日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
ロシアがウクライナを攻めて、明らかに国際法違反であり、侵略である。プーチンと良好な関係を築いてきた「シンゾウ君」は、どう思っているのだろうか。大いに責任があると私は思う、プーチン大統領を増長させたのには。さて、80年前に日本は、中国で戦争を展開し、1937年12月には、中国の首都南京を占領した。日本国内では、提灯行列、花電車で大騒ぎした。だが、中国は首都を重慶に移して抵抗を続けた。さて、この日中戦争の始まりは、北京郊外の盧溝橋事件だが、なぜ日本軍は北京にいたのだろうか。なんと理由は、1901年の義和団事件である。日本以外の7カ国は、事件終了後はすぐに撤兵したが、日本はずっといたのである。反日運動が起きるのも当然だろう、事件後30年以上もいたのだから。この中国との戦争が、アメリカとの戦争になったことは言うまでもな...日本も首都を攻めたことがある
ロシアのウクライナへの侵攻に大きな責任があるのは、日本の安部晋三である。西側諸国の中で、唯一ロシアに親和的だったのは、安部政権だった。クリミア侵攻の時の経済制裁についても、制限的だったのは安倍政権だった。彼らは「ウラジミル、シンゾウ」と呼び合っていたほどだった。そして、プーチンを長門に呼び、会談をし、「明日にも北方領土が返ってくる」ような幻想を振りまいた。だが、依然として北方領土は、一ミリも戻って来ていない。ソ連・ロシアが、戦後に領土紛争で、相手に返還したのは、中国との紛争である。珍宝島・ダマンスキー島で、このとき友人は言った。「チンポとマン好きとは随分エロいところだな」なぜだか知らないが、ここは中国に返したのだ。他に、そんな例があったら教えてほしいと思う。ロシア侵攻の責任は
西郷輝彦が死んだが、このところBSで『佃次郎警部補』を見ているので、ああそうかと思う。彼は、歌手の後、役者として活躍した。西郷と言えば、彼の他、橋幸夫、舟木一夫の御三家だが、この頃から、実はニュー・ミュ-ジックの時代になっており、吉田拓郎が、その代表だろう。また、関西フォークのフォーク・クルセイダースらもあった。御三家は、いずれも歌手の後、特に時代劇役者としても活躍した。だが、吉田拓郎以後のニュー・ミュ-ジックの歌手では、郷ひろみが松竹で青春映画に出たくらいで、役者として、特に時代劇はなかったと思う。この辺が、時代の境目だったなとあらためて思う。この辺が境目だったんだな西郷輝彦、死去
1972年の連合赤軍の浅間山荘事件から、50年だそうだ。以前、私は、次のように書いたことがある。永田洋子についてであるが、彼女たちはこの前に逮捕されていた。その原因は、臭いだった。連合赤軍の連中は、都市にいられなくなり山に逃げた。戦前、毛沢東らが、都市から農村に逃げた長征をまねたのだ。だが、戦前の中国と1970年代の日本では大きく違うものがあった。彼らの体臭である。逃亡して、ろくに風呂にも入らなかった彼らは、異常な悪臭を放ったそうだ。それで、駅員らに見つけられたのだ。永田と森は逮捕されて、残った連中がさらに山に逃げて、浅間山荘事件が起きた。連合赤軍のリーダーで死刑囚だった永田洋子が死んだそうだ。65歳。彼女には、1966年の秋に一度会っている。横須賀に米軍の原子力潜水艦が寄港することになり、その反対運動が横須賀...浅間山荘事件50年
北京冬季五輪も終わり、次はミラノとコルチナ・ダンぺツォのこと。このコルチナと言えば、猪谷千春が、スキーの回転で銀メダルを取ったところだ。これがきっかけで、日本にもスキー・ブームが起きて、大人気となる。松竹は、ドイツのトニー・ザイラーを招いて、映画『銀嶺の王者』を鰐淵晴子との共演で作ったくらいだ。ザイラーは、ルックスも良かったので、映画になったのだろう。大島渚の本によれば、彼の処女作『愛と希望の町』の試写会は、ザイラーの記者会見と同時だったので、誰も見に来なかったそうだ。まあ、仕方ないことだが。猪谷氏は、まだご健在だそうだ。コルチナと言えば・・・
北京冬季五輪もいつに終わるが、ここでも意外な結果が出た。女子のスピードスケートで、高木が金メダルを取り、小平は振るわなかった。こうした番狂わせは、一発勝負の五輪ではよくあることだ。1964年の東京五輪のとき、ボクシングではライト級の白鳥金丸が金メダル候補といわれていた。当時の日本のアマチュアボクシングでは、アウトボクシングが主流だったが、白鳥はハードパンチャーで有名だった。ところが、3回戦でメキシコの選手に負けてしまった。その理由は、早稲田の体育の授業で、白鳥金丸先生は、次のように言っていた。まず、選手村での外国人選手の態度の大きさ、奔放さに驚いたとのこと。あるイタリア選手と仲良くなったが、彼が毎夜白鳥君の部屋の窓にくる。「チラトリ、チラトリ・・・」と言い、外に出ると、選手村の芝生の上で、女性選手といろいろとや...意外性が多い五輪
昨日の朝日新聞の夕刊に、高円寺についてあり、そこにある学校として光塩女子学院が出ていた。ここは、カソリック系女学校として歴史のあるところで、作家の有吉佐和子なども出ているそうだ。さらに、一部では有名なのは、蟻の町のマリアこと、北原玲子だろう。蟻の町とは、浅草と隅田川の間にあった「部落」で、貧困な町だったが、ここで活動したのが北原玲子で、私も名を知っていた。これを基にした歌舞伎座制作、松竹配給の映画『蟻の町のマリア』もあり、五所平之助監督で、なかなか面白かった記憶がある。町のリーダーで共産党風の南原伸二も出てきて、大いに笑えた。北原役は、千之赫子で、地味な役柄だった彼女には、たぶん唯一の主演作だと思う。実は、この蟻の町の実景が出てくる映画もあり、日活の月丘夢路主演の『東京の人』である。ここは、今は東京の埋立地に移...光塩女子学院の有名人は
1960年3月15日に、私の父は、58歳で、午後に脳梗塞で倒れ、その日の夜に亡くなってしまった。この時、長女は結婚していて息子もいたが、次女は銀行勤め、長男は大学2年、三女は高校2年生、末っ子の絵私に至っては、小学6年生だった。ことの突然に、母親は呆然とし、さらに夜になり、お通夜になると父の棺に向かって大声で号泣していた。そのとき、その母を知らない叔父さんが後ろから慰めていた。それも非常になれなれしく。だが、その人が誰だか私たちは分らなかった。その人は、父の妹の旦那さんで、我々からは叔父さんに当たる人だったのだが、その時は誰だか、私たちは分らなかった。だが、母から離れ、こちらを向くとすぐに分った。「Tさんだ・・・」私たちが、誰だか分らなかったのは、その方が、いわゆる「台湾坊主」に罹り、髪の毛がほとんど抜けて坊主...もう一つの台湾坊主
ウクライナが舞台の劇は 『屋根の上のバイオリン弾き』『ひまわり』
今や緊迫の状況のウクライナだが、映画、演劇にはウクライナを舞台にした作品がある。『屋根の上のバイオリン弾き』と『ひまわり』である。前者は、映画と言うよりは舞台、、ミュージカルで、私も森繁久弥の主演で見たことがある。これは、ウクライナの農村に住むユダヤ人一家の話で、平和に暮らしているが、次第にポグロム、ユダヤ人迫害が迫ってきて、ついにはアメリカに移民することになる。私が見たときの長女は、上月晃で、倍賞千恵子らも出ていたような気がする。感想は、森繁は随分と自分勝手に演じているなあと言うものだったが、会場は大拍手だった。『ひまわり』は、どこかの名画座で見たと思うが、筋はどうでも良いメロドラマだったが、まあ良くできていると思った。それに、ソ連の女優、リュドミラ・サベリーェワが実に可愛いと思ったものだ。ロシアも、アメリカ...ウクライナが舞台の劇は『屋根の上のバイオリン弾き』『ひまわり』
原宿中央署の警部補佃次郎の事件解決もの。病院の院長野村信次が死に、青酸入りのブランデーを飲んだことによる殺人であることが分る。佃次郎の西郷輝彦が、さまざまな容疑者候補から真犯人を割り出す推理が中心。警視庁から来る刑事課長のベンガルが、いつもあらぬ方向に持っていくが、最後は佃の推理がすべてを解決する。原作は、夏樹靜子で、脚本は佐藤茂、監督は広瀬襄である。広瀬は、大船で結構良い映画を作っていたが、松竹の停滞で、テレビに場を移していた。犯人は、最初は院長の弟が疑われ、実際彼は、院長の部屋にいて、夜結婚のことを兄である院長に相談しようよしていて目の前で、兄がブランデーを飲んで死んでしまったのだ。次に、院長の美しい妻一路真輝が疑われるが、彼女は、実は商社マン永沢利矢と恋仲になっていて、彼と河口湖近くで一夜を過ごしていてア...やはり松竹的『佃次郎・妻たちの真実』
昨日の首都圏の雪は、それほど大雪ではなくて、まあ良かったと思う。だが、山梨県の富士吉田あたりでは大雪になった。対して、静岡側は、雪はほとんど積もらなかったようだ。私は、30年前1月から3ヶ月間、富士の宮市、上井手の研修施設で英語の特訓を受けた。この3ヶ月間、雪はほとんど降らず、降っても少しで、昼過ぎくらいにパラパラと山を越えてくるだけだった。要は、富士山が大きな壁となって、雪は山梨側に落ちて、静岡側まで来ないのである。このように、富士山から丹沢、さらに秩父山脈と続き、首都圏は、この壁によって防御されている。まことに、徳川家康が、江戸・東京に城を定めたことは的確だったと思える。富士山のお陰
1993年4月、新宿の映画館で柳町光男監督の『愛について、東京』を見たとき、中国人らしい女性がすぐに言った。「嘘、ばっかり」そのとき、私もそう思った。柳町の映画は、この最初の作品以外は見てきたが、いつも感心したことがない。このやらせドキュメンタリーも予想どおり、まったく面白くないものである。だが、これは安田生命ホール等の自主上映で、大ヒットして東映に買い上げられ、柳町の出世作となった。なぜ、この著しく退屈な映画が当たったのだろうか。たぶん、撮影された連中が自分はどう映っているのか興味があって見に来たのだろうと思う。新宿の暴走族ブラック・エンペラーの映画だが、暴走も暴行もなく、要はまったくドラマがない。ただ、連中が喫茶店で屯して、タバコを吸って話をしているだけである。これを見て思ったのは、いつの時代でも若者は、淋...『ブラック・エンペラー』
1950年の大映映画。こういうのを見ると、いかに日本映画界は、シャレた映画を作れないかがよく分る。ハリウッドなら、かなりましな作品になったと思う。原作は、石川達三で、戦前のもののようだが、やたらにアプレ・ゲールなどの台詞が出てくる。京都撮影所なので、場所はどこか不明だが、銀座のような道を三条美紀が貧相な姿で歩いて来て、ビルに入る。「戦後派作品展」との文字があり、絵の展覧会で、「裸婦像」の前に来て、ナイフで切り裂く。次は、警察署で、上田吉二郎に説諭されているが、三条は黙秘。裸婦像の三条を描いたのは、小柴幹治で、三条が抱いている赤ん坊は、彼と間の子である。そして、刑事の水島道太郎のところに行き、聞かれると三条は、少し話し出す。ここで、全部分ってしまうが、その通りに進行する。水島は、大学の友人の近衛敏明がやっているキ...『転落の詩集』
北京の冬季五輪が行なわれているが、この中からいずれ国会議員になる者が出るだろうと思う。日本の国会議員で、スポーツ選手出身は意外に多いが、その最初は誰だろうか。プロ野球の白木義一郎である。慶応大学からセネタースに入った白木は、かなり良い投手だったそうだ。市会事務局にいたTさんなどは、高校時代に野球をやっていたので、よく憶えていたそうだ。確か、連続イニング無四球記録を持っていたが、後にヤクルトの安田に破られたと思う。もちろん、公明党で、成績の振るわない選手に学会への入信をすすめたので、問題になったという話もある。私が、横浜市会に入ったときは、小浜新治さんという議員がいたが、この人は大相撲で、幕下だったそうだ。小柄だったが、筋肉質の体つきだったと思う。大相撲の人で、国会議員になったのは、小浜さんだけだと思うが。今度の...最初の国会議員は
衆議院香川1区は、高松市と小豆島等を選挙区とする地域で、有権者約30万と結構大きな選挙区である。ここは、自民党議員で、菅義偉内閣で、初代デジタル大臣も務めた平井卓也と、大島新監督の前作『なぜ君は総理大臣になれないのか』で描かれた小川淳也の対決区で、小川は1賞5敗である。平井は、三代目の議員であるほか、地元の四国新聞や放送局を持つ、香川の大物である。春、まだ選挙がいつになるのか不明の5月から始まる。5月で、小川の誕生日なのだ。そして、地元廻りでは、保守の牙城の小豆島に事務所を作る。映画『二十四の瞳』の小豆島である。この年は、大島新監督の父親大島渚が、松竹に入社した年であり、黒澤明の『七人の侍』が公開された年でもある。だが、この年のキネマ旬報ベストテンでは、1位は『二十四の瞳』、2位も『女の園』と木下恵介作品が上位...『香川1区』
1968年、この頃、日本映画界は、混迷の中にあったが、松竹もその一人で、大変に変な作品を作っていた。この夏に、『吸血鬼ゴケミドロ』と『黒蜥蜴』を上映したら意外に当たったというので、その続編のような企画としてこれができたとのこと。脚本は、前作の小林久三と大映系の下飯坂菊馬で、不思議な組合わせだが、前作の東映系の高久進から代わっている。この辺は、次第に五社協定が有名無実化して、他社のスタッフを使うようになったからだろう。小林久三の『雨の動物園』を読むと、下飯坂氏との共作は順調にでき、最初の車内での準備稿の本読みのとき、監督の松野広軌氏は、即座に「これは面白い!」と言ったそうだ。松野氏は、松竹京都の出で、この頃京都撮影所閉鎖で大船に移籍していた。話は、貨物船に奴隷のように繋がれている男女がいて、それを金子信夫らが射殺...『吸血髑髏船』
2月3日と言えば、かつては、節分の豆まきだったが、今は恵方巻きだろう。もちろん、こんなものはなく、節分では、ちらし寿司と蛤のお吸い物を食べたと思う、少なくとも関東では。恵方巻きは、バレンタインディー・チョコと同じで、販促の一つと言ってよいだろう。だが、恵方という考え方はあり、これは初詣と同様、むしろ初詣よりも普通に行なわれる年中行事だった。なぜなら、電車、バス等が発達していない時代、遠くの神社仏閣にまで初詣に行くことは庶民には不可能だったからだ。その代わりに、庶民は、近所の今年の恵方の方角の神社仏閣に詣でたのである。それを恵方参りといい、永井荷風の小説『踊子』にもきちんと書いてある。これは、非常に面白い小説で、大映で映画化もされている。私は、毎年目の前にある、お三の宮に初詣だが。だが、恵方巻きは、結構美味しいの...恵方巻きはなかったが・・・
石原慎太郎が亡くなったが、以前次のように書いた。石原慎太郎は、ニ回目撃したことがある。一度目は、テレビの「桂小金治アフタヌーン・ショー」で、1967年頃「慎太郎対全学連」という企画だった。早稲田に出入りしていた宮原安春の手配だったと思うが、当時文学部で有名だった女で、今は藤田真人と結婚している福田みずほの引率でテレビ朝日(当時は日本教育テレビ)に行ったのである。二回目は、1985年に「舞踏フェステイバル」が朝日ホールで行われ、大野一雄の公演が終わったあと、帰りのエレベーターの中で一緒になったのである。石原慎太郎が、大野一雄の公演に来るなど意外と思われるかもしれないが、1950年代末は、石原慎太郎も前衛派だったので、舞踏の土方巽らとも交友があったのである。テレビ朝日のときは、石原慎太郎は椅子に座っていて、こっちの...自分が分らなかった男石原慎太郎
先週の土曜日の朝日新聞のBEに時代劇のファン投票が出ていた。1位が『水戸黄門』である。時代劇と言えば、あの勧善懲悪劇だと思っている人も多いだろう。だが、時代劇は、元々は反体制の劇だった。そもそも時代劇という名称はなく、これを最初に使ったのは、伊藤大輔先生で、映画1923年の『女と海賊』のシナリオを書いた時に、「新時代劇」と称したのが始まりである。それまでの、旧時代を舞台とした活劇は歌舞伎や、岩見重太郎などの講談ものを基にしたもので、荒唐無稽なものだったのに区別して実録的な作品として、伊藤は新時代劇と称したのである。そして、大正末から昭和初期の時代で、次第に反体制な劇になっていき、傾向映画と呼ばれ、権力の弾圧を受けるようになる。そこで、時代を現在ではなく、江戸時代にして反権力的主題を描くのが時代劇になった。伊藤大...『水戸黄門』だけが時代劇ではない
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日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳