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100年前の「明治の三陸」写真帖
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2014/10/04

100年前の「明治の三陸」写真帖さんの人気ランキング

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  • VOL94 明治の三陸の産業17「水産業②」 (三陸の漁獲物一覧)

    VOL94 明治の三陸の産業17「水産業②」 (三陸の漁獲物一覧)

    「明治の三陸の港には、サンマの水揚げがなかった」という話①この写真は本写真帳掲載のものではありません。昭和30年代の宮古港のサンマ船出漁時の集結写真です。当時宮古港はサンマ棒受け網漁の根拠地で、秋になると三陸のみならず全国各地から300艘を超えるサンマ船が宮古に集結し、町中がサンマ漁師で賑わっていました。そして或る朝許可証を得た船がサイレンの元に一斉に出漁する光景は壮観でした。現在は許可証の発行形式が変わり、全国各地からサンマ漁船が集結することもなくなり以前ほどではありませんが、それでも秋の宮古にとってサンマは漁獲高の上位を占めて地域漁業を支える大変重要な魚種です。それは明治の頃もそうだとばかり思っていました。しかし…下表は、本写真帳附属図表の明治43年の郡別の漁獲物を複写したものです。但し上表は数量は尺貫法(...VOL94明治の三陸の産業17「水産業②」(三陸の漁獲物一覧)

  • VOL94 明治の三陸の産業16「水産業①」 (下閉伊郡)

    VOL94 明治の三陸の産業16「水産業①」 (下閉伊郡)

    「鰹漁巖手丸」(岩手県水産試験場用船/下閉伊郡宮古町)漁業は明治の頃も三陸の主要産業(本稿からしばらく明治の水産業を紹介します)明治の時代も水産業は三陸の主要産業でした。前述のvol30でも下閉伊郡の統計で一部紹介しましたが、本写真帖の付属諸表から、三陸の産業全体の生産額(明治43年)を一覧表に直して比較すると次のとおりです。明治43年当時は、農産物が全体の41%を占めて最も多いのですが、漁業は漁獲物と水産製造を合せると26%と2番目となっています。鰹は明治末の三陸の代表的な魚、でも今は鰹は、明治の三陸では写真帖に掲載する位代表的な魚種で、本写真帖の付属諸表(次回詳述)によると三陸全体で525,536貫(1貫3.75kgとすると、1,971t)の漁獲があり、当時の魚種別で一番の漁獲がありました。ところが現在(平...VOL94明治の三陸の産業16「水産業①」(下閉伊郡)

  • VOL93 明治の三陸の産業15「畜産5」 (下閉伊郡)

    VOL93 明治の三陸の産業15「畜産5」 (下閉伊郡)

    「小川乳油製造所」(下閉伊郡小川村/現岩泉町小川)乳油とは、牛乳の脂肪分を固めた食べ物即ちバターやチーズ類のことです。現在の岩泉町は、先の葛巻町同様に酪農が盛んな町ですが、その原点は明治初頭まで遡ります。明治4年(1929)に岩泉の八重樫市右衛門氏に日本に輸入されたばかりの牛(ショートホーン種)が貸与され、在来種の南部牛と交配したことが記録されています。また前述(VOL91)のとおり明治25年(1950)にはホルスタイン種の飼育が始まっています。写真の「小川乳油製造所」は現在その社名は残っておらず、どのような変遷があったのかは分かりませんが、明治末期には搾乳だけでなく、既にバターなどの乳製品の製造が始まっていたとは、改めて岩泉の酪農の歴史の古さを知りました。VOL93明治の三陸の産業15「畜産5」(下閉伊郡)

  • VOL92 明治の三陸の産業14「畜産4 乳牛②」 (九戸郡)

    VOL92 明治の三陸の産業14「畜産4 乳牛②」 (九戸郡)

    「三浦牧場」(九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)大規模多角経営「三浦農場」3葉とも三浦農場の写真です。先のVOL81の項でも紹介した蚕室や桑畑を持つ三浦農場と同じと思われます。養蚕以外にも酪農を手掛けるなど、当時の先進的な事業を大規模かつ多角的に経営されていた岩手県北の雄というべき機業であったことが伺い知れます。「馬主牛従」から「牛主馬従」そして「馬無し」へさて本写真帖には、当時の詳しい統計資料が付属しており、明治43年末の三陸沿岸の家畜は下表のとおりでした。別の資料によると、明治30年の岩手県全体で、馬は10万9千頭、牛2万2千頭とありますので、県全体に較べると牛の比率が高かったようです。また牛馬とも圧倒的に牝の割合が高く、仔を産ませては2歳位で競りに出したようです。前述のとおり、馬は軍用の以外にも、農耕あるいは...VOL92明治の三陸の産業14「畜産4乳牛②」(九戸郡)

  • VOL91 明治の三陸の産業15 「畜産3 乳牛」 (九戸郡)

    VOL91 明治の三陸の産業15 「畜産3 乳牛」 (九戸郡)

    「袖山牧場」(九戸郡江刈村/現岩手郡葛巻村江刈)「平庭牧場」(九戸郡江刈村/現岩手郡葛巻村江刈川)(平庭牧場/ホルスタイン種)(平庭牧場/エアーシャー種)(種牡牛ブラウンスイス種、下閉伊郡岩泉村/小泉市兵衛氏所有)(種牡牛エアーシャー種、大川畜牛園/下閉伊郡大川村)明治から続く「岩手の酪農」岩手県は全国第6位の牛乳生産量のある酪農県で、中でも葛巻町は、写真の袖山牧場や平庭牧場を始めとして乳牛の飼育が盛んに行われ、東北一の酪農の町として知られています。私は、この写真帖を見るまでは、葛巻を含む岩手県の酪農は昭和以降のものとばかり思っていましたが、調べると日本に最初にホルスタイン種が入ったのが明治18年、その5年後に小岩井牧場に、さらに2年後の明治25年に葛巻や岩泉にホルスタイン種の飼育が始まったようです。今から12...VOL91明治の三陸の産業15「畜産3乳牛」(九戸郡)

  • VOL90 明治の三陸の産業14「畜産2」 (上閉伊郡・気仙郡・九戸郡)

    VOL90 明治の三陸の産業14「畜産2」 (上閉伊郡・気仙郡・九戸郡)

    岩手の畜産(2)「上閉伊郡産馬組合遠野町馬検場」(上閉伊郡遠野町/現遠野市)「気仙郡産馬組合馬見場」(気仙郡盛町/現大船渡市)「九戸郡軽米村馬検場」(九戸郡軽米村/現軽米町)死語になった「馬検場」と「オセリ」本写真帖には当時(明治末期)馬産が隆盛を極めていた象徴として3カ所の馬検場の写真が納められています。今はバケンジョウと漢字入力すると、「馬券場」の文字が出て、「馬検場」あるいは「馬見場」は漢字変換候補にありません。現在ほぼ死語に近い「馬検場」は、本来は馬の検査や予防接種などをする施設ですが、オセリに呼称される馬のセリ市会場としても利用されていました。明治44年の岩手県産馬組合連合会が配布した競売日広告によれば、当時県内には20カ所のセリ場があり、連合会でセリ日が重複しないように調整をしていたようです。例えば...VOL90明治の三陸の産業14「畜産2」(上閉伊郡・気仙郡・九戸郡)

  • VOL89 明治の三陸の産業13「畜産1」 (上閉伊郡・下閉伊郡・九戸)

    VOL89 明治の三陸の産業13「畜産1」 (上閉伊郡・下閉伊郡・九戸)

    岩手の畜産(1)写真帖の2頁を使って馬の写真が掲載されていました。当時岩手県では、畜産でも牛もさることながら馬産に力を入れていたことが窺い知れます。源平の戦いで活躍した南部駒さて岩手は源平の昔より馬産地として知られていました。「平家物語」に登場する馬の殆どが南部馬です(宇治川の先陣争い/磨墨・生食、一ノ谷の合戦/太夫黒、他)。当然評価も高く、南部馬の最低ランクと他国産の優秀な馬が同じ値段だったようです(延喜式)。軍馬とダービー馬その後江戸時代の南部藩においても、馬産は藩の重要政策であり、南部の九牧を中心に栄えてきました。さらに明治時代に入り、日清、日露戦争を機に「軍馬」の生産が奨励されて、岩手の産業の大きな柱の一つとなっていました。また競走馬の世界でも、明治40年(1907年)に小岩井牧場で日本最初のサラブレッ...VOL89明治の三陸の産業13「畜産1」(上閉伊郡・下閉伊郡・九戸)

  • VOL88 明治の三陸の産業12「耕地整理」 (上閉伊郡綾織村・下閉伊郡茂市豊間根村)

    VOL88 明治の三陸の産業12「耕地整理」 (上閉伊郡綾織村・下閉伊郡茂市豊間根村)

    「耕地整理/田」(上閉伊郡綾織村/現遠野市綾織)「耕地整理/畑」(下閉伊郡豊間根村荒川/山田町豊間根)<2カ月近く更新を休んでいましたが、再開します>写真の綾織と豊間根の耕地が、現代と全く変わらず整備されているのに驚きました。この写真にトラクターが写り込んでいても何ら違和感はありません。耕地整理とは確か中学校の社会地理の授業で聞いた記憶がします。私はてっきり戦後になって行われた事業とばかり思っていましたが、明治32年(1899年)に制定された耕地整理法に基づき、明治期に既に全国各地で実施されていたようです。小さく不整形な農地を一定の大きさに整理して、通路を整備して、当時であれば牛馬による作業が能率的に行えるようにしたり、用排水の利便性を向上させたりしたようです。写真1の綾織村(現遠野市綾織)は、遠野盆地の西端に...VOL88明治の三陸の産業12「耕地整理」(上閉伊郡綾織村・下閉伊郡茂市豊間根村)

  • VOL87 明治の三陸の産業11 「葡萄園」 (下閉伊郡茂市豊間根村)

    VOL87 明治の三陸の産業11 「葡萄園」 (下閉伊郡茂市豊間根村)

    「葡萄園」(下閉伊郡豊間根村/現下閉伊郡山田町豊間根)岩手の果樹はリンゴが主ですが、ブドウの栽培も内陸部が中心に行われて、収穫量は全国で10位前後です。三陸の各地でも小規模ですが葡萄園が点在していたようです。写真は現山田町豊間根地区の葡萄園で、佐々木甚五郎氏経営と記されています。畑に白く見えるのは春先の残雪でしょうか。ブドウの歴史は、リンゴ同様に古くから世界各地で栽培されていたようですが、今も日本で栽培され人気のある品種の「甲州」が、平安時代の文治2年(1186)来の古い歴史を持つこと、またぶどう棚の栽培技術は江戸初期に、それぞれ甲斐(山梨県)の国人が発見あるいは考案したものであることを知り、現在の山梨県がブドウの一大産地であることはさもありなんと思った次第です。VOL87明治の三陸の産業11「葡萄園」(下閉伊郡茂市豊間根村)

  • VOL86 明治の三陸の産業10 「林檎園1.2」 (九戸郡軽米村・下閉伊郡茂市村)

    VOL86 明治の三陸の産業10 「林檎園1.2」 (九戸郡軽米村・下閉伊郡茂市村)

    「養蚕・製糸編」は終わり、今回からその他の農林業の写真を紹介します。「林檎園1」(九戸郡軽米村/現九戸郡軽米町)「林檎園2」(下閉伊郡茂市村/現宮古市茂市)実は岩手はリンゴの産地ですリンゴの産地と云えば、青森県や長野県が有名ですが、実は岩手県はこの2県に次ぐリンゴの産地です。その原産地は中央アジアなそうですが、現在私達が食しているリンゴは、明治初期に開拓使によってアメリカなどから導入された紅玉や国光を嚆矢とします。その後北海道から本州へと渡ったリンゴは青森で盛んに栽培され、ほどなく岩手にも伝わり、明治後期には三陸でも盛んに栽培されていたようです。写真のリンゴの品種は不明ですが、1の写真は春先の「袋掛け」の風景です。また2の写真は何の作業中か分かりませんが、田鎖伝七氏経営とあります。VOL86明治の三陸の産業10「林檎園1.2」(九戸郡軽米村・下閉伊郡茂市村)

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