大河・かこがわ(135) 鎌倉時代(24) 文観(17)・後醍醐天皇、加古川で一夜
後醍醐天皇、加古川で一夜正和5年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。復習です。先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような人物ではありません。元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。俊基は、捕らえられ鎌倉へ護送されました。文観は遠島でした。そして、後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。京都を出発した天皇一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の近く-加古川町)でした。残念なこ...大河・かこがわ(135)鎌倉時代(24)文観(17)・後醍醐天皇、加古川で一夜
大河・かこがわ(135) 鎌倉時代(23) 文観(16)・文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ
文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ後醍醐天皇の幕計画は、正中の変に続きまたまた失敗でした。今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。文観には死罪の決定が下されました。「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時(時の執権)につげたのでした。「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされてい...大河・かこがわ(135)鎌倉時代(23)文観(16)・文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ
大河・かこがわ(134) 鎌倉時代(22) 文観(15)・正中の乱は失敗するも!
正中の乱は失敗するも!幕府は、倒幕の中心となった日野資朝(すけとも)・日野俊基(としもと)を取り調べたが、下手な裁断はくだせませんでした。倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。もし、倒幕計画に加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、地方の武士や民衆の反発を買いかねません。決裁は、両名を死刑にするところですが、資朝(すけとも)は佐渡ヶ島へ遠島。俊基(としもと)は「無罪」となりました。後醍醐天皇は、これでへこたれるような、やわな天皇ではありません。「倒幕」の二文字がますます燃え盛るのでした。それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正が招かれました。「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるのでした。元弘...大河・かこがわ(134)鎌倉時代(22)文観(15)・正中の乱は失敗するも!
大河・かこがわ(133) 鎌倉時代(21) 正中の変(正中元年・1324)
14世紀の初め、時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。政治は腐敗しました。社会の混乱は深まるばかりでした。後醍醐天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。その事件の顛末を少し述べておきましょう。正中の変(正中元年・1324)この討幕計画の中心になったのは、日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)です。資朝は、当時の公家政治の中心人物でした。いっぽう俊基は、身分はもともと低く後醍醐天皇からその才能を認められ取り立てられた人物です。後醍醐天皇の信頼のおける仲間内の会議で俊基から、討幕の計画が提案されました。さすがの、仲間の貴族もびっくりしました。俊基は、天下の情勢、後醍醐天皇の決意を諄々と語りました。具体的には「倒幕の旗揚げの日は、来る...大河・かこがわ(133)鎌倉時代(21)正中の変(正中元年・1324)
大河・かこがわ(132) 鎌倉時代(20) 文観(13)・八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること
八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されていました。般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻(はっけい)文珠菩薩」(写真)があります。最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願してつくらせたものであったことが明らかになりました。菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されました。銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、般若寺の住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。後醍醐天皇は、着々と討幕の準備を進めていました。さっそく仲間を集め、秘策が練られました。「この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつ...大河・かこがわ(132)鎌倉時代(20)文観(13)・八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること
大河・かこがわ(131) 鎌倉時代(19) 文観(12)・ 後醍醐天皇の野望
後醍醐天皇の野望14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめました。時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをあまりしませんでした。そのため、政治は腐敗し、社会の秩序も乱れ始めました。こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位したのです。天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせます。そして、自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷しました。(no4836)大河・かこがわ(131)鎌倉時代(19)文観(12)・ 後醍醐天皇の野望
大河・かこがわ(130) 鎌倉時代(18) 文観(11)・文観と後醍醐天皇の結びつき
文観と後醍醐天皇の結びつき文観は、永仁3年(1295)西大寺に入り受戒し、文観25才の時、文観・朱音を名乗り、叡尊の起こした真言律宗の叡尊の十三回忌の追善務める西大寺の真言律僧としてその姿を現しています。復習です。正安3年(1301)真言宗に入り醍醐寺の道順により真言僧となっています。文観は、師である道順の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたようです。たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。「自分は政治をやりたい」30才を過ぎて即位した後醍醐天皇は、はっきりそう考えたのです。学問にも打ちこんで、「なぜ天皇自身が政治をすべきか」という理論武装もしました。理論に弱い日本人政治家のなかでは、異色の人物です。それも、机上の...大河・かこがわ(130)鎌倉時代(18)文観(11)・文観と後醍醐天皇の結びつき
大河・かこがわ(129) 鎌倉時代(17) 文観(10)・後醍醐天皇の絵像について
後醍醐天皇の絵像について当後醍醐天皇が紹介されるとき、かならずといってよいほど紹介されるのが、神奈川県藤沢市にある時宗の総本山、清浄光寺(しょうじょうこうじ)に伝わる後醍醐天皇の絵像です。この絵像で、後醍醐天皇は、天皇の正装である黄櫨染(こうろぜん)の抱(ほう)を着、その上に袈裟(けさ)を掛けて、右手には密教の法具の金剛杵(こんごうしょ)、左手には金剛鈴(こんごうれい)をにぎり、八葉蓮華の敷物の上に座したすがたで描かれています。かつては、後醍醐天皇が幕府倒す時の祈りを行うさまを描いたともいわれていました。が、この絵像が、文観を師として灌頂を受けたすがたを写したことが、最近、絵像に付属する文書「揄祇灌頂之事」(清浄光寺文書)から知られるようになりました。この後、醍醐天皇像については、歴史学者の黒田日出男氏が、両手...大河・かこがわ(129)鎌倉時代(17)文観(10)・後醍醐天皇の絵像について
大河・かこがわ(128) 鎌倉時代(16) 文観(9)・文観、西大寺の僧に
文観、西大寺の僧に文観は、弘安元年(1278)に播磨国(はりまのくに)に生まれ、13歳のときに法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)(兵庫県加西市)で出家し、僧になりました。法華山・一乗寺は、真言律宗の開祖叡尊(えいぞん)ゆかりの寺院であり、法華山で僧になった文観は、二年後には、叡尊がかつて住職であった奈良西大寺へはいり、西大寺二世長老の信空(しんくう)から教えを受けました。正安三年(1302)に、西大寺の信空から教えを受け、秘法を授けられた文観は、同年に醍醐寺報恩院の道順から阿闇梨(あじゃり:真言・天台の高僧)の位を持つ正規の僧となっています。醍醐寺で得度した叡尊が、西大寺流の律宗をおこしたのちも、醍醐寺や高野山と関係を持ちつづけたように、文観もまた、正規の真言僧でありつつ、西大寺流の律僧としての活動をつづけ...大河・かこがわ(128)鎌倉時代(16)文観(9)・文観、西大寺の僧に
大河・かこがわ(127) 鎌倉時代(15) 文観(8)・真言律宗
真言律宗西大寺が創建されたのは奈良時代ですが、当初は、壮麗な寺院でした。しかし、称徳天皇が亡くなり、道鏡が東国へ左遷されると、西大寺に対する関心はうすれ、平安時代には衰退の一途をたどりました。鎌倉時代には、所有していたすべての荘園を失いました。これを再生したのが叡尊(えいぞん:1201-1290)です。叡尊は、当時の戒律を守らない、特に浄土系の僧侶・人々(庶民)のあり方に疑問をもちました。西大寺に住み、深く戒律を学びました。西大寺に住んで10年が過ぎたころ、叡尊は仲間とともに誓いを立てました。お釈迦さまの弟子として、生まれ変わっても、浄土へは行かず、かつてお釈迦さまがしたように、諸仏の救いからもれた人々を救いたい。そのためには、地獄の苦しみも忍ぼうと叡尊は述べています。真言律宗寺院の活動は、多方面に及びました。...大河・かこがわ(127)鎌倉時代(15)文観(8)・真言律宗
大河・かこがわ(126) 鎌倉時代(14) 文観(7)・西大寺の末寺
西大寺の末寺1月27日の氷丘公民館地域学講座で報告された、兵庫大学の金子教授の報告からです。私たちの地域では、西大寺の末寺は常楽寺だけではありません。西大寺の末寺帳には次の4寺が挙げられています。西大寺直参末寺加古川市加古川町大野常樂寺播磨の筆頭末寺。播磨の末寺を管理する。*西大寺直参末寺の中でも、最も格が高いグルーブに入る。加古川市加古川町本町常佳寺元は寺家町加古川市平荘町山角報恩寺加古川市尾上町成福寺(不明)続けて、金子先生は西大寺流の寺院として次の2寺を指摘されています。西大寺流寺院稲美町中村円光寺(元は国安)加古川市加古川町稲屋福田寺加古川地域は、真言律宗西大寺とつながりが特に強固な地域でした。次号から、真言律宗が私たちの地域に果たした役割を見ていきたいのですが、私たちの地域では天台律僧も活躍もしていま...大河・かこがわ(126)鎌倉時代(14)文観(7)・西大寺の末寺
大河・かこがわ(125) 鎌倉時代(13) 文観(6)・新仏教と旧仏教
新仏教と旧仏教鎌倉仏教の話です。鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。こんな時、人々は仏様に救いをもとめます。この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えを広めようようとしたのです。それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという教えでした。そのため、庶民は救いを仏様に求めたのです。この浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきました。常楽寺は、西大寺系の真言律宗の寺院旧仏教側にも反省がおきました。「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの時代...大河・かこがわ(125)鎌倉時代(13)文観(6)・新仏教と旧仏教
大河・かこがわ(124) 鎌倉時代(12) 文観(5)・不遇な少年時代か?
文観を追いかけたいのですが、謎だらけ人物です。特に、子供の時代の文観についてはほとんど分かりません。自分のことを語っていないのです。語りたくなかったのかもしれません。そのため、伝承では子ども時代に文観は「播磨の農民の子として生まれ、幼少時に天台宗の僧に130文の銭で買われた」という伝承まであります。不遇な少年時代か?「瑜伽伝(ゆかでん)」から彼について想像してみます。彼の直弟子の宝連(ほうれん)が書いています。おそらく文観から直接聞いた内容でしょう。そのため、信用してよい史料と思われます。少し気になるか所があります。「(文観は)大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子・・・・」の部分です。「(文観は)大野源太夫重貞孫也」と書いており、お爺さんが登場し、父のことを書...大河・かこがわ(124)鎌倉時代(12)文観(5)・不遇な少年時代か?
大河・かこがわ(123) 鎌倉時代(11) 文観(4)・やはり文観は、加古川の人
文観は、北条(加西市)の法華山一乗寺の僧侶で、そこから奈良の大寺(西大寺)に移り後醍醐天皇の保護のもとで大活躍した人物であり、当然、北条(加西市)で誕生した人物であると思い込んでいました。『加西郡誌』を読んでみます。文観、『加西郡誌』より*以下は、文観を説明した個所の最初の部分の記述です。文観僧正は、我が郷土(加西市)から出た人物中の傑物である。・・・・また、その革命家的素質はよく後醍瑚天皇を助けて、北條氏からの政権奪還の計画を(一時)成功させました。そして、鎌倉末期の仏教美術家として絶大の手腕を揮うたことは、遺品によって明らかに証明されています。文観僧正については多くの書物で見ることができます。太平記には「文観僧正は、元は播磨国、法華寺(一乗寺)の住僧で壮年の頃より、醍醐寺に移つり、東寺の長者、醍醐寺の座主に...大河・かこがわ(123)鎌倉時代(11)文観(4)・やはり文観は、加古川の人
大河・かこがわ(122) 鎌倉時代(10) 文観(3)・文観の誕生日:弘安元年(1278 )1月11日
文観(3)・加古川(大野)の生まれ以前、私は「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、てっきりその生まれは、「加西」で、一乗寺で研鑽をした僧侶ぐらいに思っていました。そしてそれ以上に深く考えませんでした。それが入門書ばかりですが、中世史の碩学、網野善彦先生の著書を読んでいると、「文観は、加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めた」と思えてきました。文観の誕生日:弘安元年(1278)1月11日また、昭和29年度氷丘公民館地域学講座(1/27)で、兵庫大学教授の金子哲教授が「日岡の文観」について講義をされました。その講義から、次の史料を紹介します。貴重な史料ですから掲載させていただきますが、少し読みづらいので飛ばしていただいてもかまいません。(史料1)宝連「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正...大河・かこがわ(122)鎌倉時代(10)文観(3)・文観の誕生日:弘安元年(1278)1月11日
大河・かこがわ(121) 鎌倉時代(9) 文観(2)・日本史の分水嶺・南北朝時代
日本史の分水嶺・南北朝時代以下は、大正時代、京都大学の内藤湖南(ないとうこなん)氏の発言です。著作『日本文化史研究』(講談社学術文庫)で読むことができます。「・・・今日の日本を知るために、日本の歴史を研究するためには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありません。応仁の乱以後の歴史を知っておればそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませんが、応仁の乱以後は、われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本の歴史は充分だと言っていいのであります・・・」という一節です。これはよく知られている発言で、「当時(大正時代〉としてはかなり思い切った発言であったと言ってよい)と思います。当時、内藤さんのこの発言がどの程度一般の方の間に浸透していたかはわかり...大河・かこがわ(121)鎌倉時代(9)文観(2)・日本史の分水嶺・南北朝時代
大河・かこがわ(120) 鎌倉時代(8) 文観(1)・常楽寺
文観(1)常楽寺ここにいう「常楽寺」は、日岡神社の東隣にある常楽寺(加古川町大野)のことです。突如として、聞きなれない歴史用語がでてきました。これから、真言律宗、西大寺、後醍醐天皇、文観等が何回となく登場します。説明をしながら話を進めますが、整理をしながらお読みください。常楽寺の盛衰(常楽寺は)正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残りました。その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営されました。末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は300石であったといいます。大野は洪水に見舞われやすい所鎌倉時代です。加古川にしっかりとした堤防を造るということは経済的にも、技術の面からいっても正嘉当時は、十分ではありません...大河・かこがわ(120)鎌倉時代(8)文観(1)・常楽寺
一遍と教信野口念仏のはじまり一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよをどらばをどれ春駒ののり(法)の道をば知る人ぞ知る」と詠んでいます。以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています。人々は一遍をとおして阿弥陀様の声を聞いたのです。一遍:教信寺で眠りたい・・・一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。正応2年(1289)...大河・かこがわ(119)鎌倉時代(7)一遍と教信
大河・かこがわ(118) 鎌倉時代(6) 親鸞の目標は教信の生き方
親鸞の目標は教信の生き方親鸞も20年くらい比叡山にのぼり、また奈良仏教の寺院で自ら学びましたが、どうしても悟り(確信)が持つことができませんでした。そして、親鸞は法然(ほうねん)上人の専修念仏に身を投じ、阿弥陀仏の救済を信じながら非僧非俗として公然と妻帯したことでも知られております。教信は、まさに世俗にあって念仏往生を説く(非僧非俗)生き方を選んでいます。親鸞は、「我は、是加古教信沙弥の定なり」と常に言っておられたと『改邪抄』で聖人の曾孫にあたる覚如上人は記しています。親鸞が教信沙弥を目標にしていたことは明らかです。親鸞の有名な「非僧非俗」という言葉は、結婚され妻子や地に働く民衆とともに、念仏の大道を歩まれた教信沙弥の生き方に共感しての言葉だといわれています。なお一遍については、すでに紹介しましたが、再度次回に...大河・かこがわ(118)鎌倉時代(6)親鸞の目標は教信の生き方
新しい仏教鎌倉時代の新仏教について中学校の教科書(『中学新歴史(帝国書院)』からの引用)を読んでみます。今日の「大河・かこがわ」には、私たちの地域は登場ません。平安時代の終わりごろから鎌倉時代にかけて、あいつぐ戦乱や、社会不安のなかで、人々のなやみに直接こたえようとする新しい仏教がつぎつぎと生まれてきました。法然は、浄土信仰を広めて浄土宗をひらきました。法然の弟子・親驚は、法然の教えを一歩すすめ、阿弥陀仏(あみだぶつ)を信じて「南無阿弥陀仏」と念仏(ねんぶっ)をとなえ、罪を自覚すれば、悪いことをした人でも救われると説いて浄土真宗(一向宗)をひらきました。また一遍(いっぺん)も浄土信仰の一派の時宗(じしゅう)をひらき、各地をまわって踊念仏(おどりねんぶっ)を広めました。日蓮は、法華経こそ仏教のもとになる教えであり...大河・かこがわ(117)鎌倉時代(5)新しい仏教
守護職・梶原景時梶原景時は、頼朝の寵臣として絶大な権限をふるいました。景時は1185年、「守護・地頭」の制度ができると、戦功により播磨・備前の守護となりました。彼は、相模国(さがみのくに)鎌倉郡梶原の出身で、姓は領地の地名をとって「梶原」と名のりました。しかし、頼朝の死後、新将軍頼家に結城朝光(ゆうきともみつ)を議言(ざんげん)したことから、三浦氏をはじめとする有力御家入たちの排斥をうけ、正治元年(1199)12月に鎌倉を追放され、その所領相模国一宮にあった家屋敷も破却されてしまいました。最後は反乱をおこし戦死、嫡子(ちゃくし)の景季(かげすえ)も戦死しました。幕府は、景時に代えて関東の有力御家人の一人、小山朝政を播磨守護に、和田義盛を美作守護につけました。彼の子孫のうち、庶子(跡継ぎとなれない男子)は播磨や鎌...大河・かこがわ(116)鎌倉時代(4)守護職・梶原景時
大河・かこがわ(115) 鎌倉時代(3) 加古荘地頭、生越氏のこと
関東武士復習です。平清盛の支配した五箇荘は、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな荘園であったようです。清盛は、播磨国に大巧田(だいこうでん)を賜りました。仁安2年(1167)のことです。しかし、平氏は滅亡しました。平氏の持っていた所領は没収されてしまいました。この土地に関東から源氏系の武士が大量の流入し、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。加古川地方に流入した関東武士・越生氏についてみておきましょう。加古荘地頭、生越氏のこと写真は、長砂八幡宮です。ここは、越生有高(おごせありたか)の住居跡です。生越氏に関して『加古川市史(第一巻)』の説明をおかりします。武蔵国報恩寺(生越氏の氏寺)年譜によれば、宝治元年(1247)6月4日、越生有高は子息有道に所領所職を譲っていますが、そのなか...大河・かこがわ(115)鎌倉時代(3)加古荘地頭、生越氏のこと
大河・かこがわ(114) 鎌倉時代(2) 糟谷氏は、相模から加古川へ
糟谷氏は、相模から加古川へ加古川城主であった糟谷氏について、『加古郡誌』は、江戸時代の文献から、「糟谷家の祖先は筑前国(福岡県)糟屋郡に住んでいた」としています。しかし、江戸時代の幕府の正式な家系図の寛政重修家譜(かんせいちょうしゅうかふ)では、現在の神奈川県のほとんどを占める相模の国の大住郡糟谷荘とされています。先に紹介したように、平家滅亡の後、加古川地方に関東から多くの武士の移入がありました。糟谷氏も相模糟谷荘からの移入と考えるのが妥当であろうと思われます。承久三年(1221)、糟谷氏の先祖が宇治川の合戦で功績をあげ、加古郡雁南荘を与えあれたのが始まりのようです。加古郡雁南荘は、今の加古川町付近なので、その中に館をつくったのが鎌倉時代初期のことと考えられます。播磨国守護所は前号で紹介したように、加古川城跡で...大河・かこがわ(114)鎌倉時代(2)糟谷氏は、相模から加古川へ
大河・かこがわ(113) 鎌倉時代(1) 守護所は加古川に置かれた
播磨の守護所一般的に、平家滅亡の後、加古川地方に関東から多くの武士の移入があり、東播磨の中世は、はじまりました。そして、現在の県庁といってもよい播磨の守護所が加古川に置かれたのです。場所は、後の「加古川城」であったといいます。守護所は加古川に置かれた源氏としては、できれば播磨の県庁所在地である姫路に守護所を置きたかったようです。しかし、古代から何かと播磨の中心は姫路でした。姫路は、天皇政権の役所である国衙(こくが)が置かれており、もともと都との結びつきのつよく、そのつてで京都の公家や役所と結び、自分たちの地を守ろうとしました。そのため、姫路周辺には平家の所領が少なく、源氏が姫路周辺で勢力を伸ばそうとして時に、姫路周辺の土豪たちは源氏に抵抗したらしいのです。姫路は、源氏領にできなかったようです。源氏は、姫路に地頭...大河・かこがわ(113)鎌倉時代(1)守護所は加古川に置かれた
大河・かこがわ(112) 平安時代(23) 魚橋窯跡(魚橋:高砂市阿弥陀町魚橋)
魚橋窯跡(魚橋:高砂市阿弥陀町魚橋)高砂市阿弥陀町魚橋の地蔵山の東斜面に続く台地から、すさまじいまでの量の古瓦の破片が出土しました。地元の人は、ここを「カワラッシャ」と呼んでいました。今は、そこは現在、東洋金属熱連工業所(高砂第二工場)が進出し、その面影を偲ぶことはできません。院政期:東播磨と中央政権のつながりこれらの古瓦の研究から意外な歴史が浮かび上がってきました。瓦の様式からみて、ここで瓦が生産されたのは12世紀の初頭から13世紀のはじめにかけての、ほぼ100年間です。瓦の他に、須恵器(すえき)のほか強い火を受けた窯壁も出土しており、この台地に瓦窯があったことは確かなようです。つまり、古代から中世へと社会が大きく変動した100年間に限って盛んに瓦を生産したしたことは、なにを物語っているのでしょうか。六勝寺(...大河・かこがわ(112)平安時代(23)魚橋窯跡(魚橋:高砂市阿弥陀町魚橋)
大河・かこがわ(111) 平安時代(22) 五箇荘(ごかのしょう)
前号(no4816)の一部を再度紹介します。・・・印南野遷都構想に対しては、「清盛の思い付き」などの否定的評価がされてきました。しかし、「印南野は平清盛領大功田の中核であり、かなりの合理性を要する判断であつた」と言えます。・・・・この大功田とは、五箇荘(ごかのしょう)のことです。少し説明が必要です。五箇荘(ごかのしょう)平清盛は、播磨国印南野に大巧田(だいこうでん)を賜りました。仁安2年(1167)のことです。功田(こうでん)とは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。中でも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地でした。しかも、無税地です。平家が賜ったこの私有地(荘園)は、五箇荘(ごかのしょう)と呼ばれています。五箇荘について『加古郡史』は、「野寺・北山・中・森安・六分一・...大河・かこがわ(111)平安時代(22)五箇荘(ごかのしょう)
印南野遷都論都で権力を握った平氏でしたが、その政治は武士であるにもかかわらず貴族のやり方に似ており、寺社や兵士にからも不満が渦巻くようになりました。そして、平氏は、追われるように、神戸の福原へ都をうつします。・・・が、福原は土地が狭く、とても不便で伊丹の昆陽池の地が便利であると、再び論議がおこりました。ところが、この昆陽池遷都は清盛によりたちまちのうちにひっくり返されてしまいました。その間の事情は、『玉葉(藤原兼実の日記)』に記されています。印南野遷都は、清盛の思いつきか?(治承知四年・1189)6月17日、天気晴れ。・・・(遷都の件に関しあちこちに問い合わせをして情報収集していた)の返事が来ました。すべてが、「播磨の国の印南野に遷都することになった」との結論です。藤原邦綱(ふじわらくにつな)からは、「厳島内侍...大河・かこがわ(110)平安時代(21)印南野遷都論
武士の誕生*今日のブログには私たちの地域は登場しません。平安時代も終わりに近づくと寺社や貴族の勢力も弱まってきました。農村では、公領(こうりょり)や荘園(しょりんん)から税(年貢)を集めるために名というしくみができ、地方の豪族(ごうぞく)や有力な農民が名主(みょうしゅ)となって、田畑の耕作や年貢をおさめる責任を負っていました。なかでも、地方の豪族は、一族の者や多くの農民をひきいて力をつけ、刀や弓矢で武装して、年貢の取りたてに抵抗(ていこう)したり、土地の権利をめぐって他の豪族と武力で争うようになりました。各地におこってきたこうした者を、武士といいます。武士のなかには、都(みやこ)に出て、皇族(こうぞく)や貴族(きぞく)の家に仕える侍(さむりい)になったり、都の犯罪をとりしまる検非違使(けびいし)の職につく者もあ...大河・かこがわ(109)平安時代(20)武士の誕生
式内社(しきないしゃ)日岡神社(写真)の話です。日岡神社は、式内社です。「式内社(しきないしゃ)」は、聞きなれない言葉です。これは10世紀のはじめ、醍醐(だいご)天皇の時代に作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のです。古代人にとって、森や山は神々の宿る場所であり、ある時は、そこに集まり神々に感謝し、あるときは政(まつりごと)を神々と共に行った場所でした。時はたち、寺院の影響があり、やがて社殿が造られるようになり、7世紀の後半には全国的に神社の形が完成したようです。中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのでしょう。加古川市付近(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は日岡神社だけです。多くの神...大河・かこがわ(108)平安時代(19)式内社
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