今日は。中一週あきましたが、前回のつづきを述べてみたいと思います。「了」(りょう)についての説明です。了とは、了別、つまり物事、対象を区別する働きを持つものという意味です。それは認識主体である見分(けんぶん)になります。見分は常に認識対象である相分(そうぶん)と一緒に働いています。私たちが誤解をするのが、相分と共にですから、相分(認識対象)が存在すると錯覚を起こすのですね。これが二分説になるのですが、二分説では認識の在り方が十分に説明がつかないわけです。そこでですね、陳那論師が二分は自体から生ずると見抜かれました。自体分から認識するもの、認識されるものが転じているのだと。このような構造ですと、認識の在り方は、自体分、つまり自分から生まれているんだと、自己責任に於いて認識判断を行っているのが私であるということにな...唯識入門(31)
おはようございます。自粛要請も全面解除になり、何故か新型コロナが終焉したかのような感がありますが、終焉していませんからね。お一人お一人の行動の自粛が求められますね。たとえワクチンが開発されたとしても、新たな感染症が必ず生まれてきます。それは人間が環境と共存する姿勢を失って、人間が環境を破壊する限り、環境と人間の行動の摩擦から必然的にもたらされるものだと思います。いうなれば、感染症はどこかから来たのではなく、人間が人間自身の中から生み出してきたものであるという自覚が必要だと感じます。唯識は四分義に於いて警鐘をならしています。単純には、いのちは何を対象にして動いているのかということです。いのちの対象は自らの経験したことと、この身体です。そして共通するいのちの大地、つまり環境です。これを対象として動いています。自らの...唯識入門(30)
今晩は、ちょっと間隔があきましたが、四分義についての序説を述べてみたいと思います。四分義は何を現わそうとしているのか、ここが一番の問題だと思います。四分義は、私たちの認識の構造の心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しているのです。第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね。心は必ず何かを対象として認識をしているのです。『成唯識論』では、「謂く、云く」と答えています。『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処...唯識入門(29)
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