事法界の「事」とは遍計所執性だと思う。 どちらも一般人の普通の視点。一般人が見る世界。言葉が支配する世界でもある。 証明というのは言葉による客観化だから、遍計所執性ということになる。 二項対立の相対
仏教、神道、哲学、歴史、アニメ感想、イラストなどの趣味について好き勝手に書いています。
仏教的な記事が多いです。 密教が特に多いかも。 ときどき神道や儒学もとりあげます。 それらの哲学・思想についての考察・発見について書いてます。 他は歴史(日本史)や時事的な政治ネタについても書いてます。 アニメ感想やイラストもUPしたりしてますが、最近は少ないです。 どうぞ宜しく。
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事法界の「事」とは遍計所執性だと思う。 どちらも一般人の普通の視点。一般人が見る世界。言葉が支配する世界でもある。 証明というのは言葉による客観化だから、遍計所執性ということになる。 二項対立の相対
テトラレンマとは四句分別というインド論理学で使われる概念です。 西洋は排中律を用いる二項対立の論理学です。インド論理学ではこれにもう二つの項があるのですね。 ①「Aである」②「非A]であるという命題に加
そもそも十二因縁成立の過程は二支分から始まる。原初の形は〈原因→苦(結果)〉だった。シンプルです。そこから七支分に発展した。〈煩悩→愛好されるもの→欲望→快・不快→感官による接触→名称と形態→表象の連鎖縁起
考えてみれば十二因縁のそれぞれのパーツはほぼ表層意識なんだよな。 愛とか取とかはやや深めだけど、やっぱり表層意識にまで上げてきて自覚できるレベルなんだ。 もし睡眠状態であったなら? 無明のいう概念自
シンクロニシティは法身のヴィパッサナー瞑想なのかもしれない。 それが自受法楽でもあって。だから現実と言葉との符合が起きる。 ヴィパッサナー瞑想は心や体感の実況中継である。 その実況する言葉が真実であ
十二因縁について書いてみる。 このテーマはこれまで何度も書いてきた。しかしどうも理解できないでいる。 なので毎回いろいろな解釈の仕方を探っている。 さて今回思ったのは「無明」について。 これは無知で
私の突飛な解釈を補強する詩句を上げます。 これこそがお大師様の思想というものを。 お大師様40歳のころの詩 『中寿感興詩』から 「三昧の法仏は 本より我が心に具わり 二諦の真俗は 倶(とも)に是れ
更に言葉を加えようと思う。 「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ 」 「無限無数の宇宙の隅々に至るまで、無機物有機物を問わず、衆生としての神秘生命は宿っていて、そんな心の内の極み果
「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ」 あらためて私独自の文意を述べると 「宇宙は無数に存在しており、更にそこに存在する衆生は無数に存在し、更に涅槃(曼荼羅世界)は無限に広がる。それ
お大師さまの言葉に「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ」というものがある。 これの訓がどうも納得がいかない。 一般には「虚空が尽き 衆生が尽き 涅槃が尽きれば 我が願いも尽きること
仏教も構造主義も共時的な構造を扱う。 一方、社会学での構造‐機能分析は通時的だ。 共時的=時代・過程に興味はない。関係性のみ関心がある。それは結局何なのかに関心がある。 通時的=時代・過程に関心があ
仏教でいう真理は脱世俗的だ。故にその構造も社会や歴史の変化と何の繋がりもない。 私は仏教と構造主義は似ていると何度も述べているが、構造主義の「構造」もそれと同じだ。 逆に社会学でいう「構造‐機能分析
「空」というものをできるだけ簡単に伝えるにはどうしたらよいか。 試してみる。 『歩くものは歩かない』 未だ歩いていない者は歩いていない。 既に歩いた者は歩いていない。 未来・過去の両者を離
天台宗の円珍が叔父の空海を批判していたというのは依然から知っていたが、それがどういう批判だったのかは知らなかった。それで少し調べてみたが「大日経は大・小両乗を統摂する。それなのに空海は十住心を立して諸
お大師様(弘法大師)はどこにいらっしゃるのか。いろいろ候補があげられます。 Ⓐ高野山(&同行二人) Ⓑ兜率天(望遠鏡で下界を覗いていらっしゃる) Ⓑ輪廻転生(恵果和尚とともに師となり弟子となり密教を伝え
(スコトーマは縁起の場であり秘密の境界であり、「心即理」の性の場である。) 突然で申し訳ないが、「スコトーマの方が本来の世界だとしたら?」というテーマ。 このスコトーマとは生の世界に於ける盲点のこと
三力について 第一に、三つの力を別々の異なる力として解釈することができる。 第二に、三つの力を同一の力として解釈することができる。 最初に「以我功徳力」とある。しかし、自力のみであるものなどない。「
「法界体性智」は思うに「一如な存在」なのだろう。対立しえない存在なので顕在化(概念化)しないのである。 自性(プラクリティ)の全体相=「法界」とは大きすぎる秘密の存在そのものなのである。 「法界体性智
自己(プルシャ)は世界外存在であり、認識対象ではない。それ故認識されることはない。それは秘密の領域に存在する者であり、顕の分別から超絶している。 そもそも分別は世界内にいるから存在する。 世界外から
他力は世界外からの加持力のことと思われる。 何故なら如来は解脱した者であるから世界内の存在ではない。 自己(プルシャ)は世界外存在である。 故に自己は如来であり、世界外からの加持力を与える者である。
仏教ではあらゆるものは「我」の所有物ではないとする。 それは心についてもだ。 この心は我が心と考えてしまいがちだが、案外客観的な存在なのかもしれない。 もっと言えば阿弥陀仏の浄土なのかもしれない。
「構造」と「還元」と二種類の構成法がある。 構造は関係性で成り立っている。ジャンケンの三すくみのようなもの。 還元は絶対的な主がまずある。あれに依拠いた従がある。 各々が主従を兼ね備えている構造では
構造とは何なのか、私にもまだ分かりません。しかし構造が絶対という解釈で良いのでしょうか。それは即ち「還元」的な考えです。 構造とは絶対的なものに依拠する考えではありません。全体の関係性で成り立っている
構造主義の構造とは時代に依って変化しない共時的なもの。 構造-機能分析の構造とは時代に依って変化する通時的なもの。社会学などで用いられる。 歴史の変動期というものは構造が変化したときということだ。
レヴィ=ストロースは「(学問には)還元的な方法か構造的な方法の二通りしかない」と述べております。 本当にその二通りしかないのかは知りませんが、この二つの特徴を述べてみますと、還元的な方法は「主従」「甲
現代人が仏教を勉強しはじめるときに混乱するのが、インド独特の形式論理学表現についてである。 例を挙げると 「不生亦不滅 不断亦不常 不一亦不異 不来亦不去」 「無所有処・非想非非想処」 「 Aは非Aで
ご無沙汰しております。 伝法灌頂や諸伝授も受けまして正式に僧侶となりました。 とはいえ私は一番の落ちこぼれでございました。 なので形ばかり、名ばかりの段階でございます。今のところは。 これからは空いた
密教は即身成仏。父母所生身にして成仏を果たす。 しかし人間には寿命がある。父母所生身にはおのずと限界がある。ならばその中に存在する即身成仏は永遠ではないのだろうか。 今世の寿命中にしか成仏が存在しな
慈悲こそが仏の行為ということなのかな。 道元さんは「自未得度先度他」と言った。しかし道元禅は成仏の姿である。ということは密教と同じく即身成仏の系統に当てはまる。 はっきり言って矛盾している。 自分の
菩提心を優先するか、大悲を優先するかですが、鎌倉仏教では末法思想の故か大悲を優先しているように見受けられます。そしてそれ故に浄土真宗などは顕教を称しているのでしょう。 「自未得度先度他」という言葉が
大日経には三句の法門というものがある。 (如来の智慧は)「菩提心を因とし 大悲を根とし 方便を究竟とす」というもの。 大悲までは他の経典にもある文句だそうですが、大日経になって「方便を究竟とす」が加わ
衆生を救うことに主体があるのか、真理を説くことに主体があるのか。 例えばアマゾンは沢山の商品を販売している。それはお客様のニーズに合わせてだ。しかしその中でアマゾンが売りたい真の商品が実は存在している
お釈迦様の説法は対機説法といって、相手や場合によって異なることを述べいたりする。これは孔子の教えと同じ。同じことを一貫して述べていた訳ではない。それ故にお釈迦様の真実の教えは何だったのだろうかと後世に