彼はナポリの近くのノーラの生まれで、 激しい気性と透徹した想像力のために、 彼が属していた修道会と衝突し、 ヨーロッパ中を放浪して論争し、 ルルスの神秘主義に世界は多数ある 〔世界は、 地球を中心に恒
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
フン族の大軍は四五一年、 西ローマの要衝の地、ガリア(フランス)を目指して 渡河西進します。 東ゴート人など多数のゲルマン諸部族が合流し、 疾風怒涛の進撃に、 またたく間にトレーヴ、メッツ、ランスの
紀元四世紀の末、 ドナウ河中流ダキア地方(今のハンガリー)の ローマ辺境に、 恐るべき民族が姿をあらわしました。 フン族とよばれるトルコ系の一遊牧民です。 容貌(ようぼう)はずんぐりした短躯で、 黄
民族大移動時代のゲルマン族が信仰していた 神話の世界を伝えているこの伝説は、 彼らは文字をもたず、偶像をつくらなかったので、 忘れ去られていました。 ゲルマン神話とは、 キリスト教化される前のゲルマ
伝説によると地獄の復讐が計画されており、 ゲルマン族の歓楽の世界にも 終わりがくることになっています。 ニッフルハイムという 北方の闇と氷の世界では ロキという巨人族の焔の神が、 地上で老衰や病気の
天にかかる虹の橋は ゲルマン族の天国への入口です。 戦場で勇敢に戦ってたおれた者、 神々の父オーディンに特別に愛された者は 地上での生命が終わると、 戦場の乙女ヴァルキュリーたちに運ばれて この橋を
森の一隅には聖なる泉がわき、 かれらは神殿も神像も作らない代わりに、 森の王国を民族的神話の世界になぞらえました。 白馬にまたがり槍をふるう主神オーディン、 戦車を駆る雷神トール、軍神テイル…… 神々
長城前方の森は、 一見、住むものといえば野生の獣ばかりで、 農業も行なっている ゲルマン族の居住地とは思われません。 しかしよく森影をみると、 傭兵たちと同じように肌着に長ズボンをはき、 肩には毛織
砦にはローマ市民権をもつ正規の将校が 白銀色の胸甲を陽の光に輝かせ、 赤い羽飾りのついたヘルメットをかぶって 監視に立っています。 ゲルマン傭兵たちは軽装で、 布地の帽子をかぶり、 長槍をかまえて歩
紀元前二世紀末、 キンプル人というゲルマン族の一派が 南ドイツ地方に侵入してきた時から 防備を固めるようになったもので、 長城は二〇〇年後に完成しました。 その工事は大がかりなもので、 ライン軍団の
中世の西欧史は ローマ帝国の辺境に築かれた長城の砦と、 そこに襲いかかるゲルマン族とによって始まります。 アメリカ西部の辺境(フロンティアー)にある 守備隊の砦(とりで)で幕をあける西部劇の舞台が、 や
西欧の学者は自分たちが 古代ギリシャ.ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているように考えていますが、 この
西洋の歴史で「中世」(Middle Age)とは、 「古代」ギリシャ・ローマと 「近代」に挟まれた時代のことです。 この時代はゲルマン民族の大移動ののち、 キリスト教化され、現代の西洋といわれる 世界が形成さ
イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこった、 世界史上最も劇的でめざましい変化でした。 それについでおこった変化は、 さらに重要な意味を持っており、 それは、文明世界の両
支那から距離的に離れていたため、 支那の文化圏に完全にのみ込まれてしまう危険を あまり感じなかった日本は、 六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教だけでなく、儒教をはじめ 彼らが輸入し得る支那文化の
インドにしてもおなじことで、 マラータ人やシーク教徒は、 回教徒の専制支配にたいして、 復古の反乱をくわだて、 ときには成功をおさめたこともありましたが、 インド人全般の愛国心の高揚を見るにはいたりま
外国の支配を覆(くつがえ)そうとする企(くわだ)てが 無かった訳ではなく、なかには成功した例もありました。 しかし外国支配のもとで、民族意識の低下は、 民族再興をほとんど不可能にしました。 土着の王朝
もともと 平和的で自足的な性格の東洋文明は、 外からの侵略にたいしてはつねに弱かった。 日本とベトナムを除く東洋諸国は、 モンゴルが東洋の統一を破壊するのを許したばかりか、 インド、支那の文明を彼ら
モンゴルの襲来が 仏教世界とキリスト教世界におよぼした 影響を比べてみると、おどろくほどの違いがあります。 地中海とバルト海の沿岸諸民族は、 長いあいだたがいに侵略しあってきたので、 侵入してきた遊
支那を征服したモンゴルが、 十三世紀後半、朝鮮人に道案内をさせて 日本侵略をくわだてて以来、 わが国と大陸の隣人たちとの古くからの関係も、 衰えはじめました。 モンゴルの好戦的態度は、約四十年間もつ
六世紀のころ、 インドのヴイクラマーディティヤ王の治世にあらわれ、 詩歌音楽の隆盛をもたらした自由廣大の精神は、 支那唐朝にも、 同時代のわが奈良朝の宮廷にもあらわれています。 さらに、八世紀のイン
しかし、この最後のモンゴル襲来は、 過去にその比を見ない大規模なものでした。 それは、太平洋とインド洋に達しただけでなく、 ウラルをこえて、モスクワを侵しました。 ジンギス汗の後裔は、支那では元(
東洋の衰退は、 十三世紀のモンゴルの征服とともにはじまりました。 支那とインドの古典文明は、 この侵略以来彼らをおそった夜の暗さと対比するとき、 ひときわその輝きをましてきます。 黄河とガンジスの
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彼はナポリの近くのノーラの生まれで、 激しい気性と透徹した想像力のために、 彼が属していた修道会と衝突し、 ヨーロッパ中を放浪して論争し、 ルルスの神秘主義に世界は多数ある 〔世界は、 地球を中心に恒
コペルニクス革命の真意がしみ通るまでには いくらか時間がかかりました。 それは、単純で、 天文表を改良する手段として 精密というにはまだ遠いにせよ有用だったので、 職業天文学者によって 最も早期に受
科学者の独創性と個人主義は 表面的なものにすぎず、 その研究の大部分において、 彼らは同一の伝統に依存し、 同一の方法を用い、 同一の問題にひきつけられました。 これらの問題は、ルネサンスの 定性的
グレシャムはロンドンの大商人の一人で、 王室の財政支配人で、 王立取引所の創立者でしたが、 商人資本と新科学との同盟を その一身に体現した人物です。 一世代古いコレージ・ド・フランスとちがって、 グ
オランダとイングランドでは 科学教育の端緒さえ現われました。 それは第一期の スペインとポルトガルの学校をまねて、 航海術にかたよったものでした。 フランドル人の へンマ・フリシウス(一五〇八-
新しい実験哲学者たち、 今日の言葉でいえば科学者(scientist)、 は、ポーランド、イギリス、フランス等 どの国から来た人であろうと、 イタリアで知識を獲得し、 イタリアで各人の最良の仕事の多くを なし
一五世紀の科学の イタリアへの集中に代わって、 この時期には科学が 西欧全体に広く拡散しました。 ただし封建的伝統から脱出した 西欧諸国のうちの最初の国だったイタリアは、 その政治的・経済的重要性を
封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし
スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日
スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見
発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった
産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし
一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき
一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき
儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ
一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学
江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児
すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
ルネッサンス以後の西欧では、 鉱山や航海などの産業が マニファクチャーを中心に発展しました。 そうした産業の要求により、 力学や鉱物学、化学などの研究活動が さかんに行われました。 特に、市場の拡
一三〇〇年以後の時代の西欧文化の特色は、 一般に中世文化の総合が、衰えたことです。 十四、五世紀にあっては、 神聖の理想およびそれと対立関係に立つ 現世での人間の満足は、 真に人を納得させる決着点に
東洋では十一世紀において 北宋時代に儒学の復興がなされ、 文体においても漢以前の 古文復興が支配的となり、 印刷術や火薬、羅針盤などの科学の発達、 そして芸術の発展がなされて、 学芸復興がなされました
「文化」において、西洋の学者たちは 自分たちが古代ギリシャ・ローマを 受け継いでいると自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているように
北畠顕家の『太平記』は、 日本の南北朝時代を舞台にした軍記物語で、 全40巻からなります。 14世紀(1370年ころまでには 現在の40巻からなる太平記が成立) に成立したこの作品は、 後醍醐天皇の即位から始
聖フランチェスコの 強烈な聖なるものの追求は、 彼を異端の際まで押しやります。 弟子たちのある者は、 教皇や教会の司教たちが、 (托鉢士たちが実行することを 原則としているように) 貧しい暮らしをし
行動の領域では、合成総合よりも、 多様さと矛盾の方がきわだっていました。 しかし、対立しあう傾向や思想は 互いにバランスをとりあい、 結果として人間の 衝動の範囲の広さが生かせました。 例えば、キ
「文化」において、 西洋の学者たちは自分たちが 古代ギリシャ・ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているよう
アクィナスには 批判者がないわけではなかった。 そのうちで最も影響力があったのは、 論理的証明の長い連鎖に不信を抱いて、 神秘的体験により得られる 神的なるものの確実性の方を好み、 世俗のものの知に
中世末期の日本の変化は、 社会の発展がその基礎にあり、 南蛮人の影響でおこったのではない。 その発展を一向宗と法華宗いう 二つの宗教がささえました。 親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、 農民ばかりで
西欧における神学の領域では、 信仰と理性は、 聖トマス・アクィナス(一二七四年没)や アルベルトウス・マグヌス(一二八〇年没) のような神学者の力で、 決定的に和解させられました。 アクィナスの『神
西欧の中世文化が ようやく芽生える準備を始めたころ、 日本は後醍醐天皇によって、 天皇親政による専制国家という 近世の政治様式を目指しました。 しかし、 この建武の中興は容易に進まず 所領問題、恩賞
およそ一二〇〇年と一三〇〇年の間に、 中世西欧文化の上昇曲線の躍進は、 もっと複雑で困難ではありますが、 しかし大きな豊かさを持った構造へと 発展をとげました。 一方においては、キリスト教の信仰、
日本に仏教文化が花開いたころ イスラーム教が生まれ、 イスラーム勢力は ゲルマン民族の大移動により 秩序の崩れた西欧に侵入していきます。 これに対しフランク王国の カール・マルテルが勝利し フランス
西欧の中世では、キリスト教は、 社会生活と密接に関連しています。 教会は絶大な権力をもち、 社会生活もすべて キリスト教を中心にしてうごいています。 そのため、教会の腐敗は、 たちまち社会の堕落に
西欧では長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定する習慣がありましたが、 これが堕落の源となっていました。 ローマ法王庁が 世俗の力によって支配されるなら、 ヨー
西欧での農業生産がすすむと、 社会も大きくかわりはじめました。 まず「農村」がいたるところにあらわれます。 さらに重要な点は、 この農村が生まれたことによって、 農村から都市へ発展していく 要因が
一〇世紀までの西欧では、 農業はひどくたちおくれて 牧畜が生産の主流でした。 それというのも、 西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのに困難をきわめたからです。 「一粒の種をまいて一粒の麦
社会における産業の発達の段階と、 科学の発展における様相の変化は、 かなりの程度に並行しています。 生産の発展のための技術的問題が 科学研究を推進するということもあるし、 科学と技術がともに社会の発
15世紀なかばごろから 現代にいたるまでの近代科学の発展は、 どのような様相を示しているかを見るためには, 近代科学の歴史を いくつかの時代に区分することが必要であり、 またその区分を可能にするような