富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の三重塔は檜皮葺きの三間三重塔婆で高さは17mです。室町時代前期の文和5年(1356)に建てられています。ゆるやかに反った深い屋根と、長い相輪が特徴です。鎌倉期の純和様式で、初層内部の来迎壁には、極彩色の壁画が、色鮮やかに残されています。明治32年(1899)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺三重塔
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の開山大師堂は昭和28年(1953)に改新築された建物です。古くは開山した行基菩薩を祀っていました。高野山真言宗に属した江戸時代より弘法大師空海を本尊とし、歴代徳川将軍の位牌を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺開山大師堂
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺には八体仏霊場が平成3年(1991)に造られています。生まれ年干支、生まれ日星座のお守り本尊です。右側より、阿弥陀如来(戌・亥年)、不動明王(酉年)、大日如来(未・申年)、普賢菩薩、勢至菩薩(午年)、文殊菩薩(卯年)、虚空蔵菩薩(丑・寅年)、千手観音菩薩(子年)です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺八体仏霊場
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。霊山寺の薬師湯殿は小野富人によって開かれました。薬草を栽培し、薬師如来を祀って薬草風呂を施湯し、聖武天皇も鳥狩りの折、また光明皇后も入湯されたと伝えられています。1300年の昔から延々と続いてきた薬師湯は霊山寺が経営する浴場になり、トウキ・センキョウなどの天然成分のみを使った薬湯になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/霊山寺薬師湯殿
奈良県奈良市中町に霊山寺(りょうせんじ)があります。登美山(とみやま)鼻高(びこう)霊山寺は戦後、真言宗より分派独立した古義真言宗の一派、霊山寺真言宗の総本山です。古くは登美と呼ばれていたこの地は敏達天皇の頃より小野家の領有地でした。小野妹子の息子の右大臣・小野富人(とみひと)は、壬申の乱に関与した事で弘文元年(672)官を辞して、登美山檜森に閑居しました。天武12年(684)、富人は熊野本宮に参籠し、薬師如来を感得し、登美山に薬草湯屋を建て薬師如来像を安置し、鼻高仙人と称され尊崇されたそうです。天平6年(734)、大地震があり、驚いた孝謙皇女が病にかかった時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来に祈念すれば病は治ると告げられました。行基が代参祈願したところ、皇女の病が快癒したため、天平6年(7...霊山寺
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。西川家は天理市二階堂北菅田町、奈良と橿原を結ぶ旧街道にあった蔵です。米蔵、高蔵、北蔵がありましたが、食器や衣類を収納していた高蔵を移築しています。土蔵造りで、間口2間(3.94m)、奥行1間半(2.98m)、2階建て、切妻造り、本瓦葺きの建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/西川家高蔵
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧前坊家住宅は吉野町吉野山門前町の参道沿いにありました。前坊家は代々吉野水分神社の神官を勤めた家柄でした。屋敷構えは、主屋を道路に面して建て、後方に離れ座敷を配し、この間を渡廊下で接続した逆コの字型です。主屋は間口13.9m、奥行9.3m、切妻造り、一部2階建て、杉皮葺きの建物です。参道が尾根筋に当たるため、敷地後方に行くにつれて建物の床高が高くなる「吉野建」(懸造り)の形態をとっていました。主屋の居室、表側四室の柱は18世紀中頃の材であることから、その頃に建てられ、19世紀中頃の弘化年間(1844-1847)頃に大修理・改造され、順次、渡廊下、離座敷を建てたものと思われます。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立...旧前坊家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧木村家住宅は吉野郡十津川村大字旭字迫にあった山間の家で、木村家は農林業を営み、幕末頃には村役を務めたそうです。主屋をはじめ表門、納屋、物置の付属屋から構成されています。主屋は棟札から文政4年(1821)に建てられています。納屋と表門は19世紀中頃の建築です。山深い峡谷の最多降雨の一地帯のため、県北部の民家とは姿や間取りが大きく異なっています。主屋は間口12.5m、奥行7.3m、切妻造り平入、杉皮葺きで、石を乗せています。間取りは3室の横1列型で、土間と土壁がなく、すべて板張りとなっています。納屋は屋内を牛小屋と便所に2分して、天井は背面部分上部を突き出してツシ2階を広くした造りです。昭和50年(1975)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイト...旧木村家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧松井家住宅は宇陀郡室生村上笠間にあった農家で、昭和62年(1987)に大和民俗公園内に移築されています。解体中に文政13年(1830)の祈祷札が発見され、その頃に建てられたと考えられています。間口11.2m、奥行8.6m、単層、入母屋造り、茅葺きの建物です。間取りは右半が土間、左半が居室4室になっています。土間の正面に「まや」、その背後に釜屋を設け、「まや」の右手に風呂場があります。居室は「くちのま」、「おくのま」、「なかのま」、「なんど」です。間口に喰い違い4間取りで、前座敷型3間取りの発展形式と考えられます。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~o...旧松井家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧岩本家住宅は旧宇陀郡室生村大字黒岩にあった農家です。黒岩は室生寺から東南方へ約5kmへだたり、胎ノ川の支流、黒岩川の中程で、谷間の南斜面を利用した村落です。岩本家は庄屋年寄を務めたそうです。間口7間(13.9m)、奥行5間半(11.7m)、単層、入母屋造り、茅葺きの大型の農家で、素朴な外観を呈しています。旧岩本家住宅は江戸時代末期の嘉永年間(1848-1854)頃に建てられたと考えられています。間取りは向かって左半分を土間とし、正面側に馬屋、背面側にかまやを配しています。右半分には6室の居室があります。3間取りに座敷3室を加えた配置で、食い違い型の発展形式です。構造では表側をせがい造り、土間上を太い梁を半間ごとに架けるなど、この地方の特色をよく示しています...旧岩本家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧八重川家住宅は山辺郡都祁村大字針(現在の奈良市針)にあって、代々農業を営んでいました。間口11m、奥行8m、単層、寄棟造り、茅葺きの建物です。建築年代は明確ではありませんが、形式手法から19世紀初期の建築と考えられています。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。間取りは右半が土間、左半が床上部で、土間の割合が大きくなっています。土間の前には「まや」を配し、背面側を釜屋としています。床上部は二間取りで、「ざしき」、「なかのま」と続き、両間の境には置仏壇を設置しています。この建物は二間取りの明快な間取りをもち、江戸時代末期のこの地域の一般的な住宅として貴重な建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.n...旧八重川家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧八重川家住宅は山辺郡都祁村大字針(現在の奈良市針)にあって、代々農業を営んでいました。間口11m、奥行8m、単層、寄棟造り、茅葺きの建物です。建築年代は明確ではありませんが、形式手法から19世紀初期の建築と考えられています。平成16年(2004)に奈良県の有形文化財に指定されています。間取りは右半が土間、左半が床上部で、土間の割合が大きくなっています。土間の前には「まや」を配し、背面側を釜屋としています。床上部は二間取りで、「ざしき」、「なかのま」と続き、両間の境には置仏壇を設置しています。この建物は二間取りの明快な間取りをもち、江戸時代末期のこの地域の一般的な住宅として貴重な建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.n...旧八重川家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧赤土家離座敷は香芝市狐井にあった農家の離れ座敷でした。赤土家は楠木氏一族の和田蔵人の子孫で、庄屋を務めたそうです。単層、入母屋造り、茅葺きで、本瓦葺きの庇を付けています。8畳1間に「とこ」「違い棚」「出書院」があり、三方を縁で囲んでいます。18世紀初期の建物と推察されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧赤土家離座敷
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧萩原家住宅は桜井市下(旧下村)に所在していた農家です。下村は昔、宿場で栄えた桜井から、南方へ約2km離れ、多武峰に向う街道に沿った村落です。萩原家はこの村の北部にあって組頭を務めたといわれています。元禄16年(1703)から宝永5年(1708)頃に建てられたと考えられています。平面は下手3間を土間とし、正面側に「うまや」、背面側に「かまや」を設け、居室部は正面側に「みせのま」「ざしき」があり、背面側に「だいどころ」「なんど」の4間取りで、「ざしき」には仏壇、とこ、脇床を設けています。屋根は茅葺きで葺降ろしになっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほん...旧萩原家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧萩原家住宅は桜井市下(旧下村)に所在していた農家です。下村は昔、宿場で栄えた桜井から、南方へ約2km離れ、多武峰に向う街道に沿った村落です。萩原家はこの村の北部にあって組頭を務めたといわれています。元禄16年(1703)から宝永5年(1708)頃に建てられたと考えられています。平面は下手3間を土間とし、正面側に「うまや」、背面側に「かまや」を設け、居室部は正面側に「みせのま」「ざしき」があり、背面側に「だいどころ」「なんど」の4間取りで、「ざしき」には仏壇、とこ、脇床を設けています。屋根は茅葺きで葺降ろしになっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほん...旧萩原家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧吉川家住宅は橿原市中町に所在した自作農の典型的な農家です。元禄16年(1703)に山ノ坊村の吉川家より分家したとの記録があり、その頃に建てられたようです。入母屋造りで、屋根は上屋は茅葺き、下屋は四面ともに瓦葺きです。平面の間取りは梁行方向に喰違う4間取りで、正面側下手より「みせのま」「ざしき」を、その後方に「だいどころ」「なんど」を設けています。土間部、正面側には「しもみせ」があり、その背面に「かまや」を配しています。国中の囲造りで、昭和52年(1977)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://bl...旧吉川家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧鹿沼家住宅は大和高田市永和町にあった町屋です。鹿沼家は横大路の北側に屋敷を構え、代々米屋治兵衛を名乗り、米屋を営んでいたそうです。文化9年(1812)の「請取普請状」が残されていて、その直後に建てられたと思われます。切妻造りの2階建てで、正背面に庇を付け、屋根は桟瓦葺きです。2階に出格子を有するこの主屋は、県内では最も古い例です。表の角太格子、二階の出格子、両端の袖壁などに町屋建築の特徴がよくあらわれています。内部は左半分を居室とし、右半分は通り土間で、しもみせを設け、奥にかまどがあります。昭和55年(1980)に奈良県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/...旧鹿沼家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧臼井家住宅の内蔵は土壁で塗り固めた土蔵造りで、間口4.8m、奥行3.8m、2階建て、屋根は切妻造り、本瓦葺きの建物です。江戸時代中期の寛文ー元禄ー寛延年間頃(1661-1750)の建築と考えられています。内蔵は主屋とともに昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧臼井家住宅内蔵
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園があります。旧臼井家住宅主屋は正面左2間を格子構えとしながら農家風の正面・外観を持っています。これは当時の城下町の特徴です。建築年代は明らかではありませんが、江戸時代中期の元禄年間頃(1688-1703)の建築と考えられています。間口17.6m、奥行7.0m、切妻造り、茅葺きで、南面と北面に本瓦葺きの庇が付いています。内部は「しもみせ」、「なかのま」、「おくざしき」などに間取りされている農家風の町屋建築です。昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧臼井家住宅主屋
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園(大和民俗公園)があります。旧臼井家(きゅううすいけ)住宅は高市郡高取町上土佐に所在していた町屋です。植村藩の城下町であった高取町は古くから奈良盆地と吉野を結ぶ旧街道でした。臼井家は伊勢から上土佐に移り、高取城下で大手へ通じる道の北側に屋敷を構え、屋号を「伊勢屋」と称しました。臼井家は藩の公用伝馬の役を務めるかたわら、酒、醤油の販売を営むほか、大年寄をも務めたと伝えられています。解体前には主屋、離れ座敷、内蔵、高蔵、米蔵、道具蔵などで構成されていましたが、そのうち主屋と内蔵が昭和51年(1976)に移築復元されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村htt...旧臼井家住宅
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園(大和民俗公園)があり、園内に奈良県立民俗博物館があります。奈良県立民俗博物館は、奈良(大和)に暮らす人々が、その風土の中で育み、改良工夫を重ね維持してきた生活用具など4万2千点を収穫し、保存・展示公開している全国的にもめずらしい民族専門の博物館です。「奈良盆地の稲作」、「大和高原の茶業」、「吉野山の林業」に分け、昔使われた用具の展示や、衣食住について紹介しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/奈良県立民俗博物館
奈良県大和郡山市矢田町に大和民俗公園(大和民俗公園)があります。大和民俗公園は矢田丘陵の東部に26.6ヘクタールという広い敷地に、野外博物館的要素を持った特色ある都市公園です。園内には有形・無形の民俗文化財を収集する奈良県立民俗博物館や県内各地の典型的な民家を移築展示しています。「町屋」エリア、奈良盆地に位置する「国中(くんなか)」エリア、奈良県東部にある「宇陀・東山」エリア、山深い「吉野」エリアの4つに分けて18世紀から19世紀に建てられた民家15棟を移築復元しています。旧臼井家住宅の主屋と内蔵、旧岩本家住宅は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://b...大和民俗公園
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。矢田坐久志玉比古神社の末社である八幡神社の社殿も本殿同様に明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。本殿より少し小さめで、檜皮葺きの一間社春日造りの社殿です。室町時代中期の明徳から文正年間(1393-1466)に建てられたものと考えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田坐久志玉比古神社八幡神社
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。矢田坐久志玉比古神社の本殿は室町時代前期の建武から明徳年間(1333-1392)に建てられたものと考えられています。檜皮葺きの一間社春日造りの社殿です。明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田坐久志玉比古神社本殿
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。櫛玉饒速日命が天磐船に乗って大空を駆けたという故事により、神門には、プロペラが奉納されています。このプロペラは中島飛行機製の陸軍九一式戦闘機のものです。昭和18年(1943)に大日本飛行協会大阪支部が奉納したものだそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田坐久志玉比古神社神門
奈良県大和郡山市矢田町東良に矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)があります。矢田寺(金剛山寺)の東1kmの山裾に矢田坐久志玉比古神社が建てられています。櫛玉饒速日命(にぎはやひのみこと)と、妻の御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)を祀っています。物部氏の祖先神であり、矢田部氏の部族神ともいわれています。当社は貞観元年(869)に従五位上を授けられ、延喜式大社で、月次・新嘗の幣帛を預る矢田地方隋一の名社です。古くは矢落大明神又は矢田の大宮と呼ばれました。天孫降臨に先立って櫛玉饒速日命が天磐船に乗って降臨した際、上空から3本の矢を射て、その2本目が落ちた場所とされ、「矢田」という地名の元になっています。矢田坐久志玉比古神社の本殿と、末社の八幡神社の社殿は国の重要文化財に指定されています。天...矢田坐久志玉比古神社
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。本堂手前の参道にみそなめ地蔵と呼ばれるお地蔵様が置かれています。昔ある農婦がみその味が悪くなり困っていました。ある夜、夢の中に石のお地蔵様が現われ「その味噌を食べさせてくれたら、良い味にしてやろう」と告げました。翌朝、矢田寺に夢に現れたお地蔵様を見つけ、味噌をその口許にぬったところ、家の味噌がよくなったそうです。以来、皆がお地蔵様の口許へ味噌をぬるようになり「みそなめ地蔵」と呼ばれるようになりました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/みそなめ地蔵
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。矢田寺の本堂裏山には大正時代に開かれた矢田寺八十八ケ所霊場があります。1周約3kmで、1時間半もあれば廻ってこれるそうです。矢田丘陵の自然の中の山道に、四国霊場の各お寺の本尊と弘法大師の石仏が置かれています。四国霊場を巡礼したのと同じ功徳が授かるとのことです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田寺八十八ケ所霊場
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。鐘楼は本堂の正面にあり、梵鐘は寛元4年(1246)に鋳造された奈良県指定文化財です。京都に平安時代初期、この矢田寺の別院として創建された矢田寺(金剛山寺)があります。小野篁と関係が深い閻魔・篁堂がある京都の六堂珍皇寺では、お盆に先祖の霊を迎えるため鐘をつく「お迎え鐘」が行われます。京都の矢田寺では冥途に送るため「送り鐘」が撞かれるそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田寺鐘楼
奈良県大和郡山市矢田町に矢田寺(やたでら)があります。閻魔王は、死者の過去の罪を裁く十人の裁判官のひとりです。閻魔堂には、閻魔王とその眷属(けんぞく)が祀られています。矢田寺の満米上人は、小野篁(昼は嵯峨天皇に仕え、夜は閻魔大王に仕えたといわれます)とともに地獄で閻魔大王と会ったそうです。地獄の罪人を救う地蔵菩薩に出会い、地上に戻ってから4人の翁(春日4神)の協力でその姿を写して像を彫ったそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/矢田寺閻魔堂
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富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。「海王丸」は海洋実習船として建造されました。進水式が2月14日のバレンタインデーであったため、恋人の聖地に認定され、カップルにとって素敵なイベントも開かれています。59年間に106万海里(地球約50周)を航海し1万人以上の海の若人を育てたそうです。姉妹船「日本丸」も同時期に建造され、「日本の海の王者たれ」という日本の海運の期待を集めました。平成2年(1990)4月から富山で一般公開されし、現在も海洋教室など青少年錬成の場として活用されています。帆をすべて開く「総帆展帆」(そうはんてんぱん)は4月から11月の間に月に1回、年に10回程度行われています。「海の貴婦人」と称される美しい姿が披露されます。美しい日本海と、新湊大橋、立山連峰が眺められます。下記のサイトにも...海王丸パーク
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。映画「人生の約束」に放生津八幡宮の曳山の譲渡シーンが撮影されました。各町にある13基全ての曳山が放生津八幡宮でお祓いを受け繰り出します。令和3年(2021)に、曳山と築山の行事は国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/曳山と築山の行事
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。境内に建立されている芭蕉翁の句碑は天保14年(1843)に付近の俳人達によって建てられています。元禄2年(1689)に芭蕉が詠んだ「早稲の香や分け入右は有磯海」の句が刻まれています。この句碑は射水市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/放生津八幡宮芭蕉翁の句碑
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。現在の放生津八幡宮の社殿は江戸時代末期の弘化2年(1845)に発生した火災により焼失し、氏子の浄財により文久3年(1863)に再建されたものです。放生津の宮大工棟梁・高瀬輔太郎、脇棟梁・梁野上武平、赤井弥左エ門が手掛けました。放生津八幡宮の拝殿は間口6間、奥行5間、木造平屋建て、入母屋造り、平入で屋根は桟瓦葺きです。正面に3間の向拝付けられています。外壁は真壁造り板張り、正面1間分は吹き放しになっています。平成16年(2004)に射水市指定文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...放生津八幡宮拝殿
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。放生津八幡宮は奈良時代の天平18年(746)、越中国司として赴任した大伴家持が奈古之浦(なごのうら)の風光を愛し、宇佐八幡神を勧請し奈古八幡宮としたのが始まりです。鎌倉時代に越中の守護所が設置されると総社となり、正和年間(1312-1317)に越中守護名越時有(なごやときあき)が社殿を造営しています。室町時代には放生津が石清水八幡宮領となり、放生津湊に出入りする船の課役を八幡宮が担うようになりました。明応の政変(1493)では足利義稙が放生津を御座所としました。永禄6年(1563)、越中一向一揆勢・神保(じんぼ)氏・椎名氏連合軍と、上杉謙信との合戦があり、兵火により社殿、社宝などが焼失しました。後に放生津城主・神保長識(な...放生津八幡宮
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の庫裏は大火直後の明治2年(1869)に建てられています。木造2階建て、切妻造り、平入、桟瓦葺きで、建築面積は399平方mです。古くからの伽藍を偲ばせる建物で、一時は小学校の仮校舎にも使われたそうです。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺庫裏
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の本堂は明治12年(1879)に建てられた建物で、寺院本堂建築としては珍しい土蔵造りです。間口7間、奥行11間の平屋建て、切妻造り、平入で桟瓦葺きです。正面に1間の向拝が付けられています。外壁は白漆喰仕上げで、建築面積は263平方mあります。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺本堂
富山県射水市立町に大楽寺があります。長恩山大楽寺は浄土宗のお寺です。平安時代後期の長徳2年(996)に花山天皇の勅願により但阿無外上人によって開かれたといわれています。当初は長徳寺という天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の弘安元年(1278)に浄土宗に改宗し、寺号を大楽寺と改めています。大楽寺の本堂と庫裏は国の登録有形文化財に登録されています。室町時代後期の天文年間(1532-1555)に描かれた絹本著色涅槃絵図は昭和61年(1986)に射水市指定文化財(絵画)に指定され、平安時代の木造阿弥陀如来立像は昭和53年(1978)に射水市指定文化財(彫刻)に指定されています。また江戸時代の萬誉上人の大楽寺御名号本尊は昭和50年(1975)に射水市指定文化財(書跡)に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りくださ...大楽寺
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の本堂は木造平屋建て、入母屋造り、桟瓦葺きの大きな建物です。間口7間、平入で、正面に1間の向拝を付けています。外壁は真壁造り白漆喰仕上げです。本尊の阿弥陀如来像を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺本堂
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の梵鐘は明治4年(1871)に専念寺が買い取った銅鐘で、文明6年(1474)の銘があります。高さ158cm、口径91cm、胴厚約8.5cmです。文明の銘がある梵鐘は、在銘の銅鐘としては県内最古といわれ、昭和40年(1965)に富山県の有形文化財に指定されています。この梵鐘は、文明6年(1474)に立山寺の明舜が、自ら創建した面白寺で使うために荻生の鋳物師の幸善に造らせたものでした。その後、面白寺が廃寺になると本寺だった立山寺が引き取り、その後、廃仏毀釈の中、処分されることになり、専念寺が買い取ったといういきさつがありました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...専念寺梵鐘
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の前庭にある傘松は「からかさ松」と呼ばれ有名です。黒松と赤松の雑種であるアイグロマツで、突然変異によって傘状になったといわれ、全国的にも珍しい松です。享保2年(1717)、放生津城主・神保慶宗(のりむね)の菩提を弔うため植えられたと伝えられています。この松は開いた傘のように見えることから傘松と呼ばれています。樹高約4m、地上から約1.5mの高さで枝が横方向に伸び、直径13mから15mにわたって広がっています。昭和40年(1965)に富山県の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺傘松
富山県射水市本町に専念寺があります。専修山専念寺は浄土真宗東本願寺派のお寺です。文明16年(1484)本願寺8世蓮如上人の法弟である賢祐(けんゆう)が法土寺村(ほうどうじむら)に創建しています。延徳3年(1490)に親鸞絵像が蓮如上人より下付されています。中世には越中守護代の神保氏から帰依され寺運が隆盛しました。江戸時代中期の享保2年(1717)に水害により現在地に移ったそうです。この寺にある「からかさ松」は県の天然記念物に指定され、銅鐘は富山県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺
富山県射水市(いみずし)庄西町に牧田組本社があります。牧田組本社ビルは元は回船業を営む南島商行本店として大正4年(1915)に建てられました。木造2階建て、銅板葺き、建築面積81平方mの近代洋風建築で、昭和62年(1987)に富山の建築百選に選定されました。平成14年(2002)には国の登録有形文化財に登録されています。玄関は両脇の袖壁を大きく前に張り出させています。そして上部には印象的な意匠を施し、玄関上部の2階パラペットを切妻風にしています。木造の壁に重厚なレンガを貼り、腰、隅柱などに花崗岩を使用しています。縦長の上げ下げ窓を左右対称に配置しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村htt...牧田組本社ビル
富山県高岡市守山町に旧高岡共立銀行本店の建物があります。このビルは大正3年(1914)に高岡共立銀行本店として建てられた擬ルネッサンス様式の建物です。その後、北陸銀行高岡支店になり、昭和39年(1964)からは富山銀行本店として使用されました。令和3年(2021)に高岡市に無償譲渡されています。建物が建つ守山町は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている「山町筋伝統的建造物群保存地区」です。この建物も山町筋の景観を構成する伝統的建造物に特定されており、市民より「赤レンガの銀行」として親しまれました。鉄骨煉瓦造り2階建ての洋風銀行建築で、設計は、東京駅を設計した辰野金吾の監修のもと、清水組の田辺淳吉が担当しました。建設当時、一帯は証券会社や金融会社の本店、支店が軒を連ね、「北陸のウォール街」と呼ば...旧高岡共立銀行本店
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅の主屋は間口7間半、奥行5間の土蔵造り、2階建ての古民家です。入母屋造り、平入り、桟瓦葺きの町屋の建築形式です。両脇には釉薬を塗りこんだ煉瓦造りの防火壁を設けています。外壁は2階が大壁の黒漆喰で1階の主屋正面には1間の土庇が付いています。軒下は白漆喰、2階腰部分はタイルを貼り、2階の開口部には銅板貼りの扉を設けています。平成9年(1997)に国の有形文化財を登録され、平成25年(2013)には高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅主屋
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅は明治33年(1900)の高岡大火の直後に建てられています。屋敷は主屋が道路に面しており、間に中庭を挟んで奥に1番蔵、2番蔵、調度蔵、味噌蔵が4棟横一列に建てられています。主屋とともに国の有形文化財に登録され、高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。旧室崎家住宅の主屋は間口4間半、奥行8間半の土蔵造り、2階建ての古民家です。切妻造り、平入り、桟瓦葺きで、内部は3列3段の通り土間形で古い町屋の形式です。外壁の仕上げは道路側の正面だけが黒漆喰で仕上げられています。間取りは正面1列目左から「ミセザシキ」、「ミセ」、2列目左から「ブツマ」、「ツウロ」、「チャノマ」、3列目左から「ブツマ」、「ナナジョウマ」があり、外観とは違う数寄屋風の造りです。主屋と土蔵は平成10年(1998)に高岡市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc...旧室崎家住宅主屋
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。室崎家は明治初年にこの地に移り住み、それ以前は現施設の向う側に住んでいました。昭和20年(1945)まで綿布の卸業を手広く営んでいたそうです。現在は石油商を営んでいますが、室崎氏の転居にあたり市がこの施設を資料館として整備し、平成14年(2002)から公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)
富山県高岡市守山町に高岡御車山会館(たかおかみくるまやまかいかん)があります。高岡御車山会館は高岡御車山祭にて曳き出す御車山と呼ばれる山車を展示しています。これらは国の重要無形民俗文化財、国の重要有形民俗文化財に指定されています。また高岡御車山祭は平成28年(2016)にユネスコの無形文化遺産に登録されています。高岡御車山会館は北陸新幹線の開業に合わせ平成27年(2015)4月25日に開館しました。鉄筋コンクリート造り2階建て一部3階建ての建物で、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)山町筋にあるため土蔵造りの家屋になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.f...高岡御車山会館
岐阜県飛騨市神岡町小萱に薬師堂(小萱薬師堂)(やくしどう(こかややくしどう))があります。小萱薬師堂は中世に北飛騨の領主であった江馬氏の菩提寺・瑞岸寺の飛び地の仏堂です。古くから養蚕の守り本尊として広く信仰されていたようです。堂内には円空が彫刻した飛騨市指定文化財の木造薬師如来立像が安置されています。薬師堂の上には白山神社があり、神仏習合のあった昔からの境内であったことがわかります。薬師堂に安置されている「懸仏」は永仁7年(1299)に造られたもので、岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/薬師堂(小萱薬師堂)
岐阜県高山市八軒町に高山陣屋があります。高山陣屋は、幕末には全国に60数ヵ所あった郡代・代官所の中で、当時の建物が全国で唯一残っている建物です。陣屋とは、江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼んでいます。もともと高山陣屋は飛騨高山藩主の金森氏の下屋敷でした。元禄5年(1692)に幕府が飛騨を天領として、伊奈忠篤らによって代官所として用いられるようになりました。安永六年(1777)に飛騨代官から飛騨郡代に昇格し、当時4ヵ所あった郡代役所の中でも重要な直轄地となりました。郡代役所は玄関、御役所、大広間などの部分に文化13年(1816)に改築されたものが現存しています。また敷地内の土蔵は、慶長年間(1596-1615)に高山城内に建てられ、元禄8年(1695...高山陣屋
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山日光館は屋台会館に付属しています。日光東照宮の本殿、陽明門、拝殿、鳥居など28の建造物を精巧な10分の1の模型で再現しています。33人の技術者が15年の歳月をかけて造ったそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山日光館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山八幡宮の敷地内に屋台会館があります。高山祭の実物屋台を常設展示しています。神楽台、鳳凰台、布袋台、金凰台など11台のうち4台の屋台が交替で展示されています。それぞれの屋台に、それぞれ固有の歴史があり、一位一刀彫の彫刻も見事です。これらは国指定重要有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山八幡宮屋台会館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。仁徳天皇の頃、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という顔が前後にある怪物が現われ、天皇の命に背いたため、難波根子武振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)に討伐を命じました。武振熊命が応神天皇の御霊を勧請し戦勝祈願したのが桜山八幡宮の始まりと伝えられています。大永年間(1521-1527)に京都の石清水八幡宮から分霊を勧請し合祀しました。その後戦乱の時代が続き一時荒廃しました。元和9年(1623)、高山藩2代藩主金森重頼が再興し、神領を寄進し、高山の安川以北の産土神に定め、神事を管理高山府の総鎮守府としました。金森氏が移封された後も、歴代代官、郡代の篤い崇敬を集め社運が隆盛しました。明治の神仏分離令により神社として独立し、明治4年(1871)郷社に指定されました...桜山八幡宮
岐阜県高山市大新町に日下部家住宅(日下部民藝館)があります。日下部家住宅は日下部家住宅は明治12年(1879)に建てられたもので、名工棟梁・川尻治助が江戸時代の建築を見事に再現したものといわれています。日下部家は幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といいました。嘉永5年(1851)には、役所の御用金を用立てする掛屋〈かけや〉をつとめ、後には両替屋を営みました。当時の邸宅は明治8年の大火で類焼し、再建されたのが現在の住宅です。明治時代に入り軒の高さや用材の規制が取れたため江戸時代に比べ軒が高く檜材をふんだんに使用されています。主屋は木造平屋建(1部2階建)、桁行17.4m、梁間17.3m、切妻造り、平入、桟瓦葺きです。梁と束柱の力強い木組みがすばらしく、10mある吹き抜けはなんとも美し...日下部家住宅
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。その中に平田記念館があります。平田記念館は「打保屋」(うつぼや)の屋号でびんつけ油、ろうそく屋を家業として財をなした平田家の住宅です。主屋は明治時代に建てられた典型的な高山の町屋建築とされ、贅を尽した飛騨商人の旦那衆の暮らしぶりがうかがえます。12代にわたって愛蔵してきた美術品、調度品を江戸期の土蔵3棟で公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/平田記念館
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。金森長近は天正16年(1588)より高山城の築城を開始し、同時に城山の麓に城下町の整備を進めました。三本の道路を通し、そこを町人の住む三町(さんまち)としたのです。また、寺院は京都を参考に東山へ集められ、城下町高山は形作られました。この三町と呼ばれる町割を基礎として、江戸から明治にかけて建てられた、洗練された意匠の商家町家が連なっています。特に上三之町付近は、狭い通りに沿って、往時の町並みが良く保存されています。三之町を中心とした一帯、南北約420m、東西約150mの範囲が「高山市三町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、商家町として栄えた当時の様子をそのまま今に伝えています。有力な商家が数多くあり、高山は商家町として発展しまし...飛騨高山の町並み
岐阜県高山市上岡本町に飛騨高山美術館があります。飛騨高山美術館は平成9年(1997)にオープンしたガラス工芸作品と家具を展示する私立の美術館です。小高い丘にあり、高山の町並みや北アルプスを見渡すことができます。16世紀から20世紀の世界中から収集したガラス工芸と、アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス工芸品、19世紀末の家具や照明器具などを収蔵展示しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨高山美術館
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧吉真(よしざね)家住宅は、桁行13.9m、梁間9.4m、入母屋造り、茅葺きの2階建です。飛騨市河合町角川にあったものを移築しています。安政5年(1858)の角川地震(飛越地震)にも耐えた頑丈な造りになっています。マグニチュード7をこえた角川地震は全壊家屋378軒、半壊497軒、死者207名という大規模なものでした。豪雪地帯ならではのどっしりとした土台や太い柱や梁、桁などで組まれています。なかでも左右側面の四隅などに立つ柱は、上部が二股になった「むかい柱(のぞき柱)」と呼ばれ、全国でも飛騨の一部だけに見られる地域色の強いものです。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda...旧吉真家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田中家住宅は、高山市冬頭町にあった田舎(でんしゃ)だった建物です。田舎とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の作納状況などを主人に代わって行った所で作業所・休憩所のような場所でした。建てられたのは江戸時代中期ごろです。桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造り、榑葺き(板葺き)です。屋根は勾配が緩やかで、榑板の上には石が置かれています。東面に一間の庇(ひさし)がついています。一之町で薬種商を営む「田中屋」の建物で、国学者田中大秀の実家です。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...旧田中家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田口家住宅は、飛騨と美濃との国境に位置する下呂市金山町卯野原にありました。代々名主を務めた大きな農家です。桁行25.2m、梁間13.3m、切妻造り、鉄板葺き(建築当時は榑葺き)です。家の前から右横へ雨戸の外に濡れ縁がまわっていて、雪深い地域の民家と比べると開放的な造りです。旧田口家住宅は文化6年(1809)の建立です。規模が大きくて質が良く、大きな修繕などもなかったようで、江戸後期の上級農家の貴重な遺構です。昭和45年(1970)、飛騨民俗村に移築され、昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...旧田口家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧若山家住宅は、御母衣ダムの建設にともなって水没した荘川村下滝に建っていた民家です。昭和34年(1959)に高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開されました。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなり、後に作られた飛騨の里に平成8年(1996)から約3年かけて再移築されました。宝暦年間(1751-1764)の初め頃の建立とみられ、桁行16.9m、梁間14.3m、合掌造り、茅葺きです。背面に1間半程の「ミンジャ、フロバ」などが出でいます。4階建てのうち、1階は居住用に使い、2階から上は養蚕のためのカイコの飼育場として活用されました。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://w...旧若山家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。飛騨民俗村・飛騨の里は豪雪に耐えてきた合掌造りや榑(くれ)葺き(木の幹を裂いた榑板で屋根を葺くやり方)の屋根など、飛騨の代表的な民家群が立ち並び、昔の農山村風景を形づくる民家の博物館です。また、飛騨の伝統産業である一位一刀彫、飛騨春慶塗、草木染めなどの伝承保存や、飛騨地方の民具なども展示されています。昭和30年代、御母衣ダムにより水没する荘川村の合掌造り民家の矢篦原家(やのはらけ)住宅が横浜市の三渓園に移築されました。旧若山家住宅も、御母衣ダムの建設にともなって昭和34年(1959)に高山市に移築された民家です。「飛騨民俗館」として一般公開され、飛騨の古い民家の保存の足がかりとなりました。昭和46年(1971)には「飛騨民俗村」がオープンしました。飛騨...飛騨民俗村・飛騨の里
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺本堂の前にある大イチョウは「乳イチョウ」とよばれ、推定樹齢1200年、幹周10m、高さ37mの大イチョウです。国の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺大イチョウ
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の三重塔は寛政3年(1791)に暴風雨で倒壊し、文政3年(1820)に再建された三重塔です。天平の七重塔の跡に建てられています。飛騨地方唯一の三重塔で、全国の国分寺の中でも塔建築としてはここだけといわれています。間口、奥行ともに4.24mで、高さ22m、屋根は鋼平板葺き(建立当初はこけら葺き)です。三重塔は岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺三重塔
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の本堂は間口5間、奥行4間、1重入母屋造り、向拝1間、銅板葺き、総桧造りの室町時代の建物です。天正15年(1587)に川上郷から移築されたといわれています。柱など太くて荘重内陣と外陣は厳重な格子で間仕切され、外陣の虹梁、蟇股などは古風な造りです。本堂は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺本堂
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺は天平13年(741)、聖武天皇の勅により、全国の国ごとに建てられた国分寺の一つです。天平勝宝9年(757)頃、行基菩薩により建立されたといわれています。弘仁10年(819)火災で焼失しましたがすぐに再建されたようです。天正13年(1585)、金森長近が松倉城にこもる三木自綱(よりつな)を攻めた時、兵火で多くの堂宇が焼失しました。その後の天正年間(1573-1592)に長近は千光寺の玄海和尚を招いて再建しました。現在の本堂はこの頃のものと推定されています。本尊の「薬師如来御像」は平安時代のもので、像高145.7cmです。また「聖観世音菩薩」は国分尼寺の本尊であったものといわれ、平安時代のもので、像高204cmです。いずれも国の重要文化財に指定されています...飛騨国分寺
岐阜県高山市国府町宇津江に宇津江四十八滝(うつえしじゅうはったき)があります。宇津江四十八滝は宮川(神通川)の支流・宇津江川にあり、複数の滝が存在する渓谷です。岐阜県の天然記念物、全国自然百選、飛騨・美濃紅葉33選、県名水50選などに指定されている県立自然公園です。最上部の滝まで880m、ゆっくり歩いて1時間のハイキングコースで散策できます。江戸時代、美濃国の白心(はくしん)法師がこの地で修行して以来、霊場として知られるようになりました。安永8年(1779)に出された赤田臥牛の「打江観瀑記」以降この滝を訪れる人が多くなったそうです。宇津江四十八滝には大蛇と「よそ八」の伝説が残されています。孝行息子「よそ八」は川の奥の沼で大蛇に出会い妖気で寝込んでしまいました。大蛇は娘に身を変え、自分の血を使って看護し全快...宇津江四十八滝
岐阜県高山市一之宮町に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)があります。島崎正樹は明治の文豪島崎藤村の父親です。水無神社宮司として明治7年(1874)から10年(1877)まで務めました。教導職として多くの若者を指導しました。藤村の作品「夜明け前」で主人公・青山半蔵のモデルとなった人物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/島崎正樹石碑