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禅的哲学 https://blog.goo.ne.jp/gorian21

禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。

私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。

御坊哲
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港南区
出身
御坊市
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2013/12/07

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  • 疑似問題について

    前回記事では疑似問題というものをとり上げた。問題としての体裁は整っているが、実はそれには回答がない。なにを問うているかが分からないのである。なぜそのような問題が生じるのか?おそらくそれは私たちが言葉で考えるからだろう。私が幼稚園の頃、次のような歌を教わった。〽朝はどこから来るかしらあの山越えて谷越えて光の国から来るかしら〽いえいえそうではありませんそれは明るい家庭から〽朝が来る来る朝が来るおはようおはよう一体朝はどこから来るのか?幼い私は結構一生懸命考えた。今から思えば、考えたというより不思議がっていただけと表現した方が良いだろう。どう考えても、朝がどこから来るかを考えるのは不可能だ。「朝はどこから来るのか?」という問いは言葉としては成立していても、実は何を問うているのかがよく分からない。それが何を問うているか...疑似問題について

  • 実存の不安と無記

    実存とは「現実存在」のことである。端的に言えば、私が今現実にここにこうしていることである。それがどうして不安なのか?不安など感じたこともないという人もいるかもしれない。そうであれば、それはそれで素晴らしいことでありなにも問題は無いが、大抵の人はこの大宇宙にただ一人取り残されているような感覚に襲われたことがあるのではないかと想像している。他人の心の内は分からないので、それはあくまで私の想像でしかないが、‥‥。とにかく私は子供の頃はとても怖がり屋であった。毎晩眠る前に恐ろしい妄想にとらわれるのが常であった。障子を開けるとその外には何もなく、私はこの部屋とともに一人だけこの世界に取り残されているのではないだろうか?天井を眺めていると、木目がぐにゃりと渦を巻き、そこから鬼が出て来て私を地獄へ引きずり込むのではないか?嘘...実存の不安と無記

  • 思いを言葉にする。思いが言葉に引きずられてはならない。

    昨夜のNHKの「プロフェッショナル/仕事の流儀」という番組を見たら、俳句の夏井いつき先生が次のようなことを仰っていた。≪自分の為に俳句を書くんだから、俳句の為に自分の思いをゆがめるのは違うと思う。頭で空想で作ってると、かっこいい言葉みつけたから、じゃ本当はこっち表現したかったんだけど、でもかっこいい言葉見つかったから、いやいいやそっちでもとかって、最初の思いを捨てて言葉のほうに酔ってしまう。心が無かったら言葉さがしてもしょうがないから‥‥‥≫このようなことは俳句に限らず、ブログを書く場合にも心掛けておかなければならないことである。思いを言葉にする。思いが言葉に引きずられてはならない。

  • お詫びと愚痴

    前回記事の最後に続編として「経験あって個人ある」という記事を書くという予告をしていましたが、既に2年前に全く同じタイトルで同じ趣旨のことを記事にしていることが分かりました。わざわざ当記事を読んで下さった方にはおわび申し上げます。その上で、なお興味がある方は下記の記事を読んでいただければ幸いです。経験あって個人ある(1)経験あって個人ある(2)人間は歳を取ると繰り言が多くなると言われます。私も70歳を超えて知的能力が衰えていることを、はっきりと目に見える形で如実に知らされました。記事の題名まで予告したのですから、本来なら過去記事に新たな知見を付け加えて新たな記事として発表すべきところですが、全然新しいアイデアが浮かんでこない。どうやら私の思考はこの二年間というもの堂々巡りを繰り返していただけのようです。本来なら読...お詫びと愚痴

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