サマタ瞑想は神秘的な意識に至りやすい瞑想法である。 三界は精神状態の階梯のようなもので、感情に左右される欲界からより深淵な色界・無色界へと続いている。この三界の内に様々な神様も住んでいることになる。
仏教、神道、哲学、歴史、アニメ感想、イラストなどの趣味について好き勝手に書いています。
仏教的な記事が多いです。 密教が特に多いかも。 ときどき神道や儒学もとりあげます。 それらの哲学・思想についての考察・発見について書いてます。 他は歴史(日本史)や時事的な政治ネタについても書いてます。 アニメ感想やイラストもUPしたりしてますが、最近は少ないです。 どうぞ宜しく。
お大師様(弘法大師)はどこにいらっしゃるのか。いろいろ候補があげられます。 Ⓐ高野山(&同行二人) Ⓑ兜率天(望遠鏡で下界を覗いていらっしゃる) Ⓑ輪廻転生(恵果和尚とともに師となり弟子となり密教を伝え
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サマタ瞑想は神秘的な意識に至りやすい瞑想法である。 三界は精神状態の階梯のようなもので、感情に左右される欲界からより深淵な色界・無色界へと続いている。この三界の内に様々な神様も住んでいることになる。
悟りというと般若の智慧、無分別智を用いるイメージがあるが、実際お釈迦様は分別智を繰り返し用いている。物事を分解して、それぞれに「我」の無いことを理解してゆくやり方だ。 五蘊にしろ十二因縁にしろ四念処
名とは言葉であり、言葉とは概念であろう。普遍を象徴すると見てもいい。 しかし仏教はこれらの実在を否定するのではなかったか。 例えば「Aがある」これは仮の姿であって、実在ではない。縁起によって出現したも
無明とは無知のことである。しかし漠然とした言葉だ。 これは三毒と考えたらどうだろう。「貪瞋痴」のことである。 それらは業を生み出す。三業などがそう。行為これが行。 行為が輪廻する。という意味では記憶で
まずもって「極楽往生」とは異世界転生のことである。 往生とは生まれ変わりのこと。いわば転生。一度〇んで、そして極楽浄土に生まれるのだ。 だから地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修道・人間道・天道の六つに生まれ
真言とは真実語のことである。真実の言葉とは誓願のことである。よって菩提心を起こしたあらゆる菩薩は真言を持つ。真言は密教の専有物ではない。しかし大乗仏教はじめあらゆる仏教も密教の内にあると見ることができ
唯名論と実在論という用語については、『普遍論争』は無視して、存在論としての唯名論・実在論の用語をここでは使うことにします。なのでお釈迦様は「実在論者」という扱いになります。 十二支縁起の「名色」という
呪文(言葉)の呪力を否定する時点で仏陀は「普遍論争に於ける唯名論者」「存在論に於ける実在論者」である。 この「唯名論」「実在論」の扱い方はとても難しい。一般に謂う「唯名論」「実在論」は中世ヨーロッパの
インドの宗教の場合、必要な手続きを取れば、適切な結果が得られる。基本的にはヴェーダ聖典を理解するバラモンがそんな聖なる知識を持っている。そしてマントラを唱え神々を動かし、望む結果をもたらす。雨ごいなど
法前仏後の世界観では、神々は法に支配されていると考える。この場合の法は「マントラ」だ。 聖なる言葉、真実の言葉、真言を唱えれば雨を降らせたり敵を調伏したりできると考える。 または生きる苦しみ、負のスパ
無制限の国際化には危険が伴う。例えば相手の真理と私の真理は違うということだ。それを相手にも理解してもらわなければならない。そうでなければ、相手は自分の真理を振りかざして日本国内で行動するだろう。「信教
始めに神の強権ありなのか、始めに法ありきなのか。 「郷にいりては郷に従え」というのは、これも一つの宗教みたいなものであり唯一神への信仰を強く持つ者にはまったく響かない。日本人はルールには従うもの。みん
天皇の権威というものは因果律に因るものではないのです。 「善い行いをするから天皇にふさわしい」「悪い行いをするから天皇にふさわしくない」という考えは天皇制を破壊する考え方です。ただこの因果律を用いるこ
しばらくブログ記事上げていませんでしたね。時の経つのはあっという間です。では何を書きましょうか。 パレスチナ問題とかニュースで出ていますが、どうしてイスラエルはこうまで自己中心的なんだろうか考えたりし
コロナ前と後では変化がかなりある。 それまではどんなに技術が進んでも紙が業界から無くなることはないと思われていた。 なぜなら原画マンさんとかは紙に絵を描くことで技術を磨いてきたから。 それをガラスの上
テトラレンマ(四句分別)についてもう少し考えてみたい。 ①「Aである」 ②「非A]であるという命題に加え ③「Aであり、かつ非Aである」 ④「Aでもなく、かつ非Aでもない」 これをどう解釈するかですが
事法界の「事」とは遍計所執性だと思う。 どちらも一般人の普通の視点。一般人が見る世界。言葉が支配する世界でもある。 証明というのは言葉による客観化だから、遍計所執性ということになる。 二項対立の相対
テトラレンマとは四句分別というインド論理学で使われる概念です。 西洋は排中律を用いる二項対立の論理学です。インド論理学ではこれにもう二つの項があるのですね。 ①「Aである」②「非A]であるという命題に加
そもそも十二因縁成立の過程は二支分から始まる。原初の形は〈原因→苦(結果)〉だった。シンプルです。そこから七支分に発展した。〈煩悩→愛好されるもの→欲望→快・不快→感官による接触→名称と形態→表象の連鎖縁起
考えてみれば十二因縁のそれぞれのパーツはほぼ表層意識なんだよな。 愛とか取とかはやや深めだけど、やっぱり表層意識にまで上げてきて自覚できるレベルなんだ。 もし睡眠状態であったなら? 無明のいう概念自
お大師様(弘法大師)はどこにいらっしゃるのか。いろいろ候補があげられます。 Ⓐ高野山(&同行二人) Ⓑ兜率天(望遠鏡で下界を覗いていらっしゃる) Ⓑ輪廻転生(恵果和尚とともに師となり弟子となり密教を伝え
(スコトーマは縁起の場であり秘密の境界であり、「心即理」の性の場である。) 突然で申し訳ないが、「スコトーマの方が本来の世界だとしたら?」というテーマ。 このスコトーマとは生の世界に於ける盲点のこと
三力について 第一に、三つの力を別々の異なる力として解釈することができる。 第二に、三つの力を同一の力として解釈することができる。 最初に「以我功徳力」とある。しかし、自力のみであるものなどない。「
「法界体性智」は思うに「一如な存在」なのだろう。対立しえない存在なので顕在化(概念化)しないのである。 自性(プラクリティ)の全体相=「法界」とは大きすぎる秘密の存在そのものなのである。 「法界体性智
自己(プルシャ)は世界外存在であり、認識対象ではない。それ故認識されることはない。それは秘密の領域に存在する者であり、顕の分別から超絶している。 そもそも分別は世界内にいるから存在する。 世界外から
他力は世界外からの加持力のことと思われる。 何故なら如来は解脱した者であるから世界内の存在ではない。 自己(プルシャ)は世界外存在である。 故に自己は如来であり、世界外からの加持力を与える者である。
瞑想は共時的。 普段の精神は通時的なもの。 落ち込んだ時は、「この精神は私の所有物じゃない。神仏のもの。聖なるもの」と思うようにしてる。
一般に謂う仏身論は顕教的な解釈である。それは法身は果分不可説、故に法身は最も純粋な空に近い存在というもの。ゼロに近い存在。胎蔵生曼荼羅中央の大日如来もそうだと思う。 そして本地垂迹説もこの流れに沿っ
一元論は論理として破綻し易い。この場合流出論を指すのだが、一元的ものから流出創造された途端に、二元的なものになり果てるからだ。創造されたものが幻影(仮)なるものとされ、真なるものではないと説明されたと
レヴィ=ストロースは「(学問には)還元的な方法か構造的な方法の二通りしかない」と述べております。西洋は還元的であり、東洋は構造的であるといえるかもしれません。 西洋の場合存在論の最終的根拠は神に帰し
「内証智」という言葉があるが、この言葉を用いる者は外側の世界にいるわけで、曼荼羅世界の外に意識を置いているといえる。 曼荼羅の内と外にいるか否かの問題には賛否あると思う。 即ち孫悟空のように世界の果
四句分別について以前も書かせて頂きましたが、これが案外仏教理論の根幹になっている可能性がある。仏教にも「構造」がある。真理は構造によってことなる。仏教の真理は、それを構成する構造がやはり有るのです。
密教は梵我一如だと謂われる。仏教以前のバラモン教に於いても梵我一如を真理だとしている。 仏教はそもそもバラモン教の梵我一如を否定する宗教であったはずだ。 ならば密教の梵我一如と、バラモン教の梵我一如と
無意識というものは意識の自覚の及ばない領域だと思うのだが、それは「我」ではないのだろう。 つまりは「無我」の領域にあたるのだろうが、何もないわけではないということだ。 何らかの心理の動きはある。それは
空や無という言葉で表されるような、「寂静なる法身」理解は十分なものとは云えないだろう。 「縁起からはなれたもの」ということになるからである。 普遍や本質を求めたところでその当体は存在しない。法有を求め
「密教は方法論か」ということですが、三句の法門でも「菩提心を因とし、大悲を根として、方便を究竟とす」とあります。方便とは手段のことですね。ということは「密教は方法論」という見解に説得力が増します。
ならば密教は方法論なのか、という疑問がわいてくる。 たとえば顕密の差は読み手に因って変わってくる。 顕教の経典、密教の経典という大雑把な差異はあるかもしれないが、密教者が顕教の経典を読んだなら密教経
構造主義の構造とは、現象より深部にある仕組みのようなものである。因って不変的なものを扱う。 仏教でいう有部の「法有」と似ているかもしれないが、法は「存在」のニュアンスも含んでいる言葉なので少し違う。存
この心は我が心ではない。天然自然の自律的存在である。 しかしながら「我が心」はコンフォートゾーンの居を構え、分別心にとらわれてしまっている。 「一個人一宇宙」の唯識は迷いの世界、分別心の中にある。 即
仏教ではあらゆるものは「我」の所有物ではないとする。 それは心についてもだ。 この心は我が心と考えてしまいがちだが、案外客観的な存在なのかもしれない。 もっと言えば阿弥陀仏の浄土なのかもしれない。