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荒川三歩 https://blog.goo.ne.jp/arakawa3po

写真付きでチャリンコ散策結果を報告します。 めったに遠出しないので、殆ど近隣下町の出来事がテーマです。

荒川三歩
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2014/09/30

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  • 氏神様拝殿床下予備の屋根瓦

    拝殿です。光の加減もプラスされて神々しいです。お参りします。床下です。ここに予備の屋根瓦を置いています。建て替える時のことを考えて、氏子一同の寄付で作ったそうです。老幼馴染の仕事です。私には寄付の話はありませんでしたが、予定以上に寄付が集まったそうです。さて、拝殿前の広場は、子供の頃、ソフトボールの練習場でした。毎年夏休み終盤に、桜井校区部落対抗の小中学校合同チーム大会があって、熱心に練習しました。向こうに打ったら大事なボールが森の中に入って無くなってしまうので、向こうがホームベースです。左右の石柱がネット代わりでした。今考えれば、拝殿にぼこぼこボールを打ち込んでいました。氏子総出でバチあたりな事をしていたものです。氏神様はバチも当てず、静かに見守ってくださいました。氏神様拝殿床下予備の屋根瓦

  • 氏神様にお参りする。

    自転車を漕いでやって来ました。氏神様須賀神社です。帰省したなら一度はお参りしないと撥が当たります。東京では、毎週のように根津神社に行って(お参りじゃないけど)いるのだから。当初は速須佐之男命を祀ったのですが、西暦663年の白村江の戦いに、同盟国百済から支援を求められた斉明天皇が、九州に向かう途中近くに車を停めたという伝説があって、後に同天皇も祀った神社です。「瓦釜跡」の枯れ株に、いつの頃からか、誰かが寿老人を置いています。ちょっと風情がありますが、「ばちが当たったらイヤなので、誰も撤去しないのでそのままになってしまった。祀神でもないのに迷惑な話だ」と、神社総代を務めていた老幼なじみが言っていました。最後の石段を上がります。拝殿が現れます。前述のとおり、速須佐之男命と斉明天皇を祀っています。苔むして風情があ...氏神様にお参りする。

  • 桜井小学校のユーカリの樹

    母校の校庭です。後輩たちが遊んでいます。生徒が少ないです。陽射しが強いので外に出ないのでしょうか?校歌にも歌われたユーカリが、昔と同じ場所に立っています。でも、葉が少ないです。こんもりしていないし、背も低くなったように思います。作る日陰が小さく薄いです。あっ?根本がヘンです。大きなホコラが空いています。根も朽ちているように見えます。今でも校歌を歌えます。「♬桜、桜、桜井の小学校の子供らは、健やかに麗しくユーカリの樹のように・・・♫」でもこの樹が無くなると校歌が変わります。救済が必要では・・・。ユーカリの往時の姿と説明はこちら。桜井小学校のユーカリの樹

  • 頓田川サイクリングコースを往く。

    光と緑が眩しいサイクリングコースを往きます。あの雲に向かって往きます(青春ドラマか、小説「坂の上の雲」みたいだな)。川床は水が少ないです。頓田川土手を往きます。遍路道です。法華寺は元「国分尼寺」です。生家の菩提寺です。更に往きます。鉄橋を潜ります。あ、仲良し夫婦が居ました。ほっこりします。頓田川サイクリングコースを往く。

  • 頓田川河口の干潟から

    潮が引いて砂嘴が現れています。堤防の先端から降りて行きます。干満の激しい海ですが、大潮の干潮時程ではありません。でも、十分満足できる状態です。帰省すれば必ず訪れる場所です。浜に降りました。波打ち際に向かいます。潮干狩りの跡が干上がっています。波打ち際です。大島、大三島、伯方島等々しまなみ海道を形成する島々です。比企島です。兵市島です。故郷の島です。潮は静かに満ちているようです。正面に世田山・笠松山、右に唐子山です。海の向こうに四国山脈です。頓田川河口のマンションです。故郷の山はありがたきかな。故郷の海はありがたきかな。ずっとここに居たいです。頓田川河口の干潟から

  • 唐子浜赤灯台

    松原の古い街道を行きます。今ではサイクリングコースです。赤レンガ建物が在ります。古いものですが、ここには20数年前に移築されたものです。元は、「島しょ部灯台守官舎」でした。そんな説明も見えなくなっています。海には赤灯台です。官舎と一緒に移築されました。今は、官舎と同様、灯台の機能はしていないと思います。改めて官舎を眺めます。素敵です。残しておこう、と思ったのが理解できます。赤灯台の向こうは「しまなみ海道」を形成する島々です。子供の声がしています。人に出逢うのが珍しい故郷の今です。兵市島です。昔ここはレジャーランドでした。遊園地と動物園と海水浴場が在りました。貸しボート場でアルバイトをしたことがあります。日焼けして、何回も皮が剥けて、真っ黒になっていました。もう一度赤レンガの官舎を見て移動します。おや、移動...唐子浜赤灯台

  • 桜井漁港の作業小屋から防波堤

    桜井漁港の作業小屋です。港の北端に来ました。振り返る漁港です。防波堤を往きます。静かな海の向こうは四国山脈です。雲が掛かっています。真正面に世田山・笠松山が見えます。昔の伊予国経営の拠点でした。南朝後村上天皇は劣勢を四国から挽回すべく、脇屋義助を甥の大舘氏明が守る世田山に派遣したものの、直ぐに国分寺で病死し、「世田山合戦」という悲惨な戦闘となった「太平記」の舞台です。界隈の住民は、今でも尊称して「お世田山」と呼びます。北を見ると唐子山です。村上水軍が陸上経営の為に建てた城が在りました。福島正則が統治した時代は、あの麓に「お屋敷」が在り、今でも地名として残っています。やがて、藤堂高虎の治世になった時、現在の今治城建設の資材として、石垣を含めて撤去されました。山頂の木がスッキリと刈られています。展望所として復...桜井漁港の作業小屋から防波堤

  • 昼下りの桜井漁港

    漁港に出ました。漁を終えて休んでいる時間帯です。自転車を押して、漁港を歩きます。防波堤の向こうに兵市島が見えます。いつもの景色です。人は居ないけどアオサギが居ました。船の給油所です。大きな魚が獲れる海ではありません。燃料費が高くなって大変だと思います。あっ、人が居ました。漁の片付け中のようです。左右にアオサギが居ます。漁のおこぼれを待っています。ここにも人が居ました。網を繕っています。眼の前は静かな海です。この話、続きます。昼下りの桜井漁港

  • 桜井漆器の町から海へ、

    桜井漆器の町の散策が続きます。大きな家々が続きます。綱敷天満宮の北参道です。主に、これら漆器屋が支えてきた天神様です。後ろは狭い路地です。路地の先は景色が一変します。廃屋が多いです。昔は流行った電気屋です。もう数年前からこの状態です。海に来ました。左右は古い街道でした。これを行くと、綱式天満宮の東参道に出ます。いまは「四国のみちサイクリングロード」です。ここまで人に出逢っていません。桜井漆器の町から海へ、

  • 大店漆器店

    朽かけた塀が有ります。家の裏口です。やはり朽かけた納屋が有ります。ちょっと離れて家の全体像を見ますが、カメラに収まりきれません。角に漆器蔵を配した造りです。ここは小・中学校の同級生の家です。漆器蔵の角をまっすぐ行くと、左側にも蔵が有ります。この路地を往きます。先程の朽かけた塀の家の玄関です。何度か遊びに行ったことがあります。大き過ぎて太陽光が届かない、昼でも薄暗い家でした。彼女の弟が後を取ったと聞いています。現役の漆器屋です。向かいの店です。屋号は「小谷屋」です。ちょっと行って振り返ります。両家ともカメラに収まらないです。同級生の家です。小谷屋です。屋号が入った「椀船」のレプリカを文化会館か何処かで見たことがあります。老舗の漆器屋です。去り難く戻って来ました。音一つしない、猫一匹通らない路地です。桜井漆器...大店漆器店

  • 漆器の町を往く

    眩しい陽射しの路地を往きます。この一角が漆器の町です。今でも製造や販売に携わっている集落です。綱敷天満宮で、「漆器で儲けた裕福だった町」と紹介しましたが、裕福だったのはこの界隈だけです。後は農村と漁村の町です。圧倒的に裕福で、この町の経済の中心だった一角を往きます。この家も漆器屋さんでした。数年前から前回帰省したとき迄「売家」の看板が出ていました。どうなったのでしょうか?綺麗な外観を保っているので、新たな住民ができたのだと思います。暫く往くと「彫刻屋」です。漆器の町らしい風景です。そして、漆器蔵です。こちらも現役の漆器屋です。黒塀が有る路地です。ここまで散策していても、物音一つしません。でも生きている町です。私が子供の頃からそうでした。漆器は製造も販売も静かな商いです。そういった風情の町です。この路地を往...漆器の町を往く

  • 桜井石風呂の保養所跡のブランコ

    先程見てきた保養所跡を浜から眺めます。石柱があります。頂上に凹みが有ります。鉄棒かも知れません。ブランコが有ります。木に登る為の綱も有ります。まだ新しく見えます。夏の保養地に残された遊び場です。海を眺めます。最後にこのブランコに乗った人は誰でしょう?保養所の先に行ってみます。ここで道が閉ざされていました。この先は国民休暇村に続く道でした。引き返します。大楠の姿だけが変わりません。唯一の出入り口に向かいます。切り通しに有った石柱を改めて眺めました。切り通しを振り返ります。過去をそっと閉じ込めたような、異空間の入り口みたいです。桜井石風呂の保養所跡のブランコ

  • 桜井石風呂の保養所跡

    昔は保養所でもありました。遠く京の都からも湯治に訪れたそうです。保養所跡を往きます。正面の大楠は変わりません。共同炊事場跡です。長期療養の人も大勢居ました。共同トイレ跡です。保養所を往きます。こちらは比較的新しいです。会社の保養所のようです。企業が福利厚生の一環として所有したものと思います。海から眺めます。あそこが石風呂です。サウナに入って、海で泳いで、この保養所の浜でスイカ割りをしたのでしょうか?桜井石風呂の保養所跡

  • 久しぶりの桜井石風呂

    前回同様通行止めです。徒歩なら行けます。切り通し向こうが明るいです。木漏れ日が優しいです。数年前の訪問と変わっていない景色です。でも、少しずつ確実に朽ちています。説明板は前回の訪問時より完全に朽ちています。廃止になってどのくらいになるのでしょう?石風呂です。中世から続いた、言わばサウナです。ここに入って汗を流しました。タップリ汗をかいたら海に向かいます。プライベートビーチです。ここで火照った体を冷やしました。昔から投釣りの名所です。子供の頃よく来ました。施設を見ます。朽ちていく姿をこうして残します。久しぶりの桜井石風呂

  • 「本性寺」の「月の松」

    志島ヶ原のすぐ近くに「本性寺」は在ります。別に何かの伝説がある訳ではありません。田舎の普通のお寺です。ただ、これが有ります。いつから有るのか分かりませんが、幹の太さから、古いものはではありません。子供の頃には無かったと思います。そんな話聞いてないもの。数年前に地元のブロガーさんに教えて貰いました。歌川広重が上野清水観音堂で描いた「月の松」と同じです。現在上野清水観音堂に有る松より、よっぽど歌川広重が描いた松に近いです。枝を切ったり縛り付けたりしていないもの。。地元の庭師が一念発起して作り上げたものだと思います。傑作であり、芸術品だと思っています。「鄙にも稀な」と言いますが、この松の存在が中央に届くことは無いと思います。上野清見観音堂の「月の松」と比べて下さい。こちらの圧勝です!「本性寺」の「月の松」

  • 綱敷天満宮境内

    綱敷天満宮境内に居ます。ここには多くの分社や神社が祀られています。その中で、故郷に固有の神社を紹介します。「田坂八幡神社」です。後ほど紹介しますが、「槍の名人田坂槍之介」を祀っています。その子孫は代々郷土に暮らしていて、教諭を退職して塾を経営していた田坂先生もその一人だと思います。そしてこちらにも、おそらく固有の神社が合祀されています。これらの神は、単に私の知識不足かも知れませんが、他所で見たことはありません。特に興味深いのは、ここ桜井地区の「開祖桜川神社」が祀られていることです。随分古くから拓けた町のようです。明治期に予讃線が開通したとき、高松からの終着駅は「桜井」でした。「今治」にも「松山」にも鉄道が敷かれていませんでした。先ずは、当時の商業が盛んな町まで開通させたようです。さて、ここが私の卒業した保...綱敷天満宮境内

  • 綱敷天満神社

    瀬戸内海国立公園の松原に鎮座する綱敷天満神社です。地元では「綱敷天満宮」との呼名の方が多いように思います。広大な境内なので、日光を遮るものが無いので眩しいです。正面です。振り返ると、松原に参道です。遠く、前出の「椀船の港」に通じます。絵馬堂を見上げます。何が描かれていたのか分からないくらい古いものが奉納されています。天満神社におなじみの、菅原道真公に関する石彫です。筆塚です。牛です。鶯です。筆塚や牛はどこの天神にも有りますが、鶯は珍しいと思います。そして、どの石彫も大きいです。漆器で栄えた豊かな町だったことが分かります。3年ぶりにお参りします。厳か感があります。正面の扁額は「天満宮」です。なお、最初の天満神社はここから1Km弱離れた場所に在って、今でも大切に祀られています。古天神の祭礼です。古天神も新天神...綱敷天満神社

  • 名勝 志島ヶ原 厳島神社 月賦販売発祥の地

    先ずはお読みください。広大な松林です。広い広い綱敷天満宮の境内です。海からの参道です。境内には多くの分社が在ります。海に一番近くには、厳島神社の分社が在って、お盆には「宮島さん」と呼んでいた、子供の成長を願うお祭りがあります。日清戦争従軍碑(東京でも「日露戦争」の従軍碑はよく見ますが、日清戦争は珍しい)等、境内に多く有る石碑の中で比較的新しい物ですが、「全国月賦百貨店連合会」建立の石碑です。桜井は「月賦販売発祥の地」なのです。既報の「椀船の港」から漆器の行商を行っていました。漆器は高価な物です。高価な物を売買するに際して、「月賦払い」を考案したのです。子供の頃小学校で、「文字が書けない農家の人達は、相手と月賦残高を暗記していて、間違える事が無かった。益々信用が高まり、大いに商売が繁盛した」と教わりました。...名勝志島ヶ原厳島神社月賦販売発祥の地

  • 史跡 御台場跡

    ああ、益々崩れていますねえ。ここは御台場跡です。東京湾のフジテレビが在るお台場とは随分趣は違いますが、その役割は一緒です。説明板が有ります。「ペリーがこんな田舎に攻めてくるわけが無い!!」と今では笑い話ですが、当時の松山藩は真剣だったのです。幕府から言われるし、、御台場跡だと言われなかったらわからないくらい低くなっています。松が生い茂って益々何だか分かりません状態です。すぐそこが桜井海岸です。いつ見ても穏やかな海です。瀬戸内海の向こうの四国山脈の上に雲が掛かっています。山脈の向こうの高知県と違って、この景色は向上心の無い人間を創り上げます。物成りが良くて、いつでも漁ができて、あくせく働かなくても食べていける。そんな故郷です。史跡御台場跡

  • 史跡 衣干岩

    わあ!!随分松が繁っていますねえ!前回の帰省時には岩の頂上に登ったのですが、、こんな岩です。岩の前にはこんな案内板があります。・・・つまり、訪れる人が多く居るのです。こんな説明板が有ります。石柱も有ります。史跡なのです。ここは保育園の遠足の場所でした。菅原道真公を祀る天満宮の境内に保育園が、今でも在ります。私はそこのOBです。そこからここに遠足に来たのです。見上げる山のような岩でした。松の根と風化で岩が崩壊しかかっています。保存が必要です。前回の訪問時に登ったのはこちら。史跡衣干岩

  • 史跡 椀船の港

    2ヶ月前から整形外科に通って腰の治療中です。従って遠出はできませんが、10年くらい前に東京から送って納屋に仕舞っておいた自転車を引っ張り出しました。空気を入れて出発です。故郷を巡ります。先ずやって来たのは海です。干潮です。漁港ではありません。河口にレジャー船を繋留している場所です。ここは史跡「碗船の港」です。「伝え聞く椀船河岸や・・子釣」「椀船の昔思ふや・・・」光溢れる河岸です。さて、そこの石で囲われた小さな港が、昔の「椀船の港」です。堤防には行けなくしています。3年前は堤防の上を歩きました。まあ、老人だし腰痛の治療中だし、行かなくていいです。小さな港を観ます。側の上流はすぐに山です。満潮になったら水没する堤防です。この港から「桜井漆器」を積んだ船が行商に出かけました。主な行商先は九州でした。農閑期は農村...史跡椀船の港

  • 農協の稲苗代

    帰省に際して見たかった景色の一つです。越智今治農業協同組合の稲苗代風景です。爽快な風景です。よく見ると、全てが同サイズの箱に植えられています。あの箱を田植え機に設置して植えていきます。以前は各家庭毎に作っていましたが、今は農協が作って農家に売っています。病気で全滅する危険もありますが、少子高齢化の最先端を行く農家対策でもあります。最近は稲が病気になった話を聞きません。農業技術が進化しているのでしょう。向こうに霊仙山が望める梅雨時の風景です。有数の少降雨地域である瀬戸内海沿岸は梅雨の到来を待って田植えを始めます。一部の出荷がが始まっています。梅雨の印です。そしてよく見ると、箱を出荷した跡は地面でなくビニールが張られています。こうして稲苗を作るのです。手間が掛りますが、秋の黄金色の収穫を期待させる風景です。ウ...農協の稲苗代

  • 帰省します。

    羽田空港です。3年ぶりに帰省します。2年前に帰省したら、コロナ禍のせいで妹達が会ってくれないばかりか生家にも入れてくれなくて、今治駅前のホテルに泊まって、翌朝帰京して以来です。今回はウエルカムで迎えてくれるのでしょうか?まだコロナ禍が解消したわけではありません。ちょっと不安です。平日なのに空港ロビーは物凄い人でした。飛行機も満席です。おまけにカミナリが通過して、出発待ちです。約40分遅れの離陸です。雷雨明けの空です。いつも左側の窓ぎわの席を取ります。富士山は雲を被っています。瀬戸内海国立公園が曇っています。しまなみ海道です。来島海峡大橋です。橋げたになっているのが馬島で、手前の大きいのが小島で、右の小さいのが来島です。そして今治の町が拡がっています。瀬戸内海国立公園を観ながら飛びます。鹿島です。生前の渥美...帰省します。

  • 石井いり豆店

    帰省します。土産はずっと佃煮と決めていましたが、今回はここの「いり豆」も持って帰ります。遺伝的にお節介な性格です。自分が良いと思ったら他人にも薦めてしまいます。そもそもは、根津の蕎麦屋の女将さんから頂戴したのがきっかけで、時々買いに来ています。言問通りを西に下り降りた西片に在ります。店の向かいは樋口一葉も暮らした本郷4丁目です。いり豆と柿の種のみを製造販売しています。私のお気に入りは、わさび味とカレー味です。炒ったそら豆の甘みと味付けの辛さが絶妙で後を引きます。創業明治20年です。近くに住んでいたけど貧しかった一葉は、ここのいり豆を食べたのでしょうか?石井いり豆店

  • 影を見上げたら鮮やかに風車

    向丘の路地を走っていました。陽射しが強くて眩しい路地です。最初に飛行機の影に気が付きました。見上げると、鮮やかな色彩の飛行機です。なんだろう?と見ていたら、風が吹いて、プロペラが回りました。風車だ!もう一つ、自転車も有りました。風に車輪が回ります。カラフルな車輪が鮮やかに回ります。この2体が、真夏日の天空に回っています。好いなあ!見惚れています。・・・さて、宛もなく光の中、路地を行きます。影を見上げたら鮮やかに風車

  • 浅草のミストシャワー起動!

    真夏日の浅草雷門前の商店街です。人力車夫が元気よく声掛けしています。半袖半ズボンが眩しいです。商店街アーケードからミストシャワーが注いでいます。真夏日にありがたいです。観光客が戻っています。そして「亀十」では入店の行列です。美味しくて評判の名物のお菓子を求めての行列です。雷門前にも活気が出てきました!このままコロナが収まって、3年ぶりの下町情緒を楽しみたいものです。浅草のミストシャワー起動!

  • 白山神社と紫陽花と孫文

    白山神社は紫陽花の名所です。そこに中国清時代の革命家孫文の碑が有ります。紫陽花の季節です。この先ににも紫陽花の群生があります。グルリと廻って孫文の碑に戻りました。孫文は日本に留学していた時期があり、東京で記念碑が散見されます。皇帝制を排して新しい中国を創るために、アジアの先進国で学んでいました。現在の両方の国を思うと隔世の感があります。孫文が座った石です。留学後、辛亥革命を指導し、初代中華民国(臨時政府)大統領、中国国民党初代党総理になった人物です。「前略明治43年5月中旬の一夜、孫文先生は宮崎治天寅蔵と共に、境内のこの石に腰掛けながら中国の将来及びその経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折、たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ、此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふ後略」・・・紫陽花観賞のつも...白山神社と紫陽花と孫文

  • 石原さとみお勧めの西葛西

    石原さとみさんがまっすぐこちらを見ています。ドキリとしました。食料品店からのようです。久しぶりに地下鉄に乗ったらこの看板に遭遇しました。私、今の場所に住む前は15~6年間西葛西に住んでいました。外国人が多く暮らしていた場所です。特にIT関係のインド人が多かったです。「目眩く香りの世界」ですって。今でも異文化食材の店が多くあるのでしょうか?そしてレストランも?彼女はここ数年東京メトロのCMをやっていって、沿線の街を紹介しています。「久しぶりに今度行ってみますね」その前にちょっと。トイレに行きたくての出会いでした。石原さとみお勧めの西葛西

  • 滝不動堂と滝野川の地名の由来?

    緑溢れる正受院です。空気が気持ち良いです。お参りします。字がかすれた略縁起を読みます。消えかかった文字を判読するのに集中したので内容が頭に入りません。こんな説明板も有りました。この人知っています。この人のお陰で、千島列島が日本の領土だった時代がありました。・・・ここにも「滝野川」が出てきました。近藤藤守重坐像です。石が劣化していて顔が分かりません。さて、ここに来訪をした目的を果たさなければ、と思っていたら、年配の御婦人が出てきました。なんとタイミングが良い。このチャンスを逃してはなりません。人見知りなんて言ってられません。「ちょっとお尋ねします。そこの路地に古い道標が有るのですが、なんと書いてあるのかご存知ですか?」「あれは『たきふどう』と書いています。この奥の御堂の事です」なんと運が良い!お参りします。...滝不動堂と滝野川の地名の由来?

  • 滝野川の正受院

    先ほどの女性が言ってたとおり、滝野川の路地に有った道標からすぐの所にお寺が在りました。路地から参道を行くと、すぐにこの看板が有りました。「王子七滝の一つ、『不動の滝』は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峽から坂道を石神井川に下った所にありました。」から始まる説明板です。左の絵を見るとずいぶん大きな滝です。石神井川は確かにこの辺では渓谷の趣きですが、散策時にこんな大きな滝を見たことがありません。お寺に向かって自転車を押します。ここにも滝の説明があります。正面には山門が見えます。山門脇には観音像がありました。その脇に説明板が有りますが、「鐘楼門」とあります。以降の説明は読みづらいのでパスしました。鐘楼門を潜ります。鐘楼門が有るお寺は、関東では珍しいと思います。東京で見たことは無いと思います。なんか特別のお寺...滝野川の正受院

  • 滝野川路地の道標

    滝野川の街を散策しています。住宅街の路地の正面に石柱が有りました。ずいぶん古そうです。ちょっと右に傾いでいます。・・・なんて書いてあるのだろう?横から見ると、こちらにも文字が彫られてあって、思いっ切り後ろにも傾いています。・・・謂れを知りたい。人見知りの私ですが、知りたい!誰か通ったら訊こうと思いました。暫く文字を解読していたら、年配の女性がやって来ました。チャンスです。「すみません、地元にお住まいの方ですか?お急ぎでなかったら教えて下さい。これ、何ですか?なんて書いてあるんですか?」「さあ、気にした事が無かったけど、、」「一番上は『た』で、二番目は『れ』だと思うんですけど?」「私、若い頃お習字をしていたんだけど、『松』じゃないかしら?二番目も漢字の崩したのじゃないかしら?」「左横側の文字を読むと、『遍路...滝野川路地の道標

  • ばんば商店街に「飛鳥山温泉」が在る風景

    ばんば商店街を入ってすぐに「飛鳥山温泉」の看板が有りました。ビルの1階です。お約束のコインランドリーも在ります。見上げる上層階は共同住宅でしょうか?振り返るとばんば商店街のアーチと、その向こうに首都高速のトンネルの入り口が見えます。ビルの隙間から「ゆ公衆浴場サウナ」の看板が見えます。銭湯の敵は内湯です。裏に廻ってみます。裏から見上げる「飛鳥山温泉」です。裏手にはアパートが在ります。まだ頑張れそうな環境ですが、ロシアのウクライナ侵攻以降諸物価の高騰が続いています。特に、風呂屋にとっては燃料費の高騰が経営の危機を招きます。今480円の入浴料ですが、値上げには東京都の承認が必要です。そういう仕組みです。機敏な行動にはなりにくく苦戦が続きます。ぐるり廻ってばんば商店街のアーチに戻りました。メーテルと鉄郎が居ます。...ばんば商店街に「飛鳥山温泉」が在る風景

  • 「ばんば商店街」の風景

    道路の真ん中にビニールハウスのような物が在りました。首都高速中央環状線がJR王子駅の地下に潜る場所です。高速道路は、やがて隅田川を越えて、荒川も越えて江北ジャンクションを経て首都高速川口線に繋がります。その脇に、こんなアーチが立っていました。見上げるとメーテルが居ます鉄郎とキャプテンハーロックも居ます。「銀河鉄道999」ゆかりの地なんだろうか?左の「馬」は何だろう??ああ!商店街名の「ばんば」か?昔、馬場でもあったのだろうか?「馬場商店会MAP」も有ります。アーチのは平仮名な上に「商店街」で、MAPは漢字で「商店会」なんですね。入り口にセブンイレブンです。商店街の一等地なのに、普通の商店ではありません。振り返る景色が寂しげです。商店街を往きます。ここと同様にカラー舗装している商店街が多いです。見上げる街灯...「ばんば商店街」の風景

  • 「つるの湯」に再会

    読者登録させて頂いている銭湯探索の大家が先日紹介されたばかりで恐縮ですが、紹介します。人が代われば切り口も代わる、ということで、滝野川を散策していたら「つるの湯」に再遭遇しました。タチアオイの咲く路地です。方向音痴の私は、意識しないで遭遇した場所は、目的地として再訪できません。今回も無意識に遭遇しました。再会のつるの湯です。こちらはボイラー室兼自宅出入り口でしょうか?こちらがコインランドリーです。これらの佇まいは前回と変わりません。頑張って銭湯を継続しているようです。まだ営業前です。銭湯の敵は住宅の内湯化です。心配なので、お節介ですが、周辺の住宅を探ってみます。アパートが多い界隈です。十分とは言えませんが需要はありそうです。まだまだ頑張って下さい。周辺を意識して巡ったので、次回は目的地として迷わずに訪問で...「つるの湯」に再会

  • まだ立っていた二宮金次郎

    堀切菖蒲園は東京の菖蒲の名園です。最寄り駅の商店街に有る二宮金次郎像を確認に行きました。無くなった手を見る、以前の姿で立っていました。一時はこの姿を見るに耐えられなかったのであろう人によって、手袋で隠されたりしていました。元々、視線の先に有ったのは書物でした。一刻も早く撤去して貰いたい。その経緯はこちら。まだ立っていた二宮金次郎

  • 佃島佃煮屋風景 真夏日お昼前

    隅田川土手脇の路地に老舗の佃煮屋が在ります。時々買い物にやってきては、この風情を楽しんでいます。佃島佃煮屋風景真夏日お昼前

  • 佃島渡船場跡碑

    佃島の隅田川土手です。対岸の聖路加タワーを見上げます。土手下に石碑が有ります。佃島渡船場跡碑です。真夏日の陽射しに紫陽花が弱っています。説明板が有ります。「佃島は隅田川河口にできた自然の寄州でした。江戸時代初期、初代将軍徳川家康の招きによって摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃)から下ってきた漁師たちは、鉄砲洲東の干潟百間四方を埋め立てて佃島を築きました。そしてこの島と対岸の船松町(現在の佃大橋西詰付近)との間に通された渡船が佃の渡しです。佃の渡しは、佃島住人だけでなく、住吉神社への参拝や花見見物の人々に利用されました。」から始まる説明です。昭和31年には、1日平均60往復もして、1万6千人もの利用者がありましたが、昭和39年(1964)8月(筆者談∶第1回東京オリンピックの直前)に佃大橋が完成したため、佃島の...佃島渡船場跡碑

  • 佃島に井戸が有る風景 屋号を持つ家

    佃島の路地です。民家と高層マンションが共存する路地です。井戸が有ります。井戸と高層マンションが在る風景です。ここは漁師町です。徳川家康に付いて来た大阪の漁師の子孫達の町です。この家の戸を開けると土間があって、井戸が有ります。仕事の汚れを落として上がる構造です。玄関には屋号の表札を出しています。今でも毎年徳川家に白魚を奉納する家です。こちらにも重厚な古民家が建っています。こちらも屋号を持つ家です。路地を抜けます。路が広くなって、駄菓子屋が頑張っています。屋根の上に構造マンションが突き抜けています。民家の向こうに高層マンションが突き抜けます。モダンな神輿蔵が在ります。数年前に新装しました。古くからの伝統を継ぐ町です。佃島に井戸が有る風景屋号を持つ家

  • 真夏日の佃小橋周辺

    佃島の運河脇です。朱い佃小橋を眺めています。その向こうに銭湯「日の出湯」と高層マンション群です。新旧の文化が共存する景色です。佃小橋から、民家の向こうに聖路加タワーを眺めます。佃小橋と日の出湯の在る風景です。佃小橋と高層マンション群の景色です。船溜まりを見ます。今日は船が出はからっています。橋の下を行きます。船溜まりと高層マンション群です。左手に住吉神社の裏側が見えます。住吉神社脇の水路です。正面に住吉小橋が在って、住吉水門が在ります。その先は隅田川です。目を転じると、住吉神社の向こうに聖路加タワーです。聖路加タワーと日の出湯です。静かなお昼前の佃島風景です。真夏日の佃小橋周辺

  • いつもの月島の路地を往く。

    焼き立てメロンパン屋脇の路地です。渡り廊下が有るいつもの路地です。渡り廊下を見上げます。振り返ります。見上げる高層マンションに圧倒されます。東京下町の人は植物を育てるのが好きです。そして上手です。緑溢れる路地を振り返ります。高層マンションが建って空が失われました。先を往きます。横断する路地を越えて往きます。新たな表情の路地があります。こちらも正面が高層マンションに塞がれました。そのマンションの間に聖路加タワーがそびえます。隅田川の対岸です。日傘が行きます。月島のお昼前です。いつもの月島の路地を往く。

  • 「月島もんじゃタウン」の「焼きたてメロンパン」

    もんじゃ焼き屋が並んでいます。月島から聖路加タワーを見通すロケーションです。左手に元交番だった観光案内所がある、月島の代表的な風景です。そして、高層マンション1階にもんじゃ焼き屋が並ぶ、新たな代表的風景です。斜め前が観光案内所です。この、もんじゃ焼きしか無い「もんじゃタウン」に、他の食べ物で賑わう店が有ります。焼き立てメロンパンの「月島久栄」です。幟に書いてあるとおり、月島名物の地位を得ています。まだ人出が少ないもんじゃタウンにあって、今日も大人気です。「月島もんじゃタウン」の「焼きたてメロンパン」

  • 佃島の隅田川土手から

    佃島の運河に架かる橋です。向こう中央に佃煮屋「丸久」が見えます。「住吉小橋」です。すぐ右側には「住吉水門」が在ります。水門の下には隅田川が覗きます。佃島の漁師が行き来する水門です。左は水路です。右手奥の緑が「住吉神社」です。徳川家康の江戸開幕に付いてきた大阪の漁師が、大阪の住吉大社を勧進したものです。その裏側に船溜まりが在ります。そして、小橋と水門の名前の由来になりました。振り返ると佃島のマンション群です。隅田川を見ると、聖路加タワーです。佃島を見ると、住吉神社の朱鳥居です。ここが隅田川からの参道です。正面突き当りが住吉神社です。神社の祭りには、隅田川で神輿の渡御が行われます。隅田川土手を下って歩きます。佃大橋です。佃大橋は幹線道路です。中央区役所前を通って東京の中心部へ繋がります。水上バイクが走ります。...佃島の隅田川土手から

  • 佃島北端の石川島公園から、

    相生橋から都心方向を眺めています。久しぶりに佃島から隅田川を見ようと思いました。地図で見ると、こんな場所です。やって来ました。石川島公園へ入って行きます。左は、以前は確かレストランだったと思います。コロナのせいでしょうか?公園の中央部です。正面奥の隅田川向こうに聖路加タワーが見えます。佃島のどこからも目立ちます。隅田川の向こう、鉄砲洲辺りです。中央に亀島川水門が見えます。高潮から日本橋方面を守る水門です。右手には、隅田川に架かる中央大橋です。佃島と本土を結ぶ橋です。他に、相生橋と佃大橋との3本で結んでいます。中央にあるから中央大橋です。たぶん。隅田川越しに本土を見ながら行きます。やがて、佃大橋が見えます。その向こうに聖路加タワーがそびえます。ここに小さな橋が有ります。運河に架かる橋です。背後に月島のマンシ...佃島北端の石川島公園から、

  • 飛行船がのんびりと、

    晴海運河に架かる相生橋の上です。都心方向から飛行船がやって来ました。のんびりと好いです。佃島のマンション群の上です。あれはアサヒビールの新製品の宣伝ですね。実際は安全な高度を取っているんでしょうけど、高層マンション群に見え隠れしながらゆっくり飛んでいます。のんびりと見上げています。飛行船がのんびりと、

  • 真夏日昼間に門仲呑み屋街を行ってみた。

    門前仲町は深川不動尊の門前町として発展した街です。ほぼ隣りに富岡八幡宮が在ります。両方が街の発展に寄与しました。地元民は門前仲町を親しみを込めて「門仲」と呼びます。こういった呼び方は、場所とか人名も短縮しますね。「松潤」(思いっきり古いか)とか。日本人は短縮するのが好きですね。外国でも短縮して呼びますが、名字と名前を合わせて短縮したりはしないのでしょうか?「コジルリ」(他に思いつきません)とか。「JFK」のように、アルファベット文字で略すのでしょうか?外国の文化に疎いです。余談はさておき、庶民的な呑み屋街の話です。富岡八幡宮の向かい側の話題です。急に暑くなると耐性ができていないせいか人が居ません。まあ、普段だって昼間は人が居ないのが呑み屋街です。「肉寿司」は珍しいです。路地を横切って進みます。日傘の人が横...真夏日昼間に門仲呑み屋街を行ってみた。

  • 旧都電線路跡遊歩道を行ったら、

    既に、5月の末に真夏日になった東京です。深緑の遊歩道を往きます。この遊歩道は、旧都電線路跡です。遊歩道の所々に、真ん中に緑地スペースが在ります。おそらく、都電の停留場跡ではないかと思っています。左右の線路共通の停留場だったと納得できる立地と面積です。そう思うと駅舎に見えます。木漏れ日が涼しそうです。さて、遊歩道を往きます。ここも停留場跡でしょうか?梅雨前の真夏日です。ここにモニュメントが有ります。赤いコーンで囲まれています。まあ工事中でも、これを見るのに支障はありません。説明プレートが有ります。「このモニュメントは、パリのアンヴァリットに保存されている大砲をモデルにしたものです。実際の火砲は、長さ約3メートルです。」説明板も有ります。当時の地図と、この大砲の所縁です。「長州藩大砲鋳造城跡(南砂2-3付近)...旧都電線路跡遊歩道を行ったら、

  • 越中島線城東電軌こ線ガード

    所用があって帰省しました。帰省先にWi-Fi環境が無いので、暫くは、東京で慌てて作成した記事が続きます。一応、帰京予定翌日まで書き貯めしていますので、行動日との時差があることを了解願います。現在、都電は荒川線しか走っていませんが、モータリゼーション前の東京は縦横無尽に都電が走っていたらしいです。都電だけでなく、省電(国の管轄)も走っていたそうです。その一部が公園や遊歩道になっています。ここも都電の線路跡の一つです。ここの特徴は、都電の上をJRが走っている事です。現役の貨物専用線です。ここは「越中島線城東電軌こ線ガード」です。何故か、「お願い自動車等が衝突したのを見た方は、至急連絡下さい。」と呼び掛けています。ここは自転車と徒歩専用の遊歩道です。たぶん、遊歩道になる前は、線路跡を自動車が走っていたのではない...越中島線城東電軌こ線ガード

  • 南高橋の風景

    帰り道の風景です。高橋(たかばし)から見る佃島の高層マンション群です。その手前にも橋が在ります。遠回りになるので殆ど通る事はありません。久しぶりに行ってみます。鉄砲洲は、徳川家康に付いてきた大阪の漁師に与えられた土地です。やって来ました。南高橋です。一度見たら、トラス構造が強く印象に残る橋です。南側には水門が在ります。日本橋川支流の亀島川最終の橋です。東京の陸の末端です。北側は日本橋方面です。水門の向こうに佃島の高層マンション群がそびえます。そして、いつもの永代橋から眺める佃島です。隅田川に高層マンション群が浮かびます。今日もよく遊びました。南高橋の風景

  • 牡丹2丁目の住吉神社

    第二和泉湯が無くなっていたのに驚いて、住吉神社の存在を確認しに来ました。由来書きを読みます。「住吉神社の由来天正十八年(1590)に徳川家康が江戸に入城した時に摂津の国、佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁民を江戸に呼び寄せ、川と海の漁猟の許可を与え、江戸城へ魚類の納入を命じた。寛永年間には漁民に隅田川の河口の鉄砲洲東の干潟が与えられ、その地を故郷の地名をとって佃島と名づけ、白魚上納の特権を与えた。その後、享保四年(1719)に富岡八幡宮の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した。今の牡丹ニ、三丁目にあたり、此処に、佃島住吉神社より分霊された小祠が祀られている。深川佃町はその後、町家の地になり一層発展して深川岡場所(花柳街)のひとつとなり、地名を通称「つくだ」または「あひる」と呼ばれたのである...牡丹2丁目の住吉神社

  • 第ニ和泉湯が無かった・・・。

    いつもこの1本南の路を走っています。そう言えば、近くに銭湯が在ったよなあ。江東区の広報で「江東二十八湯」なんて紹介されていたよなあ。最近銭湯の閉鎖が目に付くけど、元気だろうか?と思いついて、ハンドルを切りました。エッ!?更地になっていました。こんな広さだったろうか?建物が無くなった跡地はいつも狭く見えます。それでも銭湯です。隣の建物の場所もそうだったのだろうか?当時の写真です。立派な本格銭湯でした。あれから8年が経過しています。やむなしとはいえ、・・・残念です。そういえば、近くに住吉神社が在ったよなあ。神社は残っているよなあ。とやって来ました。在りました。都会ではビルの屋上に移転した神社を見る事がままあります。これは残しておいて欲しい。第ニ和泉湯が無かった・・・。

  • 佐竹商店街で、

    いきなりですが、こんな説明板が有りました。佐竹家上屋敷は知っていましたが、「佐竹っ原」は知りませんでした。近くには「秋葉原」が在ります。一帯が原っぱだったのですね。ここは「佐竹商店街」です。何度も来ていますが、説明板の存在に気付きませんでした。佐竹家上屋敷や武家屋敷が撤去されて野原となっていたようです。その後、見世物小屋が集中して賑わい、明治以降には民家が立ち並んで商店街として発展したそうです。今は、閑散とした商店街です。何処の商店街もそうですが、商店を閉めて住宅になった家が並んでいます。商店街を往きます。見世物が盛んだった事を伝えています。暫く往くと横断する道路が有って、その先にも商店街が続いています。往時は立派な商店街だったと思います。もう増えることは無いアーケード商店街です。ちょっと賑わいます。バナ...佐竹商店街で、

  • 都電と紫陽花の季節

    都電沿線の薔薇の景色は有名です。そろそろ紫陽花の季節ですが、都電沿線に紫陽花は少ないです。少ない中で、西ヶ丘3丁目停留場脇の踏切に紫陽花が咲き始めています。踏切を横断しながら早稲田方面を見ます。都電らしい景色です。三ノ輪橋方面と紫陽花です。やがて、カンカンと警報が鳴って、ガタンゴトンと早稲田行きの電車がやって来ました。停車中です。踏切を戻って、紫陽花とアパートを眺めます。あの部屋に住んでいたブロガーさんが居ます。不思議な縁です。三ノ輪橋行きが現れました。都電と紫陽花です。今日は思い切りアパートを意識して撮りました。都電と紫陽花の季節

  • 都電西ヶ丘3丁目停留場脇がパン屋になった。

    都電の西ヶ丘3丁目ホームとの間の狭い路地を自転車で通り抜けていました。植えられていた笹に肩を擦られながら、10年以上利用していました。古い民家が取り壊されて、新築工事が行われている間は通行止めになっていました。民家が建つのだろうと思っていましたら、完成したようです。ホームと新築一戸建ての間の路地が無くなりました。そればかりか、民家じゃなくてパン屋になりました。これではもう通り抜けられません。と言っても、距離的には数メートルまわり道するだけだけど・・・。好い景色になりました。都電西ヶ丘3丁目停留場脇がパン屋になった。

  • 三省堂仮店舗オープン

    神保町を走っていたら、向こう側に、三省堂がオープンしたようです。横断歩道を渡って行ってみます。開店祝いの花が届いています。この街にこの店が在ると安心します。神保町本店が完成するまでは、暫くここで営業です。三省堂仮店舗オープン

  • 菊坂下に井戸が有った風景

    炭団坂を下って菊坂下に来ました。本郷台地の谷あいの集落です。ここに井戸が有ります。本郷台地の雨水を集めて地下水となった水を汲み上げる井戸です。初夏の日射しに映える井戸を眺めます。・・・壊れています。前回訪問時までは「飲めません」の注意書きが有った現役の井戸でしたが、誰も使わなくなったのですね。これで菊坂下の生きている井戸は、樋口一葉が使った物だけになりました。路地を通って菊坂下中央部の路地に出ます。いつも綺麗に花を咲かせる玄関前です。井戸が有った集落をふり返ります。菊坂下中央部の路地が見えました。菊坂の最も低い場所です。おそらくこの路地は、東西の本郷台地から雨水を集めた谷川だったと思います。こんな散策でした。菊坂下に井戸が有った風景

  • 炭団坂へ、

    鐙坂を登って本郷台地の頂上にある散策路に来ました。本郷4丁目の頂上です。菊坂を見下ろします。正岡子規も見た景色です。坪内逍遥も見た景色です。説明板です。その前にある「炭団坂」です。降りて行きます。いつの間にか、町会会館ができています。往時とは様変わりしたのでしょうね。往時は上がり下がりに苦労した坂なのでしょうが、今では楽しい散策路です。少しずつ変化しています。この坂下の住居が無くなって久しいです。新緑の坂です。菊坂下に降ります。ふり返り見上げる坂の風景です。炭団坂へ、

  • 鐙坂の途中の路地に長屋が在りました。

    本郷4丁目は山・坂・谷の街です。鐙坂が在ります。説明板にいう「先端が右にゆるく曲がっている坂」じゃないじゃん!緩く左に曲がった先がゆるく右に曲がっているのだろうか?面倒なので確かめに行きません。坂を登ります。左手に、元菊水湯の共同住宅と、路地の正面に「長屋・ベストエレクト本郷」じゃなかった共同住宅を見ながら進みます。結構な坂です。以前は自転車で上がったものです。途中に木戸が在ります。ここを行くと、樋口一葉が使った井戸の石段の上に出ます。金田一親子も住んだ坂です。いつもは喘ぎながら、脇目も振らず頂上を目指すのですが、緑が濃いこの路地に惹かれました。初夏の明るい陽射しの袋小路です。・・・長屋が在りました。昔多く在った、3戸1の長屋です。奥の2軒は人が住んでいます。手前の家は土壁が落ちています。空家になって永い...鐙坂の途中の路地に長屋が在りました。

  • 菊水下 「ベストエレクト本郷」じゃなかった。

    鐙坂から路地を入ります。左手は、元「菊水湯」跡地に建った共同住宅です。正面の四階建て共同住宅に用があります。ここは以前、工事案内に「長屋・共同住宅『ベストエレクト本郷』」と出ていました。菊水下らしい長屋ができたら良いな、と思っていました。第三者の勝手な願望なのですが・・・。坂に在って、隣の木造三階建住居とよく似た構造です。こちらは四階建てです。探したけど「ベストエレクト本郷」の表札が有りません。ひょっとしたらここは裏口で、玄関は菊坂にあるのかな?石段を上がります。振り返りました。・・・期待していた「長屋」ではありません。まあこれが現代の「長屋」なんでしょうね。色合いが街に似合います。隣の木造三階建住宅と同様、坂に在る構造なので、ここから見ると三階建アパートです。隣の木造三階建住宅とマッチします。ここに住ん...菊水下「ベストエレクト本郷」じゃなかった。

  • 菊水湯跡と本郷4丁目菊坂下の風景

    本郷4丁目菊坂下に居ます。本郷台地の谷あいの底です。共同住宅の角に瓦が置かれています。「菊水湯」の瓦です。銭湯を廃業してアパートを造りました。斜め前には、都条例によってもう建てられない木造三階建住宅が在ります。左のアパートを覚えておいて下さい。後ほど登場します。石段を上がります。上がれば菊坂です。ここにも出入り口が有ります。エアコンが健在です。人が住んでいる住居です。いつ見ても好い風情です。菊坂に出ました。樋口一葉が使った質店「伊勢屋」です。一葉の短い生涯を想います。在りし日の菊水湯の姿はこちら。菊水湯跡と本郷4丁目菊坂下の風景

  • 本郷4丁目樋口一葉井戸の有る風景

    広く明るくなった路地です。前のほうが良かったな、などと言うのは第三者のワガママです。路地の奥へ進みます。樋口一葉も使った現役の井戸です。季節ごとに訪れます。ふり返ります。新緑が映える明るい広場です。この井戸の周りに集まって井戸端会議をしたのでしょうね。正面の石段を眺めます。思っていたより小ざっぱりしています。苔も乾いています。・・・この石段の見頃は梅雨ですね。石段を上がります。木戸を潜ります。別の集落になります。ふり返ります。左右に木造三階建の民家です。何度眺めても好いです。この景色を堪能します。本郷4丁目です。次回は梅雨の季節に来ます。本郷4丁目樋口一葉井戸の有る風景

  • チンドン屋がやって来た!

    下町の住宅街を自転車で走っていたらなんと、チンドン屋がやって来ました!チンドン屋なんて随分久しぶりです。下町でも、いや下町だからか、嬉しい遭遇です。カメラ目線でチラシを手渡されました。時節柄マスクをしていますが二枚目です。鐘と太鼓が続きます。やっぱりカメラ目線です。クラリネットも続きます。マスクを上げて吹いています。時節柄の光景です。好いなあ!ノスタルジックだなあ!何だか胸がドキドキしています。今日の遭遇をしみじみと味わいます。幸せな夕方の下町です。チンドン屋がやって来た!

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