大河・かこがわ(107) 平安時代(18) 薬師堂(播磨町古宮)の薬師如来
薬師堂(播磨町古宮)の薬師如来今、私たちが、奈良時代の人間で、釈迦像と薬師像二体の仏像が、運ばれたとします。おそらく、釈迦像か薬師像か区別がつかないと思われます。奈良時代までは、薬師像は釈迦像と何らの区別ありませでした。共に形は如来形でした。平安時代、播磨町に大寺が?播磨町古宮の薬師堂には、像高、140センチ、幅110センチ、奥行き90センチの堂々とした「木造寄木造り」のは仏様です。薬師如来像です。衣を表すひだの流れが美しく、平安時代の末(12世紀頃)の特徴を表しています。そして、よく見ると、左手の上に小さな壷があります。間違いなく薬師如来です。壷には、どんな病気にもよくきく薬が入っています。このように壺を持った姿で薬師如来が造られるようになったのは、平安時代以降のことです。当時、病気でたくさんの人々は悩んだこ...大河・かこがわ(107)平安時代(18)薬師堂(播磨町古宮)の薬師如来
大河・かこがわ(106) 平安時代(17) 貞観時代:大地動乱の時代
大地震が差し迫っているようです。現代と貞観時代の状況とは非常に似た「大地動乱」の時代になるだろうといわれています。(貞観時代:859~877)歴史に学んでおきましょう。貞観時代:大地動乱の時代*今日の報告は『加古のながれ』から長山泰孝氏の書かれた論文をお借りしています。・・・・過去の大地震ですが、今から1100年以上も前の貞観10年(868)7月8日に、播磨で大地震が起きました。このことは、『日本三代実録』という歴史書に記録されています。「・・・播磨国からの報告によれば、今月八日、地大いに震動し、もろもろの官舎、寺院の堂塔、皆尽く頽(くず)れ、倒る・・・」とあるのがそれです。当時の木造建築、ことに寺院の構造は、現在にくらべて決して弱くはなかったと思われますが、それがことごとく倒壊していることからみて、震度7、あ...大河・かこがわ(106)平安時代(17)貞観時代:大地動乱の時代
大河・かこがわ(105) 平安時代(16) 文学散歩(上)・印南の怪
上方文化評論家で、四條畷学園大学客員教授の福井栄一さんが、神戸新聞(東播版)に東播地域(兵庫県)にちなんだ随筆「文学漫歩」を寄せておられます。一部をおかりします。文学散歩(上)印南の怪「今昔物語集巻第二十七第三十六」より十二世紀初頭成立の説話集『今昔物語集』には、こんな話が載っています。今は昔、西国から一人の飛脚が都を目指していましたが、播磨国印南野にさしかかったころには、とっぷりと日が暮れていました。辺りは淋しい野中で、泊めてくれそうな家も見当たりません。なんとか田畑を見張る番小屋を見つけ、ここで一夜を明かすことにしました。真夜中。西の方から、鉦をたたきながら大勢の人たちが近づいて来ました。どうやら葬列のようです。松明の列がこちらへやって来ます。やがて、数人の僧に引き連れられた多くの男女が、口々に念仏を唱えな...大河・かこがわ(105)平安時代(16)文学散歩(上)・印南の怪
十輪寺高砂町横町の十輪寺は、寺伝によると、弘仁六年(815)、空海開山の由緒を持つ古刹です。寺伝はともかく、法然が建永二年(1207)に四国へ配流される途中、高砂浦で漁夫治郎大夫(じぶだゆう)を教化したことが縁で村民らに歓迎され、おとろえていた十輪寺を浄土宗の寺院として再興しています。そして、法然上人二十五番霊場の第三番霊場に選ばれるなど、地域の浄土宗中核寺院の一つとなっていました。以上は『高砂市史(第二巻)』からの説明の一部です。法然の流罪法然は、比叡山で学びました。しかし、そこでの仏教は、貴族・僧などのための宗教であり、救いのためには厳しい修業が必要でした。法然は、庶民の魂の救いのために、「念仏を唱えれば誰でも浄土に往生できる・・・」と言う、浄土宗をはじめました。当然のように、既成宗教から非難が巻きおこきま...大河・かこがわ(104)平安時代(15)法然の流罪
蝦夷がいた司馬遼太郎の『空海の風景』を読んでいます。空海の家系伝説では、空海は讃岐佐伯氏の出として語り継がれています。讃岐佐伯氏は、中央の軍事氏族の佐伯氏とは別系統です。少し説明が必要です。空海は、桓武天皇の時代と重なり、桓武天皇は蝦夷と戦いました。結果、多くの蝦夷が捕えられ、奈良に住まわされたのです。捕えられた蝦夷は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、容易に従いませんでした。そこで、国は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波等の畿外に住まわせることにしました。そして、俘囚を管理する地方豪族に佐伯直(さえきのあたい)という姓(かばね)を与えたのです。俘囚を管理した地方の佐伯氏は、中央の軍事氏族である佐伯氏と同盟関係を結んでその指揮を受けたと考えられます。『日本三代実録』(貞観八年・866)に、近江の国から太政官に「播磨国の賀古...大河・かこがわ(103)平安時代(14)蝦夷がいた
加古川の味・かつめし(49) 加古川かつめしB-1GP初入賞
今日(25日・月)の神戸新聞は、「加古川かつめしB-1GP初入賞」のニュースを大きく取り上げています。「ひろかずのブログ」のカテゴリー「加古川の味・かつめし(no49)」として。掲載させていただきました。加古川かつめしB-1GP初入賞次はもっと上位を兵庫県明石市で23、24日に開かれたご当地グルメのイベント「B-1グランプリ」全国大会で、同県加古川市の市民団体「うまいでぇ!加古川かつめしの会」は、6位入賞を果たした。同会のメンバーたちは「多くの人にかつめしを味わってもらい、加古川を全国に発信できた」と満足そうな表情を浮かべた。かつめしの会がB-1全国大会に出展するのは6回目。会場のブースでは、同会メンバーや応援に駆け付けた市民ら約30人が、ピンク色のTシャツ姿で調理した。「かつめし、オー!」と威勢の良い掛け声を...加古川の味・かつめし(49)加古川かつめしB-1GP初入賞
大河・かこがわ(102) 平安時代(13) 日向宮(日岡神社)本地仏(ほんじぶつ)
日向宮(日岡神社)本地仏(ほんじぶつ)『信仰の美術・播磨の聖たち』の常楽寺の観音像の説明の続きを読んでおきます。写真をご覧いながら読みください。・・・・注目すべきは、観音像の台座下部背面に「日向宮本地仏」の銘が陰刻されていることである。台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられるが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていたことになる。・・・加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえる。・・・・ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。本地仏(ほんじぶつ)「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味ですから、本地仏(ほんじぶつ)とは、本来の姿である仏様という意味になります...大河・かこがわ(102)平安時代(13)日向宮(日岡神社)本地仏(ほんじぶつ)
大河・かこがわ(101) 平安時代(12) 木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)
・・・常楽寺(加古川町・大野)について『大野史誌』は「天正六年(1578)羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した」と記述しています。常楽寺のことを調べたいのですが、残念なことに記録・寺宝等は戦乱や火事に焼かれ、現在ほとんど残されていません。私もそう思い込んでいたのですが、常楽寺には立派な聖観音立像等がわずかに残されています。秀吉軍により、焼き打ちになることが予想されたのでしょう。この観音菩薩像は、どこか別の場所に隠していたのかもしれません。この観音様について、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)からの説明をお借りします。木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)常楽寺本堂の奥に安置される聖観音菩薩立像である。穏やかな相貌を持つ、やや大きめの頭部と、奥行のある体部の肉取りさらに、腰をやや左に捻り、...大河・かこがわ(101)平安時代(12)木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)
大河・かこがわ(100) 平安時代(11) 原(西志方)のお薬師さん
加古川市域の仏たち(平安時代)加古川市域には、前回紹介した鶴林寺の仏たちのほかにも、平安時代の仏尊をまつる寺院が数ヵ寺あります。①木造地蔵菩薩立像平安後期神野西条永昌寺②木造聖観音立像平安中期野口町長砂円長寺③木造地蔵菩薩立像平安後期野口町野口教信寺④木造阿弥陀如来立像平安末期加古川町木村如意寺⑤木造薬師如来坐像平安後期志方町原仏性寺⑥木造阿弥陀如来立像平安末期尾上町養田法音寺きょうは、「原のお薬師さん」として地域に親しまれている仏性寺(志方町西志方原)の薬師三尊像を見ておきましょう。原のお薬師さん写真は、仏性寺の本尊として祀られているのは薬師如来坐像とその脇侍です。仏性寺は、寛保二年に臨済宗の名僧である盤珪(ばんけい)禅師によって再興され、現在は臨済宗(禅宗)の寺院となっています。*盤珪(ばんけい)については...大河・かこがわ(100)平安時代(11)原(西志方)のお薬師さん
大河・かこがわ(99) 平安時代(10) 鶴林寺(3)・鶴林寺の仏たち
鶴林寺の仏たち鶴林寺には、多くのすぐれた仏教彫刻が伝えられています。その中でも最古のものは「あいたた観音」の異名を持っている聖観音立像です。この観音様は、白鳳期(大化の改新~奈良時代以前)の貴重な仏様ですが、鶴林寺が白鳳期からあったという証拠にはなりません。いつの時代か、どこからか持ち込まれたと思われます。鶴林寺には、このほかに平安時代にさかのぼる次の諸像があります。①木造十一面観音立像(重文)平安中期②木造釈迦三尊像(重文)平安末期③木造四天王立像(重文)平安末期④木造阿弥陀如来坐像(県指定)平安末期⑤木造恵便法師坐像平安末期⑥木造菩薩像頭部平安末期②・③は太子堂本尊、④は常行堂本尊として祀られていました。藤原様式をしめす平安末期の諸像が多いのですが、これらの仏像こそ創建以来の諸尊であったとおもわれます。ここ...大河・かこがわ(99)平安時代(10)鶴林寺(3)・鶴林寺の仏たち
大河・かこがわ(98) 平安時代(9) 鶴林寺(2)・太子堂・兵庫県最古の木造建築
鶴林寺(2)太子堂・兵庫県最古の木造建築鶴林寺は、もと四天王聖霊院と称していました。養老二年(718)に、身人部春則(むとべはるのり)が本願となって一大殿堂を建立し、刀田山四天王寺と寺号を改めたと伝えています。身人部(六人部とも書きます)は、播磨の在地土豪のようです。創建の時期は、平安後期と推測されます。というのは、伽藍配置が平安中期以降のものと共通しています。天台寺院に共通した、大講堂を正面にその前面に法華堂と常行堂を対面させる配置をもつこと、法華堂(今の太子堂)が天永三年(1112)造営の所伝をもち、建築様式手法から平安建築と考えられます。従って、常行堂もこの時期の創建と考えてよいと思われます。この法華堂は、太子信仰が盛んとなった鎌倉時代、法華堂の壁に聖徳太子の肖像が描かれ、以降は太子堂と呼ばれるようになり...大河・かこがわ(98)平安時代(9)鶴林寺(2)・太子堂・兵庫県最古の木造建築
大河・かこがわ(97) 平安時代(8) 鶴林寺(1)・鶴林寺は聖徳太子の創建か?
鶴林寺(1)鶴林寺について書くのを若干ためらっています。鶴林寺や檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうです。私の加古川市史の一番よりどころは、『加古川市史』です。その記述をお借りします。『加古川市史』で鶴林寺について執筆されているのは神戸大学で長く教鞭をとられた(故)石田善人先生です。鶴林寺について石田先生や歴史学会の説を若干紹介し、後日別に鶴林寺と鶴林寺が加古川地域にはたした、役割を取り上げたいと考えてみます。ここでは「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と始めますが、鎌倉時代以来、鶴林寺のはたした役割は、あまりにも大きかったことを最初に断っておかねばなりません。鶴林寺は聖徳太子の創建か?鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高...大河・かこがわ(97)平安時代(8)鶴林寺(1)・鶴林寺は聖徳太子の創建か?
大河・かこがわ(96) 平安時代(7) 教信(寺)の話(7)・「一遍上人絵伝」に描かれた教信寺
「一遍上人絵伝」に描かれた教信寺*(注)一遍は鎌倉時代の人ですが、教信(寺)の続きとして「平安時代」の項に含めて紹介しました。修行を重ね各地を行脚するうち、弘安2年(1279年)信濃国で「踊り念仏」を始めました。「踊り念仏」は、空也に倣ったものといわれています。一遍は、沙弥教信にも傾倒していました。弘安5年(1282年)には、布教のため鎌倉に入ろうとしましたが、拒絶されました。弘安7年(1284年)上洛し、都の各地で踊り念仏を行なっています。その後、弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、当麻寺(たいまでら)・石清水八幡宮を参詣します。教信寺を参詣さて、四天王寺・当麻寺・石清水八幡宮で念仏を行ったのち、一遍の一行は、播磨へと向います。目指すは、野口の教信寺でした。その時の様子が「一遍上人絵伝」(右絵)に描かれて...大河・かこがわ(96)平安時代(7)教信(寺)の話(7)・「一遍上人絵伝」に描かれた教信寺
大河・かこがわ(95) 平安時代(6) 教信(寺)の話(6)・死地を求めて
死地を求めて一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。正応2年(1289)季節は夏を迎えようとした頃でした。一遍は、讃岐の善通寺へ向かいました。それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。教信寺で眠りたい・・・夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、できることなら、あの白い砂の輝いている明石へゆきたい。それから、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で眠りたいと思うのでした。幸にして、七月十八日に、ようやく海を渡って対岸の明石の浜辺につくことができました。明石から、印南野の教信寺までは、すぐ目と鼻の先です。一遍は、体力の衰...大河・かこがわ(95)平安時代(6)教信(寺)の話(6)・死地を求めて
大河・かこがわ(94) 平安時代(5) 教信(寺)の話(5)・時宗の衰え
時宗の衰え鎌倉時代・室町時代、一遍の教えは踊りとともに、民衆の中に爆発的に広がりました。野口念仏は、一遍の亡き後も時宗の踊念仏はますます民衆に広がっていました。教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった34年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7日間の念仏踊りを行いました。これが、野口大念仏の始まりだといわれています。しかし、現在、一遍の「時宗」は衰退して、ほとんどその活動を見ることができません。それは、江戸時代の檀家制度によるものです。檀家制度は、檀家を持たず信者をつくっていた時宗にとっては大打撃でした。それでも、野口念仏は地域のお祭りとして賑わいました。が、最近の「ねんぶったん」は、昔と比べるとずいぶん寂しくなったそうです。(no3798)*写真:念仏踊り(インターネッ...大河・かこがわ(94)平安時代(5)教信(寺)の話(5)・時宗の衰え
大河・かこがわ(93) 平安時代(4) 教信(寺)の話(4)・野口念仏のはじまり(1)
野口念仏のはじまり(1)*一遍(右絵)は、鎌倉時代の僧ですが、教信(寺)の話の都合で、ここに挿入させていただきます。一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよをどらばをどれ春駒ののり(法)の道をば知る人ぞ知る」と詠んでいます。以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。何が人々をそのような激しい踊りの表現を取らせたのでしょう。踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています...大河・かこがわ(93)平安時代(4)教信(寺)の話(4)・野口念仏のはじまり(1)
大河・かこがわ(92) 平安時代(3) 教信(寺)の話(3)・(伝承)上人魚(しょにんうお)
教信(3)・(伝承)上人魚(しょにんうお)教信についての伝承です。京都に都が移ってからあまり年月がたっていない頃のことです。教信は、野口の「賀古の駅」(かこのうまや)の近くに庵を構え、念仏を中心に一心に修業をしていました。それは今までの形式を重んじるものでも、伝統的な戒律を守るだけの修業でもありません。生活の中に仏様の教えを生かそうという修業でした。教信は、結婚もしました。たまたま、ある日教信に土地の者から川魚の差し入れがありました。教信は、感謝してこれをよばれました。すると今までも破戒僧としてにがにがしく思っていた人々が、これを聞いてがまんできなくなり、「僧が結婚をしたり、生魚を貪べたりすることは、仏道修業をする者のすべからざる行為である。けしからんことだ・・・」と教信を大声でなじるのでした。どの経典にも書い...大河・かこがわ(92)平安時代(3)教信(寺)の話(3)・(伝承)上人魚(しょにんうお)
大河・かこがわ(91) 平安時代(2) 教信(寺)の話(2)・祈りに生きた僧
教信(2)・祈りに生きた僧・教信ここは奈良の興福寺です。この寺は、藤原氏の氏寺です。そのため、平安・奈良時代は、とてつもなく勢力を持った寺でした。自然、興福寺の僧たちは「自分たちは他の寺の僧よりも優れている」と考えていました。教信もそれらの僧の中で修行をしていました。しかし、教信は「仏さまの教えは、僧は貧しい人々の中で生活してこそ、真の修行である」と考えるようになりました。教信は、そう考えるようになると、興福寺を離れることに躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。興福寺を離れた後、諸国を歩きました。どこでも、庶民の生活は、彼が考えていたよりも厳しい現実を知りました。農民たちは高い税に苦しみ、貧しい生活を強いられていたのです。やがて、教信は、印南野の西の端の野口に着きました。ここは賀古駅(かこのうまや)のある場所です。...大河・かこがわ(91)平安時代(2)教信(寺)の話(2)・祈りに生きた僧
大河・かこがわ(90) 平安時代(1) 教信(寺)の話(1)・教信『今昔物語集』に登場
平安時代(1)、教信(寺)の話(1)それでは時代を一歩進め、平安時代の話を「教信(寺)」の話から始めましょう。教信『今昔物語集』に登場『今昔物語(こんじゃくもがたり)』は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。そこには、「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死についての話が登場します。教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんだったようです。それでは、『今昔物語集』に登場する教信の話を読むことにします。教信の死(『今昔物語集』より)大阪の箕面市に、勝尾寺(かつおでら)があります。勝尾寺のお坊さんの勝如(しょうにょ)は、来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。ある夜、誰かが訪ねて来ました。勝如は無言の行の最中でした。返事ができないので「ゴホン」と咳払いをしました。...大河・かこがわ(90)平安時代(1)教信(寺)の話(1)・教信『今昔物語集』に登場
加古郡と印南郡の郡境*加古郡と印南郡を「加印」と呼びました。地図は、「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、現在の加古川市加古川町の部分だけを拡大したものです。地図の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に郡境があります。この郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されました。その時、加古川は郡境に沿ったところを流れていました。つまり、加古川の左岸側(西側)は印南郡、右岸側(東側)は加古郡と決められました。ですが、なにせ加古川は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし流路を変えました。流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のままで、変更されませんでした。しかし、江戸時代になり、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との...大河・かこがわ(89)奈良時代(13)郡境
大河・かこがわ(88) 奈良時代(12) 令和について(5)・「令和」の典拠になった歌碑
令和について(1~4)」は、おせっかいな内容になってしまいました。でも、「令和」の典拠になった公園の歌碑ついて、公園関係者の方々にご検討下さいますようお願いもうしあげます。「いなみ野万葉の森」「いなみ野万葉の森」の説明には、「この万葉の森は、古代の印南の海を縮景造園した日本庭園です。池は、印南の海、その北の森林は賀古の松原(かこのまつばら)で、池の中の島は淡路島です・・・」とあります。池が印南の海をあらわし、その真ん中に淡路島がデンとあります。そして、池を囲んで賀古の松原があり、印南川(加古川)が流れています。説明にはないのですが、印南の海の周囲には、印南野(台地)が広がっています。この公園は、まさに印南野(台地)のど真ん中です。そんなことを知って、万葉の森を散策ください。また、違った風景のように見えます。万葉...大河・かこがわ(88)奈良時代(12)令和について(5)・「令和」の典拠になった歌碑
大河・かこがわ(87) 奈良時代(11) 令和について(4)・大伴氏一族は、武門の人たち
大伴氏一族は、武門の人たち大伴池主のことを付け加えておきます。池主は、大伴につながる一族です。天皇の住む、宮城には12の門があります。その門の一つ一つを古代の豪族が守りを固めています。その正面の門は、大伴門です。大伴氏はその門を守るだけではなく他の11の門を統括していました。つまり、大伴氏の本来の仕事は、天皇を守るという近衛兵でした。ですから、天皇家と深い誼(よしみ)を持った一族です。しかし、旅人・家持の時代は、天皇の権力を藤原氏がそれにとって代わろうとした時代でした。*大伴池主は、大伴家持と共に活躍。聖武天皇が亡くなり、橘諸兄が亡くなり、その息子(奈良麻呂)が、それに反対し、クーデターを起こそうとして失敗しました。「奈良麻呂の変」以後、大伴氏の力は、急速に弱まりました。家持は、このクーデターを予想はしていたで...大河・かこがわ(87)奈良時代(11)令和について(4)・大伴氏一族は、武門の人たち
大河・かこがわ(86) 奈良時代(10) 令和について(3)・「大伴池主」の作ではない!
「令和」の典拠になった歌の作者は「大伴池主」ではない!大伴の旅人・家持・池主について、少しだけ考えてみましょう。「令和」の典拠になった宴のことです。この宴は、太宰府の大伴旅人の家に集まっての歌会ですから、旅人が絡んでいることは確かです。その他、分かっていることを少し上げておきます。(1)大伴家は、大伴家は天皇家を警護する家柄です。(2)この時、旅人は、九州の反乱を平定するために大宰府に派遣されていました。(3)大伴旅人は、大伴家持のお父さんです。(4)大伴旅人は、665年頃の生まれ(731年没)だと言われています。(5)大伴家持は、717年頃の生まれ(785年没)だと言われています。(6)この宴が開かれた時は、730年ですから、この時、家持13歳ぐらいの子どもです。(7)旅人は、宴の翌年、大納言として帰郷したが...大河・かこがわ(86)奈良時代(10)令和について(3)・「大伴池主」の作ではない!
大河・かこがわ(85) 奈良時代(9) 令和について(2)・ 華やかな歌会でした。が・・・
華やかな歌会でした。が・・・4月の初めのころでした。稲美町の万葉の森に出かけました。元号「令和」の典拠となった歌碑を見学するためです。ここへは何度も来ているのですが、こんなに華やいだ「万葉の森」は初めてでした。やはり元号(令和)に関心があるのですね。見学に来た目的は、この歌碑を見たかったためですが、何よりもその作者が「大伴池主」になっていることを、直に確認したかったからです。その理由は、次回にします。今日は歌の意味と当時の社会情勢を、少しだけ見ておきます。天平二年の正月十三日に、太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の家に集まって、宴会(うたげ)が開かれました。この歌会が開かれたのは、現在の暦では、西暦730年2月8日ごろだそうです。意味は、次のようです。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く、風和らぐ。梅は、鏡前...大河・かこがわ(85)奈良時代(9)令和について(2)・華やかな歌会でした。が・・・
令和について(no1)万葉集は、奈良時代の日本最古の歌集です。稲美町の万葉の森にある歌碑が少し気になりましたので紹介しておきましょう。「(元号)令和」について今年の4月3日(水)、神戸新聞は、「兵庫令和ゆかりの地沸く」と題して「いなみ万葉の森」にある新元号「令和」の典拠となった歌碑を大きく紹介しました。少し気になりました。それは、万葉の森にある歌碑の作者が「大伴池主(おおとものいけぬし)」となっていることです。さすがに、神戸新聞も気になったのか。写真等の説明に、「(万葉の森)碑上で作者が、大伴池主となった経緯は不明という」と註を入れています。神戸新聞記事から、その歌碑についての一部の紹介します。「令和」ゆかりの地沸く(以下、記事・写真とも神戸新聞からの転載)新元号「令和」の典拠となったのが日本最古とされる歌集「...大河・かこがわ(84)奈良時代(8)令和について
大河・かこがわ(83) 奈良時代(7) 溝之口に古代播磨の軍団が駐留か
溝之口に古代播磨の軍団が駐留か溝之口遺跡は、先に紹介したように、弥生時代にはじまり、古墳・奈良・平安時代へと連なる複合遺跡です。この遺跡から、須恵器(すえき)の底に「大毅」(だいき)と書かれた墨書土器(写真)が出土しました。*軍毅(ぐんき)・・・律令制で、国司のもとで軍団を統率した将。大毅・少毅に分かれていた。(『大辞泉』小学館)より『加古川市史(第一巻)』は、「(墨書土器の大毅を)軍団の駐留に結びつけようとする興味ある考え方もあるが、その推進には総合的な立論を必要とする」と慎重な記述です。一方、『加古のながれ』(加古川市史編さん室)は、この墨書土器の「大毅」について、歴史家・今里幾次氏の意見として、ずばり次のように説明している。「・・・律令制の軍事組織として、諸国に軍団が置かれましたが、播磨ではその実在が、い...大河・かこがわ(83)奈良時代(7)溝之口に古代播磨の軍団が駐留か
大河・かこがわ(82) 奈良時代(6) 賀古駅(かこのうまや)のふしぎ
賀古駅(かこのうまや)のふしぎ(馬数はなぜ多い)駅制の発足当時から、二百何十年かのちの延喜式に出てくるまでに、馬数には何回かの増減があったらしいのですが、なぜ賀古の駅が日本最大の規模になったのでしょう。京都府教委の高橋美久二技師は、かつて明石~賀古間に一駅、賀古-草上間に一駅が置かれていた時代があったと思われることから、この二駅が廃される時、各20頭ずつの馬を二分して、両隣へ10頭ずつ分けたため、賀古は両側から10頭ずつもらって、既存の馬と合わせて40頭になり、明石と草上は片隣から十頭もらって各三十頭になったという仮説を立てておられます。野口は交通の要所神戸女学院大教授・地理学専攻の渡辺久雄氏は、その40頭の必然性を次のように推理しておられます。「駅のあった場所は、昔の加古川べり。加古川は古代、ヒノカワと呼ばれ...大河・かこがわ(82)奈良時代(6)賀古駅(かこのうまや)のふしぎ
オマーン国王物語(23) オマーン王族 稲美町訪問(3) もっと知ろう オマーンのことを! 世紀のロマンスの話を!
オマーン王族稲美町訪問(3)もっと知ろうオマーンのことを!世紀のロマンスの話を!オマーン夫人については、稲美町のあることを調べている時に、地元の人(Oさん)から聞き出した話題でした。Oさんも、はっきりとはご存じありませんでしたが、夫人の墓碑は、たまたま近くでしたので、案内してくださいました。インターネットで調べてみると、確かにオマーン国王が稲美町出身の方と結婚をされ、お墓が稲美町にあるとあります。詳しいことはわかりません。その後も、この話はずっと虫歯の疼きのように気になっていました。調べてみました。まさにドラマのような話でした。そこで、『オマーン国王夫人物語』としてまとめ、ブログで発信しました。たくさんの読者が興味を持っておられました。突然、話は、大きく展開しました。天皇の即位式にオマーンの副首相が参加されると...オマーン国王物語(23)オマーン王族 稲美町訪問(3)もっと知ろう オマーンのことを! 世紀のロマンスの話を!
オマーン国王物語(22) オマーン王族 稲美町訪問(2)・感激の一日
オマーン王族稲美町訪問(2)感激の一日(10月25日)でした清子さん(ブサイナ元国王夫人)の墓参を済ませ、オマーン一行と墓でお別れしました。その時、アスアド副首相に、英語もどきでお礼を少しお話させていただきました。私は、今年76歳ですが、今まで現役の国のトップの方と直接お話をさせていだいたのは初めての経験でした。緊張しました。25日の日程を紹介しておきますと、お墓に参ったのはオマーンの一行が稲美町役場の会議室で、すこしの会談した後のことです。その会談では、もちろん清子さん(ブサイナ姫のお母さん)のご親戚の杉本浜子さんとの話題が主になりました。アスファド副首相に拙書を紹介後半、町長(古谷)さんが、私のまとめた『オマーン国王夫人物語』を代表団に紹介してくださいました。その冊子の清子さんの結婚式の日に写された写真等を...オマーン国王物語(22)オマーン王族稲美町訪問(2)・感激の一日
少し寄り道をします。オマーンの副首相が稲美町を訪問されました。以下の記事は、10月25日神戸新聞の記事からの再掲です。(記事を一部省略し、写真を変えています)オマーン王族稲美町訪問(1)天皇陛下が即位を宣言する「即位礼正殿の儀」に出席するため来日した、中東・オマーンのアスファイド副首相兼国王特別代理らが25日、王族ゆかりの地である稲美町を訪問した。元国王夫人で、神戸でブサイナ王女を生んだ清子・アルサイド(旧姓大山)さんの墓に、同国関係者10人が花を供えた。約40年前には同王女が来町しており今回は副首相が墓参した。清子さんは1935年(昭和10)、カーブース現国王の祖父であるタイムール元国王と神戸で出会った。恋に落ちた2人は翌年結婚式挙げ、ブサイナ女王(日本名は節子)が誕生したが、39年(昭和14)清子さんが病没...オマーン国夫人物語(21)オマーン王族 稲美町訪問(1)
大河・かこがわ(81) 奈良時代(5) 古代山陽道(2)・駅ヶ池の堤は古代山陽道か?
古代山陽道(2)駅ヶ池の堤は古代山陽道か?次の文は『加古のながれ』(加古川市史編さん室)からの引用です。説明の前に図の「古大内遺跡」の場所を確認してください。古大内遺跡は、賀古駅家(かこのうまや)跡・・・加古川市野口町の古大内遺跡は、「賀古駅家」の跡として、全国的に認められるようになりました。その北にある駅ヶ池の南岸から西進して加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅前あたりまでを直線で結ぶ道路の痕跡が見いだされました。これがおよそ1300年前に設けられた古代山陽道で、幅は約20メートルもあります。このような広幅・直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道で、当時の30里、後世の5里ごとに駅家が設置されました。その一つが賀古駅家で、延喜式には駅馬40疋を常置したとありますから、日本一の大駅...大河・かこがわ(81)奈良時代(5)古代山陽道(2)・駅ヶ池の堤は古代山陽道か?
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