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  • 杭全神社の鎌倉時代の大門は、門跡寺院・長寶寺の門だったか

    今、おかえりのなんでやねんの特集を観ていたが、杭全神社の鎌倉時代の大門、明らかにお寺の門が移設されたものなのでは?袖塀の途切れた五本線がそれを物語っているような、、あとから調べてみようか、、メモわかった。門跡寺院は、長寶寺さんだ。杭全神社の大門は、廃仏毀釈の際に、杭全神社に移設されたものなのだろう。明らかに違和感があるお寺の門なのに、すっかりと神社の門と認識されてしまっているのか、、更にネットで調べたが、杭全神社の大門、お寺の門とする記述はネット上に皆無、、マジか、、門跡寺院の門であるのは明らかなのに、、移設は廃仏毀釈より前か?というか、もとからあったが、お寺が移転したか?杭全神社と長寶寺は一体であったと考えるのが妥当かもしれない。長寶寺は、桓武天皇の妃が、弘法大師に帰依して尼僧となり入られ、坂上田村麻呂...杭全神社の鎌倉時代の大門は、門跡寺院・長寶寺の門だったか

  • 西ノ山古墳(八尾市楽音寺)、推定、全長最大350メートルの前方後円墳であれば、全国3位〜5位に一気に躍り出る規模になる

    西ノ山古墳(八尾市楽音寺)、推定、全長最大350メートルの前方後円墳であれば、全国3位〜5位に一気に躍り出る規模になる。更には、古墳時代最初期、3〜4世紀となれば、最初期最大となる。また、現在、花岡山と新たに命名されてあるところも、未調査陪塚と思われる。円墳の石棺は150年前に調査済みながら、以来、まともに調査はされておらず、まだまだ周囲(造り出し部等)を調査すれば見つかるものはかなりあるだろうことは疑いない。また、八尾市歴史民族資料館から観光文化財課へと報告をするが、大光寺跡の件もまだ進展がないのは気掛かりではある、、西ノ山古墳(八尾市楽音寺)、推定、全長最大350メートルの前方後円墳であれば、全国3位〜5位に一気に躍り出る規模になる

  • 次回、西ノ山(大阪府八尾市楽音寺)調査用のフリップ

    次回、西ノ山(大阪府八尾市楽音寺)調査用のフリップ。次回は、楽音寺墓地にて、しっかり供養を懇ろに調えてから西ノ山へと向かう予定。他では、般若心経、大悲咒、回向、光明真言、または、簡易的には光明真言のみぐらいであるが、実は、前回調査から祟りについて、やっぱり本当かもという心当たりも、、世尊偈よりかは、楞嚴呪・第五会の方がよいかも、、とにかく十分に気をつけないといけない。次回、西ノ山(大阪府八尾市楽音寺)調査用のフリップ

  • 西ノ山古墳は、前方部が南側に向いたものではなく、前方部が北側に向いた全長300メートル超、中河内最大の最初期の前方後円墳ということではなかろうか

    諸々に考えてみたら、結局のところ、西ノ山古墳は、前方部が南側に向いたものではなく、前方部が北側に向いた全長300メートル超、中河内最大の最初期の前方後円墳ということではなかろうか。おそらく、150年前の調査以来、まともな調査がされていないと思われるのである。改めて調査すれば更に見つかるものがあるように思うのである。西ノ山古墳は、前方部が南側に向いたものではなく、前方部が北側に向いた全長300メートル超、中河内最大の最初期の前方後円墳ということではなかろうか

  • 古墳の盛り土の特徴

    古墳の盛り土の特徴。このように池や川からの土砂や粘土などが盛られるため、大きな古墳であればあるほど、近くの河原や池に溜まっている丸いつるつるした小石が不自然に入り込むのである。普通の山肌であれば、まず石は丸くはならない。石が粉々になっても角があるのである。現在の新しく花岡山と名付けられたところにも丸い小石の盛り土が見られた。あそこも未調査の古墳である可能性が極めて高い。西ノ山は、形状、盛り土、周濠、池、土器片と、条件がほとんど整っている。桜井市鳥見山周辺も、学園前の里山杣木、長弓寺の南側、北生駒駅北側も、同様な特徴の条件が見られたら、いずれかを推定することができる。とにかく、まずは西ノ山である。古墳の盛り土の特徴

  • 八尾市楽音寺・西の山全体が古墳なのかどうか・再調査予定

    150年前に調査された石棺の位置により、もしかしたら、その石棺が西の山全体自体の古墳の石棺だった可能性もある。だが、別にまだ眠ってある石棺がある可能性の方が高いとも思われる。150年前には山全体が古墳とは考えなかったのかもしれないが、以来、調査されなかったのも仕方がなかったのだろう。とにかく次回、更に解明したい。八尾市楽音寺・西の山全体が古墳なのかどうか・再調査予定

  • 八尾市・西ノ山は山全体が前方後円墳であり、更に埋葬者は、卑弥呼か、饒速日命か?

    改めてGoogleマップで測ってみると全長約300メートル。前方後円墳であれば、ニサンザイ古墳並みで、全国10位以内が確実となる。周りに周濠もあり、土を取ったと思われるところの池も複数ある。いずれにしても全長55メートルの現在の西ノ山古墳を上回り、更に西ノ山古墳よりも時代は古いと考えられるため、古墳時代前期、まさに最古級の最大の前方後円墳の可能性が高い。箸墓古墳と同等か、それよりも古い、最初期の前方後円墳であるかも。2世紀~3世紀。ならば、時期と大きさ、形状から、卑弥呼説、饒速日命説もありうるところとなる。西には大阪平野が広がり、当時は海も今より見えるところである。西から来た者(東征者)にとっては、西の海(九州のある方向)、綺麗な夕陽も拝めて、眠るのに最高の立地であるのは間違いない。当然に、奈良の盆地では...八尾市・西ノ山は山全体が前方後円墳であり、更に埋葬者は、卑弥呼か、饒速日命か?

  • 手間も費用も時間も掛からないドローン3次元レーザー測量地形調査

    この動画にて指摘してある7つのところと、八尾の西の山の2カ所、石室レーザー調査よりも、手間も費用も時間も掛からないドローン地形調査により、あるかどうか即座に確定ができる。あれば次に石室を超音波レーザーで調べれば、試掘もいらないし、無駄掘りもない。ついでに超音波金属調査により、前もって埋蔵品についてもほぼある程度調べられるだろう。発掘調査もよりスムーズに進む。調査への機運さえ高まれば、、とにかく、桜井にも早く行かねば。。手間も費用も時間も掛からないドローン3次元レーザー測量地形調査

  • 勧学寮頭・・

    満井氏と同様の総局の飼い犬の情けない与奪だった方か、、まあ、常識的、良識的には辞退するでしょう。ましてや、受任してホテルで盛大な就任祝賀会をして同様に恥を晒して世間の顰蹙を買うのだろうか、、勧学寮頭・・

  • 八尾市楽音寺・西の山古墳・西の山自体が未調査巨大前方後円墳か

    八尾市楽音寺には、西の山古墳(前方後円墳)がある。大光寺の西側にある山の南端にあるが、西の山古墳は、全長55メートル、後円部27メートル、高さ9メートル、前方部幅23メートル、高さ5メートル。前方部を南に向けてあるとされている。さほどに大きくはない。しかし、この西の山の周囲を前に回ったが、明らかに北側に、巨大円墳の盛り上がりがあり、周辺に土器破片も見られた。つまり、西の山古墳とは別の巨大円墳か、前方後円墳であると思われるのである。周囲に大きな池があるのも、掘って盛り土にした名残とみられる。これは、心合寺山古墳(しおんじやま)よりもかなり巨大で、前方後円墳としたら天皇陵並みの大きさとなる。更に北側にも円墳らしいものもある。こちらも大光寺跡へ行く際にきわを通るが、明らかに盛り土である。西の山が、いまだ開発され...八尾市楽音寺・西の山古墳・西の山自体が未調査巨大前方後円墳か

  • 楽音寺墓地に調査へ。大光寺の痕跡を確認に

    楽音寺墓地に調査へ。大光寺の痕跡を確認に。阿弥陀石仏、五輪塔、板碑塔婆(五輪塔)、一石五輪塔、板碑宝篋印塔(元亀元年・1570年・阿闍梨実盛)、舟形板碑石仏、二尊石仏。舟形阿弥陀石仏には元号が彫られてあるのだが、磨耗が激しくて確認できず。八尾市の資料では室町期とされている。もう一躯は、薬師如来か、阿弥陀如来か、左手が磨耗激しくて確認できない。板碑塔婆(五輪塔)はあまりこの付近では見ないタイプである。薬師石仏(楽音寺三丁目)は大光寺のものであったと思われ、梵字も刻まれてあるから真言宗系の宗派であったと考えられ、板碑宝篋印塔の阿闍梨実盛は大光寺の住寺だったと推測される。ならば、少なくとも戦国期にはまだお寺があったことになる。ただ、古い阿弥陀石仏もあり、浄土系であった可能性も残る。集められた五輪塔群に彫刻があれ...楽音寺墓地に調査へ。大光寺の痕跡を確認に

  • 往生院の金堂跡北東池から出たキリーク軒丸瓦は、「瓦仙人」の考古学者の藤澤一夫氏による鑑定を受けている

    往生院の金堂跡北東池から出たキリーク軒丸瓦は、「瓦仙人」の考古学者の藤澤一夫氏による鑑定を受けている。先に日想観の関係にて述べた水野正好先生も、藤澤一夫先生も人柄が慕われた考古学者の大家である。藤澤先生には、その後、北東池の南縁から出てきた古代鬼瓦二片も見て頂きたかったが、もう既に鬼籍に入られていたのは誠に残念であった。相当に時代が遡る鬼瓦であるのは間違いないが、、巡り合い、縁が本当に大事でありますね。往生院の金堂跡北東池から出たキリーク軒丸瓦は、「瓦仙人」の考古学者の藤澤一夫氏による鑑定を受けている

  • ほつまつたヱは、いったい誰が書いたのか

    ほつまつたヱは、いったい誰が書いたのか。。伝承を元に和歌のように纏めた人物がいるはずである。もしかしたら柿本人麻呂ではなかろうか、、ほつまつたヱは、いったい誰が書いたのか

  • 宗教問題、今か、、

    宗教問題、今か、、もっと早くに特集しないと、、この問題の真なる本丸に斬り込めているのかどうか、、木下議員はかなり厳しく突っ込んでいるのは間違いないだろう。テーラワーダの佐藤さんの論考は注目。宗教問題、今か、、

  • なぜ私が饒速日命のことから古代日本史の考察へ入ったのか? 在野の邪馬台国研究家、山科さんの存在

    しかし、なぜ私が饒速日命のことから古代日本史の考察へ入ったのか、かなり疑問ではあるでしょう。楠木家先祖が、伊予橘氏、越智氏と遡り、そして、物部氏、ウマシマジノミコト、ニギハヤヒとしての、その関連からだけ、というわけではない。私の「わかくす」の発表を読んで頂いていた、わかくすの古老の方が、最近にお亡くなりになられたのではあるが、その方が、私の研究に期待して下さり、関心を持って頂いていたことが後に分かり、会の方が、私にその方の著書を下さったのである。在野の邪馬台国研究家、山科さんでありました。実は、饒速日命のことを調べるまで、頂いていた本をちゃんと読んでいなかったのですが、改めて拝読して、生涯をかけて研究されていた熱いものを、ご期待を頂いた者として、少しでも受け継がさせて頂かねばと思ったのでもあります。神武東...なぜ私が饒速日命のことから古代日本史の考察へ入ったのか?在野の邪馬台国研究家、山科さんの存在

  • まもなく、郷土文化史「わかくす」の最新号・「河内・浄土院について」

    まもなく、郷土文化史「わかくす」の最新号が出る。今回は、「河内・浄土院について」である。歴史に埋もれていた寺院を呼び覚ませることができた意義は大きい。奈良県立博物館にある当麻曼荼羅は、新しい東大阪市の郷土博物館の大目玉に十分なると思うのだが、、とにかく、在野の郷土史家でもやれるのである。研究発表の場は、わかくすだけだが、次に楠木正行公と往生院関連を2回に分けて終われば、饒速日命についてと共に、岩瀧山山頂石組みについてもまとめたいと思うのである。もちろん、美作後南朝も。とにかく、コツコツ調査研究、そして発表である。まもなく、郷土文化史「わかくす」の最新号・「河内・浄土院について」

  • 考古学の大家、水野正好先生と往生院・日想観

    この太古から変わらぬ夕陽に魅せられて、枚岡駅や石切駅あたりに終の住処を求められる方も多い。考古学の大家、水野正好先生もそうであったと伺ったことがある。往生院と水野正好先生とは、先生の日想観研究の折から懇意にさせて頂いていたものの、私は挨拶程度でしかなかったのが、今更ながら悔やまれる。まさか、古代日本史、饒速日命のこと、神武東征、邪馬台国などに取り組むことになろうとはその時には全く思わなかったのである。水野先生のど真ん中である。特に岩瀧山山頂の謎の石組みについては、水野先生ならば、きっと前のめりになって調査に入って頂けることになっただろう、、いまさらながらに、あと15年早くに取り組み出していれば、と、、桜井市の鳥見山麓の未発見と思わしき前方後円墳についても鶴の一声で調査着手となったに違いない。なんともながら...考古学の大家、水野正好先生と往生院・日想観

  • 「新しい領解文」の最大の失敗

    久しぶりにこの話題。この間、勧学寮、与奪の信用が地に堕ちた。総局の飼い犬へと成り下がった反省から、本来の役割である法義の番人へと、これからその真価が問われることになるだろう。二種深信のバランスは難しい。このバランス、塩梅には、教学上における宿善のあり方について、一定見直す必要性があると思われるのである。「新しい領解文」の最大の失敗は、二種深信からの議論として、その内容を醸成させなかったことである。これで更に機のあり方についての議論の後退、萎縮に繋がるのはあまり良くないとは思うのである。惜しむらくは、教学を正しく押さえてある者が中心となり、機のあり方について、丁寧に議論を経ながら進めていれば、というところであった。通仏教との会通もある程度図れることになったであろう。それが、悪取空見による本覚思想、万人救済思...「新しい領解文」の最大の失敗

  • 「令和7年春季彼岸法話 日想観法要 拾遺往生伝・安助上人 夕陽 坐禅体験・滝行体験 節分護摩会 地蔵盆」第75回 仏教ミニ法話 2025年3月23日

    今回の法話と日想観、拾遺往生伝・安助上人のこと、坐禅体験、滝行体験、節分会や地蔵盆のことなども。本堂Wi-Fiでアップロードしていたら3時間以上も掛かってしまった、、声は枯れています。「令和7年春季彼岸法話日想観法要拾遺往生伝・安助上人夕陽坐禅体験・滝行体験節分護摩会地蔵盆」第75回仏教ミニ法話2025年3月23日https://youtu.be/xnW7l1hpz_4?feature=shared「令和7年春季彼岸法話日想観法要拾遺往生伝・安助上人夕陽坐禅体験・滝行体験節分護摩会地蔵盆」第75回仏教ミニ法話2025年3月23日

  • ほつまつたヱによると

    ほつまつたヱによると、最初にヤマトに天孫降臨したのは、饒速日命とは別人とされるクシタマホノアカリである。イカルガダケは、やはり、最初に宮を置いたイカルガに近いところになる。ヘグリ寄りの生駒山系になる。アマテラスからの天孫系ならば、何よりも太陽が意識されるため、春秋分の日、日が昇る真東となる岩瀧山山頂ももちろん比定がありうる。ホノアカリは、イカルガからアスカに宮を移して崩御している。そして、ホノアカリに嫡子がおらず、ニギハヤヒが跡を継ぐためにヤマトに入ったことになっている。ほつまつたヱによれば、建国宣言もホノアカリということになる。陵墓は、アスカの端になるということか。また、アスカから見て、東の山の峰、三輪山に祭神として祀られることになったと思われる。ニギハヤヒ治世において、長髄彦が反乱を起こして、ニギハヤ...ほつまつたヱによると

  • 岩瀧山と河内桜井寺

    謎の石組みがやはり天孫降臨地、建国宣言地であり、また、往生院金堂跡調査で、桜井寺(日本最初の僧侶、善信尼入寺のかなり前、古墳時代から寺院があったのは確実)の全容が明らかとなれば、日本建国地と、日本仏教最初の寺院地と比定される可能性がある。特に西国にとっては、日が昇る真東は、生駒山系であり、その中心(春秋分の日に日が昇る)が岩瀧山である。古来から意識されていた可能性は高く、平安時代以降は日想観極楽誓願の中心地となったのである。鎌倉期には、九條家によりキリークの梵字丸瓦の大金堂が建立され、浄土教の中心地となったのである。もちろん、法然聖人も訪れられていた。(九條家による法然聖人三日月の御影奉納)また、九條家菩提寺でもあったため、九條兼実の娘である玉日姫供養に、親鸞聖人が自作坐像を嘉禎三年に奉納している。玉日姫...岩瀧山と河内桜井寺

  • 日想観・極楽誓願法要 彼岸中日 春分の日 岩瀧山 往生院六萬寺 表参道階段上 2025年3月20日

    快晴で雲一つない日没。夕陽の様子と、朝陽の様子も。改めて動画にまとめました。日想観・極楽誓願法要彼岸中日春分の日岩瀧山往生院六萬寺表参道階段上2025年3月20日春秋彼岸中日午後5時半から日没までどなたでもご自由に参加できます(雨天中止)https://youtu.be/5bAnCwZ9Q50?feature=shared日想観・極楽誓願法要彼岸中日春分の日岩瀧山往生院六萬寺表参道階段上2025年3月20日

  • 日想観極楽誓願 2025年3月20日

    日想観極楽誓願2025年3月20日これまでの彼岸中日の中で、雲一つなく一番最高の日の入りとなりました。南無阿弥陀佛合掌日想観極楽誓願2025年3月20日

  • 春分の日 彼岸中日 夕陽と朝陽 タイムラプス

    春分の日彼岸中日夕陽と朝陽タイムラプス岩瀧山から登った陽が、四天王寺西門へと沈みました。春分の日彼岸中日夕陽と朝陽タイムラプス

  • 日想観極楽誓願 最高の夕陽

    日想観極楽誓願最高の夕陽南無西方極楽世界大慈大悲阿弥陀佛合掌日想観極楽誓願最高の夕陽

  • 岩瀧山山頂から昇る春分の日の朝陽 岩瀧山山頂にある謎の石組みについて

    岩瀧山山頂から昇る春分の日の朝陽法要の合間に何とか捉えました。真東、極楽の東門から昇る陽本日夕方、17時半から日想観極楽誓願法要。天気は良好。四天王寺西門に沈む夕陽が拝めそうです。南無阿弥陀佛合掌岩瀧山山頂にある謎の石組みについてhttps://youtu.be/QH-YHDwgmt8春分の日。まもなく麓の日の出。岩瀧山山頂から太陽が昇ります。山頂石組みは、太陽神、天照大神を拝する古代の祭祀場であったことには間違いないでしょう。仏教伝来以降、浄土教の栄える平安時代からは、当地が極楽の東門となり、四天王寺の西門へと落ちる夕陽を拝む、日想観極楽誓願の中心地となったのであります。南無阿弥陀佛合掌岩瀧山山頂から昇る春分の日の朝陽岩瀧山山頂にある謎の石組みについて

  • 今上皇帝牌

    少なくとも1709年までに作られた今上皇帝(天皇・上皇)の安寧を祈願する牌。廃仏毀釈時の明治のものかと思ってたが、裏を見てビックリ、、江戸初期だった。後陽成帝や皇后など幾人か天皇の位牌もあるから、この際に一緒に作られたものだろう。貴重なものだ。。今上皇帝牌

  • 葛上神社

    葛上神社葛=九頭で、九頭龍神が、杣木に祀られていた可能性がある。ヤマタノオロチ?いずれにしても、学園中の里山、杣木には、やはり神社があったのである。葛上神社も移転前に元はここにあったのであろう。龍を祀る神社として。そこにはやはり古墳があったと思われるのである。帝塚山にも近い。そして、この里山は、葛上神社の氏子の方が、代々管理されているようで、間違いなく禁足地として触らない土地と伝承されてあると考えられる。ここは有力かもしれない。ほつまつたヱならば、饒速日命の前の大和統治者である可能性もあるが、あまりにもこんがらがるのでそこは考えないでおきたい。葛上神社

  • 杣木祭

    木を切る前の神事を、杣木祭(そまぎさい)と言うようである。仏教では、伐採前に發遣供養、つまり、御魂抜きをすることがある。同じことと言える。特に自分よりも樹齢のある大きな木を切る際には、神が宿る御神木である場合もあるため、神事、仏事を行わないと当然に障り、祟りの恐れもある。このように敬意、畏敬の念を払うのは大事なことである。この里山、杣木には、やはり神社があり、神域とされたのだろう。だから禁足が守られてあるとも言える。古来から古墳があった可能性ももちろん高い。帝塚山の由来かも。また、ほつまつたヱの伝えるように、饒速日命の前の大和統治者(もちろん、長髄彦以外)のお墓である可能性もあり得る。もし、そのようなことを示すものが出たら大変なことにはなる。ほつまつたヱ、、またとんでもないものがあるのだな、、杣木祭

  • 「饒速日命のお墓 第三、四の候補について 他、霊畤・鎮魂祭・大和言葉について 富雄丸山古墳 桜井茶臼山古墳 鳥見山 長弓寺 帝塚山 杣木」 第34回 新シリーズ歴史再考

    有り難いことに関連の情報を続々に頂けているため、早めにまとめておくべくに。しかし、誠に勉強になりますね。「饒速日命のお墓第三、四の候補について他、霊畤・鎮魂祭・大和言葉について富雄丸山古墳桜井茶臼山古墳鳥見山長弓寺帝塚山杣木」第34回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/RQsWYs4TSHM?feature=shared今は昔と違い、古墳において、レーザー照射、超音波検査で、石室があるかどうかは、おおよそに前もって分かるらしい。レントゲン、エコーみたいなものか。その検査まで至れるかが、一つの課題で、検査すれば、古墳かどうかはすぐに結果は出るようだ。無駄な発掘もする必要が、今はないらしい。要は、その検査機械を円墳中心に置いてボタンを押すところまで持っていけるかが大事になる。地権者の許可ぐらい...「饒速日命のお墓第三、四の候補について他、霊畤・鎮魂祭・大和言葉について富雄丸山古墳桜井茶臼山古墳鳥見山長弓寺帝塚山杣木」第34回新シリーズ歴史再考

  • 富雄丸山古墳周辺、帝塚山付近を例によりGoogleマップで鍵穴を探してみた

    富雄丸山古墳周辺、帝塚山付近を例によりGoogleマップで鍵穴を探してみた。長弓寺の北側にある鍵穴形状はかなり気になる。学研北生駒駅すぐそば。しかし、駅開発で史跡調査はあったはずで、関連するものはなかった公算は高い。だが、かなり気になる。もう一つは、富雄と学園前の間にある里山。禁足地だった可能性はある。あそこはいまだに鬱蒼としている。何か謂れはありそうだ。桜井市鳥見山の次に現地を見に行ってみたい。富雄丸山古墳周辺、帝塚山付近を例によりGoogleマップで鍵穴を探してみた

  • 大和言葉から考えないといけないのか・・

    白庭は、結局、宮をおいたところに白い石を敷いた、要は白洲のことを表すため、白庭は、後付けによる地名であり、重要なのは、やはり、鳥見、登美の方になるとも言える。忌事言葉としては、鳥の使用を避ける意図もありえたのと、鳥は神武天皇以後、各天皇に諡、おくりなで用いられて譬えられる別称が様々にあるため、総称の鳥は神聖な言葉として、忌事に際しては、別字が当てられたなど、色々と説がある。跡見などもそれになるのだろう。大和言葉の形容まで学ぶとなれば、かなり手間がかかるな、、また、帝塚山→饒速日命の墳墓を示すかもとやはりある。これは想定通りだ。帝塚山周辺にまだ眠ってあるのかもしれない、、共に埋葬された天羽に由来する何かも痕跡は伝わってあるかも。そういえば、帝塚山の第二グラウンド、東側にはまだ小高い森があったなーあそこが禁足...大和言葉から考えないといけないのか・・

  • 補足・神武天皇が皇祖神、天津神を最初に祀り、霊畤を行った場所の有力地

    先ほどにコメントさせて頂いたのですが、結局、先代旧事本紀でも、天孫には遺骸はなく、身体は天に召されたとして、遺品を埋葬したとのことになっており、もちろん間には受けれませんが、遺骸は埋葬してはいるが、無いことになっているので、特定できないようにした、というのが本当のところではないかと思われます。ですから更に難儀になってしまっているというところであります。補足・神武天皇が皇祖神、天津神を最初に祀り、霊畤を行った場所の有力地

  • 神武天皇が皇祖神、天津神を最初に祀り、霊畤を行った場所の有力地について

    実は、神武天皇が皇祖神、天津神を最初に祀り、霊畤を行った場所の有力地が、桜井市外山の鳥見山以外にも別にある。宇陀市にある鳥見山である。桜井市にもまたがっている。いずれも有力とされてはいるが、決着は着いていない。ただ、日本書紀には、「榛原」ともあり、宇陀市の方を示すことになる。いずれか際どく、混乱を招くものとなっている。等彌神社、近くの三輪山、大神神社のある桜井市の方が、橿原神宮にも近く、色々な由来を考えれば有力ではあり、宇陀市の方には、八咫烏神社はあるが、他に霊畤に繋がる同様な謂れのある神社や他のものがないのも、やや不思議なのである。更に、もしも、宇陀市の方にも白庭というところがあったら、と調べてみたが今のところ無いようであり少しホッとしている。しかし、なんともややこしく、それぞれで優位性をお互いに主張す...神武天皇が皇祖神、天津神を最初に祀り、霊畤を行った場所の有力地について

  • 「桜井茶臼山古墳が饒速日命のお墓か? なぜ比定できないのか? 他、八咫烏・金鵄について 神武天皇 神武東征 長髄彦 卑弥呼 鳥見山 白庭山」 第33回 新シリーズ歴史再考

    結局は、神武東征時に饒速日命がまだ存命だったか、亡くなっていたのか、でもかなり違ってくるが、拙生は、まだ存命であったとして一連の考察をしているわけである。先代旧事本紀は、わざと分からないように、登美の白庭邑としたように思えるのである。理由は、既に亡くなっていたことにして、神武天皇の事績を際立たせるためである。もしそうならば、本当のお墓がどこにあるのかも、元々は分かっていたとしてもおかしくはないが、、さて、、「桜井茶臼山古墳が饒速日命のお墓か?なぜ比定できないのか?他、八咫烏・金鵄について神武天皇神武東征長髄彦卑弥呼鳥見山白庭山」第33回新シリーズ歴史再考「桜井茶臼山古墳が饒速日命のお墓か?なぜ比定できないのか?他、八咫烏・金鵄について神武天皇神武東征長髄彦卑弥呼鳥見山白庭山」第33回新シリーズ歴史再考

  • 大和言葉・ほつまつたゑ

    ほつまつたゑを基にしての考察がまとめられてある。この方は、饒速日命は、石切劔箭神社の上社、生駒山山中に葬られたのではないかと推定している。あり得なくはないかもだが、何十年か前に、一度行ったことがあるかも。また行ってみるか、、要は、初代・クシタマホノアカリ(テルヒコ)→ニギハヤヒ(クニテル・養子)というわけだ。ならば、饒速日命の前に、初代大和国王がいたことになる。富雄丸山古墳はこの王か?いや、これは饒速日命のことではないな。別人としてクシタマホノアカリとされてある。もちろん、他では同一人とされてはいるが、ここでは別になっている。わけがかわらん。。領庭の邑、やはり、以前に都にしていた邑、平地が考えられるため、山中ではない。帝塚山の謂れは、予想したようにやっぱり大正解ということなのであろう。あるとしたら、富雄丸...大和言葉・ほつまつたゑ

  • 再考・饒速日命のお墓はいったいどこにあるのか・・

    改めての再考・・饒速日命のお墓はいったいどこにあるのか・・結局、何が最もややこしくさせている原因になっているのかは、先代旧事本紀において、拠・・鳥見の白庭山(降臨すぐ)墓・・登美の白庭邑となっている点からである。記紀も、拠は「鳥見の白庭山」(降臨すぐ)となっていることから、降臨後には「鳥見の白庭山」に拠点したことは窺えるのである。これは、長髄彦の本拠地であり、長髄彦の本拠地を白谷で隔てた鳥見白庭山のあるところを実際には示すのである。その後、矢田であったり、あるいは王龍禅寺付近など、いくつか拠点は移していると思われるのである。しかし、これは、あくまでも長髄彦と共に大和を共同統治していた時期のことである。そして、神武東征後には、新王への政権移譲・禅譲と、その補佐のために、出雲国が中心とした所領・直轄地、奈良県...再考・饒速日命のお墓はいったいどこにあるのか・・

  • 鳥見山周辺の古墳探訪・桜井茶臼山古墳の饒速日命墳墓説が有力

    調査、古墳探訪コース内ですから、お越しの際には案内しますので知らせて下さいと。彼岸後ですね、、地元伝承からも、やはり桜井茶臼山古墳の饒速日命墳墓説が圧倒的に多い。近い等彌神社の存在も大きいものがあるからだろう。ならば、宗像神社の方が、未発見前方後円墳であれば、やはり卑弥呼、あるいは台与になるだろうか?いずれにしても可能性はある。お約束通り、パンフレット広めておきます。。https://sakuraikanko.com/wp-content/uploads/2024/01/a83754af43c3087e3de8fe2444d84e94.pdf鳥見山周辺の古墳探訪・桜井茶臼山古墳の饒速日命墳墓説が有力

  • 有力情報、続々・桜井茶臼山古墳は饒速日命のお墓有力か

    有力情報、続々で助かります。建国すぐに、人民を動員しての大きなみささぎ、御陵は作れなかった名残が、桜井茶臼山古墳と言えるため、同じように麓に幾つかあってもおかしくはないと。また、埴輪や葺石等も後代からになるため、土を盛り上げて固めただけで、それが御陵とは分からない可能性もあり、茶臼山古墳もまさにそのようであるため、他も、埴輪や葺石がないから分からなくなったと言えるかもしれないから、指摘の三点、前方後円墳ならば、円墳真ん中に石室がある可能性は否定できないと。この方も建国期すぐに亡くなった饒速日命のお墓は、桜井茶臼山古墳で間違いない。玉杖がそれを示していると。いずれにしても、建国期すぐであれば、卑弥呼か台与かはあり得るから、金印も出てきてもおかしくないでしょうとのことで、ますます信憑性が出て期待が持てるのであ...有力情報、続々・桜井茶臼山古墳は饒速日命のお墓有力か

  • 八咫烏と金鵄

    もののけ姫のアシタカ、頭巾と合羽を黒にしたらまさに烏に見えなくはない。足の三本は、三本目は背負っていた長い弓か。一方、出雲軍は、立派な鎧兜、合羽が輝いていたので、金の鳥に見えたところから金鵄と表現されたのでしょう。長髄彦軍は強く、神武軍は敗戦濃厚、退路もなく、絶体絶命の中、遅れていた出雲軍の進軍が決定打となり、最終的な決着へと至ったということであります。八咫烏と金鵄

  • 八咫烏は、十津川郷士説

    八咫烏は、十津川郷士という説を頂いた。古代から免税の天領である理由は、神武東征に功があったからですと。大和朝廷にも協力を何度もしていますから、間違いないでしょうと。建国から明治まで天領であったのは事実であり、八咫烏説は十津川郷士、恐らく格好も野武士、黒い合羽が羽に見えて、カラスに比されたとも言えるでしょう。熊野、吉野豪族説で間違いないですが、十津川郷士と更に絞ってもよいのでしょう。続々と有力な情報、説を頂いており、一気に研究が進みます。十津川郷士か。。歴史的な経過を色々と踏まえたら説得力がありすぎる。。八咫烏は、十津川郷士説

  • 確信増す・新発見はやはり前方後円墳か

    また、桜井茶臼山古墳は、饒速日命に間違いないと、地元の研究者の方から。もう3人目である。白庭の由来を今一度、見直してみる。確かに、鳥見山、白庭山を同じとみている。だから、鳥見山の山裾を利用して作られたとされる桜井茶臼山古墳を饒速日命のお墓としても全くおかしくはない。しかし、鳥見山とするには、ほんの少しだけ離れているような気もする。もっと山裾に近くてもおかしくはないのである。やはり、指摘した三つの内にあっても不思議ではないと思われるのである。ますます確信が増すところではあるが、とにかく考察を続けていきたい。確信増す・新発見はやはり前方後円墳か

  • 桜井茶臼山古墳・饒速日命のお墓伝承/仏教伝来地・河内・桜井郷・桜井寺説もありうる

    桜井の地元では桜井茶臼山古墳は、ずっと饒速日命のお墓と伝承があるらしい。にもかかわらず、なぜ、生駒市白庭台の方になったのか?ここに同じ奈良県でも史跡をめぐる色々な思惑や争いがあるとのこと、、あちらは、終焉地を見誤ったために、あそこになったのだと、、また、神武天皇の事績を目立たせるためにも、饒速日命の存在を薄くしたい意図が政府にはあったのもあると。そんな理由で建国の父を追い落としたわけなのか、、桜井こそが、禅譲と神武天皇の即位のあったところです、と。卑弥呼の親魏倭王の金印も出たら、桜井が全てにおいて歴史的な優位に立つことが証明されることになります。だから、関心が高いとのこと。私は、仏教伝来地は、やっぱり、港があった大和への入り口の河内の桜井郷。必ず発掘調査で明らかにして、桜井寺に譲ってもらいますからと(笑)...桜井茶臼山古墳・饒速日命のお墓伝承/仏教伝来地・河内・桜井郷・桜井寺説もありうる

  • 「大和での饒速日命の動勢についての仮説 神武天皇 神武東征 邪馬台国 卑弥呼 出雲国 鳥見山 三輪山」 第32回 新シリーズ歴史再考

    彼岸で忙しいのは忙しいのですが、定期試験前になったら余計なことばかりに精を出すタイプです。引き続きの考察興味を持って協力してくれる専門家もあり、誠に助かります。有り難いですね。「大和での饒速日命の動勢についての仮説神武天皇神武東征邪馬台国卑弥呼出雲国鳥見山三輪山」第32回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/lYv3SMNs_1Y?feature=shared「大和での饒速日命の動勢についての仮説神武天皇神武東征邪馬台国卑弥呼出雲国鳥見山三輪山」第32回新シリーズ歴史再考

  • 桜井茶臼山古墳自体が、山麓の台地を利用して造られてある

    非常に興味深いので協力しますと、更に関連資料、調査報告書を送って下さるとのこと。本当に助かります。茶臼山古墳自体が、山麓の台地を利用して造られてあり、同じように同年代に造られてあってもおかしくなく、あり得ることですと。または、試みで造られたもの、途中でやめたものであるかもと。初期の頃では、造営を急ぐ理由があり、時間が無ければあり得たかもしれないのでしょう。ならば、箸墓古墳よりも前であるのかも。色々と有り難い。一気に研究が進みます。桜井茶臼山古墳自体が、山麓の台地を利用して造られてある

  • 鳥見山周辺の古墳

    有力な情報を専門家から頂いた。指摘のところには、確かに古墳が幾つもありますと。パンフレットもあるとのこと。ただ、細かい後代の古墳が点在してあり、その調査が終わっており、まさか、前方後円墳にあるとは誰も思わなかった、気づかなかったこともあるからかも知れないと、、まだ知られていない石室が内部にある可能性があるかもしれないと。やはり、可能性があります。普通に調査対象区域は、市の観光協会による古墳探訪コースになっている。これなら調査に行っても全く大丈夫だ。色々と有り難い。鳥見山周辺の古墳

  • 桜井茶臼山古墳、地元伝承では、饒速日命か、長髄彦か、と伝わってある

    桜井茶臼山古墳、地元伝承では、饒速日命か、長髄彦か、と伝わってあったとある。茶臼山古墳が、饒速日命墳墓説、かなり有力にあったわけか、、やはり、等彌神社はもちろん、饒速日命に関しての謂れがある土地なのである。尚、確信が強まるのである。桜井茶臼山古墳、地元伝承では、饒速日命か、長髄彦か、と伝わってある

  • 雑魚民間は、地道にできることだけで調査研究していくしかない

    よくよくに考えると、かなり昔に調査対象になっていたとしても、意図的に調査を後回しにしているということはないだろうか。饒速日命の真相は、皇室のタブーにつながるということにもなる可能性があるという懸念もあるのだろう。つまりは、天皇家の出自の真相について、ということである。まあ、今の時代では時代錯誤ではあっても、当時はそのような力が依然として強く働いていたのかもしれない。宮内庁・文化庁VS民間。藤原鎌足・阿武山古墳の例もある。とにかく行政は、容易には動かないと見ておいて良いでしょうね・・あるかも、というだけでは、もちろん全く何もしてくれないということです。雑魚民間は、地道にできることだけで調査研究していくしかないということです。いずれにしても、発掘調査は大型開発が入るのを何十年か待つしかないということでしょうが...雑魚民間は、地道にできることだけで調査研究していくしかない

  • 遺跡・史跡の調査・研究・整備・・

    色々と情報を更に頂いていますが、専門職でかなり昔に引退された方からも、具体的には言えないが、いくつかは過去に調査対象になっていたとも。。宗像神社は、やはり、古墳があることを前提に建てられたのでは、と伺いますと、その可能性はありますとのこと。とにかく、奈良は、どこを掘っても色々なものが出てくる土地柄でもあり、予算も、人員も限られて、優先順位もあり、よほどのことがなければ、発掘調査まではいかないと。公共工事で、大きな開発が入れば、間違いなく発掘調査になりますが、と。まあ、このままならば何十年とこのままでありうるということです・・往生院の金堂跡でも府の史跡指定ながら、40年近くなってもいまだに発掘調査すらしてもらえる動きがない状態・・奈良は、特に国指定、県指定となる文化財・史跡がゴロゴロしており、指定へ向けた土...遺跡・史跡の調査・研究・整備・・

  • 初代・中村鴈治郎さんが寄附された小楠公墓所の階段

    ちなみに、こちらが初代、中村鴈治郎さんが寄附された小楠公墓所の階段になります。(近鉄瓢箪山駅の奈良側ホームの案内石碑も)連名の加藤半紅さんが、どのような俳優さんかはいくら調べてもわからないのでありますが、恐らくは弁内侍を演じられた方ではないかとは思われるのであります。昔の役者さんは、演じる元へ、参拝だけではなく、このように十分に敬意を払っていたことが窺える貴重なものであります。初代・中村鴈治郎さんが寄附された小楠公墓所の階段

  • 映画「国宝」中村鴈治郎さんが演技指導

    演技指導を中村鴈治郎さんが行ったとなれば、尚、凄い内容であると言えるでしょう。ちなみに少しだけながら仏事指導、アドバイスに携わらせて頂いたのであります。エンドクレジットには載らないので、信じてもらえないとは思いますが、、映画「国宝」中村鴈治郎さんが演技指導

  • 吉沢亮が白塗り姿で堂々とセリに立つ 映画『国宝』特報映像公開

    公開が待ち遠しい『国宝』特報【6月6日(金)公開!】https://youtu.be/B4VjEUcWAJU?feature=shared吉沢亮が白塗り姿で堂々とセリに立つ映画『国宝』特報映像公開https://news.yahoo.co.jp/articles/e7a0d18312a1161ed48f5cf43364483394bf4bc8映画『国宝』の特報映像が公開された。原作は、2002年に『パレード』で山本周五郎賞、『パークライフ』で芥川賞を受賞、2007年の『悪人』では、毎日出版文化賞、大佛次郎賞など数々の賞に輝いた吉田修一の最高傑作との呼び声が高い同名小説。映画では吉沢亮が主演を務めるほか、横浜流星、渡辺謙、高畑充希、寺島しのぶ、田中泯、森七菜、見上愛、永瀬正敏、宮澤エマ、黒川想矢、越山敬達、...吉沢亮が白塗り姿で堂々とセリに立つ映画『国宝』特報映像公開

  • 「更に大発見か!? 未発見・未調査の前方後円墳か? 鳥見山(奈良県桜井市外山) しかも最大で4つ? Googleマップ 神武天皇 饒速日命 卑弥呼 台与」 第31回 新シリーズ歴史再考

    古墳だけに大こーふんではある。現地へと調査に行きたいが・・彼岸となり、しばらくは動けない。しかし、くれぐれも現地に行かれる方は、マナーを守り、現地の住人方の生活・プライベート・プライバシーがあり、私有地も当然にありますので、決して迷惑は掛けないように気をつけないといけないでしょう。「更に大発見か!?未発見・未調査の前方後円墳か?鳥見山(奈良県桜井市外山)しかも最大で4つ?Googleマップ神武天皇饒速日命卑弥呼台与」第31回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/82Kr3qECFek?feature=shared「更に大発見か!?未発見・未調査の前方後円墳か?鳥見山(奈良県桜井市外山)しかも最大で4つ?Googleマップ神武天皇饒速日命卑弥呼台与」第31回新シリーズ歴史再考

  • 【ナガスネヒコ】神武天皇に敗れた長髄彦と安倍元総理の因果

    怪奇な歴史研究室さん、富雄丸山古墳が、長髄彦のお墓であってもおかしく無いかもとの見解も。長髄彦のお墓の可能性ももちろんあるが、白庭台の方が、実際は長髄彦のお墓で、富雄丸山古墳は、饒速日命の可能性が高いと思われるのである。登彌神社と帝塚山の地名が、その由来にはなるが、別であればとして、王龍禅寺の境内地内、更に別であったならばとして、今回の未発見前方後円墳に至った。空白の4世紀。未発見前方後円墳、三つの内のいずれかに空白を埋めるピースがあると思うのである。【ナガスネヒコ】神武天皇に敗れた長髄彦と安倍元総理の因果

  • 神武天皇陵再考

    神武天皇陵に関しての記述は、『古事記』(712)「御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあり」『日本書紀』(720)「畝傍山の東北の陵に葬りまつる」『延喜式』(927)「畝傍の山の陵。畝傍の橿原の宮に御宇しし神武天皇。大和の国高市郡にあり。兆域東西一町、南北二町。守戸五烟」神武天皇皇居があったとされる橿原神宮近くの畝傍山周辺域が当然に比定されるところになっており、それ以外の説はあまりない。卑弥呼、饒速日命、台与の時期から、さほど離れていないとすれば、前方後円墳で、同じような大きさである可能性がある。畝傍山の古墳は、円墳か八角形墳らしいが、100メートル、200メートルと延喜式にあるから、やはり、前方後円墳であると思われるのであるが、それが畝傍山周辺域にはないのである。もちろん、藤原氏により、書き換えられた歴...神武天皇陵再考

  • 神武天皇のお墓である可能性はないのか

    もしかしたら、神武天皇のお墓ではないかと、、なるほど、神武天皇の陵墓比定は、かなり難航した上で現在地になっているから、未発見の今回のものが、もしかしたら本当の神武天皇陵墓の可能性もある。重要なのは、やはり位置である。大嘗祭のあった鳥見山、出雲の大国主、大物主を祀る三輪山。双方を結ぶ形にあることだ。饒速日命の可能性と共に、神武天皇の可能性も全くないわけではないが、未発見の前方後円墳であれば、日本古代史を塗り替えるものになるのは間違いない。それほどに位置関係が示すものが、かなり気になるのである。日本古代史の謎のピースを全て埋めるかもしれない。神武天皇のお墓である可能性はないのか

  • 饒速日命の降臨と邪馬台国・出雲国による神武東征についての私見

    もはや、未発見の前方後円墳として、周辺事情を鑑みれば、饒速日命は、降臨当初は、長髄彦と共同統治にあった奈良市北部、富雄周辺域にあった拠点から、邪馬台国の東遷後に、饒速日命は、纏向の近くの桜井市付近へと拠点を移したのであろう。似たような地名が幾つも残るのはこのためである。大和王朝では、出雲勢力が、政治、軍事を担当し、邪馬台国勢力が、祭祀、外交を担当する中で、饒速日命は、出雲からの新王(神武天皇)を補佐するような重要な立場にあったが、間もなくに亡くなったと思われるのである。台与は、その後になるであろうか。箸墓古墳(卑弥呼)→新発見(饒速日命)→桜井茶臼山古墳(台与)になり、未盗掘ならば、とんでもないものが眠ってある可能性が高い。まさかの親魏倭王の金印が出たら、古代日本史はひっくり返ることになる。しかし、ある可...饒速日命の降臨と邪馬台国・出雲国による神武東征についての私見

  • 桜井茶臼山古墳は台与のお墓か?

    すぐ近くの前方後円墳である桜井茶臼山古墳、卑弥呼の箸墓古墳が望めるように、かなり意識して作られてあることから、もしかしたら、台与のお墓なのではなかろうか、、鏡の数も推定100以上あったと尋常でないし。新発見であれば、この前方後円墳は、茶臼山古墳よりも大きい上に、鳥見山がかなり意識されてあるだけに、饒速日命のお墓である可能性は更に高まることになる。桜井茶臼山古墳は台与のお墓か?

  • 鳥見山・奈良県桜井市外山・Googleマップ・歴史的大発見!? 未発見の前方後円墳か? 鳥見山山麓(奈良県桜井市)に饒速日命の墳墓か?

    鳥見山・奈良県桜井市外山・Googleマップhttps://maps.app.goo.gl/C1RU6VMQRW2DuP3T8もう何度見ても鍵穴、前方後円墳にしか見えない・・大発見か?「歴史的大発見!?未発見の前方後円墳か?鳥見山山麓(奈良県桜井市)に饒速日命の墳墓か?Googleマップ天照大神大国主大物主神武天皇大嘗祭」第30回新シリーズ歴史再考2025年3月14日https://youtu.be/9T65pg8CX_A?feature=shared鳥見山・奈良県桜井市外山・Googleマップ・歴史的大発見!?未発見の前方後円墳か?鳥見山山麓(奈良県桜井市)に饒速日命の墳墓か?

  • 「歴史的大発見!? 未発見の前方後円墳か? 鳥見山山麓(奈良県桜井市) に饒速日命の墳墓か? Googleマップ 天照大神 大国主 大物主 神武天皇 大嘗祭」 第30回 新シリーズ歴史再考

    続けて・・鳥見山をGoogleマップを見て、あれ?っと・・これって・・鍵穴にしか見えない・・未発見の前方後円墳か?「歴史的大発見!?未発見の前方後円墳か?鳥見山山麓(奈良県桜井市)に饒速日命の墳墓か?Googleマップ天照大神大国主大物主神武天皇大嘗祭」第30回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/9T65pg8CX_A?feature=shared「歴史的大発見!?未発見の前方後円墳か?鳥見山山麓(奈良県桜井市)に饒速日命の墳墓か?Googleマップ天照大神大国主大物主神武天皇大嘗祭」第30回新シリーズ歴史再考

  • 「饒速日命の墳墓探索 最有力候補地か? 等彌神社・奈良県桜井市桜井 白庭 霊畤 天照大神 大国主 大物主 神武天皇 大嘗祭 桜井茶臼山古墳 八咫烏 八咫烏神像」 第29回 新シリーズ歴史再考

    桜井市に鳥見山がある。この鳥見山の麓に、饒速日命が祀られた等彌神社がある。等彌神社の由来から、すぐ近くに饒速日命のお墓があってもおかしくないと思われるのであるが・・「饒速日命の墳墓探索最有力候補地か?等彌神社・奈良県桜井市桜井白庭霊畤天照大神大国主大物主神武天皇大嘗祭桜井茶臼山古墳八咫烏八咫烏神像」第29回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/6JoCI4_70Qs?feature=shared「饒速日命の墳墓探索最有力候補地か?等彌神社・奈良県桜井市桜井白庭霊畤天照大神大国主大物主神武天皇大嘗祭桜井茶臼山古墳八咫烏八咫烏神像」第29回新シリーズ歴史再考

  • 歴史の改ざんの裏と物部氏族→南朝勢力説

    しかし、上四条古戦場跡から、なぜか古代史が中心となってしまっているが、それは、饒速日命の墳墓への大きな違和感からであります。いずれにしても、饒速日命を歴史のワキへとおいやったのは、藤原氏であります。出雲系統の饒速日命、宇摩志麻遅命の子孫は、出雲系統の天皇とは、当然に親戚関係であるだけに、物部氏、蘇我氏(出雲系出自が有力)がずっと政権中枢を担うことになっては、他の豪族たちにとっては全く面白くないことになるわけです。それだけに饒速日命や宇摩志麻遅命の歴史的な扱いを複雑化させると共に、なるべく天皇との関係を遠ざけたかったのであります。蘇我氏と物部氏は、やがて権力をめぐって激しく争うことになり、蘇我馬子が、物部守屋を討って、蘇我氏が政権中枢を担うようになります。しかし、各地に物部氏の子孫は散らばって力を持っており...歴史の改ざんの裏と物部氏族→南朝勢力説

  • 「大和王朝の成立に関する一仮説 天照大神 邪馬台国 卑弥呼 出雲国 大国主 大物主 饒速日命 長髄彦 神武天皇 矢田坐久志玉比古神社 桜井茶臼山古墳」 第28回 新シリーズ歴史再考

    饒速日命に関して頂いてる追加情報と、ご質問のあった大和王朝の成立についての拙見解。「大和王朝の成立に関する一仮説天照大神邪馬台国卑弥呼出雲国大国主大物主饒速日命長髄彦神武天皇矢田坐久志玉比古神社桜井茶臼山古墳」第28回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/kSGVKlwpcAo?feature=shared「大和王朝の成立に関する一仮説天照大神邪馬台国卑弥呼出雲国大国主大物主饒速日命長髄彦神武天皇矢田坐久志玉比古神社桜井茶臼山古墳」第28回新シリーズ歴史再考

  • 新しい領解文・杉良太郎『親鸞』・一元論と二元論(二種法身説の誤解)(岡林愚聞先生)

    岡林さんの新しい動画。大事なことが分かりやすく解説されています。教学も勧学任せ、人任せでは絶対にいけないことが、今回の騒動において十分に分かったことでもあります。釈尊の四聖諦から、それぞれの宗旨についても、それぞれで学び、理解を深め、実践していくことが大切なことになります。法灯明、自灯明であります。新しい領解文・杉良太郎『親鸞』・一元論と二元論(二種法身説の誤解)(岡林愚聞先生)

  • 「継体天皇の事績から日本古代史を読み解く 継体天皇の物部神社創建から考える 神武天皇 饒速日命 宇摩志麻遅命 長髄彦 崇神天皇 出雲大社 大神神社 石上神社 三輪山 邪馬台国 卑弥呼 天照大神」

    饒速日命の墳墓はどこにあるのか・・白庭台でもなく、富雄丸山古墳でもなければ・・そして、饒速日命は、純粋出雲系なのか、純粋出雲系外の出雲系なのか・・あるいは、邪馬台国系・卑弥呼系なのか、徐福系なのか、徐福系の純粋出雲外の出雲系なのか・・大国主=大物主=饒速日命ならば、純粋出雲系と言えるのだが・・大和朝廷・王権確立に隠された真実とは・・「継体天皇の事績から日本古代史を読み解く継体天皇の物部神社創建から考える神武天皇饒速日命宇摩志麻遅命長髄彦崇神天皇出雲大社大神神社石上神社三輪山邪馬台国卑弥呼天照大神」第27回新シリーズ歴史再考2025年3月12日https://youtu.be/FQfghOuIp9g?feature=shared「継体天皇の事績から日本古代史を読み解く継体天皇の物部神社創建から考える神武天皇饒速日命宇摩志麻遅命長髄彦崇神天皇出雲大社大神神社石上神社三輪山邪馬台国卑弥呼天照大神」

  • 継体天皇による物部神社創建の事績から考える

    継体天皇が、出雲にあるウマシマジノミコトのお墓を勅命にて整備して、社殿も創建したのが、物部神社であることを取り上げているが、これは史実であろうことから、継体天皇の出雲とウマシマジノミコトへの特別な何かの裏があると思われるのである。つまり、継体天皇は出雲系出身の天皇とも考えられることになる。しかし、この際にニギハヤヒノミコトのお墓は整備がされておらず、神社の新たな創建もない。既に祀られてあったとされる富彌神社への寄進等の改めての何かもない。この意味するところは、要は、お墓は別に既に立派にあるとして、整備の必要がないし、また、神社も富彌神社とは別に立派に祀られてあるということも考えることができる。つまり、出雲大社や大神神社である。やはり、少なくとも継体天皇の認識には、大国主=ニギハヤヒノミコト=大物主というこ...継体天皇による物部神社創建の事績から考える

  • 岩瀧山アーク伝説ありやん

    岩瀧山アーク伝説ありやん、、岩瀧山アーク伝説ありやん

  • 映画「国宝」との縁 吉沢亮、横浜流星ら出演『国宝』中村鴈治郎の歌舞伎指導&出演が明らかに

    初代、中村鴈治郎が、楠木正行公を演じる際に、現在の往生院六萬寺の小楠公墓所(胴塚)の正面石階段を寄附している。(近鉄瓢箪山駅・奈良側ホームにある墓所案内石碑も)映画「国宝」との縁は不思議に繋がるのである。吉沢亮、横浜流星ら出演『国宝』中村鴈治郎の歌舞伎指導&出演が明らかにhttps://news.yahoo.co.jp/articles/d464c2c6aeaa92a816e8fd385f18139417fcd6fc映画「国宝」との縁吉沢亮、横浜流星ら出演『国宝』中村鴈治郎の歌舞伎指導&出演が明らかに

  • 「新しい領解文」について言及することはなくなります

    もう事後処理、反省と検証、対策と、自浄力に期待ができるようになったため、「新しい領解文」について言及することはなくなります。所詮は門外漢、部外者。出番終了です。これからは、歴史考察、調査研究に更に注力していけそうです。もちろん、法話も頂くご質問から頑張りますが、かなり既に中観思想、唯識思想において述べておくべきことは述べて残せてあるので、何とかひと段落でもあります。とにかく、彼岸近しです。「新しい領解文」について言及することはなくなります

  • 「饒速日命・長髄彦 墳墓再考 富雄丸山古墳は誰のお墓か? 神武東征 神武天皇 磐余彦命 瀬織津姫 添御縣坐神社 登彌神社 王龍禅寺 帝塚山」 第26回 新シリーズ歴史再考

    富雄丸山古墳が、饒速日命のお墓である可能性について登彌神社の存在帝塚山の地名富雄丸山古墳の副葬品・・色々と状況証拠は揃っているが・・果たして・・「饒速日命・長髄彦墳墓再考富雄丸山古墳は誰のお墓か?神武東征神武天皇磐余彦命瀬織津姫添御縣坐神社登彌神社王龍禅寺帝塚山」第26回新シリーズ歴史再考2025年3月10日https://youtu.be/592iiyKnUUQ?feature=shared「饒速日命・長髄彦墳墓再考富雄丸山古墳は誰のお墓か?神武東征神武天皇磐余彦命瀬織津姫添御縣坐神社登彌神社王龍禅寺帝塚山」第26回新シリーズ歴史再考

  • 岩瀧山・動画

    時間が長いのに、拙生の動画にしては、再生回数の伸びが速い・・岩瀧山は、山体崩壊があったために、傾斜がエグく、相当に危険な急登であり、かなり危なかった・・踏み外したら命はない・・登山動画はやはり関心が高いのだろうか・・といっても、登山YouTuberになろうとは全く思わないが・・岩瀧山・動画

  • 饒速日命のお墓 不明であるとしたらその候補地は・・

    饒速日命のお墓が、白庭台の墳墓でもなく、富雄丸山古墳でなく、不明であるとしたら、考えられるのは、いまだ眠ってあるということである。どこにあるのか、となれば、現在の王龍禅寺の境内地が、最も有力と見ている。饒速日命=王龍ということである。トビ神社があったともされており、古代から禁足地でもあったようだ。饒速日命が眠っている可能性はあるとみている。更に、山号が、海瀧山。海の無い奈良に。つまり、海を渡ってきた龍の王を現す。白龍=饒速日命。王龍寺が、饒速日命と関連があるのはほぼ間違いない。饒速日命のお墓不明であるとしたらその候補地は・・

  • 「長髄彦のお墓はどこにあるのか? 長髄彦、最期の真相とは? 饒速日命との関係 神武東征 磐余彦命 宇摩志麻遅命 邪馬台国 富雄丸山古墳 添御縣坐神社」 第25回 新シリーズ歴史再考

    白庭台のお墓→長髄彦のお墓饒速日命のお墓→富雄丸山古墳これが拙説である。もしも、富雄丸山古墳が、饒速日命のお墓であるのであれば、古代日本史が一気に見直されることになるだろう。更に調査研究を進めたい。「長髄彦のお墓はどこにあるのか?長髄彦、最期の真相とは?饒速日命との関係神武東征磐余彦命宇摩志麻遅命邪馬台国富雄丸山古墳添御縣坐神社」第25回新シリーズ歴史再考2025年3月9日https://youtu.be/c7EVrUCyIoU?feature=shared「長髄彦のお墓はどこにあるのか?長髄彦、最期の真相とは?饒速日命との関係神武東征磐余彦命宇摩志麻遅命邪馬台国富雄丸山古墳添御縣坐神社」第25回新シリーズ歴史再考

  • 岩瀧山山頂の石組みと鬼城山にある鬼面岩

    全身筋肉痛、、急勾配の難所、滑り落ちたら命を落としかねないのが、岩瀧山、鬼城山である。岩瀧山山頂の石組みと鬼城山にある鬼面岩。祭司場と共に御神体でもあり、磐座信仰とも言えるものなのであろう。埋もれた石には何か由来に繋がる痕跡もあるのかもしれない。必ず役行者経塚もある(それらしいのはある)はずだ。解明には調査研究が必要である。岩瀧山山頂の石組みと鬼城山にある鬼面岩

  • 「修験道行場 役行者開山 岩瀧山→鬼城山→鬼面岩→往生院金堂跡 金堂跡北東池調査 日本史をゆるがす古代遺跡か? 日本建国に関わる遺跡か? 岩瀧山・山頂にある石組みの謎について 後半」

    続いて後半役行者開山・修験道行場、往生院金堂跡調査について鬼面岩はやはり圧巻でしたね。鬼が住んでいたと言われても、本当におかしくないところであります。往生院金堂跡についても少し探索しました。「修験道行場役行者開山岩瀧山→鬼城山→鬼面岩→往生院金堂跡金堂跡北東池調査日本史をゆるがす古代遺跡か?日本建国に関わる遺跡か?岩瀧山・山頂にある石組みの謎について後半」第24回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/b3BF0eHGb9o?feature=shared「修験道行場役行者開山岩瀧山→鬼城山→鬼面岩→往生院金堂跡金堂跡北東池調査日本史をゆるがす古代遺跡か?日本建国に関わる遺跡か?岩瀧山・山頂にある石組みの謎について後半」

  • 「日本史をゆるがす古代遺跡か? 日本建国に関わる遺跡か? 岩瀧山・山頂にある石組みの謎について 前半」 饒速日命 磐余彦命 神武東征 神武天皇 天照大神 第23回 新シリーズ歴史再考

    岩瀧山の山頂は、彼岸中日、つまり、春秋分の日に太陽が真上に登ってくるところで、四天王寺の真東にあたる。太陽の昇る生駒山系・河内・大阪平野の真東となる。ここに謎の石組みがあるが、今まで調査研究は一度もされていない。今回、調査研究へと向けて、岩瀧山へと登り、改めて動画に収めた。もしかすると、日本建国に関わる古代遺跡の可能性もある。饒速日命から磐余彦命へと禅譲がなされた受禅台の可能性も。岩瀧山山頂・本邦初公開である。「日本史をゆるがす古代遺跡か?日本建国に関わる遺跡か?岩瀧山・山頂にある石組みの謎について前半」饒速日命磐余彦命神武東征神武天皇天照大神第23回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/QH-YHDwgmt8?feature=shared「日本史をゆるがす古代遺跡か?日本建国に関わる遺跡か?岩瀧山・山頂にある石組みの謎について前半」饒速日命磐余彦命神武東征神武天皇天照大神第23回新シリーズ歴史再考

  • 八尾・大光寺跡の確認

    今日は合間に八尾の大光寺跡へ。草が刈られていて、更に表層瓦をいくつも確認。畑管理の方に伺うと、毎日来ているが、行政が調べに来た形跡はこれまで全くないとのこと、、八尾市観光文化財課に話は伝わってあるはずなのに、誠に寂しい話である。八尾・大光寺跡の確認

  • 富雄丸山古墳が、饒速日命のお墓だったら

    実は、生駒市白庭台のところが、饒速日命のお墓ではなくて、富雄丸山古墳が、饒速日命のお墓だったら古代史がひっくり返るが、全くあり得ないわけではないと思っている。富雄丸山古墳が、饒速日命のお墓だったら

  • 西本願寺・本願寺派・総長交代 組閣と人事が重要

    組閣と人事が重要。この一連の問題、「新しい領解文」へと至る思想・方針、そして、特に「新しい領解文」を主導的に推進してきた官僚・事務方が一新されるかどうか。西本願寺・本願寺派・総長交代組閣と人事が重要

  • 「0代天皇・饒速日命とは、いったい何者か? その正体とは? 墳墓の違和感から考える」 饒速日命 宇摩志麻遅命 磐余彦命 神武東征 長髄彦 邪馬台国 大和朝廷 第22回 新シリーズ歴史再考

    饒速日命のお墓について、あまりにも違和感がある。一応は、僧侶を務めさせて頂いており、お墓、古墳と触れ合う機会もかなり多いがゆえに、この違和感・・何か裏があると見るが・・その裏とは・・※訂正・・宇摩志麻遅命のお墓は整備されており、継体天皇の勅命で社殿が創建され、物部神社の祭神にもなって祀られています。「0代天皇・饒速日命とは、いったい何者か?その正体とは?墳墓の違和感から考える」饒速日命宇摩志麻遅命磐余彦命神武東征長髄彦邪馬台国大和朝廷第22回新シリーズ歴史再考2025年3月7日https://youtu.be/NgEZMHryo1c?feature=shared「0代天皇・饒速日命とは、いったい何者か?その正体とは?墳墓の違和感から考える」饒速日命宇摩志麻遅命磐余彦命神武東征長髄彦邪馬台国大和朝廷第22回新シリーズ歴史再考

  • 日本書紀や古事記で邪馬台国のことが消されたのはなぜか

    単純に、アマテラス系・神武天皇系統⇒北朝系スサノオ系・大物主・大国主・饒速日命系統・物部氏系統⇒南朝系と考えるのは良くないが、出雲口伝なども加えて、古代史は本当にややこしく考えたら、本当にこんがらがることになる。しかし、欠史八代や邪馬台国・卑弥呼のことが明らかとなれば、全て年代や経緯等も辻褄の合うものになるとは思われるのである。日本書紀や古事記で邪馬台国のことが消されたのはなぜか。。当然に皇統に、矛盾や齟齬等が生じることになったからであろう。いずれにしても饒速日命の存在が、全ての解明へと向けて大きな鍵になると思われるのである。邪馬台国の存在についても、饒速日命との関わりを考えるのである。その古代史最大の謎の鍵が、彼岸中日、太陽が登ってくる生駒山真東、その場所である「岩瀧山」にあるかもしれないと思うと、ザワ...日本書紀や古事記で邪馬台国のことが消されたのはなぜか

  • 「空思想・中観思想・唯識思想・二諦説 全て認識論から考えることが大切となる」第74回 仏教ミニ法話 2025年3月6日

    やはり、「空=悟り」と考えてしまう、本当に単純な間違いが、「新しい領解文」などのような異安心へと陥る原因になった可能性が高いのでしょう・・これも認識論を離れて、空思想を考えてしまった弊害であると言えるでしょうね。仏教は、心、認識の問題を離れてある教えではないということであります。「空思想・中観思想・唯識思想・二諦説全て認識論から考えることが大切となる」第74回仏教ミニ法話2025年3月6日https://youtu.be/5vX3YJM_Ul0?feature=shared「空思想・中観思想・唯識思想・二諦説全て認識論から考えることが大切となる」第74回仏教ミニ法話2025年3月6日

  • 「0代天皇・饒速日命から、初代天皇・磐余彦命へと、禅譲があったのか? 受禅台はどこであったのか?」 饒速日命 宇摩志麻遅命 磐余彦命 神武東征 長髄彦 孔舎衛坂の戦い 八咫烏 金鵄

    往生院の背後の山、岩瀧山に、受禅台があった可能性について。春分の日・秋分の日に、生駒山で、太陽が登ってくる真東にあたる岩瀧山の山頂にて、神武天皇への禅譲が行われたという新説。「0代天皇・饒速日命から、初代天皇・磐余彦命へと、禅譲があったのか?受禅台はどこであったのか?」饒速日命宇摩志麻遅命磐余彦命神武東征長髄彦孔舎衛坂の戦い八咫烏金鵄第21回新シリーズ歴史再考https://youtu.be/Ioh9vuY1MdI?feature=shared「0代天皇・饒速日命から、初代天皇・磐余彦命へと、禅譲があったのか?受禅台はどこであったのか?」饒速日命宇摩志麻遅命磐余彦命神武東征長髄彦孔舎衛坂の戦い八咫烏金鵄

  • 【停止】「新しい領解文」 浄土真宗・西本願寺・本願寺派の定期宗会で「新しい領解文」 停止が決まる この問題の本丸とは 問題の背後関係・背景についても考える必要がある」第73回 仏教ミニ法話

    「新しい領解文」がようやく停止となった。これで当山の親鸞聖人御自作御奉納の御影坐像にも、やっと一つ良い報告ができます。あの慶讃法要初日に、御影堂の外陣から歌を掲げたのを思い出します・・本来は1年前(の改悔批判前)には、絶対に停止させるべきではあったが・・要は、2年間、本願寺派は、異端カルト化・セクト化していたということである。この背景については、徹底的に見直さないと、結局は、第二、第三の「新しい領解文」がまた湧いてくることになる。まだ問題は終わっていない。【停止】「新しい領解文」浄土真宗・西本願寺・本願寺派の定期宗会で「新しい領解文」停止が決まるこの問題の本丸とは問題の背後関係・背景についても考える必要がある」第73回仏教ミニ法話https://youtu.be/iG9Rq-pIQV4?feature=s...【停止】「新しい領解文」浄土真宗・西本願寺・本願寺派の定期宗会で「新しい領解文」停止が決まるこの問題の本丸とは問題の背後関係・背景についても考える必要がある」第73回仏教ミニ法話

  • 【新しい領解文問題】本丸へ辿り着けるかどうか。ここから真価が問われるところとなります。

    本丸へ辿り着けるかどうか。ここから真価が問われるところとなります。【新しい領解文問題】本丸へ辿り着けるかどうか。ここから真価が問われるところとなります。

  • 「新しい領解文」が問題の本丸ではない。本丸はまだ別にある。これを忘れないことです。

    「新しい領解文」が問題の本丸ではない。本丸はまだ別にある。これを忘れないことです。「新しい領解文」が問題の本丸ではない。本丸はまだ別にある。これを忘れないことです。

  • 宇摩志麻遅命が、神武天皇に東征を依頼したという説

    宇摩志麻遅命が、神武天皇に東征を依頼したという説、やっぱりありやん。。やはり、河内で交戦が一切ないのが、おかしいやん、という拙生の勘は正しいと言えるでしょう。。宇摩志麻遅命が、神武天皇に東征を依頼したという説

  • 長髄彦とは何者か・・『長髄彦』宮司が語る衝撃の事実・『長髄彦』登美一族の末裔が『神名を隠し』守り続ける社

    長髄彦とは何者か・・この動画は押さえておきたい。饒速日命の天孫降臨地・・その、生駒の東西の狭間にある往生院は、彼岸中日・四天王寺と真東真西の関係にあるだけに、背後の山の頂上にあるいまだ未解明の石組み(鬼面岩ではない)が相当に気になってきた・・土器はいくつも上流沢で見つかっているだけに、ただの石組みではない。古代史解明へ向けた何かがあるかもである。また山頂調査へも行かないと・・『長髄彦』宮司が語る衝撃の事実https://youtu.be/PXa6QH0oYs4?feature=shared『長髄彦』登美一族の末裔が『神名を隠し』守り続ける社https://youtu.be/nbGt4PmhCvg?feature=shared長髄彦とは何者か・・『長髄彦』宮司が語る衝撃の事実・『長髄彦』登美一族の末裔が『神名を隠し』守り続ける社

  • 「神武天皇の東征について 日本国建国の真相」 饒速日命 宇摩志麻遅命 磐余彦 長髄彦 孔舎衛坂の戦い 八咫烏 金鵄 第20回 新シリーズ歴史再考

    神武天皇の東征の真相と日本国建国の真相。歴史再考、予定外に古代史にまで遡ったのだが、長年、河内に住み、河内の歴史を肌で感じてきたからこそ、見えてくるものがある。生駒山にも何度も登っているからこそ、分かってくる感覚もある。また、往生院の背後にある岩瀧山頂上付近にある巨石・古墳は、まだまだ未解明のまま。上流の沢で土器だけが見つかっている。山頂付近の古墳は、紀元前に近いお墓ではないかと思われる。おそらくは、饒速日命の天孫降臨期に近い遺跡の可能性もある。とにかく、生駒山にはまだまだ未解明な遺跡が眠っていると言える。登山道を外れてくまなくに探さないといけないだろう・・「神武天皇の東征について日本国建国の真相」饒速日命宇摩志麻遅命磐余彦長髄彦孔舎衛坂の戦い八咫烏金鵄第20回新シリーズ歴史再考2025年3月3日http...「神武天皇の東征について日本国建国の真相」饒速日命宇摩志麻遅命磐余彦長髄彦孔舎衛坂の戦い八咫烏金鵄第20回新シリーズ歴史再考

  • 本当の日本建国の真相について

    一気に古代史まで遡るのだが、この機会に、神武天皇の東征について改めて考えてみた。要は、神武天皇東征の際には、河内を饒速日命(か、その息子の宇摩志麻遅命)とその家臣団が支配しており、一方で、大和(奈良)を長髄彦が支配していて、饒速日命が存命中は、河内と大和を饒速日命が、天孫降臨の王として統治していたものの、饒速日命が亡くなった後は、河内を宇摩志麻遅命が、大和を長髄彦が実効支配するようになり、その際に神武天皇が東征したと言えるのかもしれない。むしろ、宇摩志麻遅命は戦わず、神武天皇との密約があり、河内へと迎え入れた可能性もある。なぜならば、神武天皇は、いったん、すんなりと生駒山を越えているからだ。その後、長髄彦と戦闘になり、河内の盾津まで後退し、侵攻作戦を変更、船団は南下、吉野から大和へと攻め入ることになるので...本当の日本建国の真相について

  • 神武天皇東征の再考

    要は、神武天皇東征の際には、河内を饒速日命(か、その息子の宇摩志麻遅命)とその家臣団が支配しており、一方で、大和(奈良)を長髄彦が支配していて、饒速日命が存命中は、河内と大和を饒速日命が、天孫降臨の王として統治していたものの、饒速日命が亡くなった後は、河内を宇摩志麻遅命が、大和を長髄彦が実効支配するようになり、その際に神武天皇が東征したと言えるのかもしれない。むしろ、宇摩志麻遅命は戦わず、神武天皇との密約があり、河内へと迎え入れた可能性もある。なぜならば、神武天皇は、いったん、すんなりと生駒山を越えているからだ。その後、長髄彦と戦闘になり、河内の盾津まで後退し、侵攻作戦を変更、船団は南下、吉野から大和へと攻め入ることになるのである。不思議なのは、河内軍が戦った形跡がほとんどないということである。中臣連らを...神武天皇東征の再考

  • 「0代天皇・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と楠木家(伊予橘氏) 本当の日本建国の真相は? 生駒山天孫(饒速日命)降臨説の真相」第19回 新シリーズ歴史再考 2025年3月2日

    一ヶ月ぶりの歴史動画・・やはり、橘正遠が支配した玉櫛荘の由来は、饒速日命支配地の由来であった。また、生駒山が天孫(饒速日命)降臨地と考えて、ほぼ間違いないだろう。日本の国号・建国宣言も、河内、日下の地において饒速日命が行ったものと考えられる。長髄彦は最後まで抵抗したが、饒速日命、あるいは宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)が、東征してきた神武天皇に国を譲った、国王を譲位したと考えるのが妥当であるのだろう。生駒山の古代史・・相当に解明が難解でもあるが、また上四条古戦場跡調査が一段落したら取り組みたい課題ですね。とにかく、饒速日命の墳墓は、ちゃんと整備した方が良いでしょうね・・「0代天皇・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と楠木家(伊予橘氏)本当の日本建国の真相は?生駒山天孫(饒速日命)降臨説の真相」第19回新シリ...「0代天皇・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と楠木家(伊予橘氏)本当の日本建国の真相は?生駒山天孫(饒速日命)降臨説の真相」第19回新シリーズ歴史再考2025年3月2日

  • 日本建国・0代天皇・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)→物部氏→伊予越智氏→伊予橘氏→橘正遠(正玄)→楠木正成

    饒速日命(ニギハヤヒノミコト)→物部氏→伊予越智氏→伊予橘氏→橘正遠(正玄)→楠木正成やはりか。。河内に因縁深く、正遠が、やがて、玉櫛荘を支配することになったのもしかるべきで、饒速日命の正式名、櫛玉饒速日命、玉櫛の由来は、饒速日命由来を表すと考えるのが妥当なのだろう。河内は、饒速日命、長髄彦の支配地、奈良、河内のヤマト王国確立は、饒速日命であったということである。つまり、建国は、やはり、0代天皇、饒速日命であったとするのが有力であるわけです。饒速日命を祭神とする石切劔箭神社。石切劔箭神社には、楠木正成、正行も幾度も参拝している。自分の先祖が祀られてあるとやはり強く意識していたのであろう。南朝には、饒速日命勢力の後胤が背後にあると考えると、また色々と見えてくるものがある。江戸期に南朝遺跡が見直され、整備され...日本建国・0代天皇・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)→物部氏→伊予越智氏→伊予橘氏→橘正遠(正玄)→楠木正成

  • 【0代天皇の正体】山奥に隠された神の墓へ

    東大阪の日下には、饒速日山があり、磐船伝説はこちらにもあるのである。また、長髄彦と戦った神武天皇東征敗戦地でもある。生駒西麓には、白龍大神、龍にまつわる祠もいたるところに祀られてあり、饒速日命の支配地であったのは確実である。日下のイノラムキという謎の地名の古墳が山中にあることで思い出したが、往生院背後の岩瀧山の山頂にも古墳と思われる巨石石組みがある。あれが古墳であれば、未解明のままであり、もしかしたら石室の存在など、新発見があるかもしれない。山頂付近の沢では土器も多数出てある。岩瀧山調査もまた再開しないといけない。そういえば、もともとYouTube始めたきっかけは、岩瀧山調査からであったのであった、、【0代天皇の正体】山奥に隠された神の墓へ

  • 龍谷大学真宗学科を大事にしないと、本願寺派は衰退の一途

    龍谷大学真宗学科を大事にしないと、本願寺派は衰退の一途となるだろう。拙生が、浄土真宗教学の基礎、基本を学んだのは、真宗学科の学生さんたちの卒論集からである。優秀な論文がたくさんあり、変な癖や偏見が無く、学ぶのに最適なのである。龍大真宗学科を馬鹿にしている奴らがした「新しい領解文」を中心とした一連の所業をみれば、どちらが大事であるのかは一目瞭然なのである。龍谷大学真宗学科を大事にしないと、本願寺派は衰退の一途

  • 横小路村山川家文書の歴史講演会と多門寺廃寺について

    横小路村山川家文書の歴史講演会へと行ってきた。1700年代中頃の地図があり、そこには寺社が、地蔵堂(現・常光院)と大賀世神社しか記載がなく、醍醐寺(安楽寺)は廃寺?状態で、西教寺はまだ建立前であった。最も知りたかった多門寺(楠木家開基)も残念ながら確認できなかったが、何せ文字が細かくて見えないし、崩し字、、解読された学生さん曰く、この地図上では、当時、寺院は一つもなかったと、、地蔵堂もお堂だけがあったようですと。多門寺の廃寺時期についてもう一度調べてみよう、、1694年の検地帳に、多門寺の存在がはっきりと記載されてあるのは確かであるから、地図に記載がなければ、1700年〜1750年の間に廃寺になったということになる。なるほど、、横小路村山川家文書の歴史講演会と多門寺廃寺について

  • 「坐禅体験・大阪・一坐会・定例会」 毎月ついたち開催

    本日の定例ついたち坐禅会、無事に終わりました。次回も般若心経についての解説を予定しています。「坐禅体験・大阪・一坐会・定例会」毎月ついたち開催次回、日時:令和7年4月1日午前8時半から1時間次回のイベント告知ページ4/1「坐禅体験・大阪・一坐会・定例会」https://fb.me/e/5hNbaqQGO会場:大阪市北区堂島浜・堂島浜タワー16F「WowUs」(ワオアス)https://wow-us.jp/大阪メトロ・京阪電鉄「淀屋橋駅」7番出口から徒歩約6分定員:20名・要事前申し込み(※定員になり次第、締め切ります)お布施:お一人2,000円体験参加申し込みは、下記メールアドレスまでご連絡下さい。申し込みメール先oujyouin@gmail.comまで令和7年2月から、「WowUs」にて毎月1回、毎月1...「坐禅体験・大阪・一坐会・定例会」毎月ついたち開催

  • 「新しい領解文問題 いよいよ解決へと向かうのか? 浄土真宗・西本願寺・本願寺派の定期宗会での議論の経過を注視する必要あり」第72回 仏教ミニ法話

    現在、開催中の定期宗会において、いよいよ新しい領解文問題が解決へと向かうのか、誠に注視したいところであります。「新しい領解文問題いよいよ解決へと向かうのか?浄土真宗・西本願寺・本願寺派の定期宗会での議論の経過を注視する必要あり」第72回仏教ミニ法話2025年2月28日https://youtu.be/ADRlAYPszuA?feature=shared「新しい領解文問題いよいよ解決へと向かうのか?浄土真宗・西本願寺・本願寺派の定期宗会での議論の経過を注視する必要あり」第72回仏教ミニ法話

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