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  • おはなし おはなし

    1937ラジオ保有者在朝日本人6万台朝鮮3万台当時先頭を切っていた後藤さん他お偉いさんがすぐ近くでこの世を動かす影響力になっていた。菊池寛も当地に来て満鉄のことやら匪賊の話題も残している。一葉の惚れ人も記者だったそうだ。日本の基幹産業となる企業がこの場所で最先端の技術でまさに開花しようとしていた。こんな話もあった。平南に工業地区が展開するそうだ。 1935年には自分名義で宅地平安南道陽徳村4500坪を90.000で購入。5万坪を李という別の男から1,500,000で購入。平安南道陽徳郡陽徳村山村390万坪を100,000・-で購入。ハナ名義黄海道海州府北旭町宅地911坪44,930.-藤本亀蔵より住宅2棟365坪18,250.-藤本亀造より購入。私は1935年に38歳、日の本商工会(平壌府仁興里)を起こし...おはなしおはなし

  • どこでもねんね

    どこでもねんね

  • 私の場合

    日中戦争がはじまろうとしていた。私は12歳。福原に住んでいたミヤさんが「一緒に行くかね?」の声に一つ返事で応えた。というのも本郷で親代わりに守ってくれたおばあさん・おじいさんが、自分の老い先と私の将来を心配して知人からの紹介に繋いだのだった。私の出生地、今の大宮辺りであった。生まれてすぐに、まだその両親の顔さえわからない頃、本当に覚えがない頃に引き取られた。ただ覚えている男の人は八の字ひげを付けた立派な成り立ちで怖そうな警官だった。その人は家に時々やってきたことぐらいだった。母は浅草の空襲で亡くなったと聞かされた。つじつまが合わないのは祖父母なりの配慮が働いたのだろう。両祖父母も本家で守るにも守り切れない当時のくいぶち状況だった。1930年頃は5つぐらいになっていたが、世界中が不況に見舞われていた。兄は別...私の場合

  • この時季になると開くもの

    昭和万葉集復員兵の悲しみ嫁ぎし君を恨むこともなし戦いはかくて終わりしいまを郷里にもどってみたものの我妻は弟の妻となり、家を保っていた。あるいは遺留品やら事実手違いだったか。こういう哀れもあちこちであったようだ。ただただ吐露された句を詠むなり、ページを閉じた。そしてこの本を開くたびに、義父が買った本なのだろうか、と思いやる。同居したことがあり、本人のお姉さんを法事で見かけたことがあるけれど、顔つきはよく似て、がっしりした輪郭に頬骨もあがり、目はくぼみがちだがけして小さい瞳ではなかった。が、その義父と何かをぽつぽつと交わすのは、こうして残した本によってでもある。昭和万葉集第7巻は昭和54年4月18日、とあった。この本を初め、どの本も手垢がなくきれいだ。新刊がでると買っていたようなかすかな記憶がある、家具職人を...この時季になると開くもの

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