一般に謂う仏身論は顕教的な解釈である。それは法身は果分不可説、故に法身は最も純粋な空に近い存在というもの。ゼロに近い存在。胎蔵生曼荼羅中央の大日如来もそうだと思う。 そして本地垂迹説もこの流れに沿っ
仏教、神道、哲学、歴史、アニメ感想、イラストなどの趣味について好き勝手に書いています。
仏教的な記事が多いです。 密教が特に多いかも。 ときどき神道や儒学もとりあげます。 それらの哲学・思想についての考察・発見について書いてます。 他は歴史(日本史)や時事的な政治ネタについても書いてます。 アニメ感想やイラストもUPしたりしてますが、最近は少ないです。 どうぞ宜しく。
「ブログリーダー」を活用して、奥円さんをフォローしませんか?
一般に謂う仏身論は顕教的な解釈である。それは法身は果分不可説、故に法身は最も純粋な空に近い存在というもの。ゼロに近い存在。胎蔵生曼荼羅中央の大日如来もそうだと思う。 そして本地垂迹説もこの流れに沿っ
一元論は論理として破綻し易い。この場合流出論を指すのだが、一元的ものから流出創造された途端に、二元的なものになり果てるからだ。創造されたものが幻影(仮)なるものとされ、真なるものではないと説明されたと
レヴィ=ストロースは「(学問には)還元的な方法か構造的な方法の二通りしかない」と述べております。西洋は還元的であり、東洋は構造的であるといえるかもしれません。 西洋の場合存在論の最終的根拠は神に帰し
「内証智」という言葉があるが、この言葉を用いる者は外側の世界にいるわけで、曼荼羅世界の外に意識を置いているといえる。 曼荼羅の内と外にいるか否かの問題には賛否あると思う。 即ち孫悟空のように世界の果
四句分別について以前も書かせて頂きましたが、これが案外仏教理論の根幹になっている可能性がある。仏教にも「構造」がある。真理は構造によってことなる。仏教の真理は、それを構成する構造がやはり有るのです。
密教は梵我一如だと謂われる。仏教以前のバラモン教に於いても梵我一如を真理だとしている。 仏教はそもそもバラモン教の梵我一如を否定する宗教であったはずだ。 ならば密教の梵我一如と、バラモン教の梵我一如と
無意識というものは意識の自覚の及ばない領域だと思うのだが、それは「我」ではないのだろう。 つまりは「無我」の領域にあたるのだろうが、何もないわけではないということだ。 何らかの心理の動きはある。それは
空や無という言葉で表されるような、「寂静なる法身」理解は十分なものとは云えないだろう。 「縁起からはなれたもの」ということになるからである。 普遍や本質を求めたところでその当体は存在しない。法有を求め
「密教は方法論か」ということですが、三句の法門でも「菩提心を因とし、大悲を根として、方便を究竟とす」とあります。方便とは手段のことですね。ということは「密教は方法論」という見解に説得力が増します。
ならば密教は方法論なのか、という疑問がわいてくる。 たとえば顕密の差は読み手に因って変わってくる。 顕教の経典、密教の経典という大雑把な差異はあるかもしれないが、密教者が顕教の経典を読んだなら密教経
構造主義の構造とは、現象より深部にある仕組みのようなものである。因って不変的なものを扱う。 仏教でいう有部の「法有」と似ているかもしれないが、法は「存在」のニュアンスも含んでいる言葉なので少し違う。存
この心は我が心ではない。天然自然の自律的存在である。 しかしながら「我が心」はコンフォートゾーンの居を構え、分別心にとらわれてしまっている。 「一個人一宇宙」の唯識は迷いの世界、分別心の中にある。 即
仏教ではあらゆるものは「我」の所有物ではないとする。 それは心についてもだ。 この心は我が心と考えてしまいがちだが、案外客観的な存在なのかもしれない。 もっと言えば阿弥陀仏の浄土なのかもしれない。
「構造」と「還元」と二種類の構成法がある。 構造は関係性で成り立っている。ジャンケンの三すくみのようなもの。 還元は絶対的な主がまずある。あれに依拠いた従がある。 各々が主従を兼ね備えている構造では
構造とは何なのか、私にもまだ分かりません。しかし構造が絶対という解釈で良いのでしょうか。それは即ち「還元」的な考えです。 構造とは絶対的なものに依拠する考えではありません。全体の関係性で成り立っている
構造主義の構造とは時代に依って変化しない共時的なもの。 構造-機能分析の構造とは時代に依って変化する通時的なもの。社会学などで用いられる。 歴史の変動期というものは構造が変化したときということだ。
レヴィ=ストロースは「(学問には)還元的な方法か構造的な方法の二通りしかない」と述べております。 本当にその二通りしかないのかは知りませんが、この二つの特徴を述べてみますと、還元的な方法は「主従」「甲
現代人が仏教を勉強しはじめるときに混乱するのが、インド独特の形式論理学表現についてである。 例を挙げると 「不生亦不滅 不断亦不常 不一亦不異 不来亦不去」 「無所有処・非想非非想処」 「 Aは非Aで
ご無沙汰しております。 伝法灌頂や諸伝授も受けまして正式に僧侶となりました。 とはいえ私は一番の落ちこぼれでございました。 なので形ばかり、名ばかりの段階でございます。今のところは。 これからは空いた
密教は即身成仏。父母所生身にして成仏を果たす。 しかし人間には寿命がある。父母所生身にはおのずと限界がある。ならばその中に存在する即身成仏は永遠ではないのだろうか。 今世の寿命中にしか成仏が存在しな
陽明学では「良知」というものを説く。良知とは「先天的に備わった理性知」のことです。まあ儒教(儒学)ですからね。仏教と違って五常を説くんですね。仏教は「無常」ですから常を説くことはありません。しかし儒教
「顕薬 塵を払い、真言蔵を開く」とは素晴らしい言葉ですね。ここ一年くらい毎日この言葉を考えてしまっています。考えない日はないですくらいですね、自然と。 これによく似た言葉が王陽明の「心即理」です。
瞑想には二種類あると言いますよね。止と観です。またの名をサマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想と言います。 止は一つの対象に集中し続ける瞑想。何か他の物事にとらわれていたりすると「あ、いけないいけない」とまた
歩く「もの」は普遍です。そして言葉が作り出した相です。 顕教では「真理を仏が説く」として仏と真理と説法とを別々のものとしている。しかし密教では真理そのものが仏であり説法と考える。ならば「歩く」は「歩く
お大師様は曼荼羅の説明で、「密蔵は深玄にして翰墨に載せ難し。更に図像を仮りて悟らざるに開示す(密教の教えは深く神秘的なために、文字では伝えがたい。そこで図像をもちいて、理解できない人の眼を開くのです)
最近は『密教は実在論か』というテーマでずっと書いておりました。今回はその続きのようなものであります。結論として書こうと思っていたテーマがまとまらずに今となってしまったのですが、『声字実相義』も少しばか
真言の性質についてであるが、これは多義を含む。複数の意味を持つ。特定の意味を持つ言葉ではない。 だからこそ逆説的に一切義を含むと考えられる。 特定の存在対象となると、遍計所執性の見方になるので真言で
真言を方角・方位にた例えたが、これは主観(構造)ということだ。 主観にとっては客観があること自体が重要であって、それが「何か」であることはあまり重要ではない。 現象学的視点であるが、これを「内在と超越」
ここまで書いてきたけど、実在論か唯名論かの結論が出てないんですよね。 ああでもない、こうでもないを繰り返してる。 唯名論とは何かを調べてみると、「個物のみ実在。精神の中で、個物の後に生じる」なんですよ
如来と菩薩との関係を月で例えますと、如来が満月でそれらを分割した満ち欠けが菩薩です。キングスライムとスライムとの関係と同じです。全ての智慧を合わせると如来となるのです。 全体が如来。部分が菩薩。 果
密教は「果分可説」を説く。 顕教は「因分可説、果分不可説」です。 果分とは真理や悟りのことです。可説とは言語化できるという意味です。 不可説は言語化できないという意味です。 因分は凡夫や修行段階のこ
顕教の実在論検証が中心になってしまいましたが、ちゃんと密教について実在論検証をしてみます。 普遍論争は「言葉が先」か、「意味が先」か、という視点で見ることもできます。 ソシュール言語学(構造主義)
仏教の悟りには頓悟と漸悟の二種がある。 頓悟は一気に悟る。漸悟は段階的に悟る。 悟り方の違いではあるのだが、正確には「悟ったところから始める」か、「凡夫から段階的に悟る」か、だと思う。 自分は仏で
「真理を悟る」という表現がある。 真理が作られたものでないなら、元からあったということだ。お釈迦様はそれを悟ったということになる。 悟った者を「ブッダ」と謂う。 ちなみにブッダとは仏教のみで用いられる
では、密教に於ける実在論要素に移ります。 まず真言から始めましょうか。 真言は「真実の言葉・秘密の言葉」です。 通常の言葉とは異なります。通常と違うのは普遍が実在するからです。如来の内証智を表した言
密教について書く前に、大乗仏教に於ける実在論要素を書いてゆきたいと思う。 大乗仏教は言うまでもなく唯名論だ。龍樹の空の思想を背景にしていることからも分かる。 しかしそれでも実在論要素は避けられないか。
普遍論争に於ける実在論の基本モデルはプラトンのイデア論だ。 イデアは現実世界とは別に存在している。現実世界に於ける形相はイデア界に於ける影である。 まあこんな感じだろう。 つまり現実世界とは別に普遍
西洋哲学は専門外なもので付け焼刃なのですが、普遍論争は案外奥が深い。そしてインドにもインド哲学があってインド型の唯名論なり実在論があったりする。これら唯名論と実在論とで二分できたら話ははやいのでありま