彼はナポリの近くのノーラの生まれで、 激しい気性と透徹した想像力のために、 彼が属していた修道会と衝突し、 ヨーロッパ中を放浪して論争し、 ルルスの神秘主義に世界は多数ある 〔世界は、 地球を中心に恒
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
院宣の効果を信じ、 のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、 大多数の武士は上皇の呼びかけに応じません。 幕府と朝廷の力の差は歴然で、 幕府軍はわずか1ヶ月で京都を占領し、 朝廷の敗北で承久の乱
日本の宮廷文化は、 皇室の権力が形だけのものになってしまったのちも 消え失せませんでした。 とはいえ、 日本社会の北への拡大の先頭に立った 辺境の豪族たちは、 日本最初の宮廷人たちが唐から大々的に輸
1221年5月に 後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、 全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。 京都近隣の武士が中心となり 幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は 「朝廷の命
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府の内部で混乱があれば、 御家人同士が争い朝廷が、 つけいる機会が生じるのではと考えました。 上皇はまた朝廷に年貢を納めない 武士と衝突することもあり、 上皇はますます鎌倉幕府
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、 領地の拡大、軍事力の強化をはかります。 分散していた天皇領をまとめて資金力を確保し、 さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、 西面
承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が 再び上皇中心の政治を取り戻すべく、 鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。 鎌倉幕府が誕生したとき 朝廷で最も権力を持っていたのは 天皇よりも上の位に就いて
日本は、六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教、儒教をはじめ輸入し得る支那文化の あらゆる要素を歓迎して受け入れました。 外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、 それ以後の時代にも何度かくり
ヒマラヤの南側では、 ベンガルとカシミールが、 インド文化の重要な周辺地域となりました。 この二地方にはいずれも、 強力な地方国家が出現して、 インド北部の平野部を政治的に支配しましたが、 いずれも
安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 この頃雲南がこれにつづきました。 チベットは、支那とインドの中間に位する という地理的な立場を利用して、 双方からさま
道長は大宰府の使いに、 「改元の後、必ず追討の勅符を下さん」 といいました。 しかし豪胆の道長も、今はすでに衰老しました。 そのうえ子供の三条中宮 及び皇太子の妃嬉子(きし)の二人を失い、 意気消
朝廷で、隆家らの功を論ずるとき、 権大納言藤原公任(きんとう)、 中納言藤原行成(ゆきなり)らは功を排して、 「勅符を俟(ま)たずして兵を発す、 功ありといえども罪もまた大なり」 といいました。 権大納言
しかし東丹は去ってすでに跡かたもありません。 この戦で、 筑前(ちくぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)三国で 殺戮(さつりく)せられたものは四百六十二人、 劫掠(こうりやく)されたものは一千二百八十九人、
壱岐守藤原理忠(まさただ)は 契丹と戦って死にました。 当時、藤原伊周(これちか)の弟隆家(たかいえ)は、 大宰帥(ださいのそつ)に左遷されていましたが、 勅符を俟(ま)たずに、 前少監大蔵種材(さきのしよう
醍醐天皇の時、 漠北(ばくほく:ゴビ砂漠の北方の地〉に 契丹の太祖阿保機(あぼき)が起り四方を侵略し、 渤海を下し、国号を東丹国と改めて、 その子突欲にこれを治めさせました。 その頃、高麗(こうらい)の
天智天皇の時、 唐、新羅(しらぎ)と合従(がっしよう)して 百済(くだら)・高麗(こま)を亡ぼしました。 すでに新羅の、 二国の故地を併呑(へいどん)して朝鮮を一統しました。 この時靺轕(まつかつ)の族種 〈
遣唐使廃止の時期は、シナ文化の衰退期で、 その圧力が弱まったこともあり、 国風文化の形成は、あらゆる面に行われました。 なかでも仏教の日本化の一つに、 本地垂迹説(すいじやく)があります。 すでに八
藤原道長はすでに一家から三后を出し、 外孫をもって天皇とし、 太子としての栄耀は比類なく、 その意満ち、気伸び 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば」 と歌いました。 寛
10世紀に入り、中国の唐末・五代のころ、 日本では平将門の反抗などが起こって 新しい武士階級の成長がみられました。 遣唐使廃止後も、 藤原氏と呉越とのあいだでは 外交が続いていました。 1126年(日本
字多天皇の八九四(寛平六)年に、 遣唐使が廃止され、唐との直接交渉がなくなり、 これまでに次第に芽生えつつあった 文化の国風化が促進され、 藤原氏の貴族政治を背景として、 優艶・繊細・巧緻を旨とする王
日本は七世紀はじめから遣唐使を派遣して、 さかんに唐の文物を摂取していました。 ところが、九世紀末の八九四年(平安朝初期)に、 唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕した とする認識遣唐使のから
奈良時代(六四五-七八四年)に、 日本の歴代の天皇は急速かつ組織的に 支那(唐)の大宮廷を模倣しました。 日本の宮廷定格の、早咲きの繊細な感受性は、 一〇〇〇年のすぐ後に紫式部によって書かれた 細や
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彼はナポリの近くのノーラの生まれで、 激しい気性と透徹した想像力のために、 彼が属していた修道会と衝突し、 ヨーロッパ中を放浪して論争し、 ルルスの神秘主義に世界は多数ある 〔世界は、 地球を中心に恒
コペルニクス革命の真意がしみ通るまでには いくらか時間がかかりました。 それは、単純で、 天文表を改良する手段として 精密というにはまだ遠いにせよ有用だったので、 職業天文学者によって 最も早期に受
科学者の独創性と個人主義は 表面的なものにすぎず、 その研究の大部分において、 彼らは同一の伝統に依存し、 同一の方法を用い、 同一の問題にひきつけられました。 これらの問題は、ルネサンスの 定性的
グレシャムはロンドンの大商人の一人で、 王室の財政支配人で、 王立取引所の創立者でしたが、 商人資本と新科学との同盟を その一身に体現した人物です。 一世代古いコレージ・ド・フランスとちがって、 グ
オランダとイングランドでは 科学教育の端緒さえ現われました。 それは第一期の スペインとポルトガルの学校をまねて、 航海術にかたよったものでした。 フランドル人の へンマ・フリシウス(一五〇八-
新しい実験哲学者たち、 今日の言葉でいえば科学者(scientist)、 は、ポーランド、イギリス、フランス等 どの国から来た人であろうと、 イタリアで知識を獲得し、 イタリアで各人の最良の仕事の多くを なし
一五世紀の科学の イタリアへの集中に代わって、 この時期には科学が 西欧全体に広く拡散しました。 ただし封建的伝統から脱出した 西欧諸国のうちの最初の国だったイタリアは、 その政治的・経済的重要性を
封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし
スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日
スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見
発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった
産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし
一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき
一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき
儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ
一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学
江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児
すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
ルネッサンス以後の西欧では、 鉱山や航海などの産業が マニファクチャーを中心に発展しました。 そうした産業の要求により、 力学や鉱物学、化学などの研究活動が さかんに行われました。 特に、市場の拡
一三〇〇年以後の時代の西欧文化の特色は、 一般に中世文化の総合が、衰えたことです。 十四、五世紀にあっては、 神聖の理想およびそれと対立関係に立つ 現世での人間の満足は、 真に人を納得させる決着点に
東洋では十一世紀において 北宋時代に儒学の復興がなされ、 文体においても漢以前の 古文復興が支配的となり、 印刷術や火薬、羅針盤などの科学の発達、 そして芸術の発展がなされて、 学芸復興がなされました
「文化」において、西洋の学者たちは 自分たちが古代ギリシャ・ローマを 受け継いでいると自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているように
北畠顕家の『太平記』は、 日本の南北朝時代を舞台にした軍記物語で、 全40巻からなります。 14世紀(1370年ころまでには 現在の40巻からなる太平記が成立) に成立したこの作品は、 後醍醐天皇の即位から始
聖フランチェスコの 強烈な聖なるものの追求は、 彼を異端の際まで押しやります。 弟子たちのある者は、 教皇や教会の司教たちが、 (托鉢士たちが実行することを 原則としているように) 貧しい暮らしをし
行動の領域では、合成総合よりも、 多様さと矛盾の方がきわだっていました。 しかし、対立しあう傾向や思想は 互いにバランスをとりあい、 結果として人間の 衝動の範囲の広さが生かせました。 例えば、キ
「文化」において、 西洋の学者たちは自分たちが 古代ギリシャ・ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているよう
アクィナスには 批判者がないわけではなかった。 そのうちで最も影響力があったのは、 論理的証明の長い連鎖に不信を抱いて、 神秘的体験により得られる 神的なるものの確実性の方を好み、 世俗のものの知に
中世末期の日本の変化は、 社会の発展がその基礎にあり、 南蛮人の影響でおこったのではない。 その発展を一向宗と法華宗いう 二つの宗教がささえました。 親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、 農民ばかりで
西欧における神学の領域では、 信仰と理性は、 聖トマス・アクィナス(一二七四年没)や アルベルトウス・マグヌス(一二八〇年没) のような神学者の力で、 決定的に和解させられました。 アクィナスの『神
西欧の中世文化が ようやく芽生える準備を始めたころ、 日本は後醍醐天皇によって、 天皇親政による専制国家という 近世の政治様式を目指しました。 しかし、 この建武の中興は容易に進まず 所領問題、恩賞
およそ一二〇〇年と一三〇〇年の間に、 中世西欧文化の上昇曲線の躍進は、 もっと複雑で困難ではありますが、 しかし大きな豊かさを持った構造へと 発展をとげました。 一方においては、キリスト教の信仰、
日本に仏教文化が花開いたころ イスラーム教が生まれ、 イスラーム勢力は ゲルマン民族の大移動により 秩序の崩れた西欧に侵入していきます。 これに対しフランク王国の カール・マルテルが勝利し フランス
西欧の中世では、キリスト教は、 社会生活と密接に関連しています。 教会は絶大な権力をもち、 社会生活もすべて キリスト教を中心にしてうごいています。 そのため、教会の腐敗は、 たちまち社会の堕落に
西欧では長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定する習慣がありましたが、 これが堕落の源となっていました。 ローマ法王庁が 世俗の力によって支配されるなら、 ヨー
西欧での農業生産がすすむと、 社会も大きくかわりはじめました。 まず「農村」がいたるところにあらわれます。 さらに重要な点は、 この農村が生まれたことによって、 農村から都市へ発展していく 要因が
一〇世紀までの西欧では、 農業はひどくたちおくれて 牧畜が生産の主流でした。 それというのも、 西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのに困難をきわめたからです。 「一粒の種をまいて一粒の麦
社会における産業の発達の段階と、 科学の発展における様相の変化は、 かなりの程度に並行しています。 生産の発展のための技術的問題が 科学研究を推進するということもあるし、 科学と技術がともに社会の発
15世紀なかばごろから 現代にいたるまでの近代科学の発展は、 どのような様相を示しているかを見るためには, 近代科学の歴史を いくつかの時代に区分することが必要であり、 またその区分を可能にするような