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禅的哲学 https://blog.goo.ne.jp/gorian21

禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。

私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。

御坊哲
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2013/12/07

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  • 純粋経験論について

    前々回の記事「全てが私であるなら、私というものは存在しない」において私は次のように述べた。≪ただ素朴に山があるという原事実、それが「純粋な実在論」の意味である。≫ここで私は「原事実」という言葉を使っているが、このことについて少し説明をしたい。今、目の前のテーブルにリンゴが置かれているとする。すると、科学教育を受けた現代人は、「リンゴから反射された可視光線が、私の目に入ることによってそのリンゴが私に見える。」と考える。つまり、「リンゴが有るから、赤くて丸いものが見えている。」と考えている。しかし、哲学者に言わせれば、これは実は逆で「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴが有ると(推論によって)想定している。」ということになる。このことについて、西田幾多郎の「善の研究」を参照してみたい。≪我々は意識現象と物体...純粋経験論について

  • 天然ワクチン仮説

    新型コロナの感染者数の激減の原因が分からない。「人流の減少」「感染対策の徹底」「ワクチンの効果」「天候」など、いろいろ言われているが、どれも決定的な根拠としては物足りない。なかには、「変異することによって感染力が弱まった。」という説もあるが、これほど大規模な感染を起こしたウィルスでは変異タイプが常に並行的に存在するので、感染力の弱いタイプは単純に淘汰されるだけなので、そういうことは考えにくい。パンデミックにおいては、感染力に有意な差があるウィルスが併存した場合、必ず感染力の強い方が弱い方を駆逐することになる。例えば、従来のウィルスの2倍の感染力を持つ変異ウィルスが出現したと想定してみよう。2倍の感染力が2倍の実行再生産数を意味するとしたら、感染力の強い方はネズミ算式に従来型を凌駕していくことは理解できると思う。...天然ワクチン仮説

  • 全てが私であるなら、私というものは存在しない。

    独我論というものの見方がある。コトバンクによる解説を見てみよう。≪真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場。≫私は他人の意識の中には入れない。ひょさとしたら、私が他人と見ている人たちは意識を持たないゾンビかまたはロボットのようなものかもしれない。この世界には私一人、つまり「独我」というわけである。よくよく考えてみれば、すべては私の感覚器官を通して認識されるのである。ということは、この世界は私の感覚、眼耳鼻舌身意による感覚データ以外には何もない。すべて私の感覚によって満たされているのである。理詰めで考えていくと結局そういうことになる。理詰めで考えていくとと言ったが、実はこの「理詰め」はあやしい。すべては「私の感覚」と言っているが、全てが「私の感覚」...全てが私であるなら、私というものは存在しない。

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