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男澤惠一・家系と先祖のBLOG https://blog.goo.ne.jp/keiichiozawa

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

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2015/05/09

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  • 家系譜新聞8月号 特集:サイコパスとソシオパス

    特集:サイコパスとソシオパス暑中お見舞い申し上げます最近の気温上昇は異常なくらいですね。災害級の暑さです。熱中症などには十分お気を付けください。最近多くなりつつある傾向当方の返答が終わらないうちに話を切り出す人が最近多い気がします。じっくりと相手の話を聞く余裕がないといいますか、とにかく自分の話を聞いてもらいたいという意志が強いのでしょう。そういうことは良くあることですが、一般的な常識の範疇を逸しているケースが度々見受けます。人間関係や社会生活がうまくいかない人の中には精神病質の範疇に該当するケースもありますが、程度が軽く社会生活にそれほど問題が起こらない軽度なケースもあり、芸能人や会社の経営者等では押しが強く力を発揮する人もいるようです。世の中は少子化が進んでいる傾向にありますが、昔は兄弟の数が多く、そ...家系譜新聞8月号特集:サイコパスとソシオパス

  • ご存じ?地震の周期説

    寛永大地震が1633年。それから70年後の1703年に宝永大地震。さらにそこから79年後の1782年に天明大地震が起こっている。さらにそこから73年後の1855年に安政大地震が起こっている。さらにそこから68年後の1923年に関東大震災が起こっている。つまり、平均すると70数年の間隔で大地震が起こっていることになる。それでは、関東大震災から70数年後というと、あの阪神淡路大震災が1995年のこと。人間の周期は60干支があり還暦というが、宇宙は波でできているから、あらゆるものに周期があって当然。ところで・・・阪神淡路大震災から東北関東大地震までは16年だ。最近、周期説が崩れるほど頻発してないか!ご存じ?地震の周期説

  • 分限帳に出てくる役職名

    江戸時代に大名家家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面を分限帳といいます。身分、役職はほぼ下記のようになっています。御一門家:藩主の正室に生まれた男子。藩主の一族として特別の待遇を与えられた家柄。寄合衆:藩の大切な政務に参与する家柄。家老はこの家から選ばれる。騎馬:外出、行列、戦に乗馬できる身分。中小姓ちゅうごしょう:騎馬につぐ家柄。ほとんどが城下に住んだ。歩行かち:中小姓につぐ家柄で、城下や外城に住んだ。足軽:小者と呼ばれ、戦時の食料運搬、戦死傷者の始末、罪人の逮捕護送その他の雑務に従事した。その他:士分の待遇を受ける者に、医師、茶道家、大工、神官、山伏、舟頭、鍛冶等がある。分限帳に出てくる役職名

  • 渋沢姓

    最近、母方が渋沢家というお客様にお会いしました。渋沢姓は群馬県と埼玉県に集住しています。清和源氏(甲斐源氏)逸見氏流がルーツといわれ、甲斐国北巨摩郡渋沢村が発祥地です。武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県)の渋沢栄一が著名です。「澁澤榮一」は1840年3月16日(天保11年2月13日)~1931年(昭和6年)11月11日。家紋は丸に違い柏。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。日本の豪農出身の武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。日本近代化の父。論語とそろばん。日本的倫理の発信者。渋沢姓

  • 日本の地名 軽井沢

    遠く県外からお越しになったお客様を、ホテルを予約していた軽井沢にお送りした。今日はレンタカーでお嬢さんと一緒に河口湖に向かっているころでしょう。軽井沢は日光と並び昔から避暑地として有名な観光地として知られ、ショー宣教師が教会を作ったことからキリスト教的避暑地のようなイメージが有り、これも日光と似ている。軽井沢は五街道の一つである中山道に軽井沢宿という宿場町があった。明治時代には軽井沢駅ができ、大正時代に軽井沢町という地名になったといいます。地名由来は浅間の噴火で軽石が多い地域なので軽石沢が軽井沢になったというが諸説ある。「かるいざわ」で知られているが、群馬の老人の方々は「かるいさわ」と呼ぶので、ほぼほぼ「かるいさわ」で通っている。写真は大好きでいつも行ってる雲場池。日本の地名軽井沢

  • 日本の地名 岩村田

    長野県佐久市に岩村田という地名があります。地名の由来については文献等は残っていませんが、イワムラとは岩が群れるという意味があり、そこに田んぼが付いています。岩村田宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場でした。当時、岩村田藩1万5千石の城下町であり商業の町でしたが、宿場としては本陣が無く旅籠も最盛期で8軒と少なかったようです。岩村田宿内の戸数は350軒でした。街の中央にはさびれた昭和の雰囲気の岩村田商店街があります。東部、鼻顔稲荷神社とは湯川を挟んで対岸に位置していた地域は岩村田遊郭がありました。日本の地名岩村田

  • 日本の地名 高崎

    群馬県高崎市に住んでいますが、高崎の地名は地形とは関係なく、慶長三年(1598年)に井伊直政が城名を高崎城と命名しただけの話しです。高崎と言うと大分県大分市の高崎山とよく間違われますが、あちらは高い山尾根の突出した地をいう意味があります。日本家系調査会facebook「先祖を知れば未来が見える」改訂増補版男澤惠一著日本の地名高崎

  • 篠塚城

    今日は篠塚さんという人に会いました。新田家臣はご本人も知っていました。篠塚城がありました。所在地:群馬県邑楽郡邑楽町大字篠塚八幡神社主要城主:篠塚氏元亨年間(1321~1324)に、新田義貞の四天王の一人・篠塚重広が築いた城です。遺構はほとんど残っていません。八幡神社に大手門があったといわれています。篠塚城

  • 家紋地図 中国

    戦乱のときは兵が往来した中国地方。山口県周辺はよく調査に行きました。安芸には、「丸に離れ三引」の吉川・鳩紋の熊谷・「左三つ巴」の小早川など鎌倉御家人が多く西遷したことから関東ゆかりの家紋が多い。大内家「唐花菱」はルーツである多々良氏の「唐花」を誇示。中国地方の覇者「一文字に三つ星」の毛利家の本拠地。家紋地図中国

  • 家紋地図 四国

    四国は、阿波・讃岐・伊予・土佐の四つで四国と呼ばれました。阿波は「三階菱」の三好氏一族、讃岐は「三階松」の讃州藤氏、伊予は「折敷に三文字」の河野氏、土佐は「一条藤」の一条氏がそれぞれ本拠とした。戦国時代四国に勢いが有ったのは「酢漿草」の長宗我部氏です。四国は調査でまわること度々でした。土佐國の瑞山こと武市半平太「四つ柿葉」が印象的でしたが、徳島の武市家は河野氏の流れを組むだけあって、折敷に三ではありませんが丸に三文字でした。家紋地図四国

  • 家紋地図 九州鎮西

    源平合戦で壇ノ浦で平家が滅んだ後、平家没官領を設けたり、蒙古襲来から鎌倉幕府は領地に下向することを命じたりした。杏葉紋の大友・隅立て四つ目紋の少弐・九曜に半月紋の千葉・右三つ巴紋の宇都宮氏等の鎌倉御家人系が勢力を持っている。その他並び鷹紋の菊池氏、三つ星紋の松浦氏、柳川守紋の立花氏、大村瓜紋の大村氏、有馬瓜紋の有馬氏等が目立つ。家紋地図九州鎮西

  • 家紋地図 九州薩南

    九州は、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隈の九つの国で九州と呼ばれました。私が直接、調査したのは宮崎県、熊本県、福岡県ですが、九州の南のほうは薩南と呼ばれます。歴史をみると関東御家人や武士が何度か遠征に行っていますが、そのまま定着した一族も多いと思います。こうして家紋地図を見ると、鹿児島と宮崎県一部の島津氏、庵木瓜紋の伊東氏、杏葉紋の大友氏、熊本県では檜扇紋の隈部氏、並び鷹羽の菊池氏、違い鷹羽の阿蘇氏等を思い出します。家紋地図九州薩南

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