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  • 北条直正物語(32) 初代母里村村長・岩本須三郎

    明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。その時、江戸時代の新田をあらわす新村の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。初代母里村村長・岩本須三郎蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。(岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」静かに答える須三郎の声には重みがありました。まさに、須三郎の人生観でした。しかし、「村長...北条直正物語(32)初代母里村村長・岩本須三郎

  • 北条直正物語(31) 水は練部屋(ねりべや)へ

    水は練部屋(ねりべや)へいくたの試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。内海知事、田辺技師、県会議員、町村戸長、水利関係者らの顔がそろい、晴れた寒さ厳しい冬の日でしたが、ここばかりは華やいでいました。「(魚住)完治はん、よう頑張りましたな・・・」「皆さんのおかげです。百姓の思いは、みんなおんなじなんです・・・」だれかれとなく、完治に声をかけてきました。完治は、満ち足りたこの日の幸せをかみしめるのでした。ケシ山隋道は難工事たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。人々の疑いと心配の中を工事は...北条直正物語(31) 水は練部屋(ねりべや)へ

  • 北条直正物語(30) 取水口、山田川から淡河川に

    地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。疎水工事は、淡河川の取水口から練部屋までの疎水です。練部屋から流れ出た水は、各支線を流れ、印南台地を潤すことになります。取水口、山田川から淡河川に変更疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。内海県令(森岡県令は明治18年に中央へ転出)は、この疎水事業に意欲的でした。県令みずから加古川まで出向き、21ヵ村の戸長(村長)と請願委員を郡役所に集めました。...北条直正物語(30)取水口、山田川から淡河川に

  • 北条直正物語(29) 牛の餌じゃ

    疎水計画は動き出したが疎水建設は動き出しました。が、喜んでばかりはおれません。いぜん未納地租は残ったままでした。(明治19年)11月、鐘が鳴らされた。人々は役場へ急ぎました。吏員が、地租不納処分のために村に来たのです。村人たちはたまった不満をぶちまけた。「疎水ができるのに殺生や、水が来るまで待てんのかいな」「土地買うた者が儲けて・・・、お前等金持ちの味方ばっかりするんかいな」郡の吏員は何も言えませんでした。怒りに檄した村人たちに、戸長の岩本もなだめようもなかったが、吏員と話してもらちのあく問題でもありません。新郡長は「疎水の話が持ち上がって土地の値段もあがったし、売りやすくなったはずだ。売って納めるのがいやなら公売にするまで・・」と手かげんをしませんでした。不納者440人の畑地140町が処分されてしまいました。...北条直正物語(29)牛の餌じゃ

  • 北条直正物語(28) 疎水計画が動く

    疎水計画が動く品川農商務省大輔(次官)来る(明治16年)12月19日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れ、この視察に県から租税課長が同行しました。葡萄園の園長の福羽(ふくば)は、葡萄園の苗の植え付けや生育のようすのほか、地域の百姓の生活のようすも話しました。丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。・・・・・(品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」(租税課長)「はい、知っております」(品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」租税課長への叱責はするどいものでした。(品川)「・・・なぜ...北条直正物語(28)疎水計画が動く

  • 北条直正物語(27) 北条郡長辞任

    北条郡長辞任説得すれど印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長(写真)は上庁しました。なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。(県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。処分は徹底して行なえ・・・」・・・郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。(郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・郡長が租税の支払いのために畑を売らせる。こんなことが許されるのだろうか」こんな考えが北条自身を苦しめるのでした。ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。北条は、大阪のYに、土地の購入を申し...北条直正物語(27)北条郡長辞任

  • 北条直正物語(26) 郡長は味方や

    郡長は味方や(郡長)「皆さんはお願いに行くつもりでも県令は、一揆ととるでしょう。その後にまっているのは、処罰だけです。立ち方、まちごうたらいけません。どないしたらよいか、よう考えてください。・・・皆さんでよう話し合ってください」郡長は、いっとき部屋にこもりました。・・・・ややあって、郡長は呼びだされました。(百姓)「・・・来る時、丸尾戸長(村長)に、冷静に行動するように」と言われました。そして、郡長は、たとえ役人でも村のことを真剣に考えてくれはった。役人の中でたった一人の味方や。わし等には、まだ大事な郡長や。郡長の話を、よお聞いて欲しいといわれました。話はまだ、まとまっていません」北条郡長は、熱いものがこみ上げてくるのでした。「地券の取り上げの件は、なんとしても県令と話をつけます。そう丸尾さんにお伝えください」...北条直正物語(26)郡長は味方や

  • 北条直正物語(25) 印南新村の百姓たつ

    印南新村の百姓たつ明治15年は、なんとも気の重い年明けとなりました。「240町の土地を農民から取り上げることは百姓の生きる全てを奪うことになる。営々として積み上げた苦労を、村を一気につぶすことになる。法の定めに従うとはいえ、人間として許されるのだろうか・・・」郡長は、言いようのない悔いとおののきを覚えるのでした。田舎の宿は、静かでした。冬の風だけが屋根でなっています。しかし、怒りに火がついついてしまいました。・・・・数日後、印南新村の男200人あまりが郡役所を目指しました。郡長がその知らせを受けた時は、すでに加古川の町に迫っていました。午前10時。一群は寺家町の役所に着きました。さっそく、一群は郡長に直訴しました。(百姓)「この度のこと(地券没収)は、人とも思えぬ仕打ちであり、あまりにもひどい。このような仕打ち...北条直正物語(25)印南新村の百姓たつ

  • 北条直正物語(24) 飴と鞭

    飴(地租の見直し)新祖額に対する不満は他の地域でもおきていました。かたくなな態度をとっていた政府も、一部の祖額の修正に応じざるを得ませんでした。14年にずれこんだ地価の修正作業でしたが、全国の15ヶ村で祖額の修正が行われることになりました。15ヶ所のうち6ヶ所が兵庫県で、川辺郡の一ヶ村と蛸草新村を除く印南5ヵ村が対象となりました。国は、正式に印南5ヵ村の祖額は適正な査定でなかった事を認めたのです。しかし、森岡県令は国の財政確立のための職務に忠実のあまりの勇み足ということか、中央では高く評価されていました。この修正される村の中に、なぜか蛸草新村の名前がないのでした。詳しいことは分かりませんが、これは隣り合う加古新村や国岡、国安、岡村への影響を考えてのことであったのかも知れません。蛸草新村の戸長(村長)、岩本須三郎...北条直正物語(24)飴と鞭

  • 北条直正物語(23) どこまでも続く苦難

    どこまでも続く苦難明治時代初期の村名がしばしば登場します。地図(赤い部分)で場所を確認ください6ヵ村(現:母里)連合会結成明治13年3月播州葡萄園が発足しました。疎水の話は、いつも工事費用になると前へ進みません。旱害・重税が重なり疎水の話どころではなかったのです。しかし、山田川疎水関係の印南新村、蛸草新村、野寺村、野谷新村、草谷村、下草谷の村々で疎水を造るための連合会がつくられました。県・国へ働きかけることにしました。役員もぐっと若返りました。魚住逸治23才(野寺村)、松尾要蔵29才(野谷新村)、岩本須三郎35才(蛸草新村)らを中心とし、若い熱と智恵で疎水問題が進められることが決まりました。国からの援助消える地元の連合会ができました。県も疎水建設に働きかけるといいます。国も山田川疎水に対して理解が生まれたと思わ...北条直正物語(23)どこまでも続く苦難

  • 北条直正物語(22) 播州葡萄園

    播州葡萄園日本のブドウ栽培のルーツが印南(加古郡稲美町印南)にあったことは、稲美町以外では意外と知られていないようです。播磨葡萄園は、120年前に廃園になり、地元でも忘れられていました。15年ほど前にその遺構が見つかり、その一部の発掘調査が行われました。平成17年(2005)に国の史跡指定が決まり、播州葡萄園が再浮上してきました。官営、播磨葡萄園明治12年、政府は官営の葡萄工場を計画しました。地元ではさっそく誘致に動き、翌13年2月、政府は約30ヘクタールを買収し、3月、園長・福羽が着任し播州葡萄園はスタートしました。明治16年度には11万本の苗木の植えつけも終わり、ワイン・ブランデーづくりもはじまり、約20平方メートルのガラス温室がお目みえするのもこの頃です。明治17年には、松方正義大蔵卿(後、総理大臣)、西...北条直正物語(22)播州葡萄園

  • 北条直正物語(21) 播州葡萄園にかける

    播州葡萄園にかける中学生が使っている歴史教科書から「官営工場」の説明を読んでおきます。・・・・「政府は、欧米から機械を買い、国が運営する官営工場をつくり、民間の産業も育成しました。これを殖産興業といいます」少し付け加えておきます。明治10年当時、民間には大規模な工場をつくる技術も資本もありませんでした。そのため、国が運営するモデル工場をつくり、やがて民営に移管して工業を育てようとしました。そして、どの教科書も代表的な官営工業として富岡製糸工場(群馬県)の写真を紹介しています。印南新村につくられた国営播州ブドウ園(播州葡萄園)もその一例です。北条直正、播州葡萄園にかける母里地区は、水が少ないため作物が十分に育ちません。綿作は急速に衰退しました。地租が高い。従って土地は売れなません。どう頭をひねっても、祖額を完納す...北条直正物語(21)播州葡萄園にかける

  • 北条直正物語(20) 森岡県令 VS 北条郡長

    森岡県令VS北条郡長県の庁舎で郡区長会が行われた日、北条郡長は少し早めに上庁して県令に訴えました。以下は『赤い土』から県令と北条郡長のやり取りです。(森岡県令)県広しといえども地租の夫納は印南6ヵ村だけであり、大蔵省より厳しい督促をいただいておる。まことに申しわけないことである。今までの忍耐にも限度があり、もはやこれ以上の猶予は認められない。不納者を直ちに処分するように」(北条郡長)県令殿のご命令ではございますが、法の通り処分すれば、印南新村272町の畑地はことごとく公売になります。そうなれば、畑はすべてよそ者の所有となり、村がなくなってしまいます。(県令)たとえ亡村になろうとも、処分すべきである。(郡長)従いかねます。(県令)なに!おいの命令が聞けんとか!(郡長)・・・租税官が地租改正で違法の税を課したため、...北条直正物語(20)森岡県令VS北条郡長

  • 北条直正物語(19) 貧乏神

    貧乏神丸尾茂平次は、早朝から地租の督促に家々をまわっていました。「松う、おるか」「よう見えてまっしゃろ」夏の熱気は朝から強く、開けっぱなしの家の中はまるみえでした。「そら、わしも(地租)払いたいんやが、みてのとおりなんもおまへん。泥棒かてきてくれまへんわ。用心がよろしおますわ。もうなくなるもん、なんにもあらへん。残っとんのは、お婆だけでっせ。そいでよかったら、地租の代わりに持っていってもろたらよろします」畑を買うてくれまへんか「戸長はんにお願いがおますんやが」松治は座りなおして、「わしの畑買うてくれまへんか。一反2円でええんや。5反おます。10円で買うたってほしい・・・」松治は目を落とした。お婆はんも可哀そうなもんですワ。若うちに、ここに嫁にきて、働いても働いても貧乏神に取りつかれて、あげくに病気です・・・近頃...北条直正物語(19)貧乏神

  • 北条直正物語(18) 郡長は、やはり役人か?

    郡長は、やはり役人か?印南新村の丸尾茂平次が、郡役所をはじめて訪れたのは郡役所が開設されてから数日を過ぎた午後でした。「もっとはよう、お祝いに来たらよかったのですが、私の話は暗いことばっかりで郡長さんには悪いと思うてます。印南野の百姓は、前世でよっぽど悪いことしたんでしょうな。近頃はお天とうさんも信じられんようになりました」話題は、やはり地租のことになってしまいました。「新祖額が不当に高額なことは、私もよく承知しています。地租改正掛に誠意があれば、こんなことにならなかったでしょうに」郡長は、改正掛の無責任さが腹立たしかった。いったん決まった地租は、私にはどうすることもできません。「私が郡長を命じられた時、租税掛員から“加古郡は地租の未納者が非常に多く、地租の徴収が郡長の仕事である”といわれました。役人とは厄介な...北条直正物語(18)郡長は、やはり役人か?

  • 北条直正物語(17) 初代加古郡長・北条正直

    初代加古郡長・北条正直魚住完治の疎水計画は、動かなくなってしまってしまいました。完治は、村々に疎水の大切なことを説いてまわりましたが、百姓の答えは、決まったように、「魚住さんの話はよう分かります。せやけど、毎年の日照続きで、先立つものがありまへん・・」こんな状況を一変させたのは、ひにくなことにも地租改正でした。食うことに事欠く人々から、なおも奪おうとする非常な地租が、疎水を求める声になったのです。「このままでは、百姓は土地を手放し、村を出ていかなあかん」「なんとかせなあかん」せっぱつまった百姓の考えが徐々に変わってきました。完治と甥の逸治は、郡役所に北条直正をたずねました。郡長は、さっそく「魚住さん、ようやってですな。疎水計画のことは前の区長からあらまし聞いています」という話からはじめたのです。郡長の決意郡長の...北条直正物語(17)初代加古郡長・北条正直

  • 北条直正物語(16) 北条直正、加古郡長に就任

    北条直正、加古郡長に就任草谷新村、旧税の11.23倍新祖額の調査が遅れて、発表が11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、9・10年度の分が加算されました。旧税の実に6倍という常識を超える額となったのです。明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7倍、野寺村6.80倍、草谷新村11.23倍、下草谷4.00倍でした。旧税も納められないことがしばしばありました。それなのにこの数字はなんとしたことでしょう。悪い時には悪いことが重なるのが常のようです。明治9・10年は、またもやこの地方に旱魃が襲いました。母里地区は田の植え付けは例年の40%に減らしました。畑は30~40%の植...北条直正物語(16)北条直正、加古郡長に就任

  • 北条直正物語(15) 水が欲しい

    水が欲しい印南野台地は、南と西に徐々に低くなっていいます。その北東隅に雌岡山(めっこうさん)が聳えています。雌岡山あたりに、十分な水があれば、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。しかし、高さ249.5㍍の小山では、広い台地に十分な水はありません。「その向こうに長く連なる丹生山(たんじょうざん)、帝釈山(たいしゃくさん)やったらもっとぎょうさん水があるやろ」と考えた人がいました。明和8年(1771)年、神出東村の人でした。名前は分からないのですが、測量図が残されていました。国岡新村の福田嘉左衛門は、この計画ことを知りました。地図をご覧ください。山田の阪本から神出(かんで)の紫田(ゆうだ)練部屋(ねりべや)にいたる水路を造ろうと考え姫路藩に申し出ました。文政9年(1826)のことでした。姫路藩と...北条直正物語(15)水が欲しい

  • 北条直正物語(13) 新租額はきまったが・・・

    新租額はきまったが・・・翌朝、茂平次は姫路の宿舎を出て一人村へ向かいました。夏の日差しは、容赦なく茂平次に照りつけました。昨夜から、何度も同じことを繰り返していました。今も堂々巡りしている。「印を押したことは間違だった」「仕方ないことだった」「印を押したことは県のやり方を認めたことになる」「これからどうしたらよいのか」「・・・・」高畑村(現・平岡町高畑)から印南野台地にかかると風景は一変しました。太陽が、干からびた台地にギラついています。村人は、茂平次を見つけ、冷たい水と手ぬぐいを差し出しました。焼けた道を歩いてきた体には、心地よく、村人の親切がみにしみるのでした。それだけに、昨夜の調印がよけいに悔やまれてなりません。集まってきた村人は、茂平次を責められません。昨夜からのいきさつを村人たちはよく知っていました。...北条直正物語(13)新租額はきまったが・・・

  • 北条直正物語(13) 厳しい祖額に調印

    北条直正物語(13)厳しい祖額に調印県は、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里地区)に対し、とてつもない祖額を申し渡しました。これは、綿作の畑地は収益が高く見積もられたことも一因でしたが、何よりも、この地域は水が少なく、収穫が少ないため、他の地域よりも年貢が少なかったのです。それが他の地域なみに祖額が決められたら一挙に税が高くなるのは当然のことです。新しく地価を決めるため、調査官が来た時は、水田を減らし、畑をふやしていました。たまたま、例年であれば日照で、ひび割れする土地もこの年は、水気を失っていたがくずれませんでした。これが災いしました。調査官たちは被害の実際を見抜くことができなかったのです。農民の訴えは、税金逃れしようとする態度にしか写りませんでした。さらに、地租改正では、祖額は地価の3%(明治10年より2.5%...北条直正物語(13)厳しい祖額に調印

  • 北条直正物語(12) 厳しい租額

    北条直正物語(12)厳しい租額明治10年の春でした。地価を調査するための調査員が台地の村へやってきました。百姓は、村の苦しい様をセツセツと訴えました。でも、その実態は理解してもらえなかったようです。地租の内示は、旧祖額(江戸時代年の貢率)の3倍を超えていました。印南東部6ヵ村の赤松治三郎・井沢重太郎・松田宇在門・丸尾茂平次・松尾宗十郎・赤松治郎三郎は祖額の不当なことを県令に願い出ました。しかし、予想していたとおり、返事はありませんでした。*(印南東部6ヵ村:蛸草新・草谷・下草谷・野寺新・印南新・野寺の6ヵ村。これら6ヵ村は明治22年4月1日合併して母里村となる)新祖額では、村が潰れてしまう!そして、明治11年7月24日、新祖額が申し渡される日をむかえました。印南新村の丸尾茂平次は、気がすすまぬまま、姫路妙光寺へ...北条直正物語(12)厳しい租額

  • 北条直正物語(11) 県令、早期の地租改正を迫る

    廃藩置県(明治4年・1871)後、兵庫県の県域はめまぐるしく変化しました。少し、説明しておきましょう。明治4年11月2日、現在の兵庫県は図のように豊岡県、兵庫県、名東県(みょうどうけん)、に再編されました。その内、姫路県は、1週間後の11月9日に県名を飾磨県と変えています。これは旧姫路藩が徳川幕府での最後の大老を出すなど、朝敵藩であり、「姫路」という名称が新政府に嫌われたためだといわれています。明治9年8月21日、それら4つの県が合併して大きな兵庫県となりました。これは、「神戸港をもつ兵庫県が貧弱な県であってはならない」という大久保利通の考えによるものでした。県令、早期の地租改正を迫る森岡昌純は、飾磨県の県令でしたが、明治9年9月4日、東京・京都・大阪に次ぐ大兵庫県の初代の県令に任命されました。森岡は、自信と満...北条直正物語(11)県令、早期の地租改正を迫る

  • 北条直正物語(10) 県令・森岡昌純

    地租改正現在、中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)に、「地租改正」を次のように説明しています。「・・・政府は、まず土地を所有する権利を認めて、田畑の売買を自由にしました。次いで、1973(明治6)年から、全国の土地の面積やよしあしを調べ、土地の値段である地価を定めました。土地の所有者には地券をあたえ、土地の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。これにより、土地についての税金の負担と集め方は、全国一律となりました。これを地租改正といいます。・・・江戸時代の年貢の総量と同様になるように計算されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした」その後、各地で地租改正に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。県令・森岡昌純飾磨県令...北条直正物語(10)県令・森岡昌純

  • 北条直正物語(9) 『母里村難恢復史略』

    「北条直正物語」(1~8)』は、これからの「北条直正物語」の予備知識です。それでは、「北条直正物語」の本番です。『母里村難恢復史略』稲美町に『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』(以下『難恢復史略』)があります。著者は、北条直正(ほうじょうなおまさ)です。明治12年、加古川の寺家町に「加古郡役所」が設置されました。北条は、県から任命された初代・加古郡の郡長です。彼は、水と貧困にあえいだ母里地区の状況を記録し、淡河川・山田川からの疎水を造り上げた先人の記録を『難恢復史略』にまとめました。そこに書かれた記述は、まさに稲美町の先人の壮烈な記録です。小説『赤い土』ここに一冊の本があります。小説『赤い土』(写真)です。著者は、小野晴彦さん(姫路市夢前町護持在住)です。小野晴彦さんは、元小学校の校長先生で、担...北条直正物語(9)『母里村難恢復史略』

  • 北条直正物語(8) 印南新村の免相は一割

    印南新村の免相は一割*免状の「免相(めんあい)」は、年貢率のことです。江戸時代の年貢は、百姓個人にではなく、村にまとめて課されました。それを庄屋が中心になり、村人に年貢として割り振るのです。それにしても、印南新村の免相は、驚くばかりの低さです。下の印南新村に残る、宝暦十年(1760)の「年貢免状」を読んでみましょう。辰年免相之事印南新村一、高四百八拾弐石三斗九升新田取米五拾四石九斗五升弐合壱ツ壱分四厘一、高百九拾五石弐斗九升二合新田取米二拾弐石二斗九升二合壱ツ壱分四厘一、高参百四拾九石七斗八升六合新田取米参拾九石八斗七升六合壱ツ壱分四厘なんと、印南新村の免相は約1割です。税は年貢だけではないのですが、この免相の低さは特別です。当時の年貢は、生産の高い村々は高く、少ないところは低くおさえられていました。生産の少な...北条直正物語(8)印南新村の免相は一割

  • 北条直正物語(7) 水がない

    水がない印南新村の話です。印南新村の土地は、一段高くなっています。高い土地であると言うことは、当然水が得にくい地域ということです。土地が高くても、田を潤す川があればよいのですが、ここにはそんな川はありません。そのためか、開発も他の地域よりも遅れてはじまりました。明細帳によれば、印南新村の開発は正徳二年(1727)のことです。『加古郡史』によれば、「・・正徳元年、摂津境の嘉右衛門というものが開発し、大庄屋に任命された」とあります。印南新村:民間委託事業加古新村の開発と違うのは、印南新村の開発は商人による開発であったことです。17世紀の新田の開発は、多くの場合藩の援助でおこなわれています。やがて藩の財政は、火の車となり、開発の援助どころではなくなりました。18世紀の新田開発は、もっぱら商人の財力による開発にたよるよ...北条直正物語(7)水がない

  • 北条直正物語(6) 稲美町の開発

    稲美町の開発の歴史を簡単に整理しておきます。地図をご覧ください。岡にぶつかり水は南と西へ天満大池の東を南北に走る道を北へ行くことにします。印南野台地の真ん中といっても、単調なやや傾斜のある平らな台地ばかりではありません。多少の凹凸のある地形を作っています。特に、琴池あたりから北へは、急な坂になり稲美中央病院・愛宕神社辺りで、山のようになり、そこを過ぎると今度は急な坂を下ります。そして、低地部を過ぎ加古大池の西側にでます。雌岡山の方向から流れ出した水は、稲美中央病院のある岡に妨げられ、南の天満大池の辺りに流れ、他方風呂谷辺りの水は「入が池(にゅうがいけ)」辺りにあつまり、曇川となり北山(集落)を流れ下ります。水が育てた古代の集落地図で白のところの村々は、古代から開発が進んだ地域です。野寺・北山村あたりは、入が池の...北条直正物語(6)稲美町の開発

  • 北条直正物語(5) 印南野台地(4)・印南野台地は北と東に高い台地

    印南野台地は北と東に高い台地高薗寺の西の道を「さくらの森公園」へ歩いてみると、急な下り坂で、その底を草谷川が流れています。草谷川を越えると再び「さくらの公園」へと上り坂になっています。草谷川は、谷の底を流れる川です。この辺りは、曇川と比べて海面からの高度が高く、従って、草谷川の方が急流で侵食力が強かったためです。「地形図の概略図」(『稲美町史・p1104』より)をご覧ください。草谷川の川沿いは、北側が約15㍍の崖を、南側は約10㍍の崖が続いています。これは草谷川の浸食により、つくられた崖です。南の曇川辺りは、約130分の1の勾配に対して、草谷川は100分の1と急な勾配です。つまり、草谷川は100㍍で1㍍低くなる急斜面となっています。草谷川は加古・天満地区も潤おす草谷川は、急な斜面を流れ下ります。下流と上流の高低...北条直正物語(5)印南野台地(4)・印南野台地は北と東に高い台地

  • 北条直正物語(4) 印南野台地(3) 降水量

    印南野台地(3)降水量印南野台地は、水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。それに、水を集める範囲が狭まく、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、不向きな地域です。そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。今回は、稲美野台地に降る雨についてみておきましょう。稲美町の降水量図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。平均降水量は、日本海側で多く2000~2250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。印南野は、きわめて雨の少ない地域です。一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります...北条直正物語(4)印南野台地(3)降水量

  • 北条直正物語(3) 印南の台地(2)・印南野台地は海の底

    印南野台地(2)印南野台地は海の底地図をご覧ください。印南野台地は、どのように形成されたのでしょうか。この図は50~60万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)現在の印南野台地は海の底でした。この海に川を中心として周辺の土地から土砂が猛烈に流れ込みました。土砂は、海底では比較的平に堆積します。今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまり、比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。そして、平らな土地をつくりました。これが印南野台地です。現在でも印南野台地の隆起は続いています。隆起の速度は、平岡町辺りでは年間0.125mmで、東の明石市魚住町辺りでは0.35mmとなっています。この一段高い地形は、海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、...北条直正物語(3)印南の台地(2)・印南野台地は海の底

  • 北条直正物語(2) 印南野台地(1)

    印南野台地(1)「北条直正物語」を始めましたが、さっそく脱線です。その前に、物語をより理解していただくために、稲美町のこと・印南台地のことを簡単に紹介しておきましょう。稲美町は、印南野台地の中央部に位置しています。それでは、印南野台地はどんな性格を持った台地でしょうか。印南野台地を歩いてみます。最初に、その場所を確認しておきましょう。地図をご覧ください。西は加古川市野口あたりから東は明石川、北は美の川、南は瀬戸内海にかこまれた台地が続きます。この台地が、印南野台地(いなみのだいち)です。ほぼ平坦な台地ですが、東が若干高く、西に行くにつれ徐々に低い地形を形成しています。印南野は万葉集にも多く詠まれ、「枕草子」にも登場し、ロマンチックな響きさえ持っています。しかし、印南野台地は極端に水が少なく、開拓が進むのは、やっ...北条直正物語(2)印南野台地(1)

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