日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
横浜には、山下公園と山下ふ頭、そして新山下に貯木場がある。こう書くと、山下ふ頭の後に、新山下貯木場ができたのでは、と思われるかもしれない。だが、実は、新山下の貯木場は戦前に作られていて、山下ふ頭は、戦後の建設なのだ。それを示す映画がある。1933年の清水宏監督の『港の日本娘』で、主人公の港の不良江川宇礼雄が、山手の丘で女学生の井上雪子と及川道子に会う。なんと彼は、オートバイで現れるのであり、まるで日活最後の映画『八月の濡れた砂』みたいだなあと思ったものだ。このとき、丘の下では、埋立工事が行われているのが見えるが、これは貯木場なのだ。当時、関東大震災による被害で、住宅需要があり、横浜では新山下に貯木場を作ったのだ。東京の木場も、このときに拡張したはずだと思う。この貯木場が出てくるのは、篠田昌浩の『涙を獅子の...山下と新山下
前に買って、1回見ただけのをきちんと見てみる。言うまでもなく、1934年6月にドイツのニュールンベルグで行われたナチスの党大会の記録映画とされている。党大会とは言われているが、むしろナチス祭のような行事で、6日間行われたとのこと。このビデオは、米国製で、戦後ドイツでは、一般に公開禁止だった理由がよく分かる。映画として、大変によくできていて、移動撮影や短いカットの積み重ね、そして全編に流れるオーケストラで、まるでミュージカルのように感動的だからだ。肉体と行進のミュージカルとでも言うべきものだろう。まず、ニュールンベクの上空を飛んでくる飛行機で始まる。ユーカンスの単発機が、暗雲の中を飛んできて、飛行場に着陸して、無事ヒットラーが降りたつ。まずは、町への進行と行進、ヒトラーは、ベンツに立ち、沿道の観衆に手を上げ...『意志の勝利』
ユーチューブの横浜経済新聞の動画で、「クリスマス・ショー」を見るが、こんなことができるのは、横浜港だけだと思う。横浜港では、みなとみらいも、新興も、どこも広く緑地を取っているので、多くの人が見に来られるのだ。山下ふ頭再開発についても、緑地を取ってほしいというもっともなご意見もあった。ただ、これは現実を知らない意見である。日本のどの港よりも、緑地が大きく取られているのである。「これができるのは、横浜だけだ」
パレスチナのガザ地区で起こっている残虐事件は、ナチがやったホロコーストと同じであり、人間というのは実に愚かなものだと思う。そして、この事件を主導しているのは、イスラエルの極右、「パレスチナは、神がユダヤ人に与えた土地だ」との信仰がもとだとしている。本当にそうだろうか、だとすれば19世紀まで、なぜパレスチナにユダヤ人、アラブ人は、共存していたのだろうか。理由は、簡単である。問題は、宗教ではなく、きわめて世俗的な問題だったからだ。どうしてかは知らないが、あの地は、アラブ川、ガリラヤ湖、死海など、水に恵まれた地域だった。『聖書』にも、「ランド・オブ・ミルク・アンド・ハニー」とあり、農業、牧畜に適した地域だった。だからこそ、諸民族が争ってきたのであり、決して宗教問題ではない。世俗問題なら、いずれ妥協で解決できるは...「中東の紛争は、宗教問題ではない、水争いである」
良く知られているように、山下ふ頭の山下公園側は、国の整備で、その後に横浜市港湾局が埋立して整備したので、中央から新山下側は、横浜市の財産だった。ただし、そうした横浜市が整備したところでも、岸壁、桟橋部分は、国が建設した。それは、港湾法によって、外貿ふ頭の外殻施設、つまり防波堤、岸壁、さん橋等は、国が整備すると定められていたからだ。だから、本牧ふ頭のD4などの公共バースも、国の整備だったはずだ。だから、山下ふ頭では、もともと全部が国のものだったのである。山下ふ頭の岸壁は全部国の建設だった
山下ふ頭の岸壁の構造は全部違うと聞いたことがあり、それは本当のようだ。「どうしてそんなことが行われたのですか、一番良いもので全部作ればよかったのに」と聞くと「国の技術者が、博士論文を書くのに使用されたのだろう」との答えだった。その性か、1970年代のある日、山下の岸壁が、なにもないのに突然崩壊して大問題になった。議会で、共産党が追及したが、なんとなくうやむやになった。奇妙な事件だった。「山下ふ頭の岸壁は全部違う」
話題の横浜港の山下ふ頭再開発について、次のように考えます。エリア整備の内容整備手法整備主体その他ふ頭基部山下公園側ここについては、市内で長く独自の演劇をしてきた横浜ボートシアターを評価し、船を岸壁に付けて、活動をさせる。だが、シアターのみでは採算が取れないので、これを包含する中劇場「横浜ワーフシアター」(600席)を作る。この規模については、宝塚バウホールがあり、中規模の劇場の試みがあるので、これに倣う。この劇場のホリゾントは開閉式にして、花火大会の際の有料席とするほか、船を小劇場とし、中劇場の公演と映像で繋ぐような実験ができるものとする。中劇場は、横浜市が整備し、ボートに委託して運営させる。ボートシアターは、船を横浜市に寄付し、運営の委託を受ける。横浜市役所船も寄贈を受けた後、市の財産とする。基部新山下...山下ふ頭の再整備について
『ブギウギ』でも、戦時中の時代に、アメリカ文化的な踊りや歌が否定されて、指導されることが出てくる。エンターテイメントの意義を知らない日本のバカ役人だが、逆に米国は、日本研究を始めたので、ドナルド・キーンなどの日本語練習生を養成し始めたのだ。敵を知らずに戦うというのだから、ひどいと思う。逆に言えば、昭和初期、少なくとも東京や大阪などの大都市では、欧米の文化が大きく広がっていたことを示すものだろうと思う。精神主義では、一時的に勝利はしても、長い戦いとなれば、日々のきちんとした戦いこそが重要で、日本軍は、アメリカを「毎日、定期便のごとき爆撃」とバカにしていたが、それが毎日続くと日本兵は次第に疲労したのだった。つまり、異常な数日ではなく、毎日同じことを普通に長くやることが重要なのである。この辺は、物量の差と言えば...「孫氏の兵法を知らなかった日本、実行した米国」
昨日の『わが映画人生』を見て感じたのは、井上と舛田のお二人は、松竹系の監督、助監督は意識しておられたようだが、大映系の人は、意識されていないらしいことだった。たしかに、巷間言われているように、日活には、松竹大船の助監督がたくさん来た。だが、田坂具隆、古川卓巳、牛原陽一らの大映系の人も多かったのだ。もともと、大映は、旧日活で、それが戦時中の映画法への永田雅一の便乗で大映になったのだから、製作再会した日活に元の、すなわち大映に人が来るのは当然のことだつた。中には、森永健次郎のように、大映には行かず、戦後も東映にいて、また日活にもどって来た監督もいた。山崎徳次郎なども似た系譜だった。そうした大映系の力の象徴の一つとしては、石原慎太郎の最初の『太陽の季節』の監督が古川卓巳だったことでもわかるだろう。ただ、大映の人...「井上梅次も、舛田利雄も大映系を問題にしていなかった」
池田大作氏が亡くなれたが、創価学会が始まったのは、東京の大田区である。初代会長の牧口常三郎、二代目の戸田城聖も、大田区の教員で、当時の公教育の不備に不満を持っていた人たちだった。戦前は、尋常小学校までが義務教育、つまり公教育で、それ以後は勝手、要は裕福でないと上には行けない仕組みだった。そのために左からの教育改革運動があり、大田区でも赤化教師事件等があった。それに対し現実的方法を目指す連中もいて、それが創価教育学会だった。私の父親は、大田区で戦前から小学校の教師をしていたが、その父によれば、「創価学会は、テスト屋だ」ったそうだ。彼らは、模擬試験や塾の実施、さらに参考書の販売をやって大いに儲けていた。また、戸田は事業家でもあり、宗教以外に金融業から建設などいろいろと事業もやっていた。だが、そうした副業は、敗...創価学会の発祥の地は、大田区
伊集院修が亡くなったそうだ。彼の妻だった女優の篠ひろ子とは、私は生年月日が同じで、1948年3月8日なのだ。横浜市役所には、もう一人新井貴君がいたが、あまり愉快ではないので、書かない。篠ひろ子とは、生年月日が同じ
「月丘夢路・井上梅次100年祭」の最後、新東宝、日活時代の助監督だった舛田利雄によるインタビュー。1999年で、大監督の舛田が、井上の前では小さくなっているのが不思議。戦後、学徒動員から大学に戻った井上は、高校の同級生内川清一郎からの話で、新東宝発足時の石田民三監督の『縁は異なもの』の助監督についたことから、新東宝の助監督になり、その働きぶりが大きく評価され、4年後に監督昇進を言われる。だが、阿部豊、渡辺邦男、斎藤寅治郎の三大監督からクレームがつき、昇進が見送られる。もちろん、監督が言ったのではなく、その助監督連中が反対したのだ。戦中も、黒澤明以外昇進した者はいなかったので、当然だが、仕方なく、宝塚映画で監督になり、その後新東宝で音楽映画等を撮った後、製作再開をした日活に移籍する。舛田利雄の方が先に日活に...『わが映画監督人生・井上梅次』
日本の選挙ですごいのは、投票の数がきちんと合うことだろう。投票所は、交換券を出していて、二重にチェックしているので、投票所で数が合わないことはまずない。だが、開票所は、多くの人が来て一斉に作業をするので、数が合わないこともあり、昔は、職員が「白票を持っていて、分からないように混ぜた」という話もある。「今は、持ち帰り票で調整できるので楽だ」と彼は言っていた。だが、私は、本当に「持ち帰りと思われる票」に遭遇したことがある。それは、ある区の区役所で期日前投票をやっているときだった。統一地方選で、県知事、県議会議員、市会議員の選挙。投票所を閉めて、投票数を数えたが、県議会議員だけ、入場者数に対して1票少ない。いろいろと考えてみて、すぐに分かった。それは、公明党で、市会には候補がいて、県知事も推薦候補がいたが、県議...持ち帰り票
私が、日本の選挙で一番おかしいと思っているのが、公営掲示板である。これは、昔からあると誤解している人も多いと思うが、こんなものができたのは、つい最近の1980年代のことだ。それまでは、選挙のポスターは、もちろん自分で作るが、それを支持者の家や店舗、事務所、工場に貼ってもらうものだった。ところが、1960年代以後、公明党が道路等に大量にポスターを掲示し、また自民党の企業候補も、事務所や工場の壁等に大量に貼って大問題になった。そこで、これを規制する方法として、わざわざ行政の予算を使って公営掲示板にポスターを貼るようになったのだ。これで喜んだのは、町の看板屋、仕事師の連中だけだろうと私は思い、こんな無意味な制度は辞めるべきだと思っている。この公営掲示板は、法に決まっているのではなく、選挙の前に議会で議決するもの...公営掲示板
まだ、介護保険ができていない頃、横浜市の区役所には、大体2名くらいの公的ヘルパーがいた。市職員としてのホームへルパーで、おおむね困難世帯に当っていた。私がいた、ある区に、高齢の女性で一人暮らしの方がいて、若いころの病気で肺が片方なく、酸素ボンベを背負って生きていた。ところが、喫煙者だつたので、酸素ボンベをしながらタバコを吸い、酸素が爆発してロケットのように階段を小柄な彼女が飛んだほどだった。そうした彼女が、ある日入院していたK病院を退院してきた。そこで、私が担当のケースワーカーに「こんな人を退院させて平気なのか」と聞いた。するとケースワーカーは言った。「課長、平気ですよ、選挙ですから。この選挙運動期間中、学会員が、毎日アパートに来て、炊事、洗濯、掃除など全部やってくれるのですから。そして、投票当日は、一緒...公明党の選挙手法
私は、横浜市役所に30年くらいいて、区役所にも4回行ったが、そこで一番面白かったのは、生活保護と選挙だった。それは、どちらも横浜市民に直接触れられるからである。選挙は、本来は「民主主義のお祭り」なのだから、大いに騒いで盛り上げるべきなのだと思う。現在の日本の選挙制度は、厳しすぎるが、それは1960年代の初め、公明党の台頭に、自民党と社会党が恐怖したからだった。公明党の、学会員の手弁当による運動に恐怖した両党が、大衆集団的作用手法の公明党に叶わなくなっので、規制を厳しくしたのである。この頃から、日本の選挙制度は、「公営化」がすすめられ、政党支持者の手によるものではなくなったので、実に詰まらないものになっている。極端に言えば、私は、買収など金を使う選挙以外の手法は、すべて許可して良いと思っている。戸別訪問など...『NO選挙、NOLIFE』
私のもう一つの市長決済事案について書く。これは、新杉田にあった西武鉄道の土地の購入である。昔の人なら、新杉田に西武のゴルフ練習場やテニス場、自動車学校、そして西武農園のガーデンがあったことを記憶しているだろう。実は、ここは戦後すぐ横浜市が埋立権を取得して工事をしていた場所だった。根岸湾は、戦前から湾の北と南の両方から埋立を行ったもので、南の新杉田はおそらくは県の埋立で、日本飛行機や県工業試験場などがあった。そこにさらに横浜市が戦後、埋立を行ったのだが、当時は根岸湾のハ地区の埋立以前で、湾の波浪は非常に大きく、ある時台風の波で、護岸が壊されてしまい、ついに横浜市は埋立を断念した。その埋立権を取得したのは、当時横浜で、野毛の横浜国際劇場、野毛山の迎賓館等をもっていた桑島建設が設立した財団法人に売ってしまった。...200万で売った土地を60億で買い戻す
横浜市役所に長年いて、市長決済の文書を担当したのは、2回だけだと思う。一つは、新杉田で、西武鉄道が持っていた用地を、357号線等の用地とするために約60憶円で買収した時だった。これは、横浜市がもともと持っていた埋立権を200万円で、桑島建設の関連団体に売ったものを取り戻したという、バカバカしい事案だった。もう一つも、これまた国道357号線関連の事案で、大黒ふ頭、本牧ふ頭の首都高への土地の売却の問題だった。これについては、横浜市港湾局管財第一係長の、私の前任者の小山政雄さんが、周囲の無理解にもかかわらず大変に頑張っていて、首都高に対して有償で売ることで数年間交渉していたのだった。対して、首都高と横浜市道路局の伊藤課長や、後に開国博の本部長にされて、中田宏市長のあまりのひどさに苦悩して若死にしてしまった川口お...市長決済
意外な大男とは、寺山修司である。1970年代の中ごろの12月のあるとき、私は大学の仲間と劇団を作り、茗荷谷の元倉庫の小劇場で芝居をやった。初日だったと思うが、劇が始まったころ、一人の大きな男が現れた。それが寺山修司で、もちろんトレンチコート姿だった。それは、私が脚本を書き、去年死んだ下川博が演出し、主演は、これも数年前に自死してしまった山本亮ともう一人は、映画『戦争と人間』にも出たことのある吉田君、さらにもう一人の女性の3人の芝居だった。こう書けばわかる人は分かるに違いない、映画『明日に向かって撃て』を下敷きにした短編である。私は、この映画の大筋と、『ゲバラ日記』を交錯させる劇を書いたのだ。当時、どちらも私たちはみな好きだったからだ。大男の寺山は、別に私の作品に興味があって見に来たわけではない。もう一人の...意外な大男
現在の映画の上映方式である、シネマトグラフを作ったフランスのリュミエール兄弟の作品をまとめたもの。これを見ると、19世紀末の欧州の雰囲気がよくわかるが、実にのんびりしていて、第一次世界大戦の前の欧州は、よい時代と社会だったと思える。ただ、こうした欧州の繁栄は、いうまでもなくアジア、アフリカ等の植民地からの富の収奪、搾取にあったことが分かる。日本もあり、京都での剣術の試合だが、所謂剣術風ではない。日本刀を振り回すのではなく、斧を振り下ろすようにしているもので、『七人の侍』の千秋実の「巻き割り流」であり、日本刀の重さを考えれば当然だろう。薩摩の示現流も、こうした上から垂直に振り下ろす剣法で、実戦ではこうなるのだと思った。日本編には、もう1本あり、田んぼで水車を踏んでいる男の映像だが、ここにはなかった。『リュミエール』
久しぶりに嘘だらけ映画を見た。『サタデー・フイクション』である。まず、モノクロで手動撮影であることが不愉快である。全体として、大映の『陸軍中野学校・開戦前夜』の方が百倍上だ。最後、日本人スパイから聞き出した「ヤマザクラ」がハワイ真珠湾攻撃であることが分かるが、これは現在では完全に否定されている、ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた説で、まったくの嘘。途中で、テープレコーダーらし機器が動いているが、テープレコーダーは、戦時中にナチスドイツが発明して、戦後にアメリカによって実用化されたもので、1941年の上海にあるはずがない。それまでは、SPレコードの原盤に録音するか、細い銅線に録音するワイヤーコーダーしかなかったのだから、これは本当に無知というべき。これほどひどい映画は、まずないだろうと思った。嘘だらけ映画『サタデー・フィクション』
最初から最後まで初めてきちんと見たが、傑作で大いに感動した。青春映画であり、青春の哀しみの傑作である。監督の舛田利雄は、アクション監督と言われるが、実は抒情的であり、また詩的である。最後、新宿のキャバレーの楽屋で、悪玉の青木義郎を渡哲也が追い詰めて、刺し殺す。キャバレーの裏口の金網の向こうの、映画館の題名が「汚れてしまった悲しみ」で、中原中也なのだ。美術が素晴らしいが、当然にも木村威夫先生である。敗戦直後、母と妹を失った渡哲也の五郎が、少年刑務所に入れられ、年上の少年待田京介と兄弟分になる。渡は、あるやくざのいざこざで、再会した待田を刺すことになるが、その時、待田の情婦・松尾嘉代に、「人殺し!」となじられる。3年後、獄から出た渡は、浅草の上野組に籍をおくが、そこは新興勢力の青木の組に押されていて、常に対立...『「無頼」より大幹部』
山下ふ頭再開発について、その先端部分の利用法について、書く。ここは、非常に議論のあるところだと思うが、一番需要なことは岸壁を使うことだ。まず、考えられるのは客船だろうが、すでに横浜港には、大さん橋の他、大黒ふ頭と新興のハンマーヘッドにも客船バースができたので、もう客船バースはいらない。そこで、ここを岸壁使用を前提とした高級な賃貸住宅を作る。数年間に、大さん橋に行ったら、円谷プロの特撮テレビに出てくるような怪船が停泊していた。「どこの船?」と聞くと、ロシアのオルガルヒの大型ボートだそうで、こうした連中に住宅を貸し、賃貸料と岸壁使用料を取り、横浜市の経済に貢献させるのだ。要は、IRの代わりにして、この連中がカジノをしたかったら、横浜から大型ボートに乗って、大阪の舞洲に行ってやってくれば良いのだ。このエリアは、...山下ふ頭再開発・4
1962年の日活映画で、神戸が舞台になるアクション映画。神戸の映画と言えば、石原裕次郎の1958年の『赤い波止場』があり、これはほとんど神戸で撮影されている。このリメイクの渡哲也の1967年の『紅の流れ星』も傑作だったが、これは神戸港のシーンは、ほとんど横浜で撮られていて、日活も大変だったのだなあと思う。この『姿なき拳銃魔』は、1962年で、ちょうど中間だが、大体は神戸で撮影されているように見えるので、この頃はまだ日活は金があったようだ。東京の刑事事件で犯人を自殺差せてしまった刑事の葉山良治が、山田禅二と三崎千恵子の居酒屋で酔っている。そして、神戸に異動させられるが、警察官は都道府県単位なので、東京から兵庫に異動するはずはないと思うが。監督はサイレント時代からの名優の小杉勇で、彼は念願の監督になれたので、...『姿なき拳銃魔』
山下ふ頭再開発の基部のうち、旧新山下貯木場の新山下側について考える。ここは、山下公園と反対側で、新山下の中村川河口に面する部分である。ここは、おおむね低層の長屋風の「町屋地帯」にする。例としては、京都の町屋的なエリアにする。そこに長屋、路地、広場などを配置し、その家屋の中で、文化、市民活動を行う。ところどころでは、居住する者もいる、「アーチスト・イン・レジデンス」も展開する。イメージとしては、最近増えている、商店街の空きスペースを利用した活動に近いだろう。今後は、文化活動も大規模なものではないと思われるので、こうした小空間で自由にできるようにしておく。劇場と連携した稽古場、専門・専修学校などの誘致も可能だと思う。また、新山下との間の広い水面は、市民の海洋性レジャーやスポーツを行う空間とし、そのための必要施...山下ふ頭再開発・3
皆さんが一番興味があるだろう文化施設について、私の考えを書く。まず、前提として二つある。いろいろと問題はあるだろうが、今の横浜で、一般的に文化施設は、かなり整備されてきた。美術館、コンサート・ホール、博物館等も、みなとみらいや港北ニュータウンですでに整備されている。残るものと言えば、林前市長の場違いなオペラハウスくらいだ。もう一つは、文化施設は、行政にとって緊急に整備すべきものではないので、ここでも最後の最後に整備されるべき施設だということである。その中で、現実化が考えられるのは、長年横浜で、独自な活動をつづけきた横浜ボートシアターを中心とした劇場である。ただ、言うまでもなく横浜ボートシアターだけでは、商業的に自立させることは無理だろう。だから、彼らの船を山下ふ頭基部の山下公園側に接岸させるとしても、それ...山下ふ頭再開発について・2
昨日の夕刊に、京都に私設図書館が「鈍考」があると出ていた。ここには、なにも書かれていないが、東京墨田区には、渡辺信夫さんがやっている「眺花亭」がある。墨田区森下で、墨田川に面したマンションにある。学生時代から、映画、音楽、芸能、都市論等が好きだった渡辺さんが集めてきた本や雑誌を展示しているもの。コロナ以前は、定期的に映画会も開かれていて、私も行ったものだ。最近は、私も行っていないが、きちんと活動されているようだ。墨田区にもある私設図書館
1969年の日活映画で、製作は芸研プロで、後に日活が、石原プロや今村プロ、小林旭のアローエンタープライズ、武智鉄二の映画など以外で、外部の弱小プロに制作委託、あるいは資金導入をして映画を作った最初の方だと思う。松原智恵子と伊東ゆかり、和田浩二とワイルド・ワンズでは、所詮は二流で、監督の斎藤耕一も適当なときがあるので、期待しないで見ていたが、意外にも面白かった。理由は、阿部寿美子や松本染升と言った渋い役者が出ていたことにもある。話は学園もので、松原と伊東が、愛栄学園という大学のマドンナで、和田浩二とワイルド・ワンズが男の学生連中。撮影現場は、東大駒場のように見えるが、助監督等に駒場出の連中がいたのだろうか。松原は、世界中の男と文通、ペンフレンドをしていて、伊東は孤児院に住み込みでアルバイトしている。この辺が...『愛するあした』
正編が面白あったので、続編も見る。ただ、ここでも主人公は戸田城聖の丹波哲郎であり、池田大作氏のあおい輝彦は、脇役的存在である。これで良いのかと思うが、やはり戸田という人は、面白みのある人だったからだろう。終わりの方で、信用組合の倒産で債権者に告訴されたとき、検察の部長の青木義朗が現れて、「この人は嘘をつくような人ではない」と添え状を書いてくれて、無事釈放されるのだから、魅力的な男だったのだろう。戦後、戸田は学会活動と共に、出版社の正学館を再建し、小説や雑誌を出すが、大手が復活して来て押される。そこで、代わりに建設信用組合を作るが、インフレ経済再建のドッジ・ラインによって一挙に金融引き締めになり、それもダメになる。この間、資産家の志村喬の援助を受けていたが、彼の指摘が面白い。「事業家がだめになるのは、政治と...『続・人間革命』
池田大作氏が亡くなったので、『人間革命』を見る。ただ、この映画の主人公は、池田氏の前の会長の戸田城聖・丹波哲郎で、池田氏は、写真でワンショット出てくるだけだ。1945年7月、豊多摩刑務所から戸田が釈放されてくる。妻は新珠三千代で、中野の自宅に行くまでに、戸田は、戦時下の惨状を知る。そして、8月15日の敗戦、だが、すごいのは戸田はすぐに神田に事務所を借りて、戦前にやっていた出版事業を始める。ここから、脚本の橋本忍得意の回想になり、戦前に、教員だった戸田は、日蓮宗の思想家だった牧口と会い、日蓮宗に帰依する。当時、牧口も戸田も、同じ東京城南地区の教育者として、公教育の不備に悩んでいて、創価教育学会を作ることになる。戦前は、義務教育は尋常小学校までで、それ以後は個人の資産によるもので、上層の者しか中学以上へは進学...『人間革命』
山下ふ頭は、もともとは安保代替ふ頭とよばれ、1950年代当時、瑞穂ふ頭の全部と新興ふ頭の大部分を米軍に提供されていたので、その代替として、国に要望して建設してもらった外貿ふ頭だった。だから、山下公園側のふ頭用地は、国有地、ただし管理委託で横浜市が管理運営していた。その他の民間倉庫会社の倉庫が立っている部分は、国が個々の店社に底地を売ったので、民間企業の土地だった。その後、横浜市が埋立をしてふ頭を拡張したので、およそ全体の70%くらいの新山下側のふ頭用地は横浜市港湾局で、民間倉庫の底地は、民間企業のものだったと記憶している。当時は、仕事柄、横浜港の臨港地区のほとんどの土地の所有者を記憶していたのだが。さて、その後、例の「IR」が企図され、林文子市長の命令で、「山下ふ頭の用地は、ほとんど横浜市が土地交換等をし...山下ふ頭は、
池田大作氏が亡くなられたそうだ、93歳。その家業を大森の「海苔屋」と書いてあった。間違いではなく、海苔を売っていたかもしれないが、その本業は、海苔ひびの貸付だった。海苔ひびとは、竹などで作るもので、それを海に刺して、海苔を養殖するもので、今では合成の網になったいるようだ。そのひびを貸すのが本業で、言わば網元のような存在である。金貸しと書いてあるのも見たが、それに近い存在でもある。東京の城南地区の中小企業の生まれだったということは、創価学会、公明党の性格をよく象徴していると思う。池田大作の家業は
今、イスラエルが、ガザ(英語ではガザ・ストリップといい狭いことの表現)で行っている惨業は、まさにジェノサイドである。いくらハマスが、イスラエルに攻撃を加え、人質を取ったといっても(ガザの壁近くでレイブをやっていたイスラエルの若者もどうかしているが)、その10倍以上のガザの人間、子供を殺しているのはジェノサイドいがいのなにものでもない。とくに子供を殺していることが重大だと思うのは、ナチスと同様に、イスラエルの現在の異常な極右政権が、パレスチナ、アラブ人を根絶やしにしようとしていることだ。これは、ヒトラーらナチスが、ユダヤ人を根絶やしにしようとしたことと同じだ。その意味では、ネタニヤフは、プーチンと同様に、反対勢力を根絶やしにしようとしている。これは、みなナチスに学んだと言える。昔、自民党には、「ナチスに学べ...「ナチスに学んだイスラエル」
1936年2月26日、近代史で唯一のクーデターである2・26事件がおきた。このとき、27日に昭和天皇の命で戒厳令が敷かれ、すべての電話交信が傍受、盗聴されて、その録音盤をNHKが入手し、再生に成功した。1979年2月『NHk特集』で放映されたもので、司会は三国一郎。盤は、78回転のラッカー盤で、手回し録音機で録音されたので、回転数が外側と内側では異なり、その回転数の調整も行われた。盗聴したのは、戒厳司令部で、陸軍の参謀がやったとのこと。ここで一番面白いのは、クーデター本部の一つだった料亭幸楽の安藤大尉に掛けた北一輝の会話で、実に普通の貫禄のまったくない声なのだ。「まる、まるはあるかね、金、金だよ」「こんな奴が、日本の右翼の黒幕だったのか」と唖然とした。もちろん、再生のためにカットした声帯もあるので、軽くな...『交信ヲ傍受セヨ』
山下ふ頭の再開発について、以下に私の考えを書きます。その一で、まずは中央部で、ここは横浜市の公共施設を作る。なんでも良いが、老朽化から移転が決まっている横浜市大病院が最適だと思う。これについては、2年前に中区根岸の旧米軍住宅地区の案が出たが、およそ現実を知らない者の案と言わざるをえない。なぜなら、根岸住宅地区のほとんどは、国有地で、ほんの数軒住宅があるだけであり、市有地はまったくないのです。どうやって病院用地を取得するのでしょうか。国有財産審議会の審議だけでも、5年は掛かるでしょう。さらに、あの高台にどうやって登るの?ケーブルカーでも作るのでしょうか。その点、山下ふ頭は、IRの性で、現在はほとんど市有地ですから、どこでもすぐに建てられます。さらに、ここを拠点に、当別養護老人ホームなど介護・福祉施設を作る。...山下ふ頭の再開発についての私の考え・1
夕方、明治の山田先生の『軍人としての高松宮』をオンラインで聞くが、いつものことながら非常に面白い。さすが山田朗先生。終わって質問があり、「太平洋戦争の主役は、海軍だったのに、陸軍が悪玉にされて、海軍がなぜ善玉とされ、東京裁判でも重罪の者が出なかったのは、なぜか」だった。先生によれば、戦後すぐの米英にとって最大の敵は、ナチスドイツだったので、それに近づいて戦争に至った陸軍を罰した。だが。これで海軍と天皇側近、内務省等は免責されたので、日本国にとっても良いことだった」とのお答えだった。まさにその通りで、戦後の改革で唯一手がつかなかったのが、内務省等の旧国家と官僚の罪で、これは今につながる「官尊民卑」の元になっていると思う。日本維新の会程度では、とうてい改革は無理だと思う。小沢一郎くらいの剛腕がなければ、絶対に...海軍善玉説の元は・・・
『パトリシア・ハイスミスに恋して』を見たので、『太陽がいっぱい』を見るが、その延長線上でルネ・クレマンの『危険なめぐり逢い』か『狼は天使の匂い』を見ようと思い探したが、すぐに見つからなかったので、ジョン・シュレシンジャー監督、ジュリー・クリスティ主演の『ダーリング』を見る。1961年の『太陽がいっぱい』は、みな知っているだろうが、アメリカの貧しい青年トム・リプリーのアラン・ドロンが、サンフランシスコの富豪の父親から息子モーリス・ロネの帰国を5000ドルで頼まれて、イタリアに来る。最初は、彼の帰国を促そうとしていたが、ロネの自分への扱いに嫌気がさし、ヨットの船上でナイフで彼を刺し殺して、彼に成りすまそうとするが、最後ヨットのワイヤーに巻き付いた死体が引き上げられて殺人が暴露されるところで終わる。実は、原作は...『太陽がいっぱい』から『ダーリング』へ
1987年春、横浜市港湾局港営課管財第一係長としての最後の仕事は、公共臨港線を廃止する申請を運輸省にすることだった。公共臨港線とは、1964年に、新興ふ頭まで来ていた国鉄の線路を伸ばして、山下ふ頭への貨物専用線を建設したもので、当時経済成長で賑わっていた山下ふ頭の大量の貨物を鉄道でさばくものだった。また、当時はほとんどの海外旅行客は、客船で来日し、大さん橋もにぎわっていたので、ここから出る旅行客と荷物を妨げないように、そこは高架で渡り、山下公園の端を進んで山下ふ頭に入るものだった。これについては、市民にアンケートも行って決めたのだった。いかに貨物があったかは、19666年の鈴木清順の映画『東京流れ者』の冒頭のシーンを見ればわかる。そこでは、渡哲也をリンチするために、川地民夫、郷英治らが、渡哲也を取り囲むの...港湾局での最後の仕事
『太陽がいっぱい』で思い出したが、1960年代に東京の痴漢の巣と言われたのは、渋谷の東京文化会館の5階にあった東急名画座と新宿の、これも5階か4階にあった新宿日活国際名画だった。新宿は、その昔は、帝都座といい、戦後日本で最初のストリップショーが行われたところでもあった。額縁ショーといい、西洋の名画のように、額縁に裸の女性が立っているというものだった。動くと猥褻で、取り締まりを受けたので、じっとしていて立っているだけのものだったようだ。実にバカバカしいものだったようだが、大入り満員だったとのこと。私が高校生の頃は、立派な名画座になっていたが、その裏で、痴漢の巣でもあったようだ。新宿には、もう1軒、有名な館があり、新宿東映パラスだった。あるとき、フランスの『ファニー』を見ていると、明らかに「オカマちゃん」のグ...痴漢の巣
パトリシア・ハイスミスと言えば、映画『太陽がいっぱい』の原作者だが、それ以前に「交換殺人」の『見知らぬ乗客』のアイディアだけでもすごい。彼女が、実はレスビアンであり、米国を離れて欧州に住んでいることは、昔小林信彦の本で知っていた。たしかに、映画『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのモーリス・ロネへの嫉妬と羨望には、ホモセクシュアル的な匂いがしたものだ。これを見たのは、高校3年生のとき、渋谷の東京名画座で、私は、サラリーマン風の男に尻を触られたので、よりそう思ったのかもしれないが。彼女は、1921年に彼女はテキサスのフォートワースの裕福な牧畜業の家に生まれたが、両親が離婚したので、6歳のときに再婚した母のいるニューヨークに移住する。彼女は、母親を愛してたそうだが、母からは性的異常を言われていて、そこにまず自己...『パトリシア・ハイスミスに恋して』
昨日から急に寒くなり、ようやく秋から冬になったが、昔からみれば1カ月くらいずれて来ていると思う。私は、大田区池上の生まれ、育ちで、ここは日蓮上人の寂滅の地で、その日10月2日は、お会式が行われる日だった。そして、記憶では、この日ごろには、大体セーターを着ていたものだった。今日は11月13日なので、約1か月くらい遅れていることになる。ドナルド・トランプがいくら否定しても、地球温暖化は、間違いなく進んでいると思うのだ。1か月ずれていると思う
見て最初に思ったのは、「単純娯楽」で、アメリカの加山雄三といったところだろう。「単純娯楽」というと、バカにされることがあるが、あまり意味をつけずに娯楽に徹することができるというのは実は、大したことだと思う。昔、井上梅次が、ある会社で、助監督だった者から聞かれた。「今度、私に来た企画が娯楽映画だったので、受けようかどうか悩んでいるのですが、どうしたら良いでしょうか」と。「ぜひ、受けろ、私小説的映画を作ることよりも、きちんとした娯楽作品を作る方が大変なのだが、ぜひやれ」と。井上梅次らしい言葉だが、このクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルについても言えるように思う。「雨をみたかい」について、川本三郎が、菊井良治の弾き語りに感動して騙されたことがあったが、そのような意味はないように思えた。横浜シネマリン『クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル』
昨日の朝日新聞の惜別に、金子勝彦アナウンサーが出ていた。その『ダイヤモンド・サッカー』が、前半・後半を2週で放送したとなっていた。だが、私が、得点入れのアルバイトで、12チャンネルに行っていた1967年頃は、違う。1時間番組であり、1時間半のゲームを編集して、1時間のフィルムにしていたが、その切れるところがほとんど見分けがつかなかった。運動部のディレクターたちも、「どこで切ったか分からない、非常に上手い編集だな」と言っていた。その後、2週間の番組になったのだろうと思う。『ダイヤモンド・サッカー』は・・・
月丘夢路・井上梅次100年祭で、『三太頑張れ!』を見に行く。これは、NHKラジオのヒット劇『三太物語』の映画化で、実はこれが4本目で、前作は歌手雪村いずみの母親が作ったが不振で負債が残ったので、その解消のために長女の雪村いずみが歌手としてデビューしたのだそうだ。神奈川県道志村の少年三太の話だが、少年ものなので、ドラマ性は薄くて、適当にみていると眠ってしまい、気がつくと半分以上過ぎていた。この井上の1作目のヒロインが、月丘夢路の実妹の月丘千秋なのは、もともと何らかのつながりがあったのだろうか。音楽は伊福部昭だが、上野松坂屋のハモンドオルガンで、少々うるさい気がした。父親が、島田屯である他、花沢徳衛、藤原釜足、田中筆子、左幸子など旧東宝、独立プロの人が出ている。製作は、伊勢虎彦であるのが不思議、なぜ相撲協会の...『三太頑張れ!』
2本の北海道とは、岩波映画が作った2本の北海道電力発注のPR映画で、1955年の『北海道』と1962年の『わが愛、北海道』である。黒木和雄監督の『わが愛、北海道』を見るのは、たぶん3回目で、清水邦夫の脚本のナレーションのテンションの高さがすごい。また、撮影の清水一彦の画面の美しさもよい。主人公及川久美子(後の真理明美)の可憐さはもとより、長靴工場などの彼女の同僚もみなきれいであり、その他、各地で働いてゐる女性たちの生き生きした表情も良い。相当に、彼女たちと撮影スタッフとの間に良好な関係ができていたからだろうと思う。だが、ここで取りあげられている産業、石炭、漁業、パイロットファームの酪農、製鉄のほとんどが、残念ながら不振なものとなっている。そして、この日は、黒木の『恋の羊が海いっぱい』も同様に、移動、スロー...2本の『北海道』
国立劇場の建て替えが、応札者がいなくて、宙に浮いているとのことだ。だが、よく考えてほしいのは、本当に建て替える必要があるか、だ。国立劇場建設の趣旨は、古典芸能、歌舞伎の保存等で、そこには古い演目の復活上演、通し狂言上演があったが、これは上演したが不評続きで、今では「通し狂言」上演はほとんど行われていない。この通し狂言上演には、最初から批判があり、武智鉄二が、大反対だった。その理由は、歌舞伎の昔の劇には、つまらないところも多々あり、そうしたところは上演しないので、面白く、また江戸幕府の圧力に抗しないように、わざと意味のない「勧善懲悪」の筋や結末で終わらせたのもあり、全体として通し狂言は反動的とさえ言ったと記憶している。また、国立劇場設立の意義には、芸能者の養成があり、これは相当の成果を上げてきたと思う。国立...国立劇場は、建て替える必要があるか
録画しておいたのを見る。『にっぽん戦後史・マダムおんぼろの生活』2005年09月24日 横須賀で米兵相手の売春バーをやり、財をなした女のドキュメンタリー。制作、日映新社、戦後の大事件のニュースを見ながら監督今村昌平が聞く。『にっぽん昆虫記』の実録版。世界映画史上、これほどまでに下品な女が、あけすけに人生を告白する作品もないだろう。中国地方の肉屋(富裕だったが、差別はあった)の娘の赤座が、戦後地元での商売のために結婚した(検挙情報等の入手のため)警官から逃れるために上京し、横須賀でぼろいバーを買う。買値をけちったので、名前は変えられず「おんぼろ」とする。母親も間もなく上京し、同じく横須賀に売春宿を開く。妹もバーで働き、米軍の高級将校と結婚する。主人公はいつも行き当たりばったりで(その実計算はすごい)、下級米...売春婦の目で『レイテ戦記』を作る
イスラエルのガザ地区攻撃は、異常で、日本でも批判が強まっているようだ。だが、近代史で、民間人を空襲等で攻撃したのは、日本とドイツなのである。ドイツのスペイン市民戦争のときのゲルニカ爆撃、そして日本の日中戦争中の重慶爆撃なのである。どちらにも、爆撃された者への蔑視、差別意識があった。日本では、中国人を当時は「チャンコロ」と呼んでおり、明らかに差別意識の下での重慶爆撃だった。これを日本国内では、「堂々の渡洋爆撃」として賞賛されていた。日本人にとっても無関係ではないのだ。「世界最初の民間人爆撃は・・・」
芥川龍之介原作の変な映画について採録する。2012年08月05日 映画以前から是非見たいと思っていた今井正監督作品の一つ。1976年に、当時の『エクソシスト』の大ヒットに始まるホラー・ブームの中で公開された作品の一つ。「あの今井正がホラーを」と言われたが、勿論当たらず、その後ほとんど上映されることのない作品。今井正の回想によれば、東宝での映画『あにいもうと』の撮影中に永田雅一から話があり、水木洋子の脚本を読んでびっくりして、辞退したがスタッフも既に編成されていて仕方なく撮ったという映画。旧大映京都のスタッフの美術、衣装はすごいが、今井は、「撮影の宮川一夫がひどく頑固で、フィックスでしか撮らなかったので、大変苦労した」と言っている。原作は、芥川龍之介の短編で、東京浅草の大金持ちの大滝秀治と東恵美子の娘京マチ...『妖婆』
日本シリーズ第7戦は、7対1で、阪神が勝ち、1985年以来の38年ぶりの優勝、日本一になった。昨日は、非常に良い試合だったが、38年前は、どうだったのだろうか。良く憶えているのは、2対2の5戦目、西武が、先発に小野という、変な投手を出したことだ。「広岡は、やる気があるの」と思った。シーズン3勝の投手を出して、「阪神をなめているのか」その通り、阪神が1回に4点を取り、このゲームは圧勝で、そのまま6戦目も勝ち、日本シリーズ優勝となった。その点、今回は、7戦までやり、両軍死力を尽くしたので、良かったと思う。特にオリックスでは、贔屓の宗君の素晴らしい守備が見られたのはうれしかった。今回のMVPは、近本だそうだが、私はむしろノイジーではないかと思う。一昨日のホームラン、そして昨日の3ランは、全体の流れを決めたと思う...38年前との比較1985年の日本シリーズ
2007年に『東京の人』を阿佐ヶ谷ラピュタで見た時のコメントを再録します。『東京の人』昭和31年に川端康成の新聞小説(といっても北海道新聞等の地方紙だが)の映画化で、主演は月丘夢路、夫の雑誌社の社長が滝沢修。石原裕次郎が出る以前の日活文芸映画。月丘は、戦前は銀座の宝石店の娘だったが戦後没落し、終戦直後は雑誌が好景気で羽振りが良かった滝沢は、実の娘芦川いづみを連れて月丘と再婚する。ところが、世相が落ち着いてくると滝沢の雑誌が駄目になり、月丘は戦前の店の番頭山田禅二の世話で宝石店を開くことになる。月丘は若い医師・葉山良二を愛していて、滝沢も会社の事務員新珠三千代と出来ている。また、葉山を芦川も恋していて、また芦川には月丘の息子の青山恭二が好きになるという具合に、いくつもの三角関係が交錯する。また、月丘の娘の演...『東京の人』
久しぶりに非常に面白い劇に出会った。逃げろ、と言われているのは文豪芥川龍之介であり、対するには菊池寛である。意外なことに、芥川の作品は、劇化、映画化されたことが非常に少ない。映画『羅生門』の脚本で有名な橋本忍も、『藪の中』を脚本化したのは、「芥川の作品が映画化されていないからだ」と書いている。それは、彼の師、夏目漱石が『坊ちゃん』をはじめ、『三四郎』、『こころ』、『虞美人』と多数劇化、映画化されているのと対照的である。この差は、どこにあるのか、漱石の作品は、意外にも世間的であるのに対して、芥川のものは、主知的であるためだろうか。1918年5月、菊池寛と芥川龍之介は、まだスペイン風邪の余波がおさまっていない東京を逃げ出して、長崎への旅行に出る。これは、実話である。その列車の中に、芥川と関係のあった女性、妻、...『逃げろ!芥川』
冒頭10分くらいは見損なうが、19868年山下ふ頭全盛時代の映像である。1967年の傑作『拳銃は俺のパスポート』の最後の宍戸錠と若親分杉良太郎との対決のシーンが、本牧のDふ頭なのだから、この時期、すでにコンテナーふ頭への転換は進行していた。だが、岸壁では人力とフォークリフト等による沿岸荷役が行われていたのだ。脚本山崎巌、監督江崎実。主演はもちろん、渡哲也で、横浜で出会う女は松原智恵子、その父親は、高品格。彼は、元はヤクザだったが、足を洗って昼間は、山下公園で売店をやり、夜はレストランをやっている。松原は、レストランでピアノを弾き、高品は「ピアノ目当てに客が来やがる・・・」と喜んでいるが、彼女が弾くのは『月の砂漠のみ』内田良平、渡辺文雄、内田朝雄、名和宏、郷英治らも出てくるが、意外にも内田良平は、善玉で、一...「山下ふ頭全盛時代『無頼非情』」
一昨日は、三番めの姉の夫、つまり義兄が73歳で、脳腫瘍で亡くなったので、海老名での告別式に行った。三番目の姉も、私より5歳上の1941年生まれで、わが家で1948年生まれの私だけが戦後生まれなのだ。私は、早生まれ、姉は遅生まれだったので、学年としては5歳差であり、私が小学校1年で入学したとき、姉は6年生だった。さて、姉夫婦は、職場結婚であり、義兄は早稲田大学を出て、もともと車好きだったので、いすゞ自動車に入って、そこで二人は知り合ったのだ。義兄は、愛媛の今治市の出身で、家の親戚でも数少ない関西の人で、陽気でユーモアのある方で、私は好きだった。だが、性格はかなり頑固で直情径行的であり、それはサラリーマン社会では、当然にも優等生的に生きられなかったようで、管理職としては本社には残れず、地方のいすゞの販売会社の...義兄の告別式で
今日の朝日新聞の夕刊に、「男性性器のサイズ」についての悩みが出ていた。少年のみならず、青年たちも「13センチ以下云々」で悩んでいるのだそうだ。思い出すのは、大島渚が、1976年に本番映画『愛のコリーダ』を準備していたときの話だ。男女の俳優を多数オーディションしたが、女性はほとんどなく、早い時期に松田英子に決まったそうだ。最初に言ったのは、なんと小山明子だそうで、これは本当にやる女優がいなかったら、だったそうだ。だが、男優には、非常に苦労し、多くの男が、「私のあそこは小さいので・・・」と出演辞退するのが多いのに驚いたそうだ。「1にジャンアント馬場、2にデイック・ミネ、3,4がなくて5に馬」と言われたものだが。その俳優を決めるのは本当に大変だったようで、プロデューサーの若松孝二からの推薦で、藤竜也に会うことに...「サイズについて」
横浜港駅ポラットホームが出てくる傑作映画がある。それは、舛田利雄監督の1967年の『紅の流れ星』である。これは東京で、ある組のボスを殺した五郎の渡哲也が、神戸に逃げてくる話だが、そのほとんどが横浜で撮影されている作品である。この頃、もう日活は、脇役に神戸まで行く金が出せなかったのだろうとわかる。行ったのが明確に分かるのは、渡哲也、浅丘ルリ子、宍戸錠、藤竜也、山田真二くらいで、その他大勢の杉良太郎らは神戸に行っていないと推測される。この映画の中では、脚本の池田一郎で、刑事の藤竜也と渡哲也の、粋な台詞のやり取りがあるのだが、それは、新興ふ頭のプラットホームの前なのだ。(上の写真の左の遠くに見えます)当時は、ホームとしては使用されていなくて、野積み場の一部で、石材等が積まれていた。この映画は、日活アクション映画...横浜港駅プラットホームが出てくる傑作『紅の流れ星』
みなとみらい新興地区に、横浜港駅プラットフォームがある。ここは、その名の通り、横浜港駅があったところで、戦前、大さん橋ができるまでは、ここから客船に乗り換えて海外に行き、外国から来た人も、ここから列車に乗って各地に行ったのだ。もちろん、戦後はほとんど使われなくなっていて、廃物化していた。だが、ここでイベントをやろうとした男がいた。伊藤孝君である。彼は、新興ふ頭事務所から港湾局港営課に来ていて、もう一人の伊東真介と共に、港営課の二人の「いとう」だった。伊東真介は、後に港湾局長となる伊東である。さて、この伊藤孝君は、「プラットフームでイベントをやろう」と考え、なんどかやったはずだ。今や、みなとみらいの各所でイベントがさかんに行われている今日、彼の考えは、非常に先進的だったわけだ。だが、彼は酒が大好きで、腎臓を...伊藤君を思う横浜駅プラットフォーム
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日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳