「あゝ岸壁の母」③生きていた息子前回までのあらすじ〇岸壁の母・端野いせいせは、戦地から戻らぬ一人息子の新二を桟橋で待ち続けた。東京から舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、体にも負担だったに違いない。いせが舞鶴引揚桟橋に出向いたのは、昭和25年1月だった。昭和29年3月20日にも端野いせの「新二を知りませんか」と、幾度も我が子の名を呼び岸壁に立ついせの姿があった。いせが書いたノートには「金があったらここに小屋を建てて待っていたい。…(略)…待つことのこの辛さ。この苦しみから早く逃れたい」と。〇2通の死亡通知昭和29年9月、一人息子新二の死亡の厚生省からの死亡認定理由書を受け取る。『昭和20年8月15日未明…(略)…突然のロシア軍の進行に応戦。力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』昭...「あゝ岸壁の母」③生きていた息子

  • 「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

    「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った前回の要点〇歌謡曲「岸壁の母」息子の帰還を舞鶴港で待ちわびる端野いせがモデル。昭和29年菊池章子が歌い、昭和47年には二葉百合子が歌い、いずれも大ヒットをした。特に後者の歌はセリフ入りで、300枚の大ヒットとなる。二葉百合子はモデルとなった端野いせにも何度もあって、その臨終にも立ち会った。戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待つ母の愛情が、戦後27年を経てなお、人々の感情を掻き立てたのでしょう。〇京都府舞鶴港への引揚船終戦直後の昭和20年10月7日、朝鮮釜山から陸軍・軍人を乗せた雲仙丸の入港を皮切りに、昭和33年9月サハリン(樺太)のホルムスク(真岡)から472人を乗せた白山丸の入港まで、13年間続いた。その13年間で、66万2982人の引揚者と1万6269柱の遺骨...「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

  • 「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか

    「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか母は来ました今日も来たこの岸壁に今日も来たとどかぬ願いと知りながらもしやもしやにもしやもしやにひかされて(セリフ)「又引き揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない。この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……。港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……帰れないなら大きな声で……。」(作詞藤田まさと)歌謡曲「岸壁の母」は、息子の帰還を舞鶴港で待ち続ける端野(はしの)いせのことをモデルに、昭和29年菊池章子が歌い、昭和47年には二葉百合子がセリフ入りで吹き込み300万枚を売り上げる大ヒットとなった。戦後27年を経た昭和50年代でも、戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待ちわびる母の愛情が人々の感情を掻き立てたのでしょう。終戦直後の昭和20年10月7日...「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか

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