岐阜県岐阜市伊奈波通りに伊奈波神社(いなばじんじゃ)があります。伊奈波神社の神門は一間一戸の四脚門で、切妻造り、銅板葺きです。門扉は桟唐戸で、菊花の紋がついています。主柱と控柱のあいだには花狭間があります。神門の左右には回廊が繋がっています。回廊は2つの切妻を組み合わせた形式で、銅板葺きです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/伊奈波神社神門
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の三重塔は檜皮葺きの三間三重塔婆で高さは17mです。室町時代前期の文和5年(1356)に建てられています。ゆるやかに反った深い屋根と、長い相輪が特徴です。鎌倉期の純和様式で、初層内部の来迎壁には、極彩色の壁画が、色鮮やかに残されています。明治32年(1899)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺三重塔
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の開山大師堂は昭和28年(1953)に改新築された建物です。古くは開山した行基菩薩を祀っていました。高野山真言宗に属した江戸時代より弘法大師空海を本尊とし、歴代徳川将軍の位牌を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺開山大師堂
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺には八体仏霊場が平成3年(1991)に造られています。生まれ年干支、生まれ日星座のお守り本尊です。右側より、阿弥陀如来(戌・亥年)、不動明王(酉年)、大日如来(未・申年)、普賢菩薩、勢至菩薩(午年)、文殊菩薩(卯年)、虚空蔵菩薩(丑・寅年)、千手観音菩薩(子年)です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺八体仏霊場
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の薬師湯殿は小野富人によって開かれました。薬草を栽培し、薬師如来を祀って薬草風呂を施湯し、聖武天皇も鳥狩りの折、また光明皇后も入湯されたと伝えられています。1300年の昔から延々と続いてきた薬師湯は霊山寺が経営する浴場になり、トウキ・センキョウなどの天然成分のみを使った薬湯になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺薬師湯殿
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。登美山(とみやま)鼻高(びこう)霊山寺は戦後、真言宗より分派独立した古義真言宗の一派、霊山寺真言宗の総本山です。古くは登美と呼ばれていたこの地は敏達天皇の頃より小野家の領有地でした。小野妹子の息子の右大臣・小野富人(とみひと)は、壬申の乱に関与した事で弘文元年(672)官を辞して、登美山檜森に閑居しました。天武12年(684)、富人は熊野本宮に参籠し、薬師如来を感得し、登美山に薬草湯屋を建て薬師如来像を安置し、鼻高仙人と称され尊崇されたそうです。天平6年(734)、大地震があり、驚いた孝謙皇女が病にかかった時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来に祈念すれば病は治ると告げられました。行基が代参祈願したところ、皇女の病が快癒したため、天平6年(7...霊山寺
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。西川家は天理市二階堂北菅田町、奈良と橿原を結ぶ旧街道にあった蔵です。米蔵、高蔵、北蔵がありましたが、食器や衣類を収納していた高蔵を移築しています。土蔵造りで、間口2間(3.94m)、奥行1間半(2.98m)、2階建て、切妻造り、本瓦葺きの建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/西川家高蔵
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧前坊家住宅は吉野町吉野山門前町の参道沿いにありました。前坊家は代々吉野水分神社の神官を勤めた家柄でした。屋敷構えは、主屋を道路に面して建て、後方に離れ座敷を配し、この間を渡廊下で接続した逆コの字型です。主屋は間口13.9m、奥行9.3m、切妻造り、一部2階建て、杉皮葺きの建物です。参道が尾根筋に当たるため、敷地後方に行くにつれて建物の床高が高くなる「吉野建」(懸造り)の形態をとっていました。主屋の居室、表側四室の柱は18世紀中頃の材であることから、その頃に建てられ、19世紀中頃の弘化年間(1844-1847)頃に大修理・改造され、順次、渡廊下、離座敷を建てたものと思われます。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立...旧前坊家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧木村家住宅は吉野郡十津川村大字旭字迫にあった山間の家で、木村家は農林業を営み、幕末頃には村役を務めたそうです。主屋をはじめ表門、納屋、物置の付属屋から構成されています。主屋は棟札から文政4年(1821)に建てられています。納屋と表門は19世紀中頃の建築です。山深い峡谷の最多降雨の一地帯のため、県北部の民家とは姿や間取りが大きく異なっています。主屋は間口12.5m、奥行7.3m、切妻造り平入、杉皮葺きで、石を乗せています。間取りは3室の横1列型で、土間と土壁がなく、すべて板張りとなっています。納屋は屋内を牛小屋と便所に2分して、天井は背面部分上部を突き出してツシ2階を広くした造りです。昭和50年(1975)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイト...旧木村家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧松井家住宅は宇陀郡室生村上笠間にあった農家で、昭和62年(1987)に大和民俗公園内に移築されています。解体中に文政13年(1830)の祈祷札が発見され、その頃に建てられたと考えられています。間口11.2m、奥行8.6m、単層、入母屋造り、茅葺きの建物です。間取りは右半が土間、左半が居室4室になっています。土間の正面に「まや」、その背後に釜屋を設け、「まや」の右手に風呂場があります。居室は「くちのま」、「おくのま」、「なかのま」、「なんど」です。間口に喰い違い4間取りで、前座敷型3間取りの発展形式と考えられます。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~o...旧松井家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧岩本家住宅は旧宇陀郡室生村大字黒岩にあった農家です。黒岩は室生寺から東南方へ約5kmへだたり、胎ノ川の支流、黒岩川の中程で、谷間の南斜面を利用した村落です。岩本家は庄屋年寄を務めたそうです。間口7間(13.9m)、奥行5間半(11.7m)、単層、入母屋造り、茅葺きの大型の農家で、素朴な外観を呈しています。旧岩本家住宅は江戸時代末期の嘉永年間(1848-1854)頃に建てられたと考えられています。間取りは向かって左半分を土間とし、正面側に馬屋、背面側にかまやを配しています。右半分には6室の居室があります。3間取りに座敷3室を加えた配置で、食い違い型の発展形式です。構造では表側をせがい造り、土間上を太い梁を半間ごとに架けるなど、この地方の特色をよく示しています...旧岩本家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧八重川家住宅は山辺郡都祁村大字針(現在の奈良市針)にあって、代々農業を営んでいました。間口11m、奥行8m、単層、寄棟造り、茅葺きの建物です。建築年代は明確ではありませんが、形式手法から19世紀初期の建築と考えられています。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。間取りは右半が土間、左半が床上部で、土間の割合が大きくなっています。土間の前には「まや」を配し、背面側を釜屋としています。床上部は二間取りで、「ざしき」、「なかのま」と続き、両間の境には置仏壇を設置しています。この建物は二間取りの明快な間取りをもち、江戸時代末期のこの地域の一般的な住宅として貴重な建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.n...旧八重川家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧八重川家住宅は山辺郡都祁村大字針(現在の奈良市針)にあって、代々農業を営んでいました。間口11m、奥行8m、単層、寄棟造り、茅葺きの建物です。建築年代は明確ではありませんが、形式手法から19世紀初期の建築と考えられています。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。間取りは右半が土間、左半が床上部で、土間の割合が大きくなっています。土間の前には「まや」を配し、背面側を釜屋としています。床上部は二間取りで、「ざしき」、「なかのま」と続き、両間の境には置仏壇を設置しています。この建物は二間取りの明快な間取りをもち、江戸時代末期のこの地域の一般的な住宅として貴重な建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.n...旧八重川家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧赤土家離座敷は香芝市狐井にあった農家の離れ座敷でした。赤土家は楠木氏一族の和田蔵人の子孫で、庄屋を務めたそうです。単層、入母屋造り、茅葺きで、本瓦葺きの庇を付けています。8畳1間に「とこ」「違い棚」「出書院」があり、三方を縁で囲んでいます。18世紀初期の建物と推察されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧赤土家離座敷
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧萩原家住宅は桜井市下(旧下村)に所在していた農家です。下村は昔、宿場で栄えた桜井から、南方へ約2km離れ、多武峰に向う街道に沿った村落です。萩原家はこの村の北部にあって組頭を務めたといわれています。元禄16年(1703)から宝永5年(1708)頃に建てられたと考えられています。平面は下手3間を土間とし、正面側に「うまや」、背面側に「かまや」を設け、居室部は正面側に「みせのま」「ざしき」があり、背面側に「だいどころ」「なんど」の4間取りで、「ざしき」には仏壇、とこ、脇床を設けています。屋根は茅葺きで葺降ろしになっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほん...旧萩原家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧萩原家住宅は桜井市下(旧下村)に所在していた農家です。下村は昔、宿場で栄えた桜井から、南方へ約2km離れ、多武峰に向う街道に沿った村落です。萩原家はこの村の北部にあって組頭を務めたといわれています。元禄16年(1703)から宝永5年(1708)頃に建てられたと考えられています。平面は下手3間を土間とし、正面側に「うまや」、背面側に「かまや」を設け、居室部は正面側に「みせのま」「ざしき」があり、背面側に「だいどころ」「なんど」の4間取りで、「ざしき」には仏壇、とこ、脇床を設けています。屋根は茅葺きで葺降ろしになっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほん...旧萩原家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧吉川家住宅は橿原市中町に所在した自作農の典型的な農家です。元禄16年(1703)に山ノ坊村の吉川家より分家したとの記録があり、その頃に建てられたようです。入母屋造りで、屋根は上屋は茅葺き、下屋は四面ともに瓦葺きです。平面の間取りは梁行方向に喰違う4間取りで、正面側下手より「みせのま」「ざしき」を、その後方に「だいどころ」「なんど」を設けています。土間部、正面側には「しもみせ」があり、その背面に「かまや」を配しています。国中の囲造りで、昭和52年(1977)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://bl...旧吉川家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧鹿沼家住宅は大和高田市永和町にあった町屋です。鹿沼家は横大路の北側に屋敷を構え、代々米屋治兵衛を名乗り、米屋を営んでいたそうです。文化9年(1812)の「請取普請状」が残されていて、その直後に建てられたと思われます。切妻造りの2階建てで、正背面に庇を付け、屋根は桟瓦葺きです。2階に出格子を有するこの主屋は、県内では最も古い例です。表の角太格子、二階の出格子、両端の袖壁などに町屋建築の特徴がよくあらわれています。内部は左半分を居室とし、右半分は通り土間で、しもみせを設け、奥にかまどがあります。昭和55年(1980)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/...旧鹿沼家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧臼井家住宅の内蔵は土壁で塗り固めた土蔵造りで、間口4.8m、奥行3.8m、2階建て、屋根は切妻造り、本瓦葺きの建物です。江戸時代中期の寛文ー元禄ー寛延年間頃(1661-1750)の建築と考えられています。内蔵は主屋とともに昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧臼井家住宅内蔵
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧臼井家住宅主屋は正面左2間を格子構えとしながら農家風の正面・外観を持っています。これは当時の城下町の特徴です。建築年代は明らかではありませんが、江戸時代中期の元禄年間頃(1688-1703)の建築と考えられています。間口17.6m、奥行7.0m、切妻造り、茅葺きで、南面と北面に本瓦葺きの庇が付いています。内部は「しもみせ」、「なかのま」、「おくざしき」などに間取りされている農家風の町屋建築です。昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧臼井家住宅主屋
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園(大和民俗公園)があります。旧臼井家(きゅううすいけ)住宅は高市郡高取町上土佐に所在していた町屋です。植村藩の城下町であった高取町は古くから奈良盆地と吉野を結ぶ旧街道でした。臼井家は伊勢から上土佐に移り、高取城下で大手へ通じる道の北側に屋敷を構え、屋号を「伊勢屋」と称しました。臼井家は藩の公用伝馬の役を務めるかたわら、酒、醤油の販売を営むほか、大年寄をも務めたと伝えられています。解体前には主屋、離れ座敷、内蔵、高蔵、米蔵、道具蔵などで構成されていましたが、そのうち主屋と内蔵が昭和51年(1976)に移築復元されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村htt...旧臼井家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園(大和民俗公園)があり、園内に奈良県立民俗博物館があります。奈良県立民俗博物館は、奈良(大和)に暮らす人々が、その風土の中で育み、改良工夫を重ね維持してきた生活用具など4万2千点を収穫し、保存・展示公開している全国的にもめずらしい民族専門の博物館です。「奈良盆地の稲作」、「大和高原の茶業」、「吉野山の林業」に分け、昔使われた用具の展示や、衣食住について紹介しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/奈良県立民俗博物館
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園(大和民俗公園)があります。大和民俗公園は矢田丘陵の東部に26.6ヘクタールという広い敷地に、野外博物館的要素を持った特色ある都市公園です。園内には有形・無形の民俗文化財を収集する奈良県立民俗博物館や県内各地の典型的な民家を移築展示しています。「町屋」エリア、奈良盆地に位置する「国中(くんなか)」エリア、奈良県東部にある「宇陀・東山」エリア、山深い「吉野」エリアの4つに分けて18世紀から19世紀に建てられた民家15棟を移築復元しています。旧臼井家住宅の主屋と内蔵、旧岩本家住宅は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://b...大和民俗公園
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。矢田坐久志玉比古神社の末社である八幡神社の社殿も本殿同様に明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。本殿より少し小さめで、檜皮葺きの一間社春日造りの社殿です。室町時代中期の明徳から文正年間(1393-1466)に建てられたものと考えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田坐久志玉比古神社八幡神社
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。矢田坐久志玉比古神社の本殿は室町時代前期の建武から明徳年間(1333-1392)に建てられたものと考えられています。檜皮葺きの一間社春日造りの社殿です。明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田坐久志玉比古神社本殿
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。櫛玉饒速日命が天磐船に乗って大空を駆けたという故事により、神門には、プロペラが奉納されています。このプロペラは中島飛行機製の陸軍九一式戦闘機のものです。昭和18年(1943)に大日本飛行協会大阪支部が奉納したものだそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田坐久志玉比古神社神門
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。矢田寺(金剛山寺)の東1kmの山裾に矢田坐久志玉比古神社が建てられています。櫛玉饒速日命(にぎはやひのみこと)と、妻の御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)を祀っています。物部氏の祖先神であり、矢田部氏の部族神ともいわれています。当社は貞観元年(869)に従五位上を授けられ、延喜式大社で、月次・新嘗の幣帛を預る矢田地方隋一の名社です。古くは矢落大明神又は矢田の大宮と呼ばれました。天孫降臨に先立って櫛玉饒速日命が天磐船に乗って降臨した際、上空から3本の矢を射て、その2本目が落ちた場所とされ、「矢田」という地名の元になっています。矢田坐久志玉比古神社の本殿と、末社の八幡神社の社殿は国の重要文化財に指定されています。天...矢田坐久志玉比古神社
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。本堂手前の参道にみそなめ地蔵と呼ばれるお地蔵様が置かれています。昔ある農婦がみその味が悪くなり困っていました。ある夜、夢の中に石のお地蔵様が現われ「その味噌を食べさせてくれたら、良い味にしてやろう」と告げました。翌朝、矢田寺に夢に現れたお地蔵様を見つけ、味噌をその口許にぬったところ、家の味噌がよくなったそうです。以来、皆がお地蔵様の口許へ味噌をぬるようになり「みそなめ地蔵」と呼ばれるようになりました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/みそなめ地蔵
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。矢田寺の本堂裏山には大正時代に開かれた矢田寺八十八ケ所霊場があります。1周約3kmで、1時間半もあれば廻ってこれるそうです。矢田丘陵の自然の中の山道に、四国霊場の各お寺の本尊と弘法大師の石仏が置かれています。四国霊場を巡礼したのと同じ功徳が授かるとのことです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田寺八十八ケ所霊場
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。鐘楼は本堂の正面にあり、梵鐘は寛元4年(1246)に鋳造された奈良県指定文化財です。京都に平安時代初期、この矢田寺の別院として創建された矢田寺(金剛山寺)があります。小野篁と関係が深い閻魔・篁堂がある京都の六堂珍皇寺では、お盆に先祖の霊を迎えるため鐘をつく「お迎え鐘」が行われます。京都の矢田寺では冥途に送るため「送り鐘」が撞かれるそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田寺鐘楼
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。閻魔王は、死者の過去の罪を裁く十人の裁判官のひとりです。閻魔堂には、閻魔王とその眷属(けんぞく)が祀られています。矢田寺の満米上人は、小野篁(昼は嵯峨天皇に仕え、夜は閻魔大王に仕えたといわれます)とともに地獄で閻魔大王と会ったそうです。地獄の罪人を救う地蔵菩薩に出会い、地上に戻ってから4人の翁(春日4神)の協力でその姿を写して像を彫ったそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田寺閻魔堂
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岐阜県岐阜市伊奈波通りに伊奈波神社(いなばじんじゃ)があります。伊奈波神社の神門は一間一戸の四脚門で、切妻造り、銅板葺きです。門扉は桟唐戸で、菊花の紋がついています。主柱と控柱のあいだには花狭間があります。神門の左右には回廊が繋がっています。回廊は2つの切妻を組み合わせた形式で、銅板葺きです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/伊奈波神社神門
岐阜県岐阜市伊奈波通りに伊奈波神社(いなばじんじゃ)があります。伊奈波神社の楼門は間口3間、奥行2間、入母屋造り、銅板葺きの、三間一戸の八脚楼門です。柱はいずれも円柱で、3つの柱間の中央が通路となっています。下層部の正面左右には随神像ではなく、奉納された酒樽が安置されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/伊奈波神社楼門
岐阜県岐阜市伊奈波通りに伊奈波神社(いなばじんじゃ)があります。伊奈波神社は金華山と尾根続きの稲葉山麓に鎮座しています。平成27年(2015)、「信長公のおもてなしが息づく戦国城下町・岐阜」の構成文化財として日本遺産に認定されています。旧国幣小社で社伝によると五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が東国討征の折り、この地に館を構えたのが始まりとされています。五十瓊敷入彦命は第11代垂仁天皇と日葉酢姫命の長男であり、第12代景行天皇の兄にあたります。飛鳥時代の672年に起こった壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)が伊奈波神社で戦勝を祈願し勝利後、厚見郡一円を社領として寄進したと伝えられています。当初は現在の岐阜公園丸山にありましたが天文8年(1539)、斎藤道三が稲葉城の築城の折、現在地に遷座したよ...伊奈波神社
岐阜県岐阜市大宮町に岐阜公園があります。金華山ロープーウェイは昭和30年(1955)に開業しました。全長599mで岐阜公園と金華山の山頂を約4分で結んでいます。金華山は標高329mの山で、岐阜城へ向かうルートになっています。金華山ロープウェイからは、金華山と長良川の自然美や岐阜市の街並みが上空から一望できます。山頂駅付近には、リス村や売店、展望レストランもあります。夏は夜間も運転され、夜景を楽しむこともできます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/金華山ロープーウェイ
岐阜県岐阜市大宮町に岐阜公園があります。若き日の織田信長像は、昭和63年(1988)市制100周年を記念して、岐阜市に寄贈されました。市制120周年を迎えた平成21年(2009)に、岐阜公園正門の前に移設されています。銅像の原型は岐阜市役所のロビーにあり、作者は「長崎平和祈念像」で有名な北村西望氏です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/若き日の織田信長像
岐阜県岐阜市大宮町に岐阜公園があります。明治15年(1882)4月6日に、自由党総裁であった板垣退助が、この地にあった中教院での演説を終え、帰ろうとした時に、玄関先で刺客に襲われました。「板垣死すとも自由は死せず」という世にも有名な言葉を残しました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/板垣退助遭難碑
岐阜県岐阜市大宮町に岐阜公園があります。岐阜公園三重塔は大正5年(1916)、大正天皇御大典記念として建立されました。高さ24m(相輪まで25.8m)・面積35.94平方mです。五穀豊穣、市内繁興を祈願したもので、画家川合玉堂が風水で、この地に選定したといわれています。かつての長良橋の材木が使われ、平成17年(2005)に登録有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岐阜公園三重塔
岐阜県岐阜市大宮町に岐阜公園があります。織田信長居館跡は金華山の西麓にあります。永禄10年(1567)、織田信長は稲葉山城主斉藤龍興を追放して「岐阜」と地名も改め、金華山山頂の岐阜城を修復して天下統一の拠点としました。この辺には人工的な二~三段のテラス状地形があります。最上段を千畳敷、中段以下の大部分は千畳敷下といわれていたそうです。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著書の中で信長の居館を壮麗なものとして紹介しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/織田信長居館跡
岐阜県岐阜市大宮町に岐阜公園があります。岐阜公園は戦国時代の岐阜城主であった斎藤道三や織田信長の居館があったとされる場所です。園内には、信長庭園をはじめ信長居館跡、冠木門、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、立礼茶室華松軒、名和昆虫博物館、円空美術館などがあります。岐阜城・金華山を結ぶ金華山ロープウェー山麓駅や金華山登山道の登り口もあり、平成4年(1992)、岐阜公園周辺地区が「都市景観100選」に、平成18年(2006)に「日本の歴史公園100選」に選ばれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岐阜公園
岐阜県岐阜市金華山天主閣に岐阜城があります。岐阜城跡は岐阜市史跡でしたが、歴史的価値が見直され国の文化審議会で審議が行われ、平成23年(2011)に国史跡に指定されました。城跡からは清流長良川、東には恵那山や木曽御岳山、北には乗鞍・日本アルプスが連なり、西には伊吹山・養老山脈、南には伊勢湾などを望むことができます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岐阜城跡
岐阜県岐阜市金華山天主閣に岐阜城があります。金華山ロープウェイ山頂に、放し飼いのリスとふれあうことができるリス村があります。ここには、かつて煙硝蔵がありました。鉄砲用の火薬を保存するための蔵です。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の直前に岐阜城が徳川方の軍勢に攻められた時、火をかけられて爆発したそうです。噴き上げる炎は、大坂方の軍勢がこもっていた大垣城からもはっきり見えたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/リス村
岐阜県岐阜市金華山天主閣に岐阜城があります。岐阜城攻撃にあたり豊臣秀吉は山麓の猟師堀尾茂助等7名を従え、岩戸口よりこの地に潜入し薪小屋に火を放ち大いに奮戦したということです。この時空瓢箪を槍の穂先に結びつけ城兵数名を倒したといわれ、この地が千成瓢箪発祥の地といわれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/千成瓢箪発祥の地
岐阜県岐阜市金華山天主閣に岐阜城があります。井戸谷に本丸井戸が残されています。昭和初期まで登山客の飲料水として用いられていたそうです。斎藤道三・織田信長の戦国時代には城の井戸として用いられていました。岐阜城の周辺には金銘水、銀銘水など古井戸が現存しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/岐阜城本丸井戸
岐阜県岐阜市金華山天主閣に岐阜城があります。岐阜城は標高336mの金華山山頂に築かれた城です。城跡は岐阜城跡として国の史跡に指定されています。建仁元年(1201)に鎌倉幕府執事二階堂行政によりこの場所に砦が築かれました。戦国時代には斎藤道三の居城でもありました。永禄10年(1567)、織田信長が、この城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井口」(いのくち)から「岐阜」に改めました。周の文王が岐山より興って天下を平定した故事に習ったものといわれています。岐阜城は安土城が築かれる10年間信長の本拠となりました。天正4年(1576)、信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督、及び、美濃、尾張の2ヶ国を譲りました。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加されました。天正10年(1582)...岐阜城
岐阜県岐阜市梶川町に常在寺(じょうざいじ)があります。常在寺の本堂は入母屋造り、桟瓦葺き、平入の木造平屋建てで、正面に1間の向拝を付けています。外壁は真壁造白漆喰仕上げとなっています。内部の内陣には本尊となる文殊菩薩像が安置されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/常在寺本堂
岐阜県岐阜市梶川町に常在寺(じょうざいじ)があります。常在寺の寺宝で室町時代に描かれた絹本著色斎藤道三画像が残されています。戦国の梟雄として名を馳せた斎藤道三(~1556)の肖像で、歿して間もない頃に描かれたものです。描写は戦国武将の気骨をよくとらえており、像主の歴史的役割とともに武将肖像画として資料的価値が高く、昭和50年(1975)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/斎藤道三肖像画像
岐阜県岐阜市梶川町に常在寺(じょうざいじ)があります。鷲林山(しゅうりんざん)常在寺は日蓮宗のお寺です。宝徳2年(1450)、美濃の守護代の斎藤妙椿(みょうちん)が日範(妙覚寺世尊院の僧)を招いて開山し斎藤家の菩提寺にしました。常在寺4世の日運は土岐氏重臣長井利隆の弟で妙覚寺で道三と親交がありました。道三は日運の推挙で守護代であった斎藤氏に出入りし、その名跡を継ぎ、さらに美濃守護の土岐氏を追放したことで美濃を手に入れました。常在寺は斎藤道三の基盤を築いた寺として庇護されました。国重文の斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画が寺宝で所蔵されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog...常在寺
岐阜県岐阜市大仏町に正法寺(しょうぼうじ)があります。大釈迦如来像は岐阜大仏とも呼ばれています。大イチョウの木を柱とし、竹材で籠を編むようにして形を作り、その上に漆と金箔を塗ってできた日本最大の籠大仏です。像高13.7m、顔の長さ3.63mで胎内には慈覚大師が彫り込んだと伝えられる薬師如来像が安置されています。昭和49年(1974)に岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/正法寺籠大仏
岐阜県岐阜市大仏町に正法寺(しょうぼうじ)があります。正法寺の大仏殿は本堂で大仏(大釈迦如来像)を収めるために造営されました。間口19.16m、奥行19.18m、高さ23.60m、木造三層、宝形造り、桟瓦葺きで正面に1間の向拝が付けられています。明朝様式と和様が融合した江戸時代後期の建物です。平成27年(2015)に岐阜市の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/正法寺大仏殿
岐阜県岐阜市大仏町に正法寺(しょうぼうじ)があります。金凰山正法寺は黄檗宗のお寺です。観応年間(1350-1352)、当時の美濃の守護・土岐頼康が創建したといわれています。廃寺ののち元禄5年(1692)に千呆和尚により黄檗宗のお寺として蘇り境内が整えられたようです。11世の推中和尚は、奈良の大仏を模した大釈迦如来像を計画、浄財を集め尽力しましたが完成前に亡くなります。天保3年(1832)、12世の肯宗和尚によって大仏がようやく完成し、開眼供養の際には多くの参拝者が訪れ盛大だったと伝えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/正法寺
奈良県大和郡山市額田部寺町に額安寺(かくあんじ)があります。額安寺の北西200mくらいの所に鎌倉墓とも呼ばれる額安寺の石造五輪塔があります。8基の五輪塔は、敷地の西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵形に並んでいて、すべてが昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されています。2基は永仁5年(1297)と刻まれ、他の6基は鎌倉末から室町時代(1185-1392)のものと考えられています。この五輪塔8基を解体修理した時、僧・忍性(良観上人)と順忍(善願上人)の舎利容器の銅製骨蔵器など7点と付属品4点の計11点が出土しました。嘉元から正中年間(1303-1326)の頃のもので、大和額安寺五輪塔納置品として昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!htt...額安寺石造五輪塔
奈良県大和郡山市額田部寺町に額安寺(かくあんじ)があります。額安寺は真言律宗のお寺で、額田(ぬかた)寺ともいわれます。この地は飛鳥時代の推古天皇29年(621)に聖徳太子が熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を置いた旧地で、寺は大安寺の前身といわれています。推古天皇の額に悪瘡ができ、薬師如来像を造って祈願したところ全快したため、額安寺と名付けられたそうです。この付近は古代水運の要所で外国使臣や文物の上陸場所で,賑わっていました。額安寺には金堂、三重塔、倉、食堂、僧房が建ち並び、壮大な七堂伽藍の大寺でした。しかし後に衰退し、鎌倉時代には僧・忍性らによって一時復興されましたが、のち兵火のため講堂一宇(今の本堂)を残すのみとなってしまいました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne....額安寺
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。開運橋は全長106mの剛性橋です。三郷町南畑と信貴山西の大門池に架けられています。昭和6年(1931)に竣工された「上路カンチレバー橋」形式で、開運橋はその形式では現存する日本最古の橋です。また鉄骨を組み合わせた「トレッスル橋脚」も珍しく、平成19年(2007)に国の登録有形文化財に選定されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/開運橋
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の聖徳太子像は馬に乗る聖徳太子像です。「長崎平和祈念像」を作成した日本を代表する彫刻家、北村西望の作です。聖徳太子が物部守屋の討伐にむかう姿を彷彿とさせます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺聖徳太子像
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。日本一大地蔵尊は朝護孫子寺の玉蔵院にある巨大な地蔵尊で、昭和8年(1933)に建てられています。総高14.54mで、隣の三重塔にも負けない迫力です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本一大地蔵尊
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の虚空蔵堂には虚空蔵菩薩を安置しています。虚空蔵菩薩は弘法大師・空海が青年時代に修行した「虚空蔵求聞持法」の本尊です。宇宙全体に満ちている仏の無量無尽の知恵や功徳を蔵する菩薩です。入試合格祈願に効能があるということです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺虚空蔵堂
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺にある霊宝館には、国宝「信貴山縁起」絵巻の複製が展示されています。原本は奈良国立博物館に寄託されています。国重文指定の楠正成の兜や、平群町指定文化財の「菊水の旌旗」も展示されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺霊宝館
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺にある大寅は体長約6mもある「世界一福寅」だそうです。その巨大な張り子の寅は、大きく口を開けて顔が上下左右にゆっくり動きます。トラつながりで、阪神タイガースの選手が戦勝祈願する寺としても有名です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺大寅
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の本坊は間口11間、奥行3間の建物で、安政年間(1854-1860)に大阪堂島の木綿屋梅蔵が寄進しています。平成9年(1997)に改修されています。隣接して護摩堂があります。建物入口には、張り子の寅が置かれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺本坊
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の仁王門は宝暦10年(1760)に大阪宝栄講が再建した建物です。明治14年(1881)に大修理され、大正11年(1922)にこの場所に移転されています。2体の仁王像の前にはわらじが奉納されていました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺仁王門
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の多宝塔の祭壇には大日如来が祀られています。坐像丈三尺、恵心僧都作ともいわれ、古くは天台宗との関わりが伺えます。元禄2年(1689)に建立、明治15年(1882)に修復されています。多宝塔の横から信貴山の頂上、城跡に行くことができます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺多宝塔
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の鐘楼堂には一丈四方に袴腰が付いています。貞享4年(1687)に再建された建物です。梵鐘には信貴四郎と銘があり、南部遠明の家臣・田部井十郎が鋳造して奉納したとのことです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺鐘楼堂
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の経蔵堂は、中央に回転できる経厨子があり、中に仏教のあらゆる法門の経典を集めた「一切経」を納めてあります。その経厨子は、一回転させる毎に「一切経」をすべて読誦したのと同じ功徳があるといわれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺経蔵堂
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の本堂は清水寺と同じく崖からせり出した舞台造り(コンクリート造り)です。慶長7年(1602)に豊臣秀頼によって再建され、(他説には文禄年間(1592-1596)豊臣秀吉により再建とする説もあり)、後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。しかし昭和26年(1951)に本堂は漏電のため焼失し、昭和33年(1958)に再建された建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺本堂
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の赤門は千手院の手前に建てられています。寛政5年(1793)に再建された朱色が鮮やかな美しい門です。本山信貴山と書かれた看板が掛かっています。平成21年(2009)に塗り替えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺赤門
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺は正式には信貴山(しぎさん)歓喜院朝護孫子寺という信貴山真言宗の総本山です。延喜2年(902)、明蓮が醍醐天皇の勅命で創建した時、「朝廟安穏守護国土子孫長久」の願文から名付けたそうです。寺伝では聖徳太子が物部守屋討伐を祈願し、寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天から加護され討伐に成功したことから、「信ずべき山、貴ぶべき山」信貴山と名づけられ、命蓮上人平癒の祈願で醍醐天皇の病が全快し、朝護孫子の号を賜ったとなっています。平安時代以降は、外敵退散、悪魔降伏を祈る毘沙門天信仰から武人の崇敬を集め、河内の豪族・河内正康も深く毘沙門天に帰依しました。その子供には多聞丸と名付けました。のちの楠木正成です。菊水紋のついた甲冑(重文...朝護孫子寺
奈良県生駒郡三郷町立野南に龍田大社(たつたたいしゃ)があります。龍田大社は延喜式で名神大社に列する古社で、天御柱大神(志那都比古神)と国御柱大神(志那都比売神)を祀っています。祭神は別名を龍田神・龍田風神ともいい、崇神天皇の時代、凶作が続いたとき、夢でこの風神のお告げを受けて創建されたといわれています。斑鳩町龍田に「新宮」と呼ばれる龍田神社がありますが、こちらは「本宮」とも呼ばれています。これは、聖徳太子が法隆寺を建立した時、龍田大社に祈願し、落慶の際に法隆寺の守り神として龍田大社の分霊をお祀りしたのが龍田神社であるためです。旧社格は最高の官幣大社で、古くから五穀豊穣、航海安全に霊験ありとして崇敬を集め、歴代の朝廷からも深く信仰されました。毎年6月28日から1週間行われる風鎮祭は、天武天皇の675年に始ま...龍田大社
奈良県生駒市有里町に円福寺(えんぷくじ)があります。本堂前に建っている2基の宝篋印塔も昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。北側の塔は総高244cm、初重に四仏の種子を刻み、永仁元年(1293)の銘があります。南側の塔は総高240cm、初重に四仏の像が刻まれています。北側の塔と同じ頃の造立と推察されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円福寺宝篋印塔
奈良県生駒市有里町に円福寺(えんぷくじ)があります。円福寺の本堂は間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、本瓦葺きで、中央に1間の向拝を付けています。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書から応安4年(1371)に建てられたことがわかります。大正11年(1922)に国の重要文化財に指定されています。棟札1枚、旧来迎壁額縁1本、旧床板1枚、旧野地板断片1枚、旧鬼瓦2個、旧丸瓦2枚も附指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円福寺本堂
奈良県生駒市有里町に円福寺(えんぷくじ)があります。龍華山(りゅうげさん)円福寺は生駒谷を見下ろす山腹にある真言律宗のお寺です。寺伝によると天平勝宝年間(749-757)に行基によって創建されたという古刹です。しかし何度も火災に遭い、寺歴は明らかではないといいます。本堂と庫裏があるだけの小さなお寺ですが、鎌倉時代に再建された本堂は国の重要文化財に指定されています。本堂前に並んで建つ2基の宝篋印塔も鎌倉後期のもので、国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円福寺