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六波羅探題の設置
院宣の効果を信じ、 のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、 大多数の武士は上皇の呼びかけに応じません。 幕府と朝廷の力の差は歴然で、 幕府軍はわずか1ヶ月で京都を占領し、 朝廷の敗北で承久の乱
2023/11/30 18:17
軍事政権
日本の宮廷文化は、 皇室の権力が形だけのものになってしまったのちも 消え失せませんでした。 とはいえ、 日本社会の北への拡大の先頭に立った 辺境の豪族たちは、 日本最初の宮廷人たちが唐から大々的に輸
2023/11/30 05:10
後鳥羽上皇の院宣
1221年5月に 後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、 全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。 京都近隣の武士が中心となり 幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は 「朝廷の命
2023/11/28 05:10
絶好の機会
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府の内部で混乱があれば、 御家人同士が争い朝廷が、 つけいる機会が生じるのではと考えました。 上皇はまた朝廷に年貢を納めない 武士と衝突することもあり、 上皇はますます鎌倉幕府
2023/11/27 05:00
後鳥羽上皇
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、 領地の拡大、軍事力の強化をはかります。 分散していた天皇領をまとめて資金力を確保し、 さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、 西面
2023/11/24 05:00
承久の乱
承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が 再び上皇中心の政治を取り戻すべく、 鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。 鎌倉幕府が誕生したとき 朝廷で最も権力を持っていたのは 天皇よりも上の位に就いて
2023/11/22 05:00
日本文化の独自性
日本は、六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教、儒教をはじめ輸入し得る支那文化の あらゆる要素を歓迎して受け入れました。 外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、 それ以後の時代にも何度かくり
2023/11/21 05:10
アジア太平洋の発展2
ヒマラヤの南側では、 ベンガルとカシミールが、 インド文化の重要な周辺地域となりました。 この二地方にはいずれも、 強力な地方国家が出現して、 インド北部の平野部を政治的に支配しましたが、 いずれも
2023/11/20 05:00
アジア太平洋の発展1
安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 この頃雲南がこれにつづきました。 チベットは、支那とインドの中間に位する という地理的な立場を利用して、 双方からさま
2023/11/17 05:00
契丹の来襲7
道長は大宰府の使いに、 「改元の後、必ず追討の勅符を下さん」 といいました。 しかし豪胆の道長も、今はすでに衰老しました。 そのうえ子供の三条中宮 及び皇太子の妃嬉子(きし)の二人を失い、 意気消
2023/11/16 16:21
契丹の来襲6
朝廷で、隆家らの功を論ずるとき、 権大納言藤原公任(きんとう)、 中納言藤原行成(ゆきなり)らは功を排して、 「勅符を俟(ま)たずして兵を発す、 功ありといえども罪もまた大なり」 といいました。 権大納言
2023/11/15 11:03
契丹の来襲5
しかし東丹は去ってすでに跡かたもありません。 この戦で、 筑前(ちくぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)三国で 殺戮(さつりく)せられたものは四百六十二人、 劫掠(こうりやく)されたものは一千二百八十九人、
2023/11/14 05:10
契丹の来襲4
壱岐守藤原理忠(まさただ)は 契丹と戦って死にました。 当時、藤原伊周(これちか)の弟隆家(たかいえ)は、 大宰帥(ださいのそつ)に左遷されていましたが、 勅符を俟(ま)たずに、 前少監大蔵種材(さきのしよう
2023/11/13 05:00
契丹の来襲3
醍醐天皇の時、 漠北(ばくほく:ゴビ砂漠の北方の地〉に 契丹の太祖阿保機(あぼき)が起り四方を侵略し、 渤海を下し、国号を東丹国と改めて、 その子突欲にこれを治めさせました。 その頃、高麗(こうらい)の
2023/11/10 09:15
契丹の来襲2
天智天皇の時、 唐、新羅(しらぎ)と合従(がっしよう)して 百済(くだら)・高麗(こま)を亡ぼしました。 すでに新羅の、 二国の故地を併呑(へいどん)して朝鮮を一統しました。 この時靺轕(まつかつ)の族種 〈
2023/11/09 05:10
本地垂迹説の発明
遣唐使廃止の時期は、シナ文化の衰退期で、 その圧力が弱まったこともあり、 国風文化の形成は、あらゆる面に行われました。 なかでも仏教の日本化の一つに、 本地垂迹説(すいじやく)があります。 すでに八
2023/11/08 13:16
契丹の来襲1
藤原道長はすでに一家から三后を出し、 外孫をもって天皇とし、 太子としての栄耀は比類なく、 その意満ち、気伸び 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば」 と歌いました。 寛
2023/11/08 05:00
日宋貿易
10世紀に入り、中国の唐末・五代のころ、 日本では平将門の反抗などが起こって 新しい武士階級の成長がみられました。 遣唐使廃止後も、 藤原氏と呉越とのあいだでは 外交が続いていました。 1126年(日本
2023/11/07 08:10
仮名文字の発明
字多天皇の八九四(寛平六)年に、 遣唐使が廃止され、唐との直接交渉がなくなり、 これまでに次第に芽生えつつあった 文化の国風化が促進され、 藤原氏の貴族政治を背景として、 優艶・繊細・巧緻を旨とする王
2023/11/04 11:05
日本の文芸復興
日本は七世紀はじめから遣唐使を派遣して、 さかんに唐の文物を摂取していました。 ところが、九世紀末の八九四年(平安朝初期)に、 唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕した とする認識遣唐使のから
2023/11/02 12:57
日本文芸復興の基礎
奈良時代(六四五-七八四年)に、 日本の歴代の天皇は急速かつ組織的に 支那(唐)の大宮廷を模倣しました。 日本の宮廷定格の、早咲きの繊細な感受性は、 一〇〇〇年のすぐ後に紫式部によって書かれた 細や
2023/11/02 05:57
2023年11月 (1件〜100件)
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