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yas_naganoの箴言録 https://blog.goo.ne.jp/yas_nagano

生の総括として、ずっと書き綴ってきました。表現形式として、さらに凝縮させたいという想いでこのブログを

yas_naganoの箴言録
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2014/11/13

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  • (406)

    言いたい放題で、毒をしこたま吐いて、それでもなお、グースカ眠れる輩は男女問わず信用出来ない。もしあなたの近しい人がそうであるなら、未来は暗澹たるものになるだろうこと、請け合いである。こういう輩は、精神が粗雑なので、自省することがない。もし、そのような素振りをしても決して信用してはならない。経験論的私見である。(406)

  • (405)老いてこそ、走れ! 走れ! といこうじゃあないか。

    (405)老いというのは、いかにもキツイ。老いにまつわる個別の身体的・精神的変化は受け入れることは出来ると思っていたが、いざ、自らが老いた身体をおして、老境にふさわしからぬことについ乗り出して、軽くこなせるはずのことがなかなか困難なことに気づく。つまり、こういうことだ。老いすらも、人生、走りながらでなければ言葉どおりの老いの実感を得ることが出来ないのである。人は勝手に安全だと感得している場に踏み止まっている限り、生きている、そのときどきの生きる意味や実感などつかみ取ることなど出来はしないのだ。だからこそ、走れ!走れ!命を賭して走れ!人生のどのような瞬間においても。文学ノートぼくはかつてここにいた長野安晃(405)老いてこそ、走れ!走れ!といこうじゃあないか。

  • (404)自分を見限るとすれば、ね。

    (404)言うまでもないことだが、相互批判とは、議論の対象者と意見を闘わせて、それぞれの誤謬を認識し合い、より高い価値意識へと昇華あるいは止揚させることだろう。このような意識と勝ち負けのそれとは最も相容れないものだ。文字通りの相互批判を試みるならば、無論激論は避けがたいことだが、議論の過程で相手方の意見をまず受容する意思がなくてはならない。このような姿勢があるからこそ、単なる妥協を超えた、より高き価値意識へと誘われる可能性が出て来るということだろう。理想論を言えば、相互批判の対象者こそが互いの、生涯の友としての資格を持ち得ると思う。このような気持ちで生きてきたつもりだが、いまの孤立無援の(高橋和巳の「孤立無援の思想」は、どこまでも開かれていたけれどね。やはり高橋の凄さはこの一点にあると言っても過言ではないかも知...(404)自分を見限るとすれば、ね。

  • (403)取り換え可能な存在としての人間

    (403)ごくひとにぎりの天才は例外として、能力的に恵まれて生まれてきた人から、そうでない人まで含めて、労働力としての自己の存在意義を、取り替え不可能な存在だと思いつつ生きていて不思議はない。この種の勘違いこそが、人を生かしめている動機であり、生きる歓びすら喚起させる重要なファクターだからである。心身ともに健康なときは、この種のスタンスで生きているのが自然で安全な生の様式だろう。さて、問題は体力・気力ともに弱ったときのこと。前記した自己存在の絶対化は、健康なときは無意識の領域で、当然のことのように自己受容している。が、人が何がしかの理由で脆弱になった瞬間から、初めて自分がこの世界にとって、意味ある存在なのかどうかを自問しはじめる。こういう場合に出る結論は、絵に描いたような自己の存在無用論と相場が決まっている。が...(403)取り換え可能な存在としての人間

  • (402)アイデンティティーについて少し考える。

    (402)自分のことを少々。僕のアイデンティティの有りようは、民主主義者だが、民主主義的手続き論にはしばしば閉口させられる。こういうとき、昔々の極左の自分の思想がムックリと姿を現す。雑然とした人間集団の中で生きるのを好むが、それ自体にうんざりもして、ソローの「森の生活」に憧れたりもする。異性愛者だが、同性愛者の権利も認める。無思想の、とてつもない寂しがり屋だが、孤立無援の思想を書き綴った高橋和巳の尖った思想と文体に憧れる。もっと次元を下げれば、たぶん、この拙論は書き終わらない。まあ、自分の姿なんて、こういうものだし、相当に無軌道だけれど、それこそが、自分のアイデンティティだと認識している。だから、あるひとつの価値観に収斂していくような心的傾向は危険だと思ってもいる。アイデンティティ・クライシスというならば、単一...(402)アイデンティティーについて少し考える。

  • (401)僕にとっての夕暮れ時

    (401)夕暮れ時、水商売に出るために銭湯に出かけていく母親の後ろ姿。ウソだろうと?と言いたくなるようなおかしな服装、もうええやろう?と言いたくなるほどの、嘔吐しそうなVO5ハードタイプの多量のスプレー噴射の胸糞悪い悪臭。夕暮れ時は、僕の裡で、憂鬱さと深く繋がっているのである。文学ノートぼくはかつてここにいた長野安晃(401)僕にとっての夕暮れ時

  • (400)記憶の奥底に・・・

    (400)人の記憶とは不可思議なものだ。自分の幼き頃のことを雷鳴に打たれたように思い出した。それは決して心地よきものではない。意識的・無意識的に心に頑丈なカギをかけていたのかもしれない。僕は、この歳にして、自分が虐待児童だったことを認識した。それも並みの虐待ではなかった。それが原因で死んでいてもおかしくはないような、それ。20歳どうしの、出来ちゃった結婚の走り。僕は生まれて来るはずのなかった人間だったらしいが、祖父の説得で(そんなことはしなくてよかったのに!)子どもが授かったのだから結婚すべし、という名の、二人にとっては拷問のはじまり。この僕にとっての悲劇のはじまり。いま、ここで生きて、息をして、もはや自分の死を想定出来る歳になって思い出すとはどういうことか?人の記憶の不思議を想う。文学ノートぼくはかつてここに...(400)記憶の奥底に・・・

  • (399)<自分らしさ>を求めて。

    (399)遅すぎる気づきなのだが、生についてまわる寂しさや寄る辺なさに自覚的になるからこそ、自分とは何ぞやという自問が始まるのではないか。その行き着く果てなき自問の末にあるもの、それが<自分らしさ>への希求だ。だから、<自分らしさ>とは、間断なき自己への問いかけである。自問なき人生など無意味だと思う思考回路は、たぶんいまだ健全?なので、もう少しは生き続けるとして、これから先も<自分らしさ>を求め続けることでなければ、生きる意味を感じない。少なくとも僕はそうだ。みなさんは、どうなんだろうか?文学ノートぼくはかつてここにいた長野安晃(399)<自分らしさ>を求めて。

  • (398)戯言としての後悔

    (398)自分の人生に後悔はない、とおっしゃる人もいるが、そういう人の爪の垢でも煎じて呑んでみたい。心底そう思う。僕は後悔でいっぱいなのだ。人生は後悔の蓄積と同義語である。洒落にもならない僕のくたれた箴言である。文学ノートぼくはかつてここにいた長野安晃(398)戯言としての後悔

  • (397)何気ない日常性など唾棄していたい、と僕は想う。

    (397)僕は思う。無関心や無知ほど人の心の退廃を深めるものはないのである。無知・無関心で装われた何気ない日常性の中から、いったい、未来を生き抜くためのどのような展望が育まれるのだろうか?未来への展望とは、ヘラヘラとした無自覚・無思想の生活感覚の中からは、決して視えてはこない。プロスペクト(prospect)を有するとは、現状の中に内在している、見たくもない猥雑物の中から、未来へと繋がる有用なファクターを見出す力に自覚的であるということだ。無論、それには、エナジーと苦痛と疲弊感がついてまわる。どうせ生きるなら、退廃と汚辱にまみれた生き方などしたくもないだろう。人は一旦無自覚で無関心を決め込めば、容易に退廃の坂道を転げ落ちる。楽な側面もあるが、そんな人生、つまらない。事実かどうかは定かではないにしても、トルストイ...(397)何気ない日常性など唾棄していたい、と僕は想う。

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