かなり話がずれてしまいますが、香港に日本領事館ができる前、江戸後期に香港で過ごしていた日本人4名について記録がありましたので、紹介します。 「香港日報」(日本が香港占領時代に発行していた新聞)によると、香港で暮らし始めた日本人は、1846年(江戸末期/弘化2年)、香港がイギリス領になってわずか4年後のことでした。 香港に来た日本人4名は、いずれも漁師で嵐でフィリピンに漂着した後、ポルトガル領だったマカオに送られたようです。ちなみにその4名のうち2名は大阪川丸、1名は肥前(佐賀県)口津、1名は尾張名古屋の人でした。 江戸時代の漁師 香港に来た後、一人は裁縫で身を立て、一人は洋物雑貨屋の店主として…
唐突に三井物産の名前が出てきましたが、明治9年から流通開始された新しい銀貨を、明治政府は三井物産と協力し、海外での流通を積極的に行おうと考えていました。しかし日本領事館は「一社だけに任せるのもなんやし、民間企業の「駿浦屋」にも手伝って欲しいな」と考えていました。 民間企業としては香港進出の先駆けである「駿浦屋」さん。 日本領事館はなんとか廃業しないように色々とお願いをしていたようですが、不景気のあおりでとうとう、明治10年(1877年)10月に廃業してしまいます。 安藤領事(明治10年、副領事から領事へ昇進!)がレポートしています。 「長年香港で開業してた「駿浦屋」ですけど、経営が思わしくなく…
前回、明治9年にフィリピンで助けられた3名の琉球人のお話をしましたが、翌年にも同じようなことが起こります。 琉球・頭間切奥間村の山城筑登之さん(56歳)、安里丹也さん(39歳)、比嘉築登雲上さん(30歳)、加那桃原さん(30歳)、武太山城さん(24歳)、蒲戸島袋さん(24歳)らが、1チーム3人、全部で3チーム(計9名)で、明治10年5月2日に柴を運ぶため、琉球・頭間切奥間村を出発しました。 無事に送り届けたのですが、その帰りの5月22日に大嵐にあいます。船の帆を張るための木は折れてしまい、コントロールを失いました。漂流すること5日間、不運にも3名が死亡。26日に横島(長崎?)付近で一艘のイギリ…
明治9年(1876年)9月23日頃の安藤副領事の報告に、当時の香港の経済状況が描かれています。 香港は明治7年(1874年)からずっと景気が思わしくなく、外資系企業は大きな打撃を受け、会社を清算するところも少なくありませんでした。外資系企業が立ち退き、空き家となった洋館には中国人が駐留する外国の汽船会社が入りました。外資系銀行などの大会社だけでなく、ありとあらゆる業種の法人が中国人に押されていったようです。この時、押されていった欧米人の多くは東京やサイゴン(ベトナム)へと移動したとあります。 ちょっと話が逸れますが、当時の町の中心には「香港人」と呼べる人は少なく、中国から流れてきた中国人たちが…
明治9年(1876年)、日本は開国後10年も経っていませんでしたが、日本の交易範囲がどんどん開拓され、それに伴い海外へ出る日本人が増えていきました。外国船の船乗りとなって遠方の海洋に出て行くもの、外国人の召使いになるもの、そして売春婦になるものと様々でした。 海外に出る民間日本人は、当時とても価値があったメキシコ銀貨(※1)を餌に騙されるパターンが多かったようです。海外に出た途端、暴行を受けたり、詐欺にあったりして、右も左もわからない外国で路頭に迷い、物乞いに身を落とす日本人もいたそうです。 当時、東洋人は外国人(欧米人)に半奴隷化され、過酷な労働を強いられるケースもあり、その中には、日本人も…
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