富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
岐阜県加茂郡八百津町八百津に人道の丘公園があります。人道の丘公園の中に杉原千畝記念館があります。この建物は檜材を使用した伝統構法で造られ、岐阜県21世紀ふるさとづくり芸術賞を受賞しています。杉原千畝がナチスドイツから逃亡してきたユダヤ人を救出するためにビザ発行を行ったカウナス領事館を再現した展示がされています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/杉原千畝記念館
岐阜県加茂郡八百津町八百津に人道の丘公園があります。人道の丘公園は、八百津町出身の杉原千畝(すぎはらちうね)の偉大な功績を称え、後世に伝えるための記念公園として平成4年(1992)に建設されました。杉原千畝記念館があり、シンボルのモニュメントから「平和を願う音楽」が聞こえてきます。広大な敷地は「メモリアルゾーン」、「アクセスゾーン」、「カルチャーゾーン」、「アミューズゾーン」に分かれ、日本庭園や芝生広場、子供広場なども設けられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/人道の丘公園
岐阜県加茂郡八百津町八百津に旧八百津発電所があります。旧放水口発電所は電力需要が増加したため大正6年(1917)に、八百津発電所の本館発電所の放水を再利用するために造られました。本館発電所は、洪水時の水位上昇を考慮して放水口水位に河水面から7mの余裕を持たせてありました。その落差を有効利用するため、放水口にこの小発電所が設けられたのでした。旧放水口発電所は平成10年(1998)に「旧八百津発電所施設」として国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧八百津発電所
岐阜県加茂郡八百津町八百津に旧八百津発電所があります。旧八百津発電所は外壁はモルタル仕上げ、内部は白漆喰仕上げ、切妻造りの煉瓦造りの大きな建物です。縦長の上げ下げ窓や上部がアーチ状の開口部、意匠化したパラペットなど当時の洋風建築の要素が取り入れられています。当初の設備は米国モルガン・スミス社製水車4台と、ジェネラル・エレクトリック社製の発電機4台が設置され、出力7500kWを発電するもので、当時の日本では有数の発電設備でした。旧八百津発電所は平成10年(1998)に「旧八百津発電所施設」として国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.co...旧八百津発電所
岐阜県加茂郡八百津町八百津に旧八百津発電所があります。旧八百津発電所は明治44年(1911)に、木曽川水系最初の本格的発電所として名古屋電灯株式会社により建設されました。昭和46年(1971)の新丸山発電所(関西電力)の完成を機に、昭和49年(1974)に運転を休止し、63年にわたる発電の歴史に幕を閉じました。関西電力は昭和53年に発電所施設を地元八百津町に譲渡し、平成10年(1998)には発電所本館及び放水口発電所が「旧八百津発電所施設」として国の重要文化財に指定されました。また平成17年(2005)には水槽(上部水槽)・余水路・土地が国の重要文化財に追加指定されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへに...旧八百津発電所
岐阜県加茂郡八百津町八百津に蘇水峡(そすいきょう)があります。蘇水峡は岐阜県の南部、木曽川の丸山ダム下流に位置し、桜や紅葉の名所としても有名です。「木曽三川三十六景」の一つにも選ばれており、飛騨木曽川国定公園の中にあります。木曽川が久田見(くたみ)高原と日吉高原の間を南下する時の浸食によってできた渓谷です。300mから500mの岩壁の神秘的な景観は奥ラインと呼ばれています。周辺には丸山ダムや杉原千畝の公園「人道の丘公園」、「めい想の森」などがあります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/蘇水峡
岐阜県加茂郡八百津町八百津に大舩神社(大船神社)があります。境内林は「大舩神社社叢」として、昭和49年(1974)に岐阜県の天然記念物に指定されています。御神木の杉は樹齢が千年以上といわれ、高さ30m、幹囲5.0mあります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大舩神社社叢
岐阜県加茂郡八百津町八百津に大舩神社(大船神社)があります。大舩神社の本殿の彫刻は岐阜県の指定重要文化財です。大舩神社の本殿は元禄年間(1688-1704)に再建されたもので、三間社流造り、銅板葺きです。本殿並びに棟札十枚、刀剣、和鏡、懸仏、版木が八百津町指定文化財に、絵馬が八百津町指定有形民俗文化財となっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大舩神社本殿彫刻
岐阜県加茂郡八百津町八百津に大舩神社(大船神社)があります。大舩神社は「大船神社」とも書かれます。大同年間(806-809)に権現山山頂付近に勧請され、応永年間(1394-1427)に現在地に移されたといわれています。八百津町の産土神として敬われ、延喜式神名帳には式内社で従五位下と記載されています。天慶年中(938-946)に大山明神から大舩大権現に改称されています。江戸時代中期、尾張の津島神社にならったという4月第一日曜日の「だんじりまつり」は有名です。3つに分かれた船形のだんじりが曳かれ、掛け声とともに大舩神社の長い石畳を駆け上がるのは壮観です。明治時代の神仏分離令により仏教に関するものは取り払われ、明治4年(1871)に大舩神社に改められています。大舩神社の社叢は県の天然記念物に指定され、本殿並び棟...大舩神社
岐阜県可児郡御嵩町(みたけちょう)中に愚渓寺(ぐけいじ)があります。愚渓寺二重塔は万延元年(1860)に美濃出身の野村杢頭作十郎国均が手掛けた多宝塔です。間口3間、奥行3間、2重2層の宝形造り、桟瓦葺きの建物で、御嵩町の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/愚渓寺二重塔
岐阜県可児郡御嵩町(みたけちょう)中に愚渓寺(ぐけいじ)があります。愚渓寺石庭は京都の龍安寺を開いた妙心寺の高僧・義天玄詔が作庭した庭園を再作庭した枯山水庭園「臥竜石庭」です。龍安寺石庭の原型になっています。天保年間(1830-1844)に忠実に再現された石庭で、龍安寺石庭と姉妹庭と称されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/愚渓寺石庭
岐阜県可児郡御嵩町(みたけちょう)中に愚渓寺(ぐけいじ)があります。大智山愚渓寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。愚渓寺の創建は古く、応永35年(1432)頃に、臨済宗妙心寺派の義天玄詔(ぎてんげんしょう)が鈴が洞に愚渓庵を開創したのが始まりと伝えられています。玄詔は室町時代中期の臨済宗の高僧で京都妙心寺、京都大徳寺の住持を歴任し、細川勝元の帰依をうけ京都竜安寺なども開いています。玄詔は臥竜と名付けた石庭を作庭し禅の世界を表現するとともに、修行の道場としての位置づけを与えました。愚渓寺は東美濃の名刹として寺運も隆盛しました。永正3年(1506)に美濃守護・土岐政房により現在の寺号である愚渓寺に変えています。天保年間(1830-1844)に現在地に移され、二重塔(多宝塔)などを含めた伽藍が整えられ、石庭も再現され...愚渓寺
岐阜県加茂郡八百津町八百津に大仙寺(だいせんじ)があります。大仙寺は臨済宗妙心寺派の名刹です。宮本武蔵が禅の修行した寺として有名です。武蔵は大徳寺の沢庵和尚について修行をしていましたが、和尚に薦められ、愚堂国師のいるこの寺で修行したそうです。宮本武蔵坐禅石という石が残されています。大仙寺の創建ははっきりしませんが如幻尊者が開いたといわれ不ニ庵と称していました。室町時代の文亀元年(1501)に美濃守護であった土岐政房が東陽英朝を招いて改めて開山し、大仙寺と寺号を改めました。江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)、愚堂東寔(とうじょう)=諡号(しごう)は大円宝鑑国師(だいえんほうかんこくし)が領主の稲葉方通の帰依を受け、現在地に移転し中興しました。愚堂東寔は妙心寺住持を3度も務めた名僧です。後水尾(ごみ...大仙寺
岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志に明鏡寺があります。明鏡寺の観音堂は創建創建当時の建物で、貞治7年(1368)頃に建てられたと思われます。間口3間、奥行3間の方3間、寄棟造りで、一重、平入、茅葺きの屋根です。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/明鏡寺観音堂
岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志に明鏡寺があります。霊光山明鏡寺(みょうきょうじ)は臨済宗妙心寺派のお寺です。文和2年(1353)、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の冥福を祈願するため建立されたと伝えられています。建長寺14世だった頑石曇生(がんせきどんしょう)が親王の念持仏の聖観世音像の胎内に、親王愛用の円鏡を納め創建したと伝えられています。当初は臨済宗建長寺派のお寺でしたが、慶長10年(1605)、現在の妙心寺派に改め、江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)=諡号(しごう)は大円宝鑑国師(だいえんほうかんこくし)が中興しています。観音堂は国指定重要文化財に指定され、寺宝の木造聖観世音菩薩立像は岐阜県の有形文化財に、室町時代の十六善神図は八百津町の有形文化財に指定されています。下...明鏡寺
岐阜県可児郡御嵩(みたけ)町御嵩に願興寺があります。願興寺の本堂は天正9年(1581)に再建された建物です。間口7間、奥行5間の木造平屋建てで、入母屋造り、平入、正面一間向拝付き、鉄板葺きです。昭和61年(1986)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/願興寺本堂
岐阜県可児郡御嵩(みたけ)町御嵩に願興寺があります。大寺山願興寺は天台宗の古刹で、可児大寺とも呼ばれています。弘仁6年(815)、この地に逗留した伝教大師最澄が御布施屋(無料宿泊所)をつくり、自刻の薬師如来像を安置したのが始まりと伝えられています。その後、一条天皇の皇女・行智尼が正宝庵という草庵を営んでいました。長徳2年(996)、庵の南の尼ヶ池から蟹にのった小さな如来像をみつけ、最澄自刻の薬師如来像の胎内に納めたそうです。これが一条天皇の耳に入り七堂伽藍の堂宇が建立され、寺号も願興寺となり繁栄しました。また願興寺は関ケ原の戦いで最も武功をあげた戦国武将・可児才蔵が幼少期を過ごした寺としても有名です。願興寺本堂をはじめ薬師如来・両脇侍像、阿弥陀如来立像、阿弥陀如来坐像、釈迦如来・両脇侍像、四天王立像、十二...願興寺
岐阜県恵那市大井町に大井宿本陣跡があります。大井宿は美濃路随一の宿場として栄えました。中山道69次のうち、江戸から数えて46番目の宿場町で、江戸まで87里(344km)、京へは47里(188km)のところにあります。大井宿本陣は代々林家が世襲しました。文久元年(1861)には公武合体のため、江戸に下向した皇女和宮がこの本陣で休息しています。客殿には式台付きの玄関や書院造りの上段の間がありましたが、昭和22年(1947)の火災で焼失してしまいました。現在は表門周辺と庭園が残されています。表門は安土桃山様式の意匠を受け継いでおり、本陣の遺構として貴重なことから昭和35年(1960)に岐阜県重要史跡に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/...大井宿本陣跡
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。岩村歴史資料館の前に置かれている灯篭は文政10年(1827)に林大学頭述斎の長子・林淡斎が岩村城主・松平乗保に寄贈したものです。東京上野の東叡山にあったものを松平家が岩村町に寄付したもので、昭和40年(1965)にここに移しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村城跡灯篭
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。岩村歴史資料館は文化庁の歴史民俗資料館設置要領に基づく補助金を受け、昭和47年(1972)に開館しました。高床式、入り母屋造り、白壁の外観は岩村城をイメージさせています。岐阜県指定重要文化財の「享保岩村城絵図」「明和岩村城絵図」「佐藤一斎自讃画像」などを所蔵しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村歴史資料館
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。太鼓櫓はふるさと創生の1億円によって平成2年に復元されました。城主が山頂の本丸から麓の藩主館に降り、政治の中心となりました。そして太鼓櫓が設けられ城下に時を知らせたり、非常時には打ち鳴らして領民に知らせたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村城太鼓櫓
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。知新館は元禄15年(1702)、小諸より入封した大給分家の松平乗紀(のりただ)が開設した美濃における最初の藩校です。昭和59年(1984)に岩村城跡公園入口の藩主邸跡に正門、釈奠の間が移築されました。岩村藩は2万石から3万石の小藩でしたが文教政策に重点をおき有能な藩士を育成しました。知新館は論語の「温故而知新」(ふるきをたずねて新しきを知る)から名付けられました。藩士の子弟はすべて、数え年8歳で入学し、20歳で退学が許されたそうです。乗紀は後藤松軒の門人の佐藤勘平(周軒)を招いて藩士の子弟を教育したそうです。正門は切妻造り、長屋門形式、木造平屋建て、桟瓦葺きです。外壁は白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁抑えになっています。釈奠の間は板間、間口1.8m、奥行90cm...知新館
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。知新館は元禄15年(1702)、小諸より入封した大給分家の松平乗紀(のりただ)が開設した美濃における最初の藩校です。昭和59年(1984)に岩村城跡公園入口の藩主邸跡に正門、釈奠の間が移築されました。岩村藩は2万石から3万石の小藩でしたが文教政策に重点をおき有能な藩士を育成しました。知新館は論語の「温故而知新」(ふるきをたずねて新しきを知る)から名付けられました。藩士の子弟はすべて、数え年8歳で入学し、20歳で退学が許されたそうです。乗紀は後藤松軒の門人の佐藤勘平(周軒)を招いて藩士の子弟を教育したそうです。正門は切妻造り、長屋門形式、木造平屋建て、桟瓦葺きです。外壁は白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁抑えになっています。釈奠の間は板間、間口1.8m、奥行90cm...知新館
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。下田歌子勉学所は岩村城跡公園駐車場から岩村城本丸に通ずる遊歩道の藤坂手前にあります。実践女子大学の前身を創立し、歌人としても名高い下田歌子は岩村藩出身で、女性だったため藩校の知新館に入学ができず、藩校教授だった父親から父の書斎で多彩な学識を得ました。この勉学所を復元したものです。下田歌子生誕150周年記念として、平成15年(2003)に下田歌子勉学所敷地内に銅像が立てられました。宮中に女官として出仕した17歳の歌子は、春月とお題を賜り歌を詠みました。和歌の才能を愛でられた昭憲皇太后から歌子の名を賜ったそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http:/...下田歌子勉学所
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。標高717mの山頂にある岩村城の本丸には二重の本丸櫓と納戸櫓、東西両側に多聞櫓が配されていました。本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配されていました。表門、裏門ともに埋門で堅固な構えをしています。本丸櫓には城主が住んでおり、山頂にある昇竜の井戸を有していました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村城本丸
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。岩村城本丸にある昇竜の井戸は標高717mと日本一高いところにある山城の井戸です。山の頂上にあるのに、水が枯れることが決して無かったといわれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/昇竜の井戸
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。岩村城の本丸表門は長局(ながつぼね)埋門(うずみもん)です。埋門とは、城の石垣・土塀の下方に設けた小門のことをいいます。両側の石垣の上には多門櫓があり、石垣の間に櫓門を配置しています。門の内側の細長い曲輪は長局と呼ばれます。天然の地形を巧みに利用しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村の本丸表門
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。本丸虎口の石垣は六段壁(ろくだんへき)と呼ばれ、石垣が六段積みになっています。急峻な地形に石積をする為に、工夫された石垣で、一階づつに犬走りを設けた工法で積まれ、修理や防御がしやすくなっています。当初は一段の高石垣でしたが、崩落防止のために補強を繰り返し、六段にもおよぶ石垣となったようです。東洋のマチュピチュとも呼ばれているようです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村城六段壁
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。岩村城の霧ヶ井(きりがい)は八幡曲輪にあります。城主の食事用に使用され、日照りが続いても決して涸れなかったそうです。この井戸に蛇骨を投入すると霧が湧き出して山城を包み、敵の攻撃を阻んだという伝説が残されています。そのため岩村城は別名を「霧ヶ城」とも呼ばれたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村城霧ヶ井
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。岩村城の八幡曲輪(はちまんくるわ)は岩村城を築城した加藤景廉祀った八幡神社があったことから名付けられました。西方と北方の物見台として二層の遠見櫓が建てられていたようです。入口には鳥居が建てられ、中段には別当寺の薬師寺がありました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村城八幡曲輪跡
岐阜県恵那市岩村町に岩村城跡があります。岩村城の追手門は畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る外枡形門(そとますがたもん)です。脇には畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていました。三重櫓は岩村城唯一の三層の櫓で天守の役割も果たしていました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岩村城追手門跡
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富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。「海王丸」は海洋実習船として建造されました。進水式が2月14日のバレンタインデーであったため、恋人の聖地に認定され、カップルにとって素敵なイベントも開かれています。59年間に106万海里(地球約50周)を航海し1万人以上の海の若人を育てたそうです。姉妹船「日本丸」も同時期に建造され、「日本の海の王者たれ」という日本の海運の期待を集めました。平成2年(1990)4月から富山で一般公開されし、現在も海洋教室など青少年錬成の場として活用されています。帆をすべて開く「総帆展帆」(そうはんてんぱん)は4月から11月の間に月に1回、年に10回程度行われています。「海の貴婦人」と称される美しい姿が披露されます。美しい日本海と、新湊大橋、立山連峰が眺められます。下記のサイトにも...海王丸パーク
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。映画「人生の約束」に放生津八幡宮の曳山の譲渡シーンが撮影されました。各町にある13基全ての曳山が放生津八幡宮でお祓いを受け繰り出します。令和3年(2021)に、曳山と築山の行事は国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/曳山と築山の行事
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。境内に建立されている芭蕉翁の句碑は天保14年(1843)に付近の俳人達によって建てられています。元禄2年(1689)に芭蕉が詠んだ「早稲の香や分け入右は有磯海」の句が刻まれています。この句碑は射水市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/放生津八幡宮芭蕉翁の句碑
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。現在の放生津八幡宮の社殿は江戸時代末期の弘化2年(1845)に発生した火災により焼失し、氏子の浄財により文久3年(1863)に再建されたものです。放生津の宮大工棟梁・高瀬輔太郎、脇棟梁・梁野上武平、赤井弥左エ門が手掛けました。放生津八幡宮の拝殿は間口6間、奥行5間、木造平屋建て、入母屋造り、平入で屋根は桟瓦葺きです。正面に3間の向拝付けられています。外壁は真壁造り板張り、正面1間分は吹き放しになっています。平成16年(2004)に射水市指定文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...放生津八幡宮拝殿
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。放生津八幡宮は奈良時代の天平18年(746)、越中国司として赴任した大伴家持が奈古之浦(なごのうら)の風光を愛し、宇佐八幡神を勧請し奈古八幡宮としたのが始まりです。鎌倉時代に越中の守護所が設置されると総社となり、正和年間(1312-1317)に越中守護名越時有(なごやときあき)が社殿を造営しています。室町時代には放生津が石清水八幡宮領となり、放生津湊に出入りする船の課役を八幡宮が担うようになりました。明応の政変(1493)では足利義稙が放生津を御座所としました。永禄6年(1563)、越中一向一揆勢・神保(じんぼ)氏・椎名氏連合軍と、上杉謙信との合戦があり、兵火により社殿、社宝などが焼失しました。後に放生津城主・神保長識(な...放生津八幡宮
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の庫裏は大火直後の明治2年(1869)に建てられています。木造2階建て、切妻造り、平入、桟瓦葺きで、建築面積は399平方mです。古くからの伽藍を偲ばせる建物で、一時は小学校の仮校舎にも使われたそうです。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺庫裏
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の本堂は明治12年(1879)に建てられた建物で、寺院本堂建築としては珍しい土蔵造りです。間口7間、奥行11間の平屋建て、切妻造り、平入で桟瓦葺きです。正面に1間の向拝が付けられています。外壁は白漆喰仕上げで、建築面積は263平方mあります。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺本堂
富山県射水市立町に大楽寺があります。長恩山大楽寺は浄土宗のお寺です。平安時代後期の長徳2年(996)に花山天皇の勅願により但阿無外上人によって開かれたといわれています。当初は長徳寺という天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の弘安元年(1278)に浄土宗に改宗し、寺号を大楽寺と改めています。大楽寺の本堂と庫裏は国の登録有形文化財に登録されています。室町時代後期の天文年間(1532-1555)に描かれた絹本著色涅槃絵図は昭和61年(1986)に射水市指定文化財(絵画)に指定され、平安時代の木造阿弥陀如来立像は昭和53年(1978)に射水市指定文化財(彫刻)に指定されています。また江戸時代の萬誉上人の大楽寺御名号本尊は昭和50年(1975)に射水市指定文化財(書跡)に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りくださ...大楽寺
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の本堂は木造平屋建て、入母屋造り、桟瓦葺きの大きな建物です。間口7間、平入で、正面に1間の向拝を付けています。外壁は真壁造り白漆喰仕上げです。本尊の阿弥陀如来像を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺本堂
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の梵鐘は明治4年(1871)に専念寺が買い取った銅鐘で、文明6年(1474)の銘があります。高さ158cm、口径91cm、胴厚約8.5cmです。文明の銘がある梵鐘は、在銘の銅鐘としては県内最古といわれ、昭和40年(1965)に富山県の有形文化財に指定されています。この梵鐘は、文明6年(1474)に立山寺の明舜が、自ら創建した面白寺で使うために荻生の鋳物師の幸善に造らせたものでした。その後、面白寺が廃寺になると本寺だった立山寺が引き取り、その後、廃仏毀釈の中、処分されることになり、専念寺が買い取ったといういきさつがありました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...専念寺梵鐘
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の前庭にある傘松は「からかさ松」と呼ばれ有名です。黒松と赤松の雑種であるアイグロマツで、突然変異によって傘状になったといわれ、全国的にも珍しい松です。享保2年(1717)、放生津城主・神保慶宗(のりむね)の菩提を弔うため植えられたと伝えられています。この松は開いた傘のように見えることから傘松と呼ばれています。樹高約4m、地上から約1.5mの高さで枝が横方向に伸び、直径13mから15mにわたって広がっています。昭和40年(1965)に富山県の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺傘松
富山県射水市本町に専念寺があります。専修山専念寺は浄土真宗東本願寺派のお寺です。文明16年(1484)本願寺8世蓮如上人の法弟である賢祐(けんゆう)が法土寺村(ほうどうじむら)に創建しています。延徳3年(1490)に親鸞絵像が蓮如上人より下付されています。中世には越中守護代の神保氏から帰依され寺運が隆盛しました。江戸時代中期の享保2年(1717)に水害により現在地に移ったそうです。この寺にある「からかさ松」は県の天然記念物に指定され、銅鐘は富山県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺
富山県射水市(いみずし)庄西町に牧田組本社があります。牧田組本社ビルは元は回船業を営む南島商行本店として大正4年(1915)に建てられました。木造2階建て、銅板葺き、建築面積81平方mの近代洋風建築で、昭和62年(1987)に富山の建築百選に選定されました。平成14年(2002)には国の登録有形文化財に登録されています。玄関は両脇の袖壁を大きく前に張り出させています。そして上部には印象的な意匠を施し、玄関上部の2階パラペットを切妻風にしています。木造の壁に重厚なレンガを貼り、腰、隅柱などに花崗岩を使用しています。縦長の上げ下げ窓を左右対称に配置しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村htt...牧田組本社ビル
富山県高岡市守山町に旧高岡共立銀行本店の建物があります。このビルは大正3年(1914)に高岡共立銀行本店として建てられた擬ルネッサンス様式の建物です。その後、北陸銀行高岡支店になり、昭和39年(1964)からは富山銀行本店として使用されました。令和3年(2021)に高岡市に無償譲渡されています。建物が建つ守山町は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている「山町筋伝統的建造物群保存地区」です。この建物も山町筋の景観を構成する伝統的建造物に特定されており、市民より「赤レンガの銀行」として親しまれました。鉄骨煉瓦造り2階建ての洋風銀行建築で、設計は、東京駅を設計した辰野金吾の監修のもと、清水組の田辺淳吉が担当しました。建設当時、一帯は証券会社や金融会社の本店、支店が軒を連ね、「北陸のウォール街」と呼ば...旧高岡共立銀行本店
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅の主屋は間口7間半、奥行5間の土蔵造り、2階建ての古民家です。入母屋造り、平入り、桟瓦葺きの町屋の建築形式です。両脇には釉薬を塗りこんだ煉瓦造りの防火壁を設けています。外壁は2階が大壁の黒漆喰で1階の主屋正面には1間の土庇が付いています。軒下は白漆喰、2階腰部分はタイルを貼り、2階の開口部には銅板貼りの扉を設けています。平成9年(1997)に国の有形文化財を登録され、平成25年(2013)には高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅主屋
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅は明治33年(1900)の高岡大火の直後に建てられています。屋敷は主屋が道路に面しており、間に中庭を挟んで奥に1番蔵、2番蔵、調度蔵、味噌蔵が4棟横一列に建てられています。主屋とともに国の有形文化財に登録され、高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。旧室崎家住宅の主屋は間口4間半、奥行8間半の土蔵造り、2階建ての古民家です。切妻造り、平入り、桟瓦葺きで、内部は3列3段の通り土間形で古い町屋の形式です。外壁の仕上げは道路側の正面だけが黒漆喰で仕上げられています。間取りは正面1列目左から「ミセザシキ」、「ミセ」、2列目左から「ブツマ」、「ツウロ」、「チャノマ」、3列目左から「ブツマ」、「ナナジョウマ」があり、外観とは違う数寄屋風の造りです。主屋と土蔵は平成10年(1998)に高岡市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc...旧室崎家住宅主屋
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。室崎家は明治初年にこの地に移り住み、それ以前は現施設の向う側に住んでいました。昭和20年(1945)まで綿布の卸業を手広く営んでいたそうです。現在は石油商を営んでいますが、室崎氏の転居にあたり市がこの施設を資料館として整備し、平成14年(2002)から公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)
富山県高岡市守山町に高岡御車山会館(たかおかみくるまやまかいかん)があります。高岡御車山会館は高岡御車山祭にて曳き出す御車山と呼ばれる山車を展示しています。これらは国の重要無形民俗文化財、国の重要有形民俗文化財に指定されています。また高岡御車山祭は平成28年(2016)にユネスコの無形文化遺産に登録されています。高岡御車山会館は北陸新幹線の開業に合わせ平成27年(2015)4月25日に開館しました。鉄筋コンクリート造り2階建て一部3階建ての建物で、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)山町筋にあるため土蔵造りの家屋になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.f...高岡御車山会館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山日光館は屋台会館に付属しています。日光東照宮の本殿、陽明門、拝殿、鳥居など28の建造物を精巧な10分の1の模型で再現しています。33人の技術者が15年の歳月をかけて造ったそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山日光館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山八幡宮の敷地内に屋台会館があります。高山祭の実物屋台を常設展示しています。神楽台、鳳凰台、布袋台、金凰台など11台のうち4台の屋台が交替で展示されています。それぞれの屋台に、それぞれ固有の歴史があり、一位一刀彫の彫刻も見事です。これらは国指定重要有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山八幡宮屋台会館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。仁徳天皇の頃、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という顔が前後にある怪物が現われ、天皇の命に背いたため、難波根子武振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)に討伐を命じました。武振熊命が応神天皇の御霊を勧請し戦勝祈願したのが桜山八幡宮の始まりと伝えられています。大永年間(1521-1527)に京都の石清水八幡宮から分霊を勧請し合祀しました。その後戦乱の時代が続き一時荒廃しました。元和9年(1623)、高山藩2代藩主金森重頼が再興し、神領を寄進し、高山の安川以北の産土神に定め、神事を管理高山府の総鎮守府としました。金森氏が移封された後も、歴代代官、郡代の篤い崇敬を集め社運が隆盛しました。明治の神仏分離令により神社として独立し、明治4年(1871)郷社に指定されました...桜山八幡宮
岐阜県高山市大新町に日下部家住宅(日下部民藝館)があります。日下部家住宅は日下部家住宅は明治12年(1879)に建てられたもので、名工棟梁・川尻治助が江戸時代の建築を見事に再現したものといわれています。日下部家は幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といいました。嘉永5年(1851)には、役所の御用金を用立てする掛屋〈かけや〉をつとめ、後には両替屋を営みました。当時の邸宅は明治8年の大火で類焼し、再建されたのが現在の住宅です。明治時代に入り軒の高さや用材の規制が取れたため江戸時代に比べ軒が高く檜材をふんだんに使用されています。主屋は木造平屋建(1部2階建)、桁行17.4m、梁間17.3m、切妻造り、平入、桟瓦葺きです。梁と束柱の力強い木組みがすばらしく、10mある吹き抜けはなんとも美し...日下部家住宅
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。その中に平田記念館があります。平田記念館は「打保屋」(うつぼや)の屋号でびんつけ油、ろうそく屋を家業として財をなした平田家の住宅です。主屋は明治時代に建てられた典型的な高山の町屋建築とされ、贅を尽した飛騨商人の旦那衆の暮らしぶりがうかがえます。12代にわたって愛蔵してきた美術品、調度品を江戸期の土蔵3棟で公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/平田記念館
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。金森長近は天正16年(1588)より高山城の築城を開始し、同時に城山の麓に城下町の整備を進めました。三本の道路を通し、そこを町人の住む三町(さんまち)としたのです。また、寺院は京都を参考に東山へ集められ、城下町高山は形作られました。この三町と呼ばれる町割を基礎として、江戸から明治にかけて建てられた、洗練された意匠の商家町家が連なっています。特に上三之町付近は、狭い通りに沿って、往時の町並みが良く保存されています。三之町を中心とした一帯、南北約420m、東西約150mの範囲が「高山市三町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、商家町として栄えた当時の様子をそのまま今に伝えています。有力な商家が数多くあり、高山は商家町として発展しまし...飛騨高山の町並み
岐阜県高山市上岡本町に飛騨高山美術館があります。飛騨高山美術館は平成9年(1997)にオープンしたガラス工芸作品と家具を展示する私立の美術館です。小高い丘にあり、高山の町並みや北アルプスを見渡すことができます。16世紀から20世紀の世界中から収集したガラス工芸と、アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス工芸品、19世紀末の家具や照明器具などを収蔵展示しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨高山美術館
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧吉真(よしざね)家住宅は、桁行13.9m、梁間9.4m、入母屋造り、茅葺きの2階建です。飛騨市河合町角川にあったものを移築しています。安政5年(1858)の角川地震(飛越地震)にも耐えた頑丈な造りになっています。マグニチュード7をこえた角川地震は全壊家屋378軒、半壊497軒、死者207名という大規模なものでした。豪雪地帯ならではのどっしりとした土台や太い柱や梁、桁などで組まれています。なかでも左右側面の四隅などに立つ柱は、上部が二股になった「むかい柱(のぞき柱)」と呼ばれ、全国でも飛騨の一部だけに見られる地域色の強いものです。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda...旧吉真家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田中家住宅は、高山市冬頭町にあった田舎(でんしゃ)だった建物です。田舎とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の作納状況などを主人に代わって行った所で作業所・休憩所のような場所でした。建てられたのは江戸時代中期ごろです。桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造り、榑葺き(板葺き)です。屋根は勾配が緩やかで、榑板の上には石が置かれています。東面に一間の庇(ひさし)がついています。一之町で薬種商を営む「田中屋」の建物で、国学者田中大秀の実家です。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...旧田中家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田口家住宅は、飛騨と美濃との国境に位置する下呂市金山町卯野原にありました。代々名主を務めた大きな農家です。桁行25.2m、梁間13.3m、切妻造り、鉄板葺き(建築当時は榑葺き)です。家の前から右横へ雨戸の外に濡れ縁がまわっていて、雪深い地域の民家と比べると開放的な造りです。旧田口家住宅は文化6年(1809)の建立です。規模が大きくて質が良く、大きな修繕などもなかったようで、江戸後期の上級農家の貴重な遺構です。昭和45年(1970)、飛騨民俗村に移築され、昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...旧田口家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧若山家住宅は、御母衣ダムの建設にともなって水没した荘川村下滝に建っていた民家です。昭和34年(1959)に高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開されました。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなり、後に作られた飛騨の里に平成8年(1996)から約3年かけて再移築されました。宝暦年間(1751-1764)の初め頃の建立とみられ、桁行16.9m、梁間14.3m、合掌造り、茅葺きです。背面に1間半程の「ミンジャ、フロバ」などが出でいます。4階建てのうち、1階は居住用に使い、2階から上は養蚕のためのカイコの飼育場として活用されました。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://w...旧若山家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。飛騨民俗村・飛騨の里は豪雪に耐えてきた合掌造りや榑(くれ)葺き(木の幹を裂いた榑板で屋根を葺くやり方)の屋根など、飛騨の代表的な民家群が立ち並び、昔の農山村風景を形づくる民家の博物館です。また、飛騨の伝統産業である一位一刀彫、飛騨春慶塗、草木染めなどの伝承保存や、飛騨地方の民具なども展示されています。昭和30年代、御母衣ダムにより水没する荘川村の合掌造り民家の矢篦原家(やのはらけ)住宅が横浜市の三渓園に移築されました。旧若山家住宅も、御母衣ダムの建設にともなって昭和34年(1959)に高山市に移築された民家です。「飛騨民俗館」として一般公開され、飛騨の古い民家の保存の足がかりとなりました。昭和46年(1971)には「飛騨民俗村」がオープンしました。飛騨...飛騨民俗村・飛騨の里
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺本堂の前にある大イチョウは「乳イチョウ」とよばれ、推定樹齢1200年、幹周10m、高さ37mの大イチョウです。国の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺大イチョウ
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の三重塔は寛政3年(1791)に暴風雨で倒壊し、文政3年(1820)に再建された三重塔です。天平の七重塔の跡に建てられています。飛騨地方唯一の三重塔で、全国の国分寺の中でも塔建築としてはここだけといわれています。間口、奥行ともに4.24mで、高さ22m、屋根は鋼平板葺き(建立当初はこけら葺き)です。三重塔は岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺三重塔
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の本堂は間口5間、奥行4間、1重入母屋造り、向拝1間、銅板葺き、総桧造りの室町時代の建物です。天正15年(1587)に川上郷から移築されたといわれています。柱など太くて荘重内陣と外陣は厳重な格子で間仕切され、外陣の虹梁、蟇股などは古風な造りです。本堂は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺本堂
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺は天平13年(741)、聖武天皇の勅により、全国の国ごとに建てられた国分寺の一つです。天平勝宝9年(757)頃、行基菩薩により建立されたといわれています。弘仁10年(819)火災で焼失しましたがすぐに再建されたようです。天正13年(1585)、金森長近が松倉城にこもる三木自綱(よりつな)を攻めた時、兵火で多くの堂宇が焼失しました。その後の天正年間(1573-1592)に長近は千光寺の玄海和尚を招いて再建しました。現在の本堂はこの頃のものと推定されています。本尊の「薬師如来御像」は平安時代のもので、像高145.7cmです。また「聖観世音菩薩」は国分尼寺の本尊であったものといわれ、平安時代のもので、像高204cmです。いずれも国の重要文化財に指定されています...飛騨国分寺
岐阜県高山市国府町宇津江に宇津江四十八滝(うつえしじゅうはったき)があります。宇津江四十八滝は宮川(神通川)の支流・宇津江川にあり、複数の滝が存在する渓谷です。岐阜県の天然記念物、全国自然百選、飛騨・美濃紅葉33選、県名水50選などに指定されている県立自然公園です。最上部の滝まで880m、ゆっくり歩いて1時間のハイキングコースで散策できます。江戸時代、美濃国の白心(はくしん)法師がこの地で修行して以来、霊場として知られるようになりました。安永8年(1779)に出された赤田臥牛の「打江観瀑記」以降この滝を訪れる人が多くなったそうです。宇津江四十八滝には大蛇と「よそ八」の伝説が残されています。孝行息子「よそ八」は川の奥の沼で大蛇に出会い妖気で寝込んでしまいました。大蛇は娘に身を変え、自分の血を使って看護し全快...宇津江四十八滝
岐阜県高山市一之宮町に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)があります。島崎正樹は明治の文豪島崎藤村の父親です。水無神社宮司として明治7年(1874)から10年(1877)まで務めました。教導職として多くの若者を指導しました。藤村の作品「夜明け前」で主人公・青山半蔵のモデルとなった人物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/島崎正樹石碑
岐阜県高山市一之宮町に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)があります。飛騨一宮水無神社の絵馬殿は旧拝殿で、慶長12年(1607)、高山藩主金森長近が造営したものです。間口5間、奥行4間、木造平屋建て、入母屋造り、銅板葺き、平入、外壁は柱のみの吹き放しです。高山市指定文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨一宮水無神社絵馬殿
岐阜県高山市一之宮町に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)があります。飛騨一宮水無神社の拝殿は間口5間で正面に3間の向拝が付けられています。木造平屋建て、入母屋造り、銅板葺き、平入、外壁は真壁造り板張りです。本殿は流造造り、銅板葺き、外壁は真壁造り板張りです。主祭神に水無大神(御歳大神)を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨一宮水無神社拝殿・本殿