体調がよくないため、ブログはしばらくお休みします。ごめんなさい。m(__)mm(__)m☆しばらくお休みします・・・・
今日(3月9日)は私の74歳の誕生日である。感慨無量である。考えてみると、私が母親の胎内にいた時から、私の心臓は動き始めて、今も不整脈ではあるが確かに鼓動している。73年間、一日も休まず、一度もサボることもなく、不眠不休(?)で働き続けている。まことに、不思議な臓器である。大人の心臓はその人のこぶしくらいの大きさで、重量は200~300gほどの袋状の筋肉のかたまりにすぎないのであるが、実に大きな仕事をしているのだ。心臓は、血液を体のすみずみまで、まんべんなく循環させるためのポンプの役割をしている。そのポンプの働きを、私たちは鼓動として感じるのである。心臓は、1日に約10万回もの収縮と弛緩を繰り返し血液を送り出しているのだ。その血液の量は、毎分約5リットル、1日にすると7000~8000リットル、ドラム缶40本分...●今日は私の74歳の誕生日である......
先日、妹のK子(70)から電話があって、また私のところに来たいということであったのであるが、昨日昼頃に来て、また一泊して、今日夕方電車に乗って帰って行った。今回も、妹は台所を中心とした箇所をあちこちと掃除してくれて、食器棚のガラスまで磨いてくれたりして、大変助かったのである。そして、夕食後は、前回のように、寝不足になるほど、深夜まで、いろいろと話し込んで、時間を過したのである。しかし、今回は、妹は、明らかに少し落ち込んでいるのが分かった。その理由は、最近、A医大の眼科で受診したところ、あまり聞き慣れない「地図状脈絡膜炎」と言う目の病気があることが分かったというのである。これは、目の病気でも稀なものであるようだ。これは、決して軽い病気ではないということは、私も理解できた。治療しないで放置すれば、炎症が進み、失明す...●妹のことが、少し心配である
私は、何かの病気で痛みを覚えるときに、「どうして早く痛みが治まらないのか」と思うことがある。子供の時に「痛みがなければいいのに....痛みがなければどんなに楽か....」と、自分勝手なことを思ったこともある。そんなことは誰でも考えることではないだろうか。ある医者は、“医療は痛みに始まり、痛みに終わる”言ったのであるが、含蓄のあることばである。なるほど、医者の仕事の大部分は痛みを見分けることと言っても過言ではない。「頭が痛い」「喉が痛い」「胸が痛い」「胃が痛い」「関節が痛い」「目が痛い」「腰が痛い」「歯が痛い」「お腹が痛い」.....など、いろいろな痛みをもって人々は病院に行くのだ。そして、医者はその痛みの訴えを聞きながら、何が問題なのかを探って行くのである。痛みは、私たちの体に何か異常があることを知らせてくれる...●痛みの意味を考えてみた..........
昨日、私は腰痛や足の痺れのために、鍼灸院に行って来たのであるが、座席がないくらい満員であった。そして、みな高齢者ばかりである。しかも、私より年齢が上の、70代後半、80代、90代の人たちであった。最近は、どこに行っても年寄りが多い(自分もその中の一人ではあるのだが....)。待ち時間が長かったので、お互いに、「体調はどうですか?」とか、世間話をしたりしていた。そして、その中に、94歳の男性で、もの凄くお元気なお爺ちゃんがいたのである。戦時中は、シベリヤ抑留で、非常に過酷な状況の中で強制労働をさせられた経験があり、生死の境をくぐりぬけて生き残って帰国された方である。その方は、そんな昔の体験談を語ってくれたのである。私よりも20歳も年齢が上であるが、声に張りがあり、顔にも艶があって、体は頑健であるが、柔軟性があり、...●長生きの人は耳が大きい....?
昨日は、W町に一人で暮らしている私の妹(K子)が、私のことを心配して見舞いに来てくれたのであるが、とても楽しい時間を過すことが出来て感謝であった。私が、病院に行っている間、妹が部屋の掃除をしたり、夕食を作ってくれたりして、夜遅くまで話し合って、一泊して帰ったのである。妹とこんなにゆっくり語り合ったのは、久しくなかったように思う。何十年ぶりかもしれない......。妹は、小さい時から性格が明るく、おしゃべりであったが、70歳になっても変わっていなかった。やっぱり、おしゃべりで、昨日も今日も、わが家にいる間、常にしゃべっていたのである。ご飯を食べる時もしゃべっていた。ほとんどの時間、私が聞き役であったが、少なくとも、妹と語り合っている間は、私も、腰の痛みも痺れも忘れていたような気がする。妹自らが今日言っていたことで...●楽しかった妹との語り合い...
私には、小学、中学、高校と机を並べて勉強したY君という友人がいた。彼は運動神経抜群であったのだ。私は、彼と、小学校から高校まで、同じ学校で勉強したのである。私は、運動神経が鈍く、跳び箱も、ソフトボールも、何をやっても駄目だったのであるが、しかし、Y君は、頑健な体格をしていて、運動は何をやっても巧かったのである。その上、彼はとても真面目で努力家であったのである。S高校に入ってから、彼はレスリング部に入部して、どんどん力をつけてメキメキ上達して行ったのである。彼が、高校の体育館で、汗水流して猛練習していた姿を私は見ている。彼の決して諦めない姿勢は、はたで見ていてもよく分かったのである。そして、やがて、中央大学に進み、益々、技に磨きをかけて行ったのである。そして、中大4年の時、62年世界選手権で優勝、63年世界選手権...●64年,東京五輪で活躍した友人の雄姿を想う
自分には、忘れられないとても恥ずかしい思い出がある。もう65年以上も昔の小学1年生の時のことである。その頃、私は北海道の田舎の山奥に住んでいたのである。いつ熊が出るか分からないような山村である。小学校までは、片道1里(約4km)はあったと思う。特に、冬の登下校は小さい私にとっては、決して楽ではなかったと思う。吹雪の日は、特に大変であった。そんなある日、私は、何時限目であったかは忘れたが、授業中に、どうしても便所(その当時は、トイレとは言わず、便所と言っていた)に行きたくなったのである。でも、私は、すごく内気な性格であったので、手を上げて便所に行きたいことを先生に告げる勇気がなかったのである。それで、その授業が終わるまで、一生懸命、歯をくいしばって我慢したのだ。あの時の我慢は今までの人生の我慢の中で一番大きかった...●とても恥ずかしい思い出・・・・・・
(この写真は、最近のもので、当時とは灯台近辺の様子が大分違っている。ヘリポートなどもできているし、昔あったエンジン室がない。灯台の電源として太陽光発電=ソーラー発電設備ができている。50年前とは違っていて当然ではあるが、時代が変わったのだ。)(巡視船「宗谷」は、現在は、すでに引退している)年を取ると、時々、昔の若い頃のことを思い出すことがある。私が、20代前半の頃、5~6年間だけであるが、灯台で働いたことがある。北海道南端のM灯台で無線通信士として勤務したことがある。定期的に簡単な気象観測を行い、航行する各船舶向けに、毎時の定刻に、気象通報などをモールスで送信していた。また、船舶向けにビーコン(無線標識)を発射することもやっていたのである。その燈台の近くに、職員の官舎があり、そこでは、11人の灯台職員(燈台守)...●絶海の孤島、M小島の生活....
三寒四温の季節が近づいているのだろうか。今日も当地は青空広がる快晴である。こんなに天気が続くとあとが怖い感じがする。大雪、大荒れの天気が必ず来るのであろう。さて、両足のしびれと腰痛のために、前回、整形外科で診てもらったのであるが、MRIの検査の予約日が今日なので、病院へ行って来た。MRI検査は、初めての経験であったので、少し緊張はしたけれど、心配するようなことは何もなかった。台の上に寝かせられた状態で器械の中に入って行く。もの凄い大きな音がすることは聞いて知っていたが、その音のあまりの大きさに驚いた。アラームのような音や、ダ、ダ、ダ、.........というような、重機で穴を掘るような音など、その他、様々な音が、20分くらいは続いた。ヘッドホンをしていたけれども、それでも、音が大きいのだ。ヘッドホンからクラシッ...●MRI検査に行って来た・・・・・
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