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禅的哲学 https://blog.goo.ne.jp/gorian21

禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。

私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。

御坊哲
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港南区
出身
御坊市
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2013/12/07

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  • 東京見物PARTⅡ(皇居編)

    仕事で東京に通っていた頃は味もそっけもない殺伐とした大都会だと思っていたが、先日神宮外苑や上野界隈を訪れて、東京はいろいろな風土に恵まれた美しい街であることを再確認した。というわけで、東京見物に味をしめて、一昨日(11/27)は皇居へ行ってきました。今までに皇居前広場とか桜田門付近には何度も言ったことがあるけれど、天守台の辺りは一度も言ったことがなかったので、この際見に行ってみようと思い立ったのです。街路樹の黄葉とモダンなオフィスビルが美しいお堀端。皇居前に来ると何やらすごい人だかりです。ちょうど乾通りの公開が行われているということで、大勢の人々が詰めかけていました。ということで、私も参加することにしました。ここが宮内庁庁舎だそうです。皇居には様々な樹種の木々が植わっていて、紅葉のバリエーションも多彩で華...東京見物PARTⅡ(皇居編)

  • 久し振りの東京見物

    昨日は急に東京国立博物館を見に行こうと思い立ち電車に乗り込んだ。この前に東京へ行ったのかいつか思い出せないほど久し振りのことである。この日は晴れのち曇りの天気予報でもあったので、博物館に行く前に神宮外苑の銀杏並木を見に行こうと思った。明るい陽光の中で見る黄葉は美しかろうと思ったのである。銀杏の黄葉は美しかった。ただし人も多かった。できれば光に満ちた静かな秋の日を満喫したかったが、それは贅沢というものだろう。外国から観光に来られた方も多いようだ。特に中国語らしい響きがあちこちで聞こえる。まだ中国からの来日は本格化していないようだが、それでもやはり中国のプレゼンスは大きいと感じる。昨日は日差しが強かった。陽の光と黄葉が戯れるというのはこういう様を言うのだろう。時折風が吹くたびにおびただしい葉っぱがひらひらと光...久し振りの東京見物

  • 「消費税上げるな」はワガママか?

    ホリエモンこと堀江貴文さんが「消費税を下げろ」と言う人に対して次のように言ったらしい。「消費税あげるな、富裕層が負担しろ、移民は嫌だ。中国怖いから防衛費は上げろ、予防とかしたくないけど病気になったら医療費は保険でカバーしろ、年金はちゃんとくれ、とかみんなワガママすぎるんだよな」(yahooニュース)「消費税を上げるな」という主張は本当にワガママだろうか?もともと税金というものは所得の再配分であるという考えに立つなら、消費税そのものが税金の趣旨に反しているという考えも成り立つ。堀江さんは若いから消費税が導入された経緯をたぶん御存じないのだろう。消費税が必要になったのは所得税と法人税の度重なる減税のせいであることを忘れてはならない。ちなみに昭和49年度の所得税の最高税率は75%で住民税と併せると93%もの高額...「消費税上げるな」はワガママか?

  • 歌の橋と実朝

    先日、鎌倉の鶴岡八幡宮から杉本寺まで歩いていく途中で面白いなまえの橋を見つけた。下の写真を見て欲しい。「歌の橋」とある。なんの変哲もない橋だがなかなか優雅な名前の橋である。私はてっきり「歌」を唱歌のことだと思い、この近くに音楽関係の学校でもあったのだろうかと思ったのだが、このそばに立っている碑の由緒書きによればどうやらそれは和歌のことらしい。「渋川刑部兼守謀殺の罪により誅せられんとせし時悲の餘り和歌十首を詠じて荏柄社頭に奉献せしに翌朝将軍実朝伝聞せられ御感ありて兼守の罪を赦されしによりその報賽として此の所に橋を造立し以て神徳を謝したりと伝えられこの名あり」とある。インターネットで調べたところ、この「謀殺の罪」というのは、頼家の子である千寿丸を鎌倉殿に擁立しようとした謀反「泉親衡の乱」に渋川兼守が加担してい...歌の橋と実朝

  • 百丈野鴨子

    前々回と前回記事において実存的視点というものをとりあげたのだが、そういう観点から過去に取り上げたこともある禅宗の公案「百丈野鴨子」について再度検討してみたい。公案というのはいわゆる禅問答のお題のことと思ってもらって差し支えない。禅問答というと一般には訳のわからないことを指す、確かにそのようにとられても仕方のないようなやり取りが多いのだが、禅はあくまで宗教であり学問ではない。論理的な正確さよりも、修行者を導くための実感を重視する。その為に意表を突くようなやり取りが多くなるのである。しかし、そのような奇妙なやり取りの中にも、哲学的な普遍性があるということについて、できる限り論理的に説明したいと思う。私たちはエッフェル塔の写真を見て、「あっ、パリだ。」と言う。自由の女神なら「ニューヨーク」である。しかしエッフェ...百丈野鴨子

  • 素朴にものを見るということ、比較しないということ

    前回記事において実存的視点と客観的視点について述べたが、その違いは比較するかしないかということにあると思う。実存的視点というのはただ素朴に世界を見つめる視点である。それに対して客観的視点というのは、架空の視点から自分自身をも含めてあらゆるものを客観的世界の中に位置づけようとする視点であり、それは比較という操作がなければできないことである。例えば「平等」という言葉について言うと、一般的な平等というのは人と人を比較しての平等であるが、仏教でいう平等は比較しない平等ということになる。客観的な位置づけというものをしないのである。だから当然のことだが「親ガチャ」などという概念も、実存的視点からは生まれようがないのである。禅寺で雲水たちの生活を見ていると、掃除でも食事でもとにかく早く一心不乱にやっていることに気がつく...素朴にものを見るということ、比較しないということ

  • 今、ここ、私、そして実存

    「私は今ここにいる」という言葉は、誰がいつどこで言っても正しい言葉すなわちトートロジーである。トートロジーは情報としてはなんの意味をも含んでいない。試しに、そばに居る誰かに向かって「私は今ここにいる」と言ってみよう。多分相手はけげんな顔をして「そんなこと分かっている」と返してくるだろう。その言葉は無意味だが「私が今ここにいる」ということは、ある意味なによりも重大な意義があることでもある。それは私が今ここに現実に生きているということだからである。哲学用語ではそれを「現実存在」略して「実存」と呼ぶ。それで、「私が今ここから」ものごとを見る視点を実存的視点と言う。それに対し、客観的視点というのはこの世界の全体を正確に見渡せるような高みにある架空の視点のことを言う。客観的視点というのはわたしたちが生きていくうえで...今、ここ、私、そして実存

  • 祭りの喪失

    韓国の梨泰院(イテウォン)で154人もの若者が圧死してしまうという恐ろしい事故が起きてしまった。現代の若者は他人とのかかわりを持ちたがらないようにも見受けられるが、一方で人の集まる所へ引き寄せられる。おそらく彼らは祭りのエロスを求めているのだろう。どこの民族どこの地域にも祭りというものがある。日本の祭りではたいていみこしを担いだり、笛や太鼓に合わせて踊ったりする。半裸の男たちが重厚なみこしを担ぎあげ汗をほとばしらせる。荒々しい男たちの中でみこしを担ぐ、その経験を通して一人前の男であることを自覚する、それが若い男の通過儀礼である。また、その喧騒の中で思いを寄せる男を見つけて若い女は胸をときめかせる。それが正しい祭りのあり方だと思う。祭りに喧嘩や事故はつきものだということはある程度言える。しかし、154人もの...祭りの喪失

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