chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
私を知る https://blog.goo.ne.jp/suiku2013

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。

自覚とは「私」に意識を向け、一切のことは「私」の考えであることを自覚していくことです。

suiku2013
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2013/06/27

arrow_drop_down
  • 近況など

    久しぶりに近況など書いてみたいと思います。日々の生活など頑張って農業やっています。まだ2年目というのもあり、上手くいかないことが多くて、収入的にもまだ全然で、まあ大変です。ですが、面白くもあり、がむしゃらにやっています。悟り関連ここ1カ月ほど、なぜか私の中で悟り関係に意識が向くようで、ユーチューブでAIが挙げてくる動画を観たり、ブログ記事を書いたりしています。こんなに悟り関連に意識を向けたのは、何年ぶりだろうというくらいです。その勢いで、このgooブログに書いた記事を再構成してnoteにまとめてみようかと思っています。で早速、慧空でnoteを登録し、少し書き始めたのですが、思ったより大変で時間がかかることがわかり、農業が大変で時間もないし、どうしようかと思案、停滞中です。収入も困っているので、売れるものは何でも...近況など

  • 最後は私に戻る

    ◇最後は私に戻る◇どんなに深く悟ろうと、最後は日常の私に戻っていきます。私についてどんな観点から悟ろうと、日常の私は大した変化のないままあり続けます。私というものに付き合っていくしかないのです。大人しくなることはあっても、思考や感情はやっぱりあるし、何かを考えようとしたり、しようとする発意も相変わらず残っています。心の動きにまとわりつくように生じるわずらわしさというか、苦の感覚もやっぱり残ります。私とは何なのか、なぜ私があるのかも、やっぱり分からないままです。日常の素直な観点から私を観たとき、これが私に関する素直な感覚というか、実感です。この私に関する日常的な実感は、悟る過程、あるいは悟りの行程を歩む過程では邪魔になることがありますが(注:悟りの行程の歩み方によっては邪魔にはならず、むしろ中止的な道しるべになり...最後は私に戻る

  • 自我の本質と自己認識

    ◇自我の本質と自己認識◇私という自我は本当に不思議なものなのですが、その仕組みや、それが何故起こったのかについては誰も知り得ません。これは間違いありません。さらに、一切のことがらに実体がありませんから、私という自我にも実体はありません。私という幻のような現象が起こっているに過ぎません。そんな捉えどころのない自我について、本来切れないものを私なりに無理やり切ってみたいと思いますw自我の本質について一言に集約するなら、私は自己認識だと考えています。自己認識とは、認識が認識を認識する、あるいは、あたかも私があるように感じる(自我感覚)ことです。認識が認識を認識するとは、目が目を見る、あるいはカメラがカメラを撮影するようなものであり、理屈で説明しようとしても無理です。しかし、自我という現象には本質的にそのような要素が含...自我の本質と自己認識

  • 自我の二相性と主客の統合

    ◇自我の二相性と主客の統合◇今回は、私という自我の二相性について書いてみたいと思います。私という自我には、二つの相があります。一つ目の相は、日常的に私たちが感じている自我の相です。この相は、私という主体と、その主体の対象となる客体とが分離している相です。つまり、音や光、感触と言った知覚の対象とは別に、それらを知覚する主体がある、正確にはあるように感じる相です。二つ目の相は、私という主体と、その対象となる客体とが統合している、正確には統合しているように感じる相です。この相は、悟りの行程を無常、無我を理解できる付近まで進むと経験するようになりますし、悟らずとも意識の集中が極まってくると経験することがあるのだろうと思います。この相を経験すると、認識が無いとか、自我が無い等の誤解が生じやすいのですが、起こってきたことを...自我の二相性と主客の統合

  • 私は無いの誤解と涅槃

    ◇私は無いの誤解と涅槃◇悟りの行程をそれなりに進むと、あたかも私が無いと感じるポイントに至ります。これにはあたかも認識が無くなる、あるいは起こらなくなるという現象、あるいはそのような感覚を伴います。認識主体の欠落、あるいは欠落感を伴う場合もあると思います。皆さんここで、私は無いという考えに嵌まりこみ、それを掴んでしまいます。認識が無い、あるいは起こらないと言うには、それを微弱でも認識している認識が起こっているはずなのですが、なぜか皆さんそこに気づけないというか、そこから目を背けてしまいます。そして、認識が無いとか、私は無いという考えに嵌まりこんでしまう。それはどうしなのか。私(慧空)の場合、認識が無い等の考えに嵌まり込むことはありませんでした。それはなぜなのか。改めて考えてみました。要因の一つは、自覚ではないか...私は無いの誤解と涅槃

  • 非二元の悟りと無常、無我の悟り

    ◇非二元の悟りと無常、無我の悟り◇今回は、非二元の悟りと無常、無我の悟りについて、改めて書いてみたいと思います。悟りも無常、無我まで来るとそれなりに絞られてくると言いますか、バラつきが減ってくるのですが、非二元は概念も人それぞれで、悟りのバラつきも大きいようです。そこでここでは、良い悪い等の二元の囚われが大体無くなり、思考が減り、ただ観ている意識である観照意識がそれなりに確立した悟りを非二元の悟りと言うことにします。まず言えることは、非二元の覚者はまだ囚われや思い込みがそれなりに残っており、言葉の端々にそれが容易に見て取れます。例えば、「真我」、「全体」、「光」、「恒久」、「不滅」、「不変」などの言葉がそれです。無常、無我まで悟ると、囚われや思い込みが大方無くなっているため、そのような言葉は決して出て来たりしま...非二元の悟りと無常、無我の悟り

  • 無常、無我と禅の悟り

    ◇無常、無我と禅の悟り◇つい最近、ユーチューブの動画リストに自動的に挙がってきた動画を観ていると、その中に禅の覚者の動画があり、それについて思ったことを書いてみようと思います。いつものように偉そうな感じで恐縮ですがw禅者も、無常、無我を悟るようです。しかし、まだ足りないのです。禅系の悟りの型に嵌ってしまうのか、禅の意識の使い方の限界なのか、その先の進展がなく、そこに留まってしまうようです。何が足りないのか言いますと、それは「私」への追及です。ことが起こっているという気づきのところで止まってしまっていて、私への振り返りが無いのです。禅でも自覚でも、私が無いことを悟るときは、自我の要素である何かを認識する認識主体が無いことに関する気づきや理解を伴います。また、悟りに伴って自我感覚の急激な欠落感や質的な変化も生じます...無常、無我と禅の悟り

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、suiku2013さんをフォローしませんか?

ハンドル名
suiku2013さん
ブログタイトル
私を知る
フォロー
私を知る

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用