ふと、樋口一葉の井戸が有るあそこへ行こうと思いました。いつも変わらぬ風景です。梅雨だとこの石段の苔類が生き生きしているのではなかろうか?と思った次第です。あまり変わらないですね。石段を見上げます。振り返る、樋口一葉が井戸端会議をしたであろう路地です。せっかく来たので石段を上がります。シダの元気が良いように思います。振り返ります。見上げる梅雨空です。九州・四国が梅雨明けしたそうです。梅雨時の樋口一葉の井戸
・・・谷根千の散歩記事の途中ですが時事ネタを。神田須田町の路地です。あれ!?もう?小ぶりだけど、立派なアンコウです。冬の料理がもう始まっていました。あんこう鍋の伊勢屋です。変わらぬ景色を堪能します。まだまだ暑い東京ですが。もうアンコウの季節
切手通りの電柱案内に誘われて寄り道しました。あの石段のところです。この風景が好きでよく来ます。猫の石段です。「猫街」のレリーフ周辺の蔦を刈りましたね。よく見えるようになりましたが、紅葉する蔦を見たいです。猫の散歩です。・・・切手通りに戻りました。左右に骨董店の並ぶ通りです。谷中の路地なのに、他の路地と比べると広いのです。今は全くと言って良いほど車が通りませんが、古物商が並んでいる事に何か関係があるのではないか、と思っています。店を眺めながら行きます。みんなアンティークショップです。切手通りの北端には「喫茶乱歩」です。三崎坂です。乱歩の玄関です。このまま営業できる雰囲気です。和紙を使ったグッズです。外国人に人気です。我が家のポチ袋はここで用意しています。やっと孫が、ここのポチ袋のセンスを理解できる年になりま...ギャラリー猫街
木工屋です。隣にも店が在ります。「ツバメハウス」は2階です。ビンテージ品を扱っています。この通りにはビンテージショップが集まっています。斜め前に切手売買の店が在ります。10年くらい前に建て替えて、アパート経営が主体になりましたが、家業は続けています。この店の扱いが切手だった事から、この通りが「切手通り」と呼ばれています。前述したとおりここには古物商が集まっています。この切手屋が発祥だったのではないかと思っています。ビンテージショップの店先です。ジュエリーを扱っています。隣も。電柱に「猫街」の案内があります。寄り道します。「切手通り」を行く。
ヘビ道を北へ行きます。元は藍染川でした。夏目漱石の三四郎に登場した川の跡です。今は暗渠になって、散策に最適な路地になっています。「谷中トート」です。玄関前が賑やかです。子供が居る民家でしょうか?ガラス食器の店です。夜の電飾を見てみたいです。ヘビ道は区境です。西側は文京区千駄木です。東側は台東区谷中です。ちょっと脇路地に入ります。散策は続きます。ヘビ道を行く。
「粋黒」です。何の店だろう?ちょっとだけ気になりながらヘビ道へ行きます。このビルに数店舗の店が在ります。隣は「亀の子束子」でした。根津の宮の湯跡に移転しました。隣は雑貨と本の店です。三叉路です。右の建物の店舗の続きを追います。「谷中山清洞」です。隣は喫茶店です。隣は今年古書店を始めたのですが、すぐに閉店してしまいました。ここは川上麻衣子さんのスエーデン雑貨の店でした。千駄木駅近くの不忍通りに移転しました。ヘビ道に戻ります。散策は続きます。ヘビ道に店が在る・店が無い風景
根津の路地です。すぐに千駄木になる町境です。行ったら袋小路でした。引き返します。ヘイゴ・ニケ?なんだろう?無視して「ヘビ道」に出ます。何方へ行こうかな?電柱にも有りました。ヘイゴ・ニケ。気になるので戻ります。ここです。店の前を素通りしていました。古着屋でした。散策が続きます。「豆腐ルーム」の奥路地にヘイゴ・ニケ
9月25日の北千住です。今年最後だと思いたい。今年最後(?)のミストシャワー
この路地が好きです。この家に子供が居ました。もうずいぶん大きくなったと思います。井戸が有る家です。ポンプにバケツが被されています。もう使ってないようみたいです。後ろの蔦の蔓の捩れが時の経過を教えます。このオモチャも使われていないように思います。振り返ります。先を行くとすぐに丁字路です。出た所にまるヒが在ります。反対側は「ボンジュールモジョモジョ」です。パン屋です。知る人ぞ知る、路地のパン屋です。路地の向こうにまるヒです。斜め前はアパートです。この街に似合います。路地を行き当たります。「ギャラリー金魚」です。路地の散策が続きます。井戸とまるヒとモジョモジョのある路地
根津を訪問するようになってもう20数年になります。変化の少ない根津ですが、やっぱり家屋の建て替えや商店の廃業があります。この根津教会と長屋の風景は変わりません。変わったのは、長屋の玄関前にホロを被せて置いていたバイクが無くなったくらいです。西洋発祥の宗教でありながら木造を取り入れた教会と、純日本的な木造長屋が一体感を醸す風景です。好いなあ。長屋の裏です。突き当たりの水色の壁が根津教会です。いつまでも残って欲しい風景です。根津教会と長屋の風景
深川資料館通りで「かかしコンクール」が開催中です。まだ各賞の発表はありません。蕎麦を食べに来たついでに観て回ります。今年の日吉屋の作品です。江戸三大祭りの一つ、深川祭りの神輿も。向かいの田巻屋の作品です。ミュージシャンとコンダクター。感じ出てます。両店は入賞の常連です。でも、最近はプロの出品が無くなって、私的にはつまらないです。それは見事な作品を魅せてくれていました。ざっと観て回ります。今日も満席です。ちょっとお高いですが、観光客が集まります。なんだろう?作品は世相を映します。大阪万博のキャラクター「ミャクミャク」です。追加に追加を重ねて、ずいぶん税金を使っているけど、あの万博は成功するんだろうか?作品を観ます。各賞が決まるのが楽しみです。で、その後ハロウィンやるの?先週だったっけ、「美楽市」やったよね。...深川かかしコンクール開催中
久しぶりに都電沿線を散策していました。都電を追いかけていると、自然と界隈の店とかを覚えます。あれっ!?ここって、この角って、前回訪問時に閉店していた町中華「金華」ではないですか!早い!更地にするのが早い、と思っていたら、あれからもう1年近くになっていました。時の流れが早いです。これは建物を建てる縄張りです。前金華経営者の住居だったら、もっと早く着工するでしょうから、きっと第三者の建物ですね。目の前は都電の線路と白いアパートです。目の前の踏み切りの真ん中から眺めます。早稲田方面です。三ノ輪橋方面です。のりば案内です。ホームに上がってみます。遮断機が降りた踏み切りの向こうは、三ノ輪橋方面行きの「西ヶ原4丁目」の停留場です。都電も信号待ちです。町中華「金華」前の踏切にゴトンゴトンとやって来ました。時の流れを乗せ...都電町中華「金華」が無くなっていた
あれからも時々覗いています。今日の状況です。ずいぶん低くなりました。輪っか(作業台・作業芦部)が稼働しています。例の駐車場から。ずいぶんズングリムックリになりました。そもそもは水再生プラントの熱交換器の撤去工事です。撤去して新たな施設を建てるようです。こんなものに興味を持つのは私だけだろうなあ、と思っていたら、なんと!NHKがドキュメンタリーを撮っていたらしいのです。それが、明日19時57分から放送されるらしいです。彼らの事だから、ドローンを使って空から撮ったり、作業員の表情を撮ったり、素晴らしいものに仕上げると思います。でも、同じ感性を持った人が居たことが嬉しいです。<解体の進捗状況>そもそもはこんな煙突でした。150mくらいの高さがあったようです。プラントも良く見えていました。根本まで見えました。<既...煙突の解体/TV放送されるらしい
大嶽部屋です。いつもと変わりません。9月場所が終わりました。思っていたとおり大の里が優勝しました。13勝での優勝は久し振りです。ここのところずっと12勝での優勝でした。大銀杏が結えない大関が誕生します。横綱に一番近い大関になりそうです。部屋のすぐ傍です。こんな案内板が有ります。大鵬と北の湖が一代親方になった時に立てられました。この背後のビルです。焼肉屋です。王鵬の父親貴闘力の店です。大鵬の孫、貴闘力の子供の出自は、相撲界ではずいぶんプレッシャーになっていると思います。王鵬は9勝を挙げました。来場所新三役になることは間違いありません。貴闘力も嬉しいと思います。彼は野球賭博で相撲界を追放され、大鵬の長女だった奥さんと離婚しました。でも、大嶽部屋の20m傍に居ます。今でも反省しています。でも、東日本大震災の際に...9月場所翌日の大嶽部屋周辺
立石を散策中です。「宮の湯」を訪ねます。ポスターや幟が無くなってちょっと寂しい店頭です。駐車場前から湯船を眺めます。内湯が有る民家が増えて、銭湯が少なくなりました。商圏が広くなります。利用する人にとっては駐車場が必要になります。車を持っていない老人などは大変でしょうね。遠いと、雨が降ったら徒歩でお風呂に行くのは億劫ですよね。結構広い前面道路です。こういった広い道路に面している銭湯は珍しいです。裏に回ります。この銭湯の特徴は、なんと言っても真っ青な煙突です。それでも、下町の混み合った一角なので、ちょっと離れると、その所在が分からなくなります。固定客相手の商売なので、特に目立つ必要はありません。でも、以前から真っ青な煙突です。ボイラー室です。手前は住居でしょうか?青空にスックと立つ煙突です。「宮の湯」再訪
子規の墓にお参りするのに「田端銀座」を通りました。数年前にこのキャラクターを作りました。略して「タバギン」です。ペンギンに掛けてキャラクターとしました。こんな経緯だと想像できます。随分日に焼けています。交換すれば良いのに・・。めんどくさい?打ち水をしています。暑いよね。私だって、子規の命日でなければ家で横になっています。まだ扇風機を売っています。こんなに沢山!?いつまでも服が汗ばみますね。もうお彼岸ではあります。おお、半額ですか?!でも、この暑さでは客が少ないです。安いのかな?値札から半額なのかな?糸瓜忌の田端銀座です。皆さん半袖です。残暑が厳しい田端銀座
9月19日は正岡子規の命日です。今年もやって来ました。人間国宝の板谷波山の墓があります。大龍寺です。背景の竹藪が大きくなりました。もう少しで以前の繁り具合になります。この方が良いです。花が新しいです。子規は鶏頭が好きでした。「鶏頭の十四五本もありぬべし」子規卒塔婆も新しいです。糸瓜忌のお弔いが済んだ墓所です。供花が賑やかです。子規好みです。おや?団子が供えられています。初めて見ます。ちょっと傾いた母「八重」の墓にも。妹「律」が繋いだ正岡家の墓にも供えられています。「羽二重団子」の品だと思います。子規の視界です。昨年から、この時期に彼岸花が咲かなくなりました。見上げる猛残暑の空です。隣の「田端中学校」が焼けます。母八重が子規に言います。「毎年よ彼岸過ぎまで暑いのは」子規毎年そうかも知れませんが、このままでは...子規命日の墓参り
京成立石駅脇の踏み切りです。駅のホームが近いです。正面の商店街が閉鎖されました。駅舎の建て替えはこの状態で止まっています。壁です。この中で工事が進捗されていると思います。商店街看板だけが立っています。「呑兵衛横丁」が在った一角です。遅いようでも粛々と、取り壊し工事が進んでいます。<在りし日の駅前>京成立石駅前再開発状況
最近とみに閉まっている店が増えています。昔は賑わっていた証の、シャッターの上にそのまま残っている店名看板を見上げます。寂しくなった各地の商店街と同様、必要な物はなんでも揃っていた名残りです。この喫茶店は数年前まで営業していました。商店街の事務所です。時々トイレを借ります。かつては「躍進する商店街」でした。駅前の立地とも相まって、さぞかし賑わったと思います。衣食住全ての用が足りた商店街だったと思います。脇路地の美容室です。今でも営業しています。お惣菜屋が並びます。一度廃業した八百屋です。店名もそのままに、全て居抜きで現経営者が継承しました。やっていますね。昼呑みのもつ屋です。その筋では有名店です。アーケードの端です。商店街の西口です。正面は再開発中の京成立石駅です。振り返ります。商店街に居るのは、2時間近く...残暑日の立石仲店商店街
人力車が向かい合った形のベンチです。真ん中に説明板が有ります。読みづらいので書き出します。「八幡橋(弾正橋)八幡橋は、明治11年(1878年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川とを結ぶ主要街路の一つで、文明開花のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。この東京名所絵図(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ...八幡橋(旧弾正橋)
あれからどの位の時間が経過したのか忘れましたが、案外順調に建て替え工事が進んでいます。商店街に面した工事現場です。地元住民は、「昔はもっと賑わっていた」と言いますが、他の商店街と違って、けっこう賑わっている商店街です。「サンロード中の橋」商店街です。下町の風情が残っているので、よくドラマの撮影に使われています。私がロケ中の川口春奈さんをじっと見つめた商店街です。駅からちょっと離れていて近くに大型店舗が進出しない立地が、商店街に功を奏しています。ここは「竹の湯」でした。たぶん集合住宅が建つのだと思います。こうして街が変わっていきます。在りし日の竹の湯です。「竹の湯」が在った商店街
「旧新田橋」の説明板です。横たわる旧新田橋です。橋の端に名前が有ります。昭和7年に架けられました。架けたのは「木場の赤ひげ先生」的存在の新田医師です。今は、こんな遊歩道の隅に横たわっています。「八幡橋」下の公園です。新田橋はここに架かっていました。「新新田橋」です。新田橋の説明板です。末尾に、「平成12年の護岸整備により現在の橋に架け替られましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保存されています。」とあります。先ほど見たあの黒い橋です。大横川に架けられています。橋の上から東西を眺めます。秋めいた雲が浮かびます。橋を渡ります。袂には「船宿吉野屋」です。振り返ります。吉野屋の存在が、趣きを加えます。昔も今も、下町の人々に愛されています。新旧新田橋
蕎麦を食べに行ったら、深川資料館通りが歩行者天国になっていました。蕎麦屋の女将さんに聞いたら、「美楽市」だそうです。年に2回やっているそうです。知りませんでした。日曜日にカヤックを漕がなくなっているので遭遇した祭りです。蕎麦屋に向かって、眺めて歩きます。ここまでです。深川3丁目のイベント(女将さんに談)らしいです。残暑の太陽がビルに影を落とす通りまでです。もうご存知ですね。ビルアートの建物です。深川資料館通り「美楽市」
残暑厳しい富岡八幡宮です。骨董市が開催されていました。骨董なのかガラクタなのか?(失礼)でも、「お宝なんでも鑑定団」は大好きです。コロナ禍前は月に2回くらい、結構熱心に開催されていました。私にとっては、コロナで中止になって以来の骨董市です。見て回るのが楽しいです。目利きじゃないので立ち止まらないようにしています。買わされてしまうかも、と用心しながら覗きます。時々おっ、と思う品が無きにしも非ず、です。一往復したけど、私と同じく警戒心を持って覗く客ばかりか、1個も売れません。富岡八幡宮の骨董市
風が強いです。「これでは子供が可哀想だよ」なんて思っているのは大人だけ。子供は波に揉まれながら漕いで行きます。ゲートブリッジの傍の「海の森公園」です。羽田空港が近いので、ひっきりなしに飛行機が上空を飛びます。小学4年生から6年生の選手たちです。予選と決勝とで合計16レース行われます。大人はボランティアで運営に協力しています。私は体調を考慮して貰って口を出すだけです。はい、一番嫌われるタイプです。TOKYO2020で使われたオリンピックコースで行われます。やっぱり子供でなくても、ここで漕ぐのは嬉しいです。この波をかき分けて、風に流されながらの競漕です。飛行機が飛びます。入道雲の子供が連なっています。後片付けです。転覆する事なく全員完漕しました。子供って逞しいです。こどもカヌー大会
自転車散策の途中です。この場所に来たら一応閘門内を覗きます。丁度1組のカヤックが居ました。船首の方向から、荒川から入って来て旧中川へ出て行くようです。仲良し夫婦でしょうか?正面のゲートの水の跡を見ると、閘門内の水位を下げ始めたところです。10分足らずで閘門の水位を調整できます。ちょっと停まって眺めるのに丁度良い時間です。背後を見上げます。ゲートが上がって行く左右の支柱です。左右の柱の溝をゲートが上下します。カヤックがやって来た荒川です。その先は首都高速中央環状線が横たわっていて、その上は残暑の雲です。蒸し暑いです。その下は、江戸川区の街です。水位が調整されてゲートが上がります。荒川と旧中川とでは、約2メートル水位差があります。ゲートの先は海抜ゼロm地帯です。ゲートが上がり切りました。まだ水が滴り落ちていま...荒川ロックゲートを通過する
西濃運輸の改造工事が完了していました。出荷台と社宅と正面奥の事務所です。左右の業務体勢が復活しました。西濃運輸と言えば伊勢ヶ濱部屋がすぐ傍です。路地から行きます。おお!!熱海富士の背中です。九月場所は彼を優勝候補の一角と予想しましたが、上位の壁に阻まれています。優勝は、大の里が最右翼ですね。強いです!体調が戻った霧島が二番手で、琴櫻が三番手、こんな処です。期待の王鵬が両大関を連覇しました。三役の力が付いています。工事が完了した西濃運輸と熱海富士の背中
東京人は釣りが好きです。海でも川でも釣り人を見掛けます。そして、少なくなったけど、釣り堀が有ります。残暑厳しい東京です。正面奥に鵜が餌を貰おうと待機しています。直接捕ったら怒られるでしょう。微笑ましいです。緑が少し暑さを和らげます。ノウゼンカズラに囲まれた釣り堀です。東京下町には釣り堀が多い
子規庵に訪れました。昨年更地だった土地に、新しい建物が建っていました。清新な料理屋です。子規の隣です。数年前に解体されていた豆腐料理の「笹の雪」です。まさかここに再建されるとは思ってもいませんでした。子規も愛した豆腐料理です。前の店先にあった句碑です。「水無月や根岸涼しき篠の雪」「蕣に朝商ひす篠の雪」子規一番相応しい場所に再建されたと思います。旧笹乃雪の解体の記事はこちら。子規庵の隣が更地になった記事はこちら。豆腐料理「笹の雪」の復活
庭に降ります。庭から子規庵を眺めます。草木が茂る庭です。子規はゴテゴテとテゴテと植えたそうですが、戦争で焼けた家と庭です。昭和26年に再築しました。鳥が持ち込んだ種子が芽吹いたままにした庭だそうです。子規の植えた庭とは違っているそうです。鶏頭と糸瓜棚です。子規が選んだ植物には変わりません。窓の向こうから、子規が見ているような気がします。新しく建てた説明碑です。糸瓜棚の下から眺めます。子規は赤い花が好きでした。多くのスケッチが遺されいます。辛抱強く、誰も居ないタイミングを待って撮っています。NHKでドラマ「坂の上の雲」の再放送が始まりました。その影響もあると思います。子規の病室です。動けない子規の為に、友人と弟子たちが大きなガラス窓を作ったそうです。子規といえば、絶筆「糸瓜三句」が有名です。昨年も今年も糸瓜...子規の小庭から
年に一度訪問します。子規の病室です。大きなガラス戸から光が入ります。子規の机を照らします。机からの子規の視線です。子規の自画像です。外は暑いですが、エアコンの影響もあって、清涼・静寂な室内です。糸瓜忌の子規庵
根津神社がしっとりしています。いつのもように西参道へ行きます。参道に落ちたギンナンです。しっかり季節は回っています。乙女稲荷神社です。あの外国人が動くのを暫く待っていましたが、待てません。徳川家宣の胞衣塚への参拝石段です。最近特に欧米系の外国人がよく来ます。透かし屏を行きます。いつもの場所で振り返ります。乙女稲荷神社がしっとりと佇む午後です。もう一度西参道の景色です。ずっと違和感を感じています。無くても文化財的には問題無いようだけど、、、、、、暫く来てなかったら、あそこに在った朱鳥居が無くなりました。いつの間に?なんで?<かつての朱鳥居が在る風景>乙女稲荷神社のアレが無い
表参道を行きます。人を見る事が無いのだけど、居るようなんです。商売も続けているようなんです。ちょっと涼しいです。いつもキラキラの楼門を撮るのですが、しっとりと落ち着いた風情があります。舞殿と楼門。舞台からの楼門。舞殿脇からの楼門。舞台からの唐門。唐門からの楼門。ちょっと涼しい根津神社
白い暖簾が眩しくないと思ったら、曇り空です。でも蒸し暑いです。団子の由来です。夏目漱石も森鴎外も正岡子規も食べた団子です。正岡子規の句碑です。「芋坂も団子も月のゆかりかな」右へ行けば芋坂です。この先が上野のお山です。戊辰戦争で敗れた彰義隊は芋坂を逃げ、武具を羽二重団子の敷地内に投げ捨てて、王子街道を落ちて行ったそうです。羽二重団子の前の路は王子街道です。蒸し暑いです。店頭の幟暖簾が誘います。猛残暑の「羽二重団子」
残暑が照りつけるお昼前です。私が座っている向こう側で撮影が行われています。界隈はよく散歩番組などの撮影が行われてます。「えこのみせ」です。元は着物店だったのでしょうが、現在は雑貨屋です。店の前の歩道も活用して、観光客相手に商品を並べています。「深川資料館通り」は古い店が多い多く並んでいます。私は開店を待ちながら、いつも向かい側から眺めていますが、けっこう売れています。開店待ちで道路を渡って写真を撮っていたら、店が開きました。女将さんが呼んでくれます。もうすぐ深川資料館通りでは恒例の「かかし祭り」が始まります。もう何点か通りに飾られていますが、各賞が決定してからが楽しいです。深川資料館通り「えこのみせ」
「下町人情キラキラ橘商店街」の外れに相撲部屋が在ります。九月場所のポスターが貼られています。清潔な玄関前です。見上げます。「相撲部屋がある賃貸住宅」です。壁面に横綱の絵です。部屋前からの景色です。ゴトゴトと東武亀戸線が走ります。背後にはスカイツリーです。典型的な下町風景です。押尾川部屋の風景
大相撲九月場所が始まっています。2階の窓から顔を出しているのは中村部屋の若者です。下にはスー女が群がっています。親方は元関脇嘉風です。関取は十両に友風と嘉陽が居ます。国技館に一番近い部屋です。ここは元「陸奥部屋」でした。玄関前が変わりました。<郵便ポスト型の郵便受けが無くなりました。廃業当時の陸奥部屋です。>ここには元大関霧島が所属していました。モンゴル出身の前関脇霧馬山です。横綱の鶴竜も居ました。彼らは何処へ行ったのでしょうか?やって来たのは花街で有名な向島です。立派なビルが完成していました。勝手口の名前は前回訪問時のままです。花街の真ん中で、スカイツリーを見上げる場所です。色合いもシックで、親方の良いセンスを感じさせます。「音羽山部屋」の師匠は元横綱鶴竜です。部屋付き親方には、元前大関霧島で前陸奥親方...中村部屋と音羽山部屋
いつもの場所で今年も咲きました。例年どおり9月の初めです。赤い曼珠沙華はまだ芽吹いていません。これも例年どおりです。今日も猛残暑ですが、ちゃんと植物は季節の推移を知っています。一群の白い曼珠沙華。清々しい景色です。今年も白い曼珠沙華咲く
相撲部屋に張り出されている九月場所のポスターです。このポスターは通常優勝候補を掲載しますが、照ノ富士が休場を発表しました。じゃあ東西の両大関が中心にならないとカッコ悪いです。国技館前です。力士幟は番付順に並べます。照ノ富士の幟がありません。こんな状況ですが、例によって優勝者の予想をします。東西の大関が当然候補となりますが、ここのところ豊昇龍の調子がイマイチです。豊昇龍は一段落とします。先ず、大の里を挙げます。優勝して大関昇進を狙っていると思います。国技館前で、ファンに揉みくちゃになっていました。人気もあります。看板力士が欲しい相撲協会です。この部屋の阿炎が、体調を戻しているんじゃなかろうか?センスの良い玄関周りです。前親方だった寺尾が遺しました。王鵬が居る大嶽部屋です。明日の場所初めの前です。忙しそうです...大相撲九月場所が始まる。
幟が勢揃いしました。明日から九月場所とは言え、猛残暑の東京です。チケット売り切れの切符売り場にスケジュールが出ています。ファンが小走りで移動しました。何かあるなと追いかけたら、大の里が揉みくちゃになっていました。人気者です。紋付袴姿なので、国技館で行事があったのだと思います。もと大関琴風だと思います。大の里騒ぎを見ていました。力士がファンとカメラに収まっています。浅黒くて彫りの深い顔は一眼で外国人です。インバウンドの人達にも人気です。国技館のすぐ近くの名門春日野部屋です。場所前日で、国技館で行事があるなど忙しそうです。玄関が開いています。栃ノ心が引退したので人気力士が居ません。従ってファンの訪問もありません。栃ノ心は気さくな性格でもあって、ファンの受けが良かったです。大相撲は国技・格闘技であると共に興行で...九月場所前日の国技館前
行きつけの蕎麦屋から昼間の営業を再開するとのお知らせがありました。女将さん周辺に色々あって、5月の連休明けから夜の営業に限定していたものです。私もほぼ同時期から色々ある身ですが、体調を整えて当然訪問します。電車にしようかと思いましたが、自転車に乗れる状態(日々体調が変ります)でした。けっこう人気店です。再開を知ってか知らずか、行列が復活しました。この暑さなので、簾の下で並んでいます。約4ヶ月ぶりのお昼の営業です。我が家から直行で約1時間の距離です。途中に浅草や上野が在ります。散策しながらやって来て、ここでお昼を食べて、谷根千や本郷や下町を散策しながら家に帰る生活を20数年来続けてきました。20年間毎週通える店に出逢えたことは幸せだと思います。昼間営業再開のお知らせがあって、
残暑の東砂町の路地を散策していました。ここは持ち主が手入れしない空き地だと思いました。草も木も伸び放題です。いや、管理はしているようです。なんとなんと、児童遊園(公園とは違う?)です。水飲み場が有ります。でも遊具が見当たりません。中央には小高い丘が在ります。手入れしていないので梅の実が育っています。公の土地の物だから取ってはいけないとは思いますが、、、誰か採っても良いのではないか?もったいないじゃないか。こちらの実は何だろう?「山法師」の実のようですが、私が知っている山法師より大きい実です。山法師の実はジャムにして食べると聞いています。私は生で食べたことがあります。少し甘みがあります。でも、大きいので違うのかなあ?手出ししません。全然手入れしていません。これで「児童遊園」か?中央の丘に上がってみます。ここ...「東砂三丁目第二児童遊園」は火除け地?
東砂町を散策していました。えっ⁈「明治座」⁇あの?「明治座」のロゴも一緒です。稽古場か?ちょっと戻ります。間違いありません「明治座」です。営業所なのか?歌舞伎のチケットを売っているのだろうか?道路の向かい側は「第二砂町中学校」です。東側は荒川の土手です。こんな所に歌舞伎?「明治座」だよねえ?敷地内を覗きます。軽トラが停まっています。あの荷台の絵を時々見ます。明治座の幕の内弁当です。ここで作って、中央区の明治座で販売しているんですね。前面道路を西に行きます。元八幡交番です。背後に大きな木が有ります。そこは「富賀岡八幡宮」です。「元八幡」と呼ばれて、由緒正しい神社です。東京三大祭りの「深川祭り」を催行する「富岡八幡宮」が有名です。あの神社はここから現在地に移転したんです。よって「元八幡」なんです。こんな散策で...東砂町に「明治座」が在った!
不整脈だけでなく、頚椎と腰椎の治療にも通っています。今日は天気が良いので自転車で行きました。その帰りにちょっと散策をしました。東砂町の住宅街です。家と家の間に、フェンスに囲まれた石碑のような物が有りました。残暑の濃い影が邪魔をして、字が良く見えません。フェンスを開けて石碑の前に立ちました。「開拓之祖太郎兵衛之墓」と書いてあります。石碑かと思ったら墓石です。「開拓之祖」と有ります。界隈は「砂村何某」が開拓し「砂村」と呼ばれ、村が大きくなったのでやがて「砂町」となったと聞いています。砂村何某の兄は神奈川県の久里浜を開拓したとも聞いています。砂村一家は、開拓技術を持った幕府の役人かな?と思っています。その他にも界隈を開拓した人が居たんですね。しかも苗字を持たないので農民だったと思います。裏を覗きます。昭和22年...太郎兵衛の墓と藤の湯
寝てばかりではダメだとの罪悪感があって、通院に際して回り道をして帰っていました。そうしたら真白いキノコが生えていました。こちらにも。そしてこちらにも。たぶん初めて見ると思います。綺麗です。毒キノコだろうか?当然名前を知りません。真白いキノコ
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ふと、樋口一葉の井戸が有るあそこへ行こうと思いました。いつも変わらぬ風景です。梅雨だとこの石段の苔類が生き生きしているのではなかろうか?と思った次第です。あまり変わらないですね。石段を見上げます。振り返る、樋口一葉が井戸端会議をしたであろう路地です。せっかく来たので石段を上がります。シダの元気が良いように思います。振り返ります。見上げる梅雨空です。九州・四国が梅雨明けしたそうです。梅雨時の樋口一葉の井戸
池の端に在った「鷗外荘」の移転工事が進んで、池や植栽の概要が分かるようになりました。夏越しの大祓の準備が終わった根津神社の庭です。ここから覗きます。家の外観が分かる状態になりました。完成が待ち遠しいです。「鷗外荘」移転工事進捗中
やっぱり告知が出ていました。母子がお詣りに来ていました。作法どおり潜って、拝殿へ向かいます。重要文化財の銅灯籠と西門です。参拝を終えて振り返る茅の輪と楼門です。やっぱり真円は、信心が増すように思います。こんな所を告知板に使う、贅沢な神社です。そして、いつもの西参道からの風景です。帰京して初めての参拝です。厳かな夏越しの大祓催行の様子はこちら根津神社夏越しの大祓
三菱一号館へ立ち寄ります。まあ!ジューンブライドも大変ですね。梅雨の晴れ間の蒸し暑い午後です。思った以上に沢山の人が涼を求めて来ていました。梅雨明けはまだでしょうか?明けても暑いか?三菱一号館の中庭の午後
丸の内仲通りの午後の風景が好いです。丸の内仲通りの午後
「都電雑司ヶ谷停留場」です。梅雨の晴れ間の蒸し暑い日です。梅雨の晴れ間と言っても、東京は蒸し暑い空梅雨です。あの交番を左折します。緑が濃くなりました。永井荷風の墓所です。周囲に植えられていた槙の木を切ったので、暑い光が直射します。日陰を求めて歩きます。意外に風が強いです。最後に訪れるのは、やっぱり竹久夢二です。ここに埋まっています。梅雨の晴れ間の雑司ヶ谷霊園
帰京したら行きたい場所が幾つかあります。そして会いたい人がいます。月曜日なのに、上川口屋が営業していました。お婆ちゃんが居ません。呼び掛けたら奥から出て来ました。「半袖だ!」「当たり前よ!」で会話が始まります。何ら変わらぬ店頭です。「髪切ったの?」「暑いじゃない。当たり前よ!」「暇そうですね」「月曜日はね。でもね、商売って、『飽きない』って言ってね、休んでいたら客は遠のくのよ」「よく休むクセに!」きなこ棒は今日もハズレました。「本当に当たりは入っているの?」「10回引いても当らない人は当らない、1回で当たる人も居る。だから、クジよ」・・それではいつものラムネとあられです。鬼子母神の入り口に「夏市」のポスターが出ていました。お婆ちゃんが教えてくれます。「『入谷の朝顔市』って有名でしょう。30年くらい前に入谷...梅雨の晴れ間の上川口屋
参道入口の飲食店がやっと景色に馴染んだように思います。参道を行きます。梅雨時の曇り空です。ちょっと振り返って、雑司が谷案内所を眺めます。月曜日です。隣りは定休日です。いつものように振り返ります。陽が射さなくて蒸し暑いです。「はてなブログ」では、「芸予要塞跡」探索の記事が連載でスタートします。こちらも宜しく⇒荒川三歩梅雨の晴れ間の鬼子母神参道
日比谷公園のテニスコート脇に売店が在ります。いつから在るのか分からないくらい古い店です。レトロ感たっぷりの風情です。ちょっと離れて、この風景、好きです。日比谷公園に、ミストシャワーが稼働する真夏日の午後です。日比谷公園に売店が在る風景
緑が濃くなりました。蒸し暑い日でもテラス席は魅力的です。梅雨の晴れ間の松本楼です。しっとりと佇んでいます。梅雨の晴れ間の松本楼
そろそろかな?とやってきました。梅雨の晴れ間の蒸し暑い日ですが、木陰は一息つけます。眺めて歩きます。陽射しの中でも、いつものように、雲形池の噴水は元気です。ユリを見て歩きます。日比谷公園のユリ
愛宕神社にお詣りするのが目的か、神社裏のこの景色を見るのが目的か分かりません。それくらい気になる場所です。今日も好い景色です。しっとりと佇みます。チーズ専門店を眺めます。正面入り口は、元ワインサロンに通じる階段でした。静かに時が流れて今に至ります。裏参道の看板です。梅雨の晴れ間の愛宕神社裏の風景
2日に亘る検査です。いつものように、「出世の石段」を一気にあがれるか?心臓の機能を確かめます。今日は人が多いです。隣にやや緩やかな石段が有ります。男坂だっけ?誘惑を振り切って、出世の石段を上ります。今日も上り切りました。さあ、お詣りします。梅雨の晴れ間の陽射しを受けて、艶やかです。紫陽花が盛りです。周囲は、山より高い超高層ビルです。梅雨の晴れ間の風景です。梅雨の晴れ間の愛宕神社
暑い梅雨の晴れ間です。こんな日に通院です。永代橋を渡ろうとしたら、水上がバス遡上して来ました。ホタルナかな?佃島を背景に、航跡が残りました。明日も通院なんです。梅雨の晴れ間に通院する。
気になって久しぶりに訪問しました。かつてはもっと書籍の案内などが置かれていました。数年前には、本郷の法真寺に在った「一葉会館」が撤去されました。今、樋口一葉って流行らないのでしょうか?元々目立たなかったのですが、今はこんな状態です。後ろの壁に有ったレリーフはもう有りません。こんな場所です。過去の「一葉終焉の地」の記事はこちら。在りし日の「一葉会館」はこちら。はてなblogでは棚田の話です。荒川三歩樋口一葉終焉の地
ここにお七を祀った祠が在った筈です。今は石碑と説明板です。すっかり近代化した円乗寺です。ビル化に際しては、檀家衆や歌舞伎関係者から反対があったのではないかと思います。お七の墓所は、さすがにそのままの姿で在りました。左から、初代岩井半四郎の建立。お七を演じて大当たりを取りました。真ん中が120回忌供養塔で、右が270回忌供養塔です。放火犯がこんなに大事にされています。奥の佇まいは変わりません。文京区白山の谷底です。退出します。振り返ります。この石碑も替わりました。背後はまだ工事中です。マンションになるのだろうか?工事警備員の足元です。この三角地にも石碑が有ったように思います。彼に訊いたら、「分からない」とだけ帰ってきました。無口な警備員です。過去の八百屋お七の記事はこちらとこちら。変わってしまった八百屋お七の菩提寺
郷土のお土産売り場で見付けました。みかんの箱を開けるドキドキ感がありました。「みかん餅」との商品名です。ミカンそっくり!惜しい!私好みじゃない。ミカンの味が希薄!帰省土産
三郎青年が寅次郎に恋のレクチャーを受けてデートします。場所は江戸川の土手です。<現在>いつ丸屋根になるのだろう?話が弾まない二人です。<現在>場を取り繕うとみかんを勧めますが、要らないと断られます。話が続きません。ちょっと長いけど、寅次郎名台詞です。「今度あの子に会ったら、こんな話しをしよう、あんな話しもしよう、そう思って家を出るんだよ。いざその子前に座ると全部忘れちゃうんだ。で、ばかみたいに黙りこくってんだよ。そんなてめえの姿が情けなくって、こう涙がこぼれそうになるんだよな。女に惚れてる男の気持ちってそんなものなんだぞ」<現在>土手上の草刈りを終えたばかりでした。落としたみかんを拾ってくれます。<現在>三角屋根の給水塔の土手です。改めてマドンナが寅次郎を訪ねてやって来ました。柴又駅のホームです。<現在>...「男はつらいよ花も嵐も寅次郎」ー3
恋のライバル三郎青年が寅次郎を車で柴又に連れて帰りました。お寺の駐車場を借りに来た博です。<現在>時の推移を感じます。松の木が随分大きくなりました。初めてマドンナが虎屋にやって来ます。<現在><現在>マドンナの勤め先は「大丸百貨店」です。寅次郎が啖呵売でよく言う、「一流デパートの白粉塗ったお姉ちゃん」です。でも、「三越」や「高島屋」としない所がこの映画らしいです。山田洋次監督の脚本の妙です。<現在>ずいぶん前に建て替わっています。東京駅の改札口前にもデパートの出入り口があります。駅から雨に濡れないで買い物できます。大丸は東京駅の隣りです。<現在>すっかり様子が変りました。この話、まだ続きます。「男はつらいよ花も嵐も寅次郎」ー2
シリーズ第30作、1983年のお正月映画です。シリーズ歴代3位の配給収入だったそうです。余談:では1位は?と調べたらよく分かりません。しかも、「男はつらいよシリーズ」は、1作もベスト100に入っていません。まあ、今とは入場料が違うから。ではシリーズの観客動員数はというと、8位です。まあ、50作有るからねえ・・・。<現在>では、オープニングの画面です。<現在>マドンナは田中裕子さん。<現在>恋のライバルは、当代一のハンサム沢田研二さんです。この二人は共演後結婚しました。この配役の魅力と話題性で、興行収入シリーズ歴代3位になったのでしょうね。<現在>さくらがやって来る三門前です。<現在>何度も撮られている現場ですが、隣の店が気になりました。仏壇店は健在なのに、映画に映っている賑やかな店が閉まっています。商店街...「男はつらいよ花も嵐も寅次郎」ー1
玉川町に美味しいうどん屋ができているので食べに行こうと妹と従妹が言います。結構流行っています。昨年食べた波止浜の店の支店です。本店も混んでいましたので味の想像はつきます。他の地元の店とは趣が異なります。お洒落です。若者に好かれますね。おお、混んでいます。若者が多いです。ひょっとしたら今日は休日か?あ、仕事をしている従妹が居るんだら、土曜日か!仕事をしない一人暮らしに曜日の必要性はありません。美味しかったです。っていうか、四国のうどんは何処で食べても美味しいです。慌てて食い付くのでいつも食レポを忘れます。美味しかったので雰囲気だけでも紹介しました。讃岐うどん/松製麺所
今治銀座商店街が賑やかだった頃にはあまり気にならなかったけど、ちょっと気になっていた店舗裏です。商店街と並行して川が流れています。今は綺麗な水の流れです。小学校で習った「今治のくらし」では、「タオルの街『今治』の中央部の川は、染料で赤や緑に染まってとても綺麗」と教わりました。実際は染料が混じり合って紫から黒い川でした。中学生になって、美術の時間に「絵具が混じると『黒』に近づいていく。光は『白』になっていく」と習いました。なるほど、と認識した川です。ベニスの街角みたいです。所々に私設の橋が架かっています。公設の橋まで行かなくても川の反対側に行けます。橋は直接家と家が結ばれています。これが各所に有ります。両家は親戚なんだろうか?そして、川に下りる石段も有ります。もうお気付きだと思います。殆どの家が川に張り出し...改めて見てみた今治銀座裏
今治銀座の東端です。アーケードの中に江戸時代の名残を留める石柱です。さて、今治銀座を行きます。前回より明るくなりました。閉店した店舗が取り払われて、太陽光が差し込んだせいです。寂しい風景ですね。営業している店舗がまた少なくなっています。この店は、数年前から「閉店セール」を行っていました。まだ営業しているじゃないか⁈との感想です。おやおや、いつもの看板が店内に有りました。どっこい、生きています。今治市の中心部でした。人が居ないとポストや電話ボックスが寂しいです。学生の頃から有ったシャッターアートが変わらず素敵です。閉店した場所を地上げして集合住宅が増えています。こうなるとアーケードが邪魔です。本屋「マス屋」でした。今は教育図書を売っているんですね。お金は無いけど暇はたっぷりあった高校生が沢山立ち読みしていま...今治銀座の今
かつて港に着いた人達は、港の前の商店街に流れて行きました。その「新町商店街」の今の姿です。一番手前のお土産屋です。今も商店らしい店ですが、往時を偲ぶよすがはありません。他の店の多くは閉店しました。港に一番近い喫茶店でした。港の前にバス停があって、早朝に港に着くと、ここでモーニングサービスを食べながら、始発のバスの運行を待ったものです。ずいぶん賑わった店でした。商店街を歩きます・・・。昔から界隈は、蒲鉾屋と魚屋が多いです。この店なんか何度も何度も表彰された店でした。今も経営しているだけ立派です。今は人より幟が目立ちます。サッカーを町おこしにしよと元全日本監督が頑張って居ます。道続きの「今治銀座」へ足を進めます。ここも寂しいです。今治新町商店街
今治港湾事務所です。数年前に竣工した船の形の建物です。確か「ハーバリー」と呼んでいたと思います。ハーバーと今治の合成語です。桟橋へ行きます。港の向こうに大島が煙ります。「しまなみ海道」ができる前は、島嶼部を繋ぐ連絡船の出入りで賑わった港でした。しまなみ海道とバーバリーができて、昔の面影が全く無くなりました。今は寂れた港でしかありません。おっ⁉︎偶々フェリーがやって来ました。こちらに向かって来ます。着桟します。先ほど何処からか自転車で現れたシルバー世代の人が綱どりを行います。「せきぜん」の文字が見えます。確か「レモンの島・岩城島」からの船です。かの島は「しまなみ海道」が繋がっていません。こうやって、昔ながらの交通機関で、買い物等にやって来ます。殆どの島は車で「しまなみ海道」を走ってやって来ます。行き先はここ...今治港
あれっ!蛇池に水が有りません。この池は昔から水を枯らしてはいけないとの伝説があります。どうしたんだろう?罰当たりな!土手が新しいです。唐突ですが、あの山が、竜神が越えていった山です。土手を調べてみます。その前に、ここは竜神伝説の地で、池の奥は湿地帯で小さな観光地であり、遍路路でもあります。従って、昔からあそこにトイレが在りました。田舎の「便所」です。汚なかったです。ところが、ドアを開けたら便座の蓋が自動で上がりました!我が家より凄い!凄く綺麗になっています!外国人の歩き遍路が多いそうです。さて、余談はそこそこに、土手へ行きます。空っからの池です。こんな事をしたら池ません。龍神の祟りがあります。ショベルカーが動いています。土手がここで切られています。バチが当たるぞお前ら!池の向こうは「医王山」です。西暦66...蛇池の土手を壊していた。
今年というか今週2度目の訪問です。先日暑い中を自転車でやって来たら臨時休業でした。今日は営業中です。民家の庭に屋台を建てて、テーブルを置いて、週5日やっています。「先日休んだな!」って言ったら、「すみません田植えの準備で・・・」と答えます。年に1度の訪問です。それでも覚えていてくれます。地元の人間と違って、ちょっと標準語っぽいので、覚えやすかったのだと思います。こうして7〜8年の付き合いになります。いつものとおり「冷やしうどん『中』」を注文して、おでんを取ります。昨年より20円と30円(すじ肉)の値上げをしていました。しょうがないです。何でも上がっているもの。夫婦二人でやっている店です。「孫兵衞作」に在ります。何とか孫兵衞さんが開拓した村です。ちょっと時間が早いので客はまだ私だけです。いつも流行っています...「いなか屋台うどん村」商い中
昨年の訪問で確認していました。目印のガスタンクです。あそこですが、行列どころか人が居ません。やっちゃたみたいですね。定休日です。田舎の一人暮らしで仕事をしていなかったら、曜日に頓着しません。新聞も無いし・・・そうか、今日月曜か!でも人が居ないので、ゆっくり好きなアングルで撮れます。隣は散髪屋でしたか。こんな指示です。元々は普通の町中華だったのが、賄い飯が商品としてヒットして、今治市のソウルフードになったらしいですね。また来年来ます。曜日を確かめて。昨年の記事はこちら。焼き豚玉子飯「重松飯店」再訪
既報の記事「今治ラヂウム温泉」で、次回の帰省時にも見に来ると書きました。実はこの「大黒湯」を今年も見に来たのです。ラヂウム温泉の近くです。前回は気がつきませんでした。存在を知らなかったら、すれ違ったことも知らないで過ぎて行きます。人生の出逢いもそんなものでしょう。縁と呼ばれる現象です。さて、昨年と変わらない風情です。玄関前を掃除しているので、今も現役の銭湯のようです。2階が住居です。昨年も玉ねぎを干していました。こんな景色さえも変わっていません。眺めます。玄関も変わりません。昨年同様、営業時間は午後1時半です。周辺は漁師町です。夜明けの出漁も行います。そんな需要があるんだと思います。ずっと下を向いたままです。掃除に熱中しています。私に気付いたら声を掛けてみようと思っています。仕事中の人に、こちらから声掛け...「大黒湯」再訪
今治市の街で遭遇しました。「大正モダン」を思わせる建物です。正面から眺めます。左側に、「ゆ」と「ホテル」の文字が見えます。玄関です。営業しているんだろうか?玄関の柱です。「国登録有形文化財今治ラヂウム温泉本館」と書いています。同様に英語でも記載しています。そしてそして、「建築1919年国登録2016年11月」とも書いています。第一次世界大戦終了の年の建築です。冒頭「大正モダン」と感じた印象そのものです。登録したのが2016年11月なので、最近のことです。その下にも、古い建物で時々見かける形式で「登録有形文化財この建築物は貴重な国民的財産です」とも有ります。凄いね今治!でも営業しているんだろうか?左手にホテルの玄関が有ります。3階がフロントのようです。宿泊者「レンタサイクル乗り捨て施設」とも書いています。「...今治ラヂウム温泉
桜井平野の真ん中に独立した山が在ります。多くの数と多くの種類の古墳が在ることから、古くから人々がよって立つ山だったのでしょう。あそこに城を造ったのは豊臣秀吉の家臣「福島正則」です。麓に「お屋敷」の地名と堀の遺構が残っています。国分寺の隣に「春日神社」が在ります。由緒書きの末尾に、「唐子山の福島神社を合祀した」との記述が有ります。ここに福島神社が合祀されています。福島正則が国分城に造った神社です。ここから四国八十八ヶ所五十九番札所である国分寺の屋根が見えます。そして、山道の方向に国分山(現在の唐子山)が在ります。さて、「脇屋義助の墓」の真裏です。「国分城城主小川土佐守祐忠夫妻尊霊」の墓石が有ります。この人物をよく知らないのですが、福島正則の後に国分城に入った人物です。彼は関ヶ原の戦いで西軍に付きました。「家...国分城の変遷と唐子山
国分寺のすぐ傍です。でも、ここでお遍路さんに逢ったことはありません。せっかくの歩き遍路なのに、ここを素通りしたら勿体ないと思います。石段を上ります。上がった所に拝殿が在ります。右手に説明書が有ります。(説明板表示内容)「脇屋義助公廟堂の由来延元元年(1336)五月、楠正成、新田義貞らの連合軍を摂津の国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。同年六月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院党の公明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。そこで、天皇は密かに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに尊氏が樹立した京都の北朝(公明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)両皇統...吉野朝忠臣従三位脇屋義助公廟
国分尼寺跡行ったので国分寺へ行きます。四国八十八ヶ所五十九番札所です。日本遺産「四国遍路」59番札所です。小学校1年生の遠足の場所です。小学校が国分尼寺跡なので、学校は歴史を学ばそうと、ここ国分寺を人生最初の遠足の場所に選んだのかも知れません。でも、そんな学校の思惑なんか全然感じまていませんでした。ここには「握手修行大師」が有ります。新しいものです。案内板に書いてあるとおり、お大師様は忙しいらしいです。忙しくない私が手を握って願い事を言うのはおこがましいです。本堂です。さて、ここに「脇屋義助廟」への案内を兼ねた石碑が有ります。「是ヨリ二丁」です。すぐそこです。ここから見る世田山・笠松山が梅雨空に煙っています。彼はあそこで戦闘を指揮する予定でした。桜井の浜に到着後1週間くらいで、ここ国分寺で病死しています。...国分寺と国分寺塔跡
伊予桜井駅から見た白い看板です。石丸忠兵衛の石碑のすぐ傍です。界隈は歴史の宝庫です。探索の為の道が設けられています。こんもり盛り上がった土地に柿の木が有って、そこに説明板が立っています。遠くからよく見えます。天平13(西暦741)年の遥かな大昔、聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺跡の建設を命じました。国分尼寺跡です。石で囲われている場所です。建物の基礎石です。大きな敷地を持っていました。背後の山から桜井小学校の敷地まで、広大な地所です。右に小さく見える山は「唐子山」で、あの先に「国分寺」が在ります。国分寺と国分尼寺とはこんな位置関係です。現場をちょっと離れます。周辺は何処も遍路道です。遍路道石碑の前の石柱に、「史跡伊予国分尼寺」の文字が見えます。石柱からちょっと行くと、「法華寺」です。国分尼寺を現在に引き継...伊予国分尼寺跡
伊予桜井駅の裏にやって来ました。駅舎を覗く場所です。あの木が茂った場所が石丸忠兵衛の墓があった場所です。中に入れません。入っても何も有りません。数年前に確認済みです。以前は隣の田圃の畦道を通って一周できたのですが、ご覧のとおりイノシシ避けの柵が設置されています。反対(駅)側も草が茂って行けません。この後、既出の部落総代から聞いた話によると、もうずっと昔に移転したそうです。跡地だけが保存されています。墓所を背後に山の麓を見ます。あそこに白く石碑が見えます。みかん畠の中です。これが石丸忠兵衛の石碑です。前回の訪問時にはもっと沢山のみかんの木が有りました。切ったのでしょうか?もう畠の雰囲気はありません。野原の風情です。「開拓新田石丸忠兵衛寛永」の文字がかろうじて読めます。部落総代が言います。「石丸忠兵衛が桜井を...「石丸忠兵衛」の墓と石碑
前回(2020年)報告した東京都知事選挙ポスターの記事にアクセスが多いです。今回も皆さんが注目している選挙です。ただし、その注目対象は掲示板です。今回はそれ以上の騒ぎになっています。N国党によって立候補者掲示板がジャクされている事がニュースになっています。各所で注意して見ていましたが、全ての掲示板がそうなっている訳ではありません。そんな中、これが近くの公園に有りました。TVニュース等で見たのとは掲示内容が違います。色々な種類のポスターがあるようです。女性のヌードも有るとか?このポスターは赤ちゃんが怒っています。「わたしたちの未来をどうしてくれるのか!!」と。内容は真っ当な、選挙のたびに選挙管理事務所が苦心している「投票促進」です。でもね、批判を避ける為に作ったポスターのように思えます。こうやって、硬軟織り...東京都知事選挙ポスターが異常!
田舎には不釣り合いの広い道路です。左右に日通や西濃運輸のトラックが横付けされていました。中学生の頃の話です。貨物の中継店や商店や精米所や床屋が在りました。漆器製造・販売の在る浜桜井地区に対する流通の中心地だった、郷桜井です。昔は沢山の自転車預り店が在りましたが、モータリゼーションによって自家用車が増えると駅を利用する人が減りました。今はこの1軒だけです。突き当りは「JR伊予桜井駅」です。多くの高校生は駅前に路駐しています。違法ではなく、駐輪場になっています。駐輪しているのは、地元今治東高の、ここから電車で帰った生徒たちか、地元以外の高校に行っている、これから電車を降りて自宅に帰る地元の生徒です。「綱敷天満宮」最寄り駅です。予讃線の終着駅だった時期もあります。国分寺・国分尼寺等も在って、国府の中でも「府中」...伊予桜井駅
甥っ子が「四国一美味い!」と言うので食べに来ました。チェーン店です。よく意味が分かりません?要は安いって意味なんでしょうね?実際美味しかったです。お遍路さんも食べていました。珍しい風景ではありませんが、向こうにも女性連れが居ました。こちらにも二人連れが!こんなに沢山のお遍路さんがうどんを食べている景色は初めて見ます。お遍路さんの間で、美味い店の情報の共有化が行われているのでしょうか?これぞ四国らしいうどん店の風景です。これぞ四国らしいうどん店の風景
綱敷天満宮の西参道です。ここに志々満保育園が在ります。私はここの卒園生です。勿論何もかも変わって面影は残っていません。ここに新しく「歴史散策まち歩き」看板が出来ました。今回の帰省で訪ねた場所の多くが紹介されています。やっと町をアピールする気になったようです。今治市は「移住したい町ナンバーワン」らしいです。そんなこともあって、この看板を設置したのでしょうね。先日の地元ニュースで、昨年度の移住人口は1800人強らしいですが、私の周囲にそんな気配はありません。老幼なじみに訊くと、どうやら人が移住しているのは、平成の大合併で今治市になった島しょ部が中心だとか。旧今治市は人が流出しています。桜井「歴史散策まち歩き」看板
「衣干岩」のすぐ傍です。椀船の港です。ここから九州や中国・近畿に出かけて行きました。古い防波堤です。満潮時には水没します。丁度干潮に近いです。ここが「椀船の港」です。以前は堤防に下りられました。上流です。1本の大きな木が有ります。夏には蝉が煩くしますが、平素は静かな場所です。木陰を落とします。石碑です。句があります。漆器椀を満載して、行商人も載せて、帰りは各地の名産を積んで、椀船が往来した港です。昭和の中頃までは賑やかでした。もう昔の話になりました。椀船の港