富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
奈良県奈良市般若寺町に般若寺(はんにゃじ)があります。般若寺の楼門は鎌倉時代前期の文永年間(1264-1274)頃に再建された建物です。入母屋造り、本瓦葺きの一間一戸の楼門で、昭和28年(1953)に国宝に指定されています。京街道に面し、西を正面として建つ伽藍の回廊西門に当たり、正門である南大門や中大門は兵火で焼失しています。楼門は下層は1間、上層は3間となっています。長押(なげし)を多用し、和様を基調としていますが、肘木(ひじき)や実肘木(さねひじき)は繰形で大仏様の意匠を多用しています。上層の出組の組物は、外部から見ると複雑な構造に見えますが、内部では柱が直接桁に達する単純な構造で、組物は使われていません。非常に珍しい構造です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne....般若寺楼門
奈良県奈良市般若寺町に般若寺(はんにゃじ)があります。法性山般若寺は真言律宗のお寺で、コスモス寺の名で知られています。東大寺の大仏殿の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった所に建てられています。京街道沿いにあり、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な場所であったため戦乱の巻き添えになりました。寺伝では舒明天皇元年(629)、高句麗の僧・慧灌(えかん)が・文殊菩薩像を安置して一宇を創建したのが起こりで、白雉5年(654)、孝徳天皇の病気平癒祈願のために蘇我日向臣が伽藍を建立、天平7年(735)、聖武天皇の勅により、行基がさらに堂塔を造営し、鬼門鎮護の定額寺に定められたと伝えられています。奈良時代には官寺として栄え、般若寺千坊と呼ばれるくらい繁栄しましたが、後に衰退します。寛平7年(895)頃...般若寺
奈良県奈良市法蓮(ほうれん)東垣内町に不退寺(ふたいじ)があります。不退寺には伊勢物語の石碑があります。「おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの」という伊勢物語八十八段の和歌が刻まれています。「全くもって、月を誉めることは止めようこの月こそが、塵と積もれば、人の老いとなるものだから」という意味です。伊勢物語の主人公は在原業平だと古くから思われています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/不退寺伊勢物語石碑
奈良県奈良市法蓮(ほうれん)東垣内町に不退寺(ふたいじ)があります。不退寺には立石(たていし)と呼ばれている笠塔婆が本堂の前に建っています。四方に梵字が薬研彫りで、刻まれています。上段に宇宙を表すという五大の真言、中段に金剛界四仏の種子、下段の南面に光明真言、北面に大随求小咒、東面に十三仏、西面に三帰依真言と大日真言が刻まれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/不退寺立石
奈良県奈良市法蓮(ほうれん)東垣内町に不退寺(ふたいじ)があります。不退寺の石棺は庫裏の中庭に置かれています。5世紀のもので、ウワナベ古墳南側の平塚古墳で発掘されたそうです。石材は春日砥(砂岩の一種)で、草刈の人がこれで鎌を研いだ痕が沢山残されています。長さは2.71mで舟型割竹くり貫き石棺ともいわれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/不退寺石棺
奈良県奈良市法蓮(ほうれん)東垣内町に不退寺(ふたいじ)があります。不退寺の多宝塔は鎌倉時代後期の建治から元弘年間(1275-1332)頃に建てられています。間口3間、奥行3間、単層、宝形造り、桟瓦葺きです。不退寺伽藍図などから建立当初は檜皮葺きの二層構造の塔であったようです。現在は初層のみで、上層と相輪を欠いています。柱は方柱大面取、中央の間に板扉を開き、左右に青鎖窓をはめています。斗拱は三斗出組とし、斗拱間には鎌倉時代特有の美しい蟇股を配し、柱頭部には頭貫を通じ、貫端に天竺様の木鼻を付けています。不退寺塔婆として明治41年(1908)に国の重要文化財に指定され、5月28日の業平忌の時だけ開扉されます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japa...不退寺多宝塔
奈良県奈良市法蓮(ほうれん)東垣内町に不退寺(ふたいじ)があります。不退寺の本堂は室町時代前期の建武から明徳年間(1333-1392)頃に建てられたと考えられています。間口5間、奥行4間、単層、寄棟造り、本瓦葺きの大仏様式の最後の形を保っています。内部は内陣と外陣に分かれ、その境に吹寄菱欄間(業平格子)と木連格子を入れています。斗拱(ときょう)は三斗の枠組で、中備(なかぞなえ)に間斗束(けんとづか)を配しています。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁(こうりょう)の様態に扱っています。これは正面中央に虹梁を架けた初期の形式です。内部の柱頭部に三斗を組み、木鼻をつけている特異な構造です。中央に二条の大虹梁を架け、梁の上に太瓶束を立てて折上組入天井の廻縁を支えています。須弥壇上中央には厨子に納められた本尊聖観音菩薩像...不退寺本堂
奈良県奈良市法蓮(ほうれん)東垣内町に不退寺(ふたいじ)があります。不退寺の南門は切妻造り、本瓦葺きの四脚門で、昭和9年(1934)の解体修理時に発見された棟札から鎌倉時代後期の正和6年(1317)の建築と判明しました。左右に御所塀が付き、身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中央冠木の上に束を中心にして笈形風にいろいろと飾っているのが特徴です。明治37年(1904)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/不退寺南門
奈良県奈良市法蓮(ほうれん)東垣内町に不退寺(ふたいじ)があります。金竜山不退寺は正しくは不退転法輪寺(ふたいてんぽうりんじ)といい、真言律宗のお寺です。平城天皇は大同4年(809)、弟の嵯峨天皇に天皇の位を譲りました。のちに上皇として都を再び平城京に戻すことを画策しましたが実現せず、平城京の北東のこの地に「萱(かや)の御所」と呼ばれる萱葺きの御殿を造営しました。平城天皇の皇子の阿保親王とその第5子在原業平朝臣はともに居住し、業平は自作の聖観音像を安置し、承和14年(847)仁お寺にしたといわれています。そのため寺というよりは平安朝の貴族住宅のような造りで、王朝風の優美さを漂わせています。業平は六歌仙・三十六歌仙の一人で和歌の名手といわれています。祖父の平城天皇と父阿保親王の菩提を弔うと共に、衆生済度の為...不退寺
奈良県奈良市法華寺北町に海竜王寺(かいりゅうおうじ)があります。東金堂は創建当時には西金堂と向かいあって建てられていました。明治時代の廃仏毀釈で壊され、現在は基壇の跡を残すのみとなっています。創建当時には東金堂にも五重小塔が納められ、東西の両小塔が伽藍を形成していたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/東金堂跡
奈良県奈良市法華寺北町に海竜王寺(かいりゅうおうじ)があります。海竜山寺の表門は切妻造り、本瓦葺きの四脚門で、16世紀に再建された門で、左右の築地塀とつなげられています。控柱の角の欠き取り部分(面)が大きく、屋根の垂木の先が反り増しているなど、中世建築の様式を今に伝えています。表門は本堂とともに奈良市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/海竜山寺表門
奈良県奈良市法華寺北町に海竜王寺(かいりゅうおうじ)があります。海竜王寺の本堂は江戸時代の寛文6年(1666)に再建された建物で、奈良市指定文化財です。奈良時代に建っていた中金堂の位置に建てられています。深い軒の出と勾配の緩い屋根、それに堂内の整然とした柱配置など、奈良時代の仏堂の様式を踏襲しています。国重文の本尊十一面観音立像や文殊菩薩立像などを安置しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/海竜王寺本堂
日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/order="0">海竜王寺五重小塔
奈良県奈良市法華寺北町に海竜王寺(かいりゅうおうじ)があります。海竜王寺の経蔵は真言律宗の宗祖で西大寺などを中興した叡尊(えいぞん)により、正応元年(1288)に建てられています。叡尊の年譜(「興正菩薩行実年譜」)に、正応元年(1288)海龍王寺の堂宇を修造し、経蔵を新築したことが書かれています。昭和40年(1965)から3年間かけて大規模な解体修理・修復が行われています。経蔵は間口3間、奥行2間、単層、寄棟造り、本瓦葺きで、高床式になっています。この時期の建物の特徴である大仏様の影響を大きく受けていながらも一部には禅宗様が取り入れられています。明治40年(1907)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan...海竜王寺経蔵
奈良県奈良市法華寺北町に海竜王寺(かいりゅうおうじ)があります。海竜王寺の西金堂は創建前後の和銅3年から延暦12年(710-793)頃に建てられた奈良時代の貴重な建物です。創建当時ここには、西金堂のほか中金堂、東金堂と3つの金堂があり、わが国初めての仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)と同じ形式であったようです。海竜王寺は私的なお寺だったため塔はなく伽藍や金堂も小さかったようです。西金堂は間口3間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きの仏堂で、内部に五重小塔(国宝)を安置しています。鎌倉時代に再建に近い修理を受け、昭和40年(1965)から3年間、大規模な解体修理・修復が行われましたが、奈良時代の木材も残されています。明治34年(1901)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!h...海竜王寺西金堂
奈良県奈良市法華寺北町に海竜王寺(かいりゅうおうじ)があります。海竜王寺は真言律宗のお寺で、平城京の北東隅にあるために「隅寺(すみでら)」とも呼ばれたそうです。また他説には、皇后宮の東北の隅にあったからともいわれています。この地は藤原不比等の邸だった所で、養老4年(720)不比等の死後、娘の光明皇后が皇后宮としました。天平3年(731)、光明皇后の発願で寺にしたそうです。唐から帰った玄昉を開基としています。海竜王寺という寺号は、海竜王経という経典からとられています。玄昉が唐から日本への帰る途中、暴風雨に遭遇し、海竜王経を一心に唱えたことで九死に一生を得て種子島に漂着し助かったそうです。奈良時代は宮廷寺院・宮中内道場として繁栄いたしましたが、平安京に都が移ると衰退しました。鎌倉時代に真言律宗の宗祖である叡尊...海竜王寺
奈良県奈良市菅原町に喜光寺(きこうじ)があります。喜光寺本堂は室町時代前期の建武から明徳年間頃(1333-1392)に建てられています。間口3間、奥行2間、一重もこしが付けられ、寄棟造り、本瓦葺きの風格にある建物です。明治34年(1901)に国の重要文化財に指定されています。本堂には本尊の木造阿弥陀如来坐像が安置されています。平安時代後期に造られた像高233cmの像で、国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/喜光寺本堂
奈良県奈良市菅原町に喜光寺(きこうじ)があります。喜光寺は西大寺の南方、菅原町の阪奈道路の近くにあります。正式には清涼山歓喜光寺といい、菅原氏の治領であったことから菅原寺とも呼ばれました。霊亀元年(715)、元明天皇の勅願により行基が創建し、元明、元正、聖武天皇の勅願寺となったと伝えられています。病いの行基がこの寺にいた時、聖武天皇が見舞い、その時に、本尊から光明が発せられたのを見て喜光寺と名付けたといわれています。喜光寺の本殿は行基が東大寺大仏殿を建立する際に十分の一の雛形として建てたと伝えられ「試みの大仏殿」とも呼ばれたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc...喜光寺
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。十六所神社の境内社・住吉神社本殿は室町時代前期の至徳3年(1386)に建てられています。檜皮葺きの一間社春日造りの社殿です。大正2年(1913)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/十六所神社境内社・住吉神社本殿
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。十六所神社の境内社・龍王神社本殿は室町時代前期の至徳年間頃(1384-1386)に建てられています。檜皮葺きの一間社春日造りの社殿です。大正2年(1913)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/十六所神社境内社・龍王神社本殿
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。十六所神社の本殿は室町時代前期の至徳元年(1384)に建てられています。檜皮葺きの一間社春日造りの社殿です。大正2年(1913)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/十六所神社本殿
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。十六所神社は本堂の北の高台にあります。明治の神仏分離以前は霊山寺の鎮守社で十六所権現と呼ばれていました。5つの社殿が覆屋の中で並んで鎮座しています。左から春日社、住吉社、本社、龍王社、大神宮で、中央の住吉社、本社、龍王社は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/十六所神社
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の鐘楼は本堂の斜め前にあります。室町時代中期の応永から文正年間(1393-1466)頃に建てられたようです。間口1間、奥行1間、入母家造り、檜皮葺きで、袴腰が付いています。梵鐘は寛永21年(1644)の鋳造で、霊山寺の沿革と由来を伝えています。鐘楼は昭和18年(1943)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺鐘楼
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の本堂は昭和28年(1953)に国宝に指定されています。鎌倉時代後期の弘安6年(1283)に建てられています。昭和17年(1942)に解体修理が行われています。間口5間、奥行6間、単層、入母屋造り、本瓦葺きで、正面に1間の向拝を付けています。本堂は鎌倉後期における密教本堂の典型的な建物で、日本古来の和様を踏襲しています。堂内は外陣、内陣、脇陣からなり、外陣は室内に柱がなく、天井は折上小組格天井です。正面3間と側面を蔀戸(しとみど)とし、正面両脇間は板戸を入れてあります。上には吹寄菱格子欄間があります。一段、高い内陣の中央には須弥段があり、本尊薬師如来を納める厨子を置いています。厨子の左右には持国天像、多聞天像、十二神将像を安置し、外陣にも大日如来坐...霊山寺本堂
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。弁財天白金殿は黄金殿の隣にあります。昭和52年(1977)に建てられました。堂の内外に22回下地漆塗をし、その上にプラチナの箔押が施されています。円照尼と眷属大龍神を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/弁財天白金殿
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。弁財天黄金殿は弁天堂の奥本殿として、昭和36年(1961)に造られました。堂の内外22回下地漆塗をし、3枚掛の金箔押が施されています。大弁財天を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/弁財天黄金殿
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の弁天堂は大弁財天の本地仏聖観世音菩薩を本尊として祀り、脇侍に不動明王、毘沙門天を祀っています。弘法大師が駐留していた時、大龍神の霊験を感得し、大龍神を弁才天として奥之院へ勧請したものを、昭和10年(1935)に現在の場所に移し現世利益の道場として建立しました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺弁天堂
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の行者堂は役行者(えんのぎょうじゃ)である神変大菩薩を本尊として祀り、脇侍に不動明王と青面金剛、蔵王権現を祀っています。平安時代、霊山寺の乗阿上人が理源大師に従って大峯山の再興に尽力し、大峯山方の正大先達の筆頭となりました。それ以来毎年9月15日には柴燈護摩法要が行われています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺行者堂
「ブログリーダー」を活用して、jf0rakさんをフォローしませんか?
富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。「海王丸」は海洋実習船として建造されました。進水式が2月14日のバレンタインデーであったため、恋人の聖地に認定され、カップルにとって素敵なイベントも開かれています。59年間に106万海里(地球約50周)を航海し1万人以上の海の若人を育てたそうです。姉妹船「日本丸」も同時期に建造され、「日本の海の王者たれ」という日本の海運の期待を集めました。平成2年(1990)4月から富山で一般公開されし、現在も海洋教室など青少年錬成の場として活用されています。帆をすべて開く「総帆展帆」(そうはんてんぱん)は4月から11月の間に月に1回、年に10回程度行われています。「海の貴婦人」と称される美しい姿が披露されます。美しい日本海と、新湊大橋、立山連峰が眺められます。下記のサイトにも...海王丸パーク
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。映画「人生の約束」に放生津八幡宮の曳山の譲渡シーンが撮影されました。各町にある13基全ての曳山が放生津八幡宮でお祓いを受け繰り出します。令和3年(2021)に、曳山と築山の行事は国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/曳山と築山の行事
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。境内に建立されている芭蕉翁の句碑は天保14年(1843)に付近の俳人達によって建てられています。元禄2年(1689)に芭蕉が詠んだ「早稲の香や分け入右は有磯海」の句が刻まれています。この句碑は射水市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/放生津八幡宮芭蕉翁の句碑
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。現在の放生津八幡宮の社殿は江戸時代末期の弘化2年(1845)に発生した火災により焼失し、氏子の浄財により文久3年(1863)に再建されたものです。放生津の宮大工棟梁・高瀬輔太郎、脇棟梁・梁野上武平、赤井弥左エ門が手掛けました。放生津八幡宮の拝殿は間口6間、奥行5間、木造平屋建て、入母屋造り、平入で屋根は桟瓦葺きです。正面に3間の向拝付けられています。外壁は真壁造り板張り、正面1間分は吹き放しになっています。平成16年(2004)に射水市指定文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...放生津八幡宮拝殿
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。放生津八幡宮は奈良時代の天平18年(746)、越中国司として赴任した大伴家持が奈古之浦(なごのうら)の風光を愛し、宇佐八幡神を勧請し奈古八幡宮としたのが始まりです。鎌倉時代に越中の守護所が設置されると総社となり、正和年間(1312-1317)に越中守護名越時有(なごやときあき)が社殿を造営しています。室町時代には放生津が石清水八幡宮領となり、放生津湊に出入りする船の課役を八幡宮が担うようになりました。明応の政変(1493)では足利義稙が放生津を御座所としました。永禄6年(1563)、越中一向一揆勢・神保(じんぼ)氏・椎名氏連合軍と、上杉謙信との合戦があり、兵火により社殿、社宝などが焼失しました。後に放生津城主・神保長識(な...放生津八幡宮
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の庫裏は大火直後の明治2年(1869)に建てられています。木造2階建て、切妻造り、平入、桟瓦葺きで、建築面積は399平方mです。古くからの伽藍を偲ばせる建物で、一時は小学校の仮校舎にも使われたそうです。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺庫裏
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の本堂は明治12年(1879)に建てられた建物で、寺院本堂建築としては珍しい土蔵造りです。間口7間、奥行11間の平屋建て、切妻造り、平入で桟瓦葺きです。正面に1間の向拝が付けられています。外壁は白漆喰仕上げで、建築面積は263平方mあります。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺本堂
富山県射水市立町に大楽寺があります。長恩山大楽寺は浄土宗のお寺です。平安時代後期の長徳2年(996)に花山天皇の勅願により但阿無外上人によって開かれたといわれています。当初は長徳寺という天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の弘安元年(1278)に浄土宗に改宗し、寺号を大楽寺と改めています。大楽寺の本堂と庫裏は国の登録有形文化財に登録されています。室町時代後期の天文年間(1532-1555)に描かれた絹本著色涅槃絵図は昭和61年(1986)に射水市指定文化財(絵画)に指定され、平安時代の木造阿弥陀如来立像は昭和53年(1978)に射水市指定文化財(彫刻)に指定されています。また江戸時代の萬誉上人の大楽寺御名号本尊は昭和50年(1975)に射水市指定文化財(書跡)に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りくださ...大楽寺
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の本堂は木造平屋建て、入母屋造り、桟瓦葺きの大きな建物です。間口7間、平入で、正面に1間の向拝を付けています。外壁は真壁造り白漆喰仕上げです。本尊の阿弥陀如来像を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺本堂
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の梵鐘は明治4年(1871)に専念寺が買い取った銅鐘で、文明6年(1474)の銘があります。高さ158cm、口径91cm、胴厚約8.5cmです。文明の銘がある梵鐘は、在銘の銅鐘としては県内最古といわれ、昭和40年(1965)に富山県の有形文化財に指定されています。この梵鐘は、文明6年(1474)に立山寺の明舜が、自ら創建した面白寺で使うために荻生の鋳物師の幸善に造らせたものでした。その後、面白寺が廃寺になると本寺だった立山寺が引き取り、その後、廃仏毀釈の中、処分されることになり、専念寺が買い取ったといういきさつがありました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...専念寺梵鐘
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の前庭にある傘松は「からかさ松」と呼ばれ有名です。黒松と赤松の雑種であるアイグロマツで、突然変異によって傘状になったといわれ、全国的にも珍しい松です。享保2年(1717)、放生津城主・神保慶宗(のりむね)の菩提を弔うため植えられたと伝えられています。この松は開いた傘のように見えることから傘松と呼ばれています。樹高約4m、地上から約1.5mの高さで枝が横方向に伸び、直径13mから15mにわたって広がっています。昭和40年(1965)に富山県の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺傘松
富山県射水市本町に専念寺があります。専修山専念寺は浄土真宗東本願寺派のお寺です。文明16年(1484)本願寺8世蓮如上人の法弟である賢祐(けんゆう)が法土寺村(ほうどうじむら)に創建しています。延徳3年(1490)に親鸞絵像が蓮如上人より下付されています。中世には越中守護代の神保氏から帰依され寺運が隆盛しました。江戸時代中期の享保2年(1717)に水害により現在地に移ったそうです。この寺にある「からかさ松」は県の天然記念物に指定され、銅鐘は富山県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺
富山県射水市(いみずし)庄西町に牧田組本社があります。牧田組本社ビルは元は回船業を営む南島商行本店として大正4年(1915)に建てられました。木造2階建て、銅板葺き、建築面積81平方mの近代洋風建築で、昭和62年(1987)に富山の建築百選に選定されました。平成14年(2002)には国の登録有形文化財に登録されています。玄関は両脇の袖壁を大きく前に張り出させています。そして上部には印象的な意匠を施し、玄関上部の2階パラペットを切妻風にしています。木造の壁に重厚なレンガを貼り、腰、隅柱などに花崗岩を使用しています。縦長の上げ下げ窓を左右対称に配置しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村htt...牧田組本社ビル
富山県高岡市守山町に旧高岡共立銀行本店の建物があります。このビルは大正3年(1914)に高岡共立銀行本店として建てられた擬ルネッサンス様式の建物です。その後、北陸銀行高岡支店になり、昭和39年(1964)からは富山銀行本店として使用されました。令和3年(2021)に高岡市に無償譲渡されています。建物が建つ守山町は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている「山町筋伝統的建造物群保存地区」です。この建物も山町筋の景観を構成する伝統的建造物に特定されており、市民より「赤レンガの銀行」として親しまれました。鉄骨煉瓦造り2階建ての洋風銀行建築で、設計は、東京駅を設計した辰野金吾の監修のもと、清水組の田辺淳吉が担当しました。建設当時、一帯は証券会社や金融会社の本店、支店が軒を連ね、「北陸のウォール街」と呼ば...旧高岡共立銀行本店
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅の主屋は間口7間半、奥行5間の土蔵造り、2階建ての古民家です。入母屋造り、平入り、桟瓦葺きの町屋の建築形式です。両脇には釉薬を塗りこんだ煉瓦造りの防火壁を設けています。外壁は2階が大壁の黒漆喰で1階の主屋正面には1間の土庇が付いています。軒下は白漆喰、2階腰部分はタイルを貼り、2階の開口部には銅板貼りの扉を設けています。平成9年(1997)に国の有形文化財を登録され、平成25年(2013)には高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅主屋
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅は明治33年(1900)の高岡大火の直後に建てられています。屋敷は主屋が道路に面しており、間に中庭を挟んで奥に1番蔵、2番蔵、調度蔵、味噌蔵が4棟横一列に建てられています。主屋とともに国の有形文化財に登録され、高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。旧室崎家住宅の主屋は間口4間半、奥行8間半の土蔵造り、2階建ての古民家です。切妻造り、平入り、桟瓦葺きで、内部は3列3段の通り土間形で古い町屋の形式です。外壁の仕上げは道路側の正面だけが黒漆喰で仕上げられています。間取りは正面1列目左から「ミセザシキ」、「ミセ」、2列目左から「ブツマ」、「ツウロ」、「チャノマ」、3列目左から「ブツマ」、「ナナジョウマ」があり、外観とは違う数寄屋風の造りです。主屋と土蔵は平成10年(1998)に高岡市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc...旧室崎家住宅主屋
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。室崎家は明治初年にこの地に移り住み、それ以前は現施設の向う側に住んでいました。昭和20年(1945)まで綿布の卸業を手広く営んでいたそうです。現在は石油商を営んでいますが、室崎氏の転居にあたり市がこの施設を資料館として整備し、平成14年(2002)から公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)
富山県高岡市守山町に高岡御車山会館(たかおかみくるまやまかいかん)があります。高岡御車山会館は高岡御車山祭にて曳き出す御車山と呼ばれる山車を展示しています。これらは国の重要無形民俗文化財、国の重要有形民俗文化財に指定されています。また高岡御車山祭は平成28年(2016)にユネスコの無形文化遺産に登録されています。高岡御車山会館は北陸新幹線の開業に合わせ平成27年(2015)4月25日に開館しました。鉄筋コンクリート造り2階建て一部3階建ての建物で、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)山町筋にあるため土蔵造りの家屋になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.f...高岡御車山会館
岐阜県高山市八軒町に高山陣屋があります。高山陣屋は、幕末には全国に60数ヵ所あった郡代・代官所の中で、当時の建物が全国で唯一残っている建物です。陣屋とは、江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼んでいます。もともと高山陣屋は飛騨高山藩主の金森氏の下屋敷でした。元禄5年(1692)に幕府が飛騨を天領として、伊奈忠篤らによって代官所として用いられるようになりました。安永六年(1777)に飛騨代官から飛騨郡代に昇格し、当時4ヵ所あった郡代役所の中でも重要な直轄地となりました。郡代役所は玄関、御役所、大広間などの部分に文化13年(1816)に改築されたものが現存しています。また敷地内の土蔵は、慶長年間(1596-1615)に高山城内に建てられ、元禄8年(1695...高山陣屋
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山日光館は屋台会館に付属しています。日光東照宮の本殿、陽明門、拝殿、鳥居など28の建造物を精巧な10分の1の模型で再現しています。33人の技術者が15年の歳月をかけて造ったそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山日光館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山八幡宮の敷地内に屋台会館があります。高山祭の実物屋台を常設展示しています。神楽台、鳳凰台、布袋台、金凰台など11台のうち4台の屋台が交替で展示されています。それぞれの屋台に、それぞれ固有の歴史があり、一位一刀彫の彫刻も見事です。これらは国指定重要有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山八幡宮屋台会館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。仁徳天皇の頃、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という顔が前後にある怪物が現われ、天皇の命に背いたため、難波根子武振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)に討伐を命じました。武振熊命が応神天皇の御霊を勧請し戦勝祈願したのが桜山八幡宮の始まりと伝えられています。大永年間(1521-1527)に京都の石清水八幡宮から分霊を勧請し合祀しました。その後戦乱の時代が続き一時荒廃しました。元和9年(1623)、高山藩2代藩主金森重頼が再興し、神領を寄進し、高山の安川以北の産土神に定め、神事を管理高山府の総鎮守府としました。金森氏が移封された後も、歴代代官、郡代の篤い崇敬を集め社運が隆盛しました。明治の神仏分離令により神社として独立し、明治4年(1871)郷社に指定されました...桜山八幡宮
岐阜県高山市大新町に日下部家住宅(日下部民藝館)があります。日下部家住宅は日下部家住宅は明治12年(1879)に建てられたもので、名工棟梁・川尻治助が江戸時代の建築を見事に再現したものといわれています。日下部家は幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といいました。嘉永5年(1851)には、役所の御用金を用立てする掛屋〈かけや〉をつとめ、後には両替屋を営みました。当時の邸宅は明治8年の大火で類焼し、再建されたのが現在の住宅です。明治時代に入り軒の高さや用材の規制が取れたため江戸時代に比べ軒が高く檜材をふんだんに使用されています。主屋は木造平屋建(1部2階建)、桁行17.4m、梁間17.3m、切妻造り、平入、桟瓦葺きです。梁と束柱の力強い木組みがすばらしく、10mある吹き抜けはなんとも美し...日下部家住宅
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。その中に平田記念館があります。平田記念館は「打保屋」(うつぼや)の屋号でびんつけ油、ろうそく屋を家業として財をなした平田家の住宅です。主屋は明治時代に建てられた典型的な高山の町屋建築とされ、贅を尽した飛騨商人の旦那衆の暮らしぶりがうかがえます。12代にわたって愛蔵してきた美術品、調度品を江戸期の土蔵3棟で公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/平田記念館
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。金森長近は天正16年(1588)より高山城の築城を開始し、同時に城山の麓に城下町の整備を進めました。三本の道路を通し、そこを町人の住む三町(さんまち)としたのです。また、寺院は京都を参考に東山へ集められ、城下町高山は形作られました。この三町と呼ばれる町割を基礎として、江戸から明治にかけて建てられた、洗練された意匠の商家町家が連なっています。特に上三之町付近は、狭い通りに沿って、往時の町並みが良く保存されています。三之町を中心とした一帯、南北約420m、東西約150mの範囲が「高山市三町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、商家町として栄えた当時の様子をそのまま今に伝えています。有力な商家が数多くあり、高山は商家町として発展しまし...飛騨高山の町並み
岐阜県高山市上岡本町に飛騨高山美術館があります。飛騨高山美術館は平成9年(1997)にオープンしたガラス工芸作品と家具を展示する私立の美術館です。小高い丘にあり、高山の町並みや北アルプスを見渡すことができます。16世紀から20世紀の世界中から収集したガラス工芸と、アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス工芸品、19世紀末の家具や照明器具などを収蔵展示しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨高山美術館
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧吉真(よしざね)家住宅は、桁行13.9m、梁間9.4m、入母屋造り、茅葺きの2階建です。飛騨市河合町角川にあったものを移築しています。安政5年(1858)の角川地震(飛越地震)にも耐えた頑丈な造りになっています。マグニチュード7をこえた角川地震は全壊家屋378軒、半壊497軒、死者207名という大規模なものでした。豪雪地帯ならではのどっしりとした土台や太い柱や梁、桁などで組まれています。なかでも左右側面の四隅などに立つ柱は、上部が二股になった「むかい柱(のぞき柱)」と呼ばれ、全国でも飛騨の一部だけに見られる地域色の強いものです。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda...旧吉真家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田中家住宅は、高山市冬頭町にあった田舎(でんしゃ)だった建物です。田舎とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の作納状況などを主人に代わって行った所で作業所・休憩所のような場所でした。建てられたのは江戸時代中期ごろです。桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造り、榑葺き(板葺き)です。屋根は勾配が緩やかで、榑板の上には石が置かれています。東面に一間の庇(ひさし)がついています。一之町で薬種商を営む「田中屋」の建物で、国学者田中大秀の実家です。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...旧田中家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田口家住宅は、飛騨と美濃との国境に位置する下呂市金山町卯野原にありました。代々名主を務めた大きな農家です。桁行25.2m、梁間13.3m、切妻造り、鉄板葺き(建築当時は榑葺き)です。家の前から右横へ雨戸の外に濡れ縁がまわっていて、雪深い地域の民家と比べると開放的な造りです。旧田口家住宅は文化6年(1809)の建立です。規模が大きくて質が良く、大きな修繕などもなかったようで、江戸後期の上級農家の貴重な遺構です。昭和45年(1970)、飛騨民俗村に移築され、昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...旧田口家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧若山家住宅は、御母衣ダムの建設にともなって水没した荘川村下滝に建っていた民家です。昭和34年(1959)に高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開されました。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなり、後に作られた飛騨の里に平成8年(1996)から約3年かけて再移築されました。宝暦年間(1751-1764)の初め頃の建立とみられ、桁行16.9m、梁間14.3m、合掌造り、茅葺きです。背面に1間半程の「ミンジャ、フロバ」などが出でいます。4階建てのうち、1階は居住用に使い、2階から上は養蚕のためのカイコの飼育場として活用されました。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://w...旧若山家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。飛騨民俗村・飛騨の里は豪雪に耐えてきた合掌造りや榑(くれ)葺き(木の幹を裂いた榑板で屋根を葺くやり方)の屋根など、飛騨の代表的な民家群が立ち並び、昔の農山村風景を形づくる民家の博物館です。また、飛騨の伝統産業である一位一刀彫、飛騨春慶塗、草木染めなどの伝承保存や、飛騨地方の民具なども展示されています。昭和30年代、御母衣ダムにより水没する荘川村の合掌造り民家の矢篦原家(やのはらけ)住宅が横浜市の三渓園に移築されました。旧若山家住宅も、御母衣ダムの建設にともなって昭和34年(1959)に高山市に移築された民家です。「飛騨民俗館」として一般公開され、飛騨の古い民家の保存の足がかりとなりました。昭和46年(1971)には「飛騨民俗村」がオープンしました。飛騨...飛騨民俗村・飛騨の里
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺本堂の前にある大イチョウは「乳イチョウ」とよばれ、推定樹齢1200年、幹周10m、高さ37mの大イチョウです。国の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺大イチョウ
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の三重塔は寛政3年(1791)に暴風雨で倒壊し、文政3年(1820)に再建された三重塔です。天平の七重塔の跡に建てられています。飛騨地方唯一の三重塔で、全国の国分寺の中でも塔建築としてはここだけといわれています。間口、奥行ともに4.24mで、高さ22m、屋根は鋼平板葺き(建立当初はこけら葺き)です。三重塔は岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺三重塔
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の本堂は間口5間、奥行4間、1重入母屋造り、向拝1間、銅板葺き、総桧造りの室町時代の建物です。天正15年(1587)に川上郷から移築されたといわれています。柱など太くて荘重内陣と外陣は厳重な格子で間仕切され、外陣の虹梁、蟇股などは古風な造りです。本堂は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺本堂
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺は天平13年(741)、聖武天皇の勅により、全国の国ごとに建てられた国分寺の一つです。天平勝宝9年(757)頃、行基菩薩により建立されたといわれています。弘仁10年(819)火災で焼失しましたがすぐに再建されたようです。天正13年(1585)、金森長近が松倉城にこもる三木自綱(よりつな)を攻めた時、兵火で多くの堂宇が焼失しました。その後の天正年間(1573-1592)に長近は千光寺の玄海和尚を招いて再建しました。現在の本堂はこの頃のものと推定されています。本尊の「薬師如来御像」は平安時代のもので、像高145.7cmです。また「聖観世音菩薩」は国分尼寺の本尊であったものといわれ、平安時代のもので、像高204cmです。いずれも国の重要文化財に指定されています...飛騨国分寺
岐阜県高山市国府町宇津江に宇津江四十八滝(うつえしじゅうはったき)があります。宇津江四十八滝は宮川(神通川)の支流・宇津江川にあり、複数の滝が存在する渓谷です。岐阜県の天然記念物、全国自然百選、飛騨・美濃紅葉33選、県名水50選などに指定されている県立自然公園です。最上部の滝まで880m、ゆっくり歩いて1時間のハイキングコースで散策できます。江戸時代、美濃国の白心(はくしん)法師がこの地で修行して以来、霊場として知られるようになりました。安永8年(1779)に出された赤田臥牛の「打江観瀑記」以降この滝を訪れる人が多くなったそうです。宇津江四十八滝には大蛇と「よそ八」の伝説が残されています。孝行息子「よそ八」は川の奥の沼で大蛇に出会い妖気で寝込んでしまいました。大蛇は娘に身を変え、自分の血を使って看護し全快...宇津江四十八滝
岐阜県高山市一之宮町に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)があります。島崎正樹は明治の文豪島崎藤村の父親です。水無神社宮司として明治7年(1874)から10年(1877)まで務めました。教導職として多くの若者を指導しました。藤村の作品「夜明け前」で主人公・青山半蔵のモデルとなった人物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/島崎正樹石碑
岐阜県高山市一之宮町に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)があります。飛騨一宮水無神社の絵馬殿は旧拝殿で、慶長12年(1607)、高山藩主金森長近が造営したものです。間口5間、奥行4間、木造平屋建て、入母屋造り、銅板葺き、平入、外壁は柱のみの吹き放しです。高山市指定文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨一宮水無神社絵馬殿