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  • 宮崎奕保さんのこと(10) 小塩師匠亡くなる

    小塩師匠の死大学を中退した宮崎禅師は、再び京都の大徳寺に行きました。27歳の時のことでした。この時、宮崎禅師は、以前に大徳寺で修行をした時よりも、さらに一生懸命修行を行いました。また、歴史ある大徳寺には、古い文献が数多く残されています。宮崎禅師は、連日、書庫を訪ねては、それらの古い文献を読みあさりました。昭和4年5月23日、京都で修行を行う青年のもとに電報が届きました。加古川からでした。修行の身である青年のもとに電報が送られてくることなどめったにありません。嫌な予感が的中しました。「シショゥ、キトク」青年はあわてて住職の部屋へと向かいました。「師匠が危篤との知らせが届きました。これから加古川へ帰ってもよろしいでしょうか」「すぐに行きなさい」京都駅に到着した青年は、駅舎にかかげられた大時計に目をやりました。11時...宮崎奕保さんのこと(10)小塩師匠亡くなる

  • 宮崎奕保さんのこと(9) 念願の学生生活

    念願の学生生活大正10年、宮崎禅師は満年齢で20歳になり、徴兵検査を受けました。この時期、宮崎禅師が戦地に赴くことはなく、そして三年間の軍隊生活を終えて24歳になった宮崎禅師は、僧侶として一人前になるための経験を積んでいました。最初は、大正13年の夏に行った立職(りっしよく)でした。禅寺には、百日修行といって、およそ三ヵ月間、雲水たちが寺に籠もって集中的に修行を行う慣わしがあります。そして、この集中修行の際には、雲水たちの先頭に立って修行を行う首座(しゆそ)と呼ばれるリーダーを立てることになっていました。立職とは、その首座を経験することでした。宮崎禅師が首座を務めたのは、神戸にある般若林福昌寺の夏の百日修行においてでした。首座を務めあげ立職を果たした宮崎禅師は、次に、嗣法(しほつ)といって師匠から法を受け継ぐ儀...宮崎奕保さんのこと(9)念願の学生生活

  • 宮崎奕保さんのこと(8) 坐禅をして何になるのか

    坐禅をして何になるのか無断で寺を飛び出した弟子(奕保)に対して、小塩老師は罰を与えました。それは、京都にある禅の大徳寺で修行をすることでした。京都には臨済宗の寺が数多くありますが、中でも大徳寺には、坐禅修行を専心的に行う伝統がありました。大徳寺に弟子を送り出すにあたって、小塩老師はこう言ったといいます。「曹洞宗の坊主は、勉強・勉強と頭ばかりの仏法になって、只管打坐(しかんたざ)の実践がなくなってきた」「只管打坐」とは、道元禅師の教えの根本を示す言葉です。「とにかく、ただひたすらに坐禅に打ち込め」という道元禅師の教えでした。道元禅師は、「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉も残しています。「この世の真理や悟りの境地は、文字によって完全に言い表すことはできない」という意味です。しかし、学ぶことの喜びに目覚めていた...宮崎奕保さんのこと(8)坐禅をして何になるのか

  • 宮崎奕保さんのこと(7) 勉強がしたい

    勉強がしたい保少年は、高等小学校の二年生の時に、得度をしました。これによって初めて正式な出家僧になりました。寺に入って4年後、15歳の時のことでした。この得度の際に師匠から授かったのが、「突保(えきほ)」という僧名でした。名前である「保」に加えた「奕」の字は、小塩師匠が尊敬していた明治の傑僧、諸嶽変堂(もろたけえきどう)禅師の名前からいただいたものです。小塩老師は、弟子に立派な僧侶になってほしいと願っていました。しかし、師匠の思いとは裏腹に、奕保はこの頃、ある思いが芽生えていたのでした。「より学業を積みたい」と思うようになっていたのでした。しかし、師匠は、そうした弟子の願いをまったく聞き入れようとはしませんでした。奕保氏は、そんな師匠に対して不満を募らせました。そして、進学を許可してくれない師匠に業を煮やした奕...宮崎奕保さんのこと(7)勉強がしたい

  • 宮崎奕保さんのこと(6) 小塩老師の教育

    小塩老師の教育道元禅師が建立した永平寺は、厳しい修行の場でした。雲水たちは、師の説法を聞き、坐禅を行い、道元禅師が中国の禅寺で学んだ作法に則って、僧侶としての規則正しい生活を送りました。宮崎禅師が入門した福田寺も、まさに永平寺の修行と同じものでした。小塩老師は、雲水が手を抜くことを絶対に許しませんでした。時には、拳骨もあったといいます。宮崎禅師は、そんな師匠のことをこう振り返っておられます。「老僧はとにかく厳格な人やった。横着をするとよう叩かれた。それぐらい修行に厳しい人やった。だから、老僧のことを恐ろしいと思っておった。あまりに怖くて、師匠だけど話しかけることもできんかった」と。福田寺に入門当時まだ小学生だった宮崎保少年は、日中は学校に通いました。しかし、頭を剃り、雲水の格好をいつもしていなくてはならなかった...宮崎奕保さんのこと(6)小塩老師の教育

  • 宮崎奕保さんのこと(5) 余話:福田寺の層塔から

    余話:福田寺の層塔稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。研究者は、「鹿子の水門(かこのみなと)」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時(奈良時代)は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔(写真)があります。現在は十一重ですが、もとは十三重であったと思われます。塔身(初層)には、三面に如来像が浮き彫りされています。この反対の面の如来像両協に銘文があり、この層塔は、正和二年(1313)に、西河弥陀仏を願主として造立されたものであることがわかりました。大野の常楽寺の宝塔と比較すると格狭間の下端幅は福田寺噌塔の方が狭いことが判明していますが、研究者は、「この層塔の格狭間(こうざま...宮崎奕保さんのこと(5)余話:福田寺の層塔から

  • 宮崎奕保さんのこと(4) 小塩闇童(こしおぎんどう)老師

    小塩闇童(こしおぎんどう)老師のこと宮崎保少年が入門した福田寺は、小さいけれど非常に歴史のある寺でしたが、それが慶長年間(1595~1615)に曹洞宗の寺になりました。その顛末らしきことは、次回「余話」としてお話しましょう。福田寺の本堂は、およそ三百年前、江戸時代に建てられたものです。宮崎保少年がやって来た時、この寺の住職を務めていたのは、小塩闇童(こしおぎんどう)老師でした。小塩老師はこの時、64歳。11歳の宮崎禅師とは、祖父と孫ほどの年齢差がありました。小塩老師は禅を究めんとする思いは非常に強い僧でした。多くの高僧たちのもとでも修行を積んだ僧でした。播州平野にあるこの小さな寺を、雲水たちが修行を行うための僧堂(そうどう)(修行道場)にしました。しかし、僧堂というのは誰でも簡単に開くことができるものではありま...宮崎奕保さんのこと(4)小塩闇童(こしおぎんどう)老師

  • 宮崎奕保さんのこと(3) 福田寺(ふくでんじ)に入る

    福田寺(ふくでんじ、現:加古川町稲屋)に入る明治44年8月25日、少年の名前は宮崎保(たもつ)です。この時、尋常小学校の四年生であった。顔にはあどけなさが残っていました。この日は夏休みでしたが、この日、住みなれた自分の家を出ました。少年の家は、兵庫県加西郡(現・加西市)の地で32代、1200年近く続いた庄屋でした。宮崎保少年は、その旧家の長男で、一人っ子でした。少年は、この時、実は、両親と一緒に暮らしていません。母は、父がよそに女性を作ったため、少年が小学校に上がる前に実家に帰ってしまったのでした。その原因を作った父は、少年が8歳の時に亡くなりました。両親と暮らすことができなくなった少年は、その後、祖父と一緒に古い屋敷で暮らしていました。少年には、家の事情はよく分からなかったのですが、かつての繁栄が徐々に失われ...宮崎奕保さんのこと(3)福田寺(ふくでんじ)に入る

  • 宮崎奕保さんのこと(2) 宮崎奕保さんを紹介する前に

    宮崎奕保さんを紹介する前に宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのことを紹介したいのですが、詳しいことは知りません。最初にお詫びとお断わりをしておきます。「ちゃんと調べてから書け!・・・」というお叱りが聞こえてきそうです。最初に種明かしです。宮崎さんを紹介したいために、とりあえず宮崎奕保さんについて3冊の本を購入しました。その内、石川昌孝氏の書かれた『坐禅をすれば善き人となる-宮崎奕保禅師、百八歳の生涯』(講談社)を参考にして生涯を紹介します。著者の石川氏はNHKのディレクターで、奕保氏の修行の日々を描いた「永平寺104歳禅師」等々、永平寺そして永平寺の禅僧、特に管主の奕保氏の修行のようすについての番組を製作されています。そのテレビ制作の過程で奕保氏から、たくさん取材をされています。上記の本は、それらの貴重なお話をまと...宮崎奕保さんのこと(2)宮崎奕保さんを紹介する前に

  • 宮崎奕保さんのこと(1) 宮崎奕保さんを紹介します

    宮崎奕保さんを紹介します「ひろかずのブログ」の外にもう一つのブログ「ひろかずの日記」を書いています。「ひろかずのブログ」は毎日アクセスが2.500ばかりあるのですが、こちらの方は100~150のアクセスです。気楽に書いています。よろしかったら覗いてください。11月5日号で、宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師について書きました。・・・きのう(11/4)『95歳まで生きるのは幸せですか(瀬戸内寂聴共著)』を読んで、「ビックリする話題がありました」そのビックリする話題は、次の箇所です。宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと・・・・私(瀬戸内寂聴さん)が出会った中で、もっとも尊敬しているお坊さんのひとりが、永平寺貫首(えいへいじかんしゅ)を務められた宮崎奕保禅師(みやざきえきほぜんし)さまです。残念ながら2008年、106歳...宮崎奕保さんのこと(1)宮崎奕保さんを紹介します

  • 文観と後醍醐天皇(26) 南北朝正閏論・東播磨は「北朝方」

    前号の続きです。円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、(県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。北朝年号(康歴元年)「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ば...文観と後醍醐天皇(26)南北朝正閏論・東播磨は「北朝方」

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