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  • 伊勢神宮(3)伊勢神宮内宮・金剛證寺・朝熊山展望台

    2022年5月27日(金)、7時58分にホテルを出発し、九時55分、伊勢神宮内宮に到着しました。内宮参拝では案内人が付きました。写真1は、宇治橋です。ご覧のように修学旅行生が渡っています。高校・中学校・小学校と複数の修学旅行生を見かけました。コロナの旅行規制がなくなり、旅行が回復傾向な印でしょう。写真2は、五十鈴川の強水時に宇治橋を保護する漂流物止めです。写真3は、宇治橋の擬宝珠です。写真4は、第一鳥居です。写真5は、五十鈴川御手洗場です。前日の雨のため閉鎖されていました。写真6は、正宮です。写真7は、正宮手間の道を上がっていたところにある外幣殿です。写真8は、正宮の裏口から撮ったものです。奥の一段と高いところが古殿地です。写真9は、奥にある荒祭宮です。写真10は、右が荒祭宮で左が古殿地です。参道に戻り、...伊勢神宮(3)伊勢神宮内宮・金剛證寺・朝熊山展望台

  • 伊勢神宮(2)伊勢神宮外宮・横山展望台

    2022年5月26日(木)、9時にホテルを出発し、9時55分、伊勢神宮外宮に到着しました。写真1の、表参道日除橋から外宮に入ります。一の鳥居を過ぎ、写真2は、二の鳥居です。写真3は、古殿地(式年遷宮予定地)からの本宮です。写真4は、古殿地です。写真5は、本宮正面です。ここから入り参拝です。写真6は、出口からの本宮です。写真7は、本宮の南にある別宮の多賀宮です。山の頂にあるので古くから高宮と呼ばれていました。写真8は、多賀宮にも古殿地があり、これからの宮です。戻って左手に入ると谷間に、写真9の、下御井神社です。戻りさらに左手にあるのが、写真10の、土宮です。写真11は、土宮の古殿地を入れて撮ったものです。土宮の反対側は、写真12の、風宮です。写真13は、風宮の古殿地です。写真14は、手前が九丈殿、奥が五丈殿...伊勢神宮(2)伊勢神宮外宮・横山展望台

  • 伊勢神宮(1)二見浦・猿田彦神社

    2022年5月25日(水)~27日(金)、クラブ・ツーリズム主催の「伊勢神宮と絶景伊勢志摩巡り3日間」で旅行をしました。観光地旅程は、1日目二見浦・夫婦岩(二見興玉神社)、猿田彦神社ホテル&リゾーツ伊勢志摩泊2日目伊勢神宮・外宮、横山展望台、神明神社同泊3日目伊瀬神宮・内宮、おかげ横丁、朝熊岳・金剛證寺、朝熊山展望台です。11時39分、新幹線の豊橋駅で下車し、バス移動で観光開始です。伊勢神宮参拝の順路は二見浦(立入浜)での沐浴ということで、最初の訪問地は二見浦です。現在は実際の沐浴は行わず、当地の二見興玉神社参拝で始めます。13時25分、到着です。写真1は、夫婦岩です。鳥居のある大きい岩が男岩(高9m)で、小さい岩が女岩(高4m)です。二つの岩を結ぶ大注連縄は長35m、男岩に16m、女岩10m巻かれて、岩間が9...伊勢神宮(1)二見浦・猿田彦神社

  • 奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

    武蔵武士足立遠元の年少の叔父藤九郎盛長は周知のように伊豆流人時代から源頼朝に近侍して側近でした。治承・寿永の内乱当初には頼朝の使者として味方集めに奔走しましたが、石橋山合戦は別として戦場に出ることはありませんでした。『吾妻鏡』文治5年7月19日条に見るように、奥州合戦に出陣する中軍総帥源頼朝の鎌倉進発行列交名で、武士御家人として先頭の三浦一族、次いで小山一族、畠山一族に続いて、藤九郎盛長と足立遠元が土肥一族に挿まれて所見するのです。ここに足立一族の一員として盛長も奥州合戦に出陣したのです。8月10日、奥州藤原氏の防御線の阿津賀志山を突破した中軍は、12日、陸奥国府の多賀城に入り、さらに進軍を続けました。14日、物見岡(宮城県富谷市三ノ関)を小山朝政・下河辺行平等の小山一族が攻撃し敗退させた(『吾妻鏡』文治五年八...奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

  • 2022年小田原城の桜

    2022年4月2日(土)昼、小田原城の桜を観賞しました。満開宣言直後でした。東から西へと巡りました。まず、後北条氏小田原城の東曲輪跡に上り、天守閣を見下ろしました。写真Ⅰは、天守閣と下に桜です。写真2は、北入口から入り、緩い坂の途上で天守閣と坂の桜並木を撮ったものです。写真3は、天守閣下から見上げたものです。写真4は、さらに進み天守閣南西角から撮ったものです。写真5は、ちょっと位置を変えて撮ったものです。写真6は、さらに進み天守閣入口階段から全景を写し込んだものです。写真7は、本丸に入り、南東から天守閣を撮ったものです。写真8は、東から天守閣を撮ったものです。写真9は、同じく東から天守閣全景を撮ったものです。写真10は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜拡大です。写真11は、同じく桜拡大です。写真12は、本丸東堀土手...2022年小田原城の桜

  • 後北条氏小田原城早川口遺構―歴史雑感〔74〕―

    2022年4月2日(土)午前、石橋山城遺址から小田原市街に向かう途中で、後北条氏小田原城早川口遺構に立ち寄りました。後北条氏は豊臣秀吉の来襲に備えて、城下町全体を取囲む約9kmの総構を天正18年()までに構築しました。その遺構の一つが南口であり箱根路への出発点である早川口です。二重戸張という二重の堀と土塁で防備を固めたのが早川口です。アクセスは早川口バス停下車で、市街へと北に少し行ったところの信号に、「史跡小田原城早川口遺構入口」の案内表示があります。写真1は、遺構に入り東へと撮ったものです。公園となっており、窪んだところが堀跡で、両側に土塁がありました。写真2は、奥に入り土塁上から西へと撮ったものです。最後の写真3は、外側の土塁を撮ったののです。(2022.04.10)後北条氏小田原城早川口遺構―歴史雑感〔74〕―

  • 石垣山城遺址―歴史雑感〔72〕―

    2022年4月2日(土)ごぜん、石橋山城遺址を公園化した石橋山一夜城歴史公園を訪れました。よく知られてるように石垣山城は天正18年(1590)の豊臣秀吉の後北条氏小田原城攻めの際に築かれました。山の木を一斉に切り払って、一夜で城が完成したように見せたとの伝説を生み、「石垣山一夜城」とも称せられています。土日(祝日)は小田原宿観光回遊バス「うめまる号」が運行され、小田原駅東口・一夜城歴史公園間を1時間に1本程度で循環します。運賃は乗り降り自由で500円です。徒歩だとJR早川駅から約2.3km(標高差約200m)です。写真1は、城入口前に立つ「石橋山城」案内板です。写真2は、東登城口旧城路です。本丸への正面道となります。写真3は、南曲輪を経て本丸に至る虎口です。現在は石垣が崩れ歩行困難となっています。虎口前で路を右...石垣山城遺址―歴史雑感〔72〕―

  • 公暁の生母は源頼家の正室か―歴史雑感〔72〕―

    『源氏将軍断絶』第二章第一節2021年5月PHP新書頁96~9で、坂井孝一氏は、公卿の生母辻殿は第2代将軍源頼衛の正室と、主張しています。『吾妻鏡』承元4年(1210)7月8日条に、「金吾将軍の室〈号辻殿と号、善哉公の母なり。」、とあるのを根拠としています。そして、同承久元年(1219)正月27日条に、「(頼家)御息、母は賀茂六郎重長の女〈為朝の孫娘なり。〉」、とあることから、母は賀茂重長の娘としています。次いで、重長の出自を考察して、重長は満政流の後裔で、満政曽孫の重宗が佐渡守に任官した京武者で、この孫の重成が『平治物語』の記す佐渡式部大夫と兄弟の重貞と共に諸大夫としています。姻戚関係では2人の兄重遠は源義家の娘を妻とし、重遠の孫の重長が源為義の孫娘、すなわち為朝の娘を妻にしているとしています。以上から、家格...公暁の生母は源頼家の正室か―歴史雑感〔72〕―

  • 2022年大倉山梅林

    2022年3月9日午前、大倉山公園梅林に出かけました。そこで、まだ蕾のままの梅もありますが、色々な梅の花弁を主体とした写真をお見せします。〈白加賀〉〈白玉梅〉〈野梅〉〈八重木紅〉〈冬至梅〉〈月影〉〈玉厳〉〈無頼絞り〉〈花香実〉〈見驚〉〈月宮殿〉〈杉田〉〈田子の浦〉〈蓬美〉〈玉垣〉〈美児島紅〉〈八重旭〉〈紅千鳥〉〈古今集〉最後は垂れ桜の〈淡路枝垂れ〉全景です。(2022.03.10)2022年大倉山梅林

  • 江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―

    本年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は北条小四郎義時です。義時はこれからのドラマでは「北条」ではなく「江間」でも登場するでしょう。当時の名字の過半が居所(地名)に由緒するのは知っての通りです。「江間」は、北条氏の本貫伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市寺家等)とは狩野川を挟んだ対岸を北に少し行ったところに位置する江間荘(静岡県伊豆の国市南江間・北江間等)です。伊豆の国市南江間862には義時館跡とする地があり江間公園となっています。北条氏館跡(円成寺跡・同市寺家13)からはほぼ北に約800mです。さて、本来は北条であった義時は何時から江間と称したのでしょうか。その根拠は義時が江間荘を所有したことによることは間違いないですが。『吾妻鏡』に於ける義時の表記で、「江間」が初見するのは養和元年(1181)4月7日条で...江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―

  • 富士山と初詣(5)山中城跡―歴史雑感〔70〕―

    2022年1月2日(日)、12時50分前に最後の訪問地、山中城跡に着きました。本城は永禄年間に後北条氏が対武田戦の西の境目の城として築いたとされています。豊臣氏との緊張関係が高まった天正15年(1587)頃から改修工事が始まり、開戦前の17年(1589)に南北に東海道を扼する尾根に出丸、岱崎出丸が築かれます。そして、18年(1590)3月28日、豊臣軍先鋒の豊臣秀次を総大将とする約3万5千の大軍が玉縄城主北条氏勝を総大将とする後北条軍約4千と激突します。第一陣に一柳直末が大手口、中村一氏が岱崎出丸攻略担当となり、第二陣に山内一豊が続行します。この予備隊として堀尾吉晴と田中吉政が控えました。一方、搦手に当たる西櫓・西ノ丸には徳川家康が攻略を担当しました。早朝より開始された攻撃に対して、後北条軍は凄まじい射撃で応え...富士山と初詣(5)山中城跡―歴史雑感〔70〕―

  • 富士山と初詣(4)富士山本宮浅間大社と三嶋大社

    2022年1月2日〈日〉、8時に出発し、神社初詣です。8時20分に富士山本宮浅間大社に到着しました。写真1は、第一鳥居です。奥に雲がかかっていますが、富士山が見えます。写真2は、石鳥居です。写真3は、楼門(間口4間・奥行2間半・高6間半、2階入母屋造)です。写真4は、拝殿です。写真5は、拝殿での参拝です。写真6は、左に国宝本殿(二重の楼閣造・棟高45尺、2階は間口3間・奥行2間・桧皮葺)、間に幣殿(間口5間・奥行3間)、右に拝殿(間口5間・奥行5間)です。以上、徳川家康の寄造営です。写真7は、拝殿右から本殿2階を見ます。写真8は、本殿2階です。東脇門を出ると、写真9の、涌玉池です。富士山噴火の溶岩流の末端に位置し、湧水の池です。写真10は、溶岩流の末端部の涌玉池で、段となった奥から大量の湧水が出ます。写真のよう...富士山と初詣(4)富士山本宮浅間大社と三嶋大社

  • 富士山と初詣(3)日本平と三保の松原

    2022年1月1日(土)、久能山東照宮からロープウェイで日本平に10時45分過ぎに移動してきました。日本平夢テラスの展望回廊に上り、時計回りで富士山を展望します。写真1は、広角で前に静岡市清水区、後に富士山から箱根山への遠望です。写真2は、望遠での富士山です。写真3は、望遠いっぱい(35mm換算450mm相当)での富士山です。写真4は、展望回廊を写し込んで、下に清水港、奥に富士山です。写真5は、望遠での宝永火口側の富士山です。写真6は、逆側の富士山です。写真7は、望遠気味の富士山全景です。写真8は、静岡市街から西へです。写真9は、遠く白く見えるのが南アルプスです。写真10は、展望回廊上からの富士山全景です。写真11は、日本平ロープウェイです。以上で、日本平は終わりで、12時半、昼食の日本平の日月星に移動です。1...富士山と初詣(3)日本平と三保の松原

  • 富士山と初詣(2)田貫湖(御来光)と久能山東照宮

    2022年1月1日、5時50分に出発し、富士山麓の田貫湖での御来光です。6時25分に着き、6時52分の日の出を待ちます。写真1は、姿を見せた太陽です。7時4分で、遠くの山陰から上るため少し遅いです。写真2は、広角いっぱいにして富士裾野を入れて撮ったものです。写真3は、ほぼ上ったところで撮ったものです。写真4は、広角気味して撮ったものです。写真5は、完全に上ったところです。写真6は田貫湖を前にした富士山全景です。本朝は雲一つない快晴です。、写真7は、望遠気味で撮った富士山です。以上で田貫湖は終わり、ホテルに戻り朝食です。8時40分に出発し久能山東照宮に向かい、9時40分到着しました。写真8は、一ノ鳥居です。ここから表参道石段1159段を上ります。写真9は、表参道石段の途上から見下ろして撮ったものです。写真10は、...富士山と初詣(2)田貫湖(御来光)と久能山東照宮

  • 富士山と初詣(1)大室山と伊豆の国パノラマパーク

    2021年12月31日(金)から2022年1月2日(日)まで、クラブツーリズム主催の「『伊豆・駿河』6つの富士と新春初詣三社参りウォーキング3日間」で富士山観望と初詣を行いました。基本旅程は、31日(金)大室山、伊豆の国パノラマパーク(葛城山)富士宮富嶽温泉泊1日(土)田貫湖(御来光)、久能山東照宮、日本平、三保の松原同泊2日(日)富士山本宮浅間大社、三嶋大社、山中城跡です。本ツァーは新宿駅西口発ですが、横浜駅東口から乗車し9時半に出発しました。12時前に最初の観光地大室山に着き、リフトで山上に上がりました。山上に来ると、強風により立って歩行するも困難でしたが、少し治まり時計回りに歩き出し撮ったのが写真1です。伊豆七島が遠望でき、これは大島です。写真2は、少し進み、大島と右に利島を入れたものです。写真3は、大室...富士山と初詣(1)大室山と伊豆の国パノラマパーク

  • 2021年度記事目次

    辛丑年を終わるに当たって、2020年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、壬寅年がよいお年で。O2.23ソフィール踊り子1号02.25伊豆下田02.27河津桜202103.02北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―03.04大仏切通し―歴史雑感〔63〕―03.222021年鶴見川の紅桜04.12山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―04.20桜の盛岡城跡公園04.21平泉の桜並木04.24衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―05.02鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―05.28旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―06.28湯河原の不動滝08.06後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―08.08後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―08.12後...2021年度記事目次

  • 安達氏祖盛長は何故藤九郎とのみ称したのか―歴史雑感〔69〕―

    安達氏祖盛長は、源頼朝の伊豆国流人の時からそばで仕え、鎌倉幕府成立後では甘縄邸に頼朝が度々訪れる等、最側近として知られています。盛長は『吾妻鏡』に52日所見(内、死後は2日)するが、生前末の正治元年10月27日条の「足立藤九郎入道」と同28日条の「安達藤九郎盛長入道」の2日を除けば、死後も含めて50日は単に名前のみか「藤九郎」とあり、いわゆる名字を付していません。これに対して、盛長嫡子の景盛は初見の正治元年7月16日条に「安達弥九郎景盛」とあるように、名字の安達を付して所見することが多いです。盛長は武蔵武士の足立遠元の叔父で同族との立証があります(金澤正大氏、「公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」(上)『政治経済史学』第156号1979年5月〔『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年岩田書院再録〕)。盛長の嫡男...安達氏祖盛長は何故藤九郎とのみ称したのか―歴史雑感〔69〕―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(6)大船遺跡―歴史雑感(68)―

    2021年11月9日(火)、8時に出発し最初の見学地大船遺跡(北海道函館市大船町575−1)に8時45分に着きました。本遺跡は大船川沿岸の標高30~50mの海岸段丘上にあり、縄文中期の大型集落跡です。100棟を越える竪穴住居跡と盛土からなる居住区と、南西に墓・貯蔵穴を含む100基以上の土坑群が確認されています。写真1は、北からの大船遺跡の公開部分「縄文のにわ」全景です。写真2は、遺跡上部(東)から海(西)と撮ったものです。写真3は、枠のみの復元竪穴住居です。写真4は、復元竪穴住居です。写真5は、竪穴住居跡です。他の遺跡のが浅いのに対して、2m以上と深く掘込まれているのが分かります。写真6は、住居跡は重なって発掘されています。写真7は、復元竪穴住居内部です。写真8は、盛土遺構です。ここからは石器・土器の他、魚類骨...青森・北海道の縄文遺跡(6)大船遺跡―歴史雑感(68)―

  • 2022年の中国の祝日―中国雑感〔54〕―

    明年の祝日(休日)に関して、2021年11月25日(木)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。昨年から従来の12月から11月へと早く公表されましたが、本年も昨年と同日です。一元旦(1月1日)1月1日(土)~3日(月)の3日間を休日。++二春節(旧暦元旦2月1日)法定休日(旧暦大晦日・元旦・1月2日)1月31日(月)~2月6日(日)の7日間を休日。1月29日(土)〔3日・木〕・1月30日(日)〔4日・金〕振替出勤日。三清明節(4月5日)4月3日(日)~5日(火)の3日間を休日。4月2日(土)〔4日・月〕振替出勤日。四労働節(5月1日)4月30日(土)~5月4日(水)の5日間を休日。4月24日(土)〔3日・火〕・5月7日(日)〔4日・水〕振替出...2022年の中国の祝日―中国雑感〔54〕―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(5)三内丸山遺跡特別展示―歴史雑感(68)―

    2021年11月8日(月)午後、三愛丸山常設展示に続いて特別展示「あおもりの縄文世界」を見学しました。青森県出土品から縄文世界を探訪できる構成となっています。写真1は、網籠(三内丸山遺跡縄文前期)です。写真2は、細隆起線文尖底深鉢型土器(三内丸山遺跡草創期)で、縄文最古級のものです。写真3は、土器(三内丸山遺跡中期重文)、深鉢形土器(つがる市石神遺跡中期重文)、土偶(石神遺跡中期重文)です。写真4は、深鉢形土器(三内丸山遺跡前期重文)で、いろいろな縄目文様があります。写真5は、円筒土器(三内丸山遺跡中期重文)です。写真6は、遮光器土偶(西目屋村川原平遺跡晩期)です。写真7は、亀ヶ岡式壺型彩色土器(つがる市亀ヶ岡遺跡晩期)と漆塗り壺型土器(西目屋村川原平遺跡晩期)です。写真8は、黒漆塗り鉢形木器(三内丸山遺跡前期...青森・北海道の縄文遺跡(5)三内丸山遺跡特別展示―歴史雑感(68)―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(5)―歴史雑感(68)三内丸山遺跡常設展示―

    2021年11月8日午後、遺跡見学に続き、時遊館内の三内丸山遺跡出土品をを展示している「さんまるミュージアム」(常設展示室)を見学しました。ここには重要文化財約500点を含む総数約1,700点の遺物を展示しています。以下、幾つかの展示品をお見せします。写真1は、青竜型石器です。写真2は、異形石器(重文)です。写真3は、岩偶です。写真4は、土偶です。写真5は、木製片口容器です。写真6は、ヒスイ製大珠です。写真7は、装身具(重文)です。写真8は、刺突具(重文)です。写真9は、大型板状土偶(重文)です。写真10は、砥石(重文)です。写真11は、半円状扁平打製石器(重文)です。写真12は、石錐(重文)です。写真13は、黒曜石製石槍です。写真14は、黒曜石製石鏃です。写真15は、円筒土器・深鉢形土器(重文)等です。写真1...青森・北海道の縄文遺跡(5)―歴史雑感(68)三内丸山遺跡常設展示―

  • 青森・北海道の縄文遺跡(4)―三内丸山遺跡

    2021年11月8日(月)10時50分過ぎに三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内字丸山)に到着しました。まず三内丸山遺跡センター前にある「縄文時遊館・五千年の星」で昼食です。その後自由見学です。写真1は、遺跡入口からの三内丸山遺跡全景です。写真2は、大型竪穴住居(復元)です。写真3は、同じく大型竪穴住居(復元)です。写真4は大型竪穴住居内です。、写真5は、大型立柱建物(復元)です。2列・3基の柱穴(直径2m・深さ2m)が約4.2m間隔で並びます。柱穴から直径1mの栗の木柱が見つかり、縄文中期後半(紀元前2600年前)と考えられています。写真6は、同じく大型立柱建物(復元)です。写真7は、大型立柱建物(復元)説明板です。写真8は、大型竪穴住居(復元)と大型立柱建物(復元)です。写真9は、大型立柱建物跡です。ご覧のよ...青森・北海道の縄文遺跡(4)―三内丸山遺跡

  • 青森・北海道の縄文遺跡(3)―小牧野遺跡

    ツアー2日目の2021年11月9日(月)は縄文の学び舎・小牧野館(青森市大字野沢字沢部108-3)の自由見学からです。近くの小牧野遺跡を紹介しています。ホテルを8時50分に出発して、9時20分前に到着しました。写真1は、小牧野遺跡の環状列石建設運搬器具を想像復元した展示です。写真2は、埋設土器です。これは地面に埋められた状態で使用していたので、この命名となりました。写真3は、環状配石炉です。真4は、下段から土偶、注口土器、クマ型土製品です。写真5は、壺型土器です。写真6は、擦傷のある石です。写真7は、山野峠遺跡の石棺墓(復元)です。写真8は、深鉢形土器です。写真9は、山野峠遺跡の狩猟文土器です。以上で本館は終わりで、9時50分に出て小牧野遺跡に向かいます。10時に小牧野遺跡に着きました。本遺跡は縄文後期前半に作...青森・北海道の縄文遺跡(3)―小牧野遺跡

  • 青森・北海道の縄文遺跡(2)―亀ヶ岡遺跡

    2021年11月7日(日)、つがる市森田歴史民俗資料館から次の見学地、縄文晩期の集落遺跡である亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市木造亀ケ岡)に14時55分に到着しました。写真1は、本遺跡出土品を代表する遮光器土偶(重要文化財東京国立博物館所蔵)の出土地です。ただし、考古学的調査により発見されたのではなく、地元民の発見のため、正確な出土地は不明で、この低湿地内ということです。17世紀前期の築城により遺物が発見され、以後地元民等が遺物を発掘し、好事家に知られるようになりました。1889年(明治22年)に初めて学術調査が行われて現在に至っています。この一帯の低湿地から土器・石器等の多数の遺物が出土しました。写真2は、遺跡入口に立てられている、遮光器土偶モニュメントです。近くのつがる市木造亀ヶ岡考古資料室(青森県つがる市木造若...青森・北海道の縄文遺跡(2)―亀ヶ岡遺跡

  • 青森・北海道の縄文遺跡(1)―大森勝山遺跡

    2021年11月7・8・9日(日・月・火)、クラブ・ツーリズム主催の「日本の先史時代がニコル縄文ロマンの旅へ北海道・北東北縄文遺跡ハイライト3日間」でじょうもんいせきを巡ってきました。基本見学地は、初日大森勝山遺跡、森田歴史民俗資料館、亀ヶ岡遺跡、つがる市木造亀ヶ岡考古資料室2日縄文の学びや・小牧野館、小牧野遺跡、三内丸山遺跡3日大船遺跡、函館市縄文文化交流センターです。JAL143便羽田9時55分発青森11時10分着で青森に飛びました。最初の見学地は世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の大森勝山遺跡(青森県弘前市大森勝山)です。12時30分に到着しました。地元ガイドの案内付き(以後の見学地も同様)です。本遺跡は岩木山の東北山麓に位置し、約3千年前の縄文晩期の環状列石の遺跡です。写真1は、環状列石の外側に...青森・北海道の縄文遺跡(1)―大森勝山遺跡

  • 黒部峡谷と黒部ダム(2)―黒部ダム

    ツァー2日目の2021年10月10日(日)は黒部ダム観光です。7時50分にホテルを出発し、8時半過ぎに関電トンネル電気バス扇沢駅に着きました。最初の見学地はトロバス記念館です。次いで、関電トンネル電気バスに乗車し、黒部ダム駅に至り、ガイドの案内で黒部ダム河床に9時50分過ぎに向かいます。写真1は、河床に着いて、何枚か撮った後の写真です。撮影時間は10時40分過ぎです。写真2は、ダムを拡大して縦位置にしたもので、放流の様が分かります。10時45分過ぎに戻りの上りとなり、途中2回の休みを挟み、関電トンネル工事跡に11時50分過ぎに入り見学となりました。写真3は、トンネル工事跡で、抗夫のレプリカが展示されています。見学後、13時前頃から黒部ダム展望台休憩所でおむすび弁当での昼食です。昼食後、展望台に上がり撮ったのが、...黒部峡谷と黒部ダム(2)―黒部ダム

  • 黒部峡谷と黒部ダム(1)―黒部峡谷

    クラブツーリズム主催の「黒部ダム河床ハイキングと関電トンネル工事跡見学2日間」で、2012年10月9・10日に旅をしました。東京駅7時24分発北陸新幹線あさま603号で9時13分着長野駅着で到着後、バスで宇奈月湖畔に移動しました。12時過ぎで、おりから黒部峡谷トロッコ列車が通過し、その写真の一つ、新柳河原発電所と共にトロッコ列車を写し込んだのが、写真1です。次いで、湖面橋まで戻り、最初の散策であるトロッコ旧道・工事用冬期歩道です。ガイドの案内がありました。写真2は、冬期歩道です。やまびこ遊歩道へと下り、見上げて黒部峡谷鉄道の新山彦橋を撮ったのが、写真3です。写真4は、黒部川に架かるやまびこ遊歩堂上(橋)から新山彦橋を通過中の宇奈月駅12時50分発のトロッコ列車です。普通車・リラックス車編成です。宇奈月駅に戻り、...黒部峡谷と黒部ダム(1)―黒部峡谷

  • 後北条氏小田原城遺址(その5)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三の丸外郭新堀土塁(その5)五、東曲輪五、東曲輪三の丸外郭新堀土塁入口に戻り、道路を下り(東)小田原競輪場を過ぎ新幹線をまたいだ先の十字路を左手(北)に道を取ると、東曲輪跡に至ります。写真1は、道路から東曲輪へと上ったところで、曲輪中央から小田原城天守閣(東)へと撮ったものです。写真2は、曲輪左手奥(北)から撮ったもんです。写真3は、曲輪右手(南)から撮ったものです。写真4は、曲輪から見た小田原城天守閣です。写真5は、下に降りて曲輪を見上げて撮ったものです。最後の写真6は、曲輪中央に立てられている「八幡山古郭東曲輪」説明板です。以上、小田原駅西口を起点に逆時計回りで後北条氏小田原城遺址を巡りました...後北条氏小田原城遺址(その5)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その4)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三の丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭四、三の丸外郭新堀土塁東堀南口の道路対面先が三の丸外郭新堀土塁入口です。ここは旧閑院宮別邸跡で、開園時間は10~15時です。道路の海寄り(東堀からは左手)に箱根登山バスの城山四丁目バス停があります。小田原駅前西口からのいこいの森行が運行されています。ただし、日中は1時間に1本なので時刻表に注意してください。写真1は、高い曲輪の際から下の郭を見たものです。右手が土塁となります。写真2は、下り南へと撮ったものです。土塁越し見える山は石垣山です。右手は一段高い曲輪となっています。写真3は、西へと撮ったものです。写真4は、戻り東に撮ったものです。海まで望見できます。写真...後北条氏小田原城遺址(その4)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その3)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三ノ丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀中堀から東堀に戻ります。写真1は、小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北口から南へと撮ったものです。左手(東)上端が土塁、右手(西)上端が中堀間の土塁となっています。東堀は280mが現存し、幅25~30m、深さ8~10mですが、発掘調査により実際の深さは12~15mあり、障子堀となっています。堀法面の傾斜度は50~60度あり、関東ローム層から、上るのは困難となっています。写真2は、東堀土塁です。現存の土塁は幅4m、高2mです。写真3は、土塁説明板の立っている所です。その先で土塁切口(通路))があります。写真4は、土塁上からの切口です。写真5は、土塁...後北条氏小田原城遺址(その3)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―

    (その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三ノ丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀八幡山古郭に次いで、小峯御鐘ノ台大堀切を訪れます。県立小田原高校を左手(南)に見、さらに城山公園を過ぎると、左手(南)に小峯御鐘ノ台大堀切東堀に至ります。さらに少し進むと、小峯御鐘ノ台大堀切西堀の案内板が下にある上り道に出ます。そのまま少し進むと、「総構」と「小峯御鐘ノ台大堀切西堀」説明板の立っている所に至ります。写真1が、これです。西堀は天正18年(1590)の小田原合戦への備えとして総構と共に造られたものです。写真2は、西堀を北へと撮ったものです。写真3は、逆に南へと撮ったものです。写真4は、堀先から北を見たものです。本来は総...後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―

  • 後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―

    その1)一、八幡山古郭(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀(その4)四、三ノ丸外郭新堀土塁(その5)五、東郭一、八幡山古郭2021年7月21日(水)午前、後北条氏小田原城遺址を巡りました。最初が八幡山古郭です。小田原駅西口から左手(西)に進み、「八幡山古郭」の石柱のある坂道へと、右手(北)に上って行き、百段坂(階段)の手前で、道を左(西)に入り道なりに時計回りに進みます。写真1は、時計回りで進んできて、右(東)へと入る道を進んだ先で、東へと撮ったものです。ここが本曲輪跡で、城山3丁目です。この地は江戸時代に小田原藩の家臣屋敷地でした。奥の車の駐車している所からは眼下に小田原駅、さらに酒匂川方面が望見できます。写真2は、東への道に入る所から西に早川方面と撮ったものです。ご...後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―

  • 湯河原の不動滝

    2021年6月25日(金)午後、奥湯河原温泉への途上に落差15mの不動滝(神奈川県足柄下郡湯河原町宮上750奥湯河原温泉行バス・不動滝下車)に寄りました。この写真2枚を下にお見せします。(2021.06.28)湯河原の不動滝

  • 旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

    2021年5月25日(火)午前、馬場花木園内(横浜市鶴見区馬場2−20−1)にある旧藤本家住宅を訪れました。本住宅は、江戸時代末期~明治初期に現在の港北区篠原に建てられた茅葺き農家を、現在の地に1913年に移築されたものです。主屋(45坪)と東屋(7坪)とがあります。横浜市特定景観形成歴史的建造物に2016年11月15日に指定されました。写真1は、右側(東)からの主屋全景です。写真2は、左側(西)からの主屋全景です。写真3は、西からの主屋全景です。ご覧のように主屋何面は庭として整備されています。写真4は、ドマからのチャノマです。左の柱が大黒柱です。写真5は、ダイトコロ(土間)から見たザシキと奥にデイです。ザシキの右上に神棚がまつられています。写真6は、逆にデイからザシキとダイトコロです。写真7は、デイからの庭で...旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

  • 鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

    源頼家の元服を明示する史料は存在していません。では頼家は何時元服したのでしょうか。建久8年(1197)12月15日、源頼家は従5位上に叙爵し右近衛権少将に任官しました(『公卿補任』第二篇正治2年条源頼家尻付)。なお、これは京官除目です(『猪熊関白記』同日条)。ということはこれ以前に元服していたことになります。周知のように源頼家は初代将軍源頼朝の長男として正室北条政子が寿永元年(1182)8月3日に出産し、万寿と名付けられました。順調に成長して、建久4年(1194)5月16日、富士巻狩りで、「将軍家家督若君(万寿)始めて鹿を射せしめ給う」(『吾妻鏡』同日条)と、初めて鹿を射止めます。頼朝は直ちに狩を止めて、夜に入り山の神に感謝する矢口祭を催します。矢口祭は、集団に於いて生まれて初めて野獣を仕留めた男子がこの集団か...鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

  • 衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―

    2021年4月16日(金)午前、昨年6月には雨のため行けなかった、衣川北岸流域に分布する安倍氏・奥州藤原氏に関係する地を巡りました。接待館遺址・並木屋敷跡(衣川柵)・小松館跡・安倍一族鎮魂碑の順で回りました。国道300号を北上して衣川を渡り、少し行ったところで道を左(西)に取り道なりに行くと、最初の訪問地の接待館遺址(奥州市衣川区六日市場・七日市場・関谷起)です。平泉駅からだと早足の私だと約40分強でしょう。本遺址は2004・5年に衣川左岸築堤工事に伴う発掘調査が行われました。これにより柳之御所に匹敵する、堀と二重の土塁で囲まれた、東西120m・南北65mの12世紀後半の施設が確認されました。本遺址部分は埋め戻されて保存されています。本館は藤原秀衡の母の居館と伝えられ、ここで旅人接待したので、接待館との名が伝え...衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―

  • 平泉の桜並木

    平泉の国道300号線の毛越寺口十字路の少し北から中尊寺入口先まで約1.5kmにかけて桜並木があります。2021年4月15日(木)午後、旅館に入る前に桜を愛でてきました。満開を少し過ぎて散り始めましたが、この写真をお見せします。(2021.04.21)平泉の桜並木

  • 桜の盛岡城跡公園

    日本百名城である盛岡城の内曲輪(御城内)は盛岡城跡公園(盛岡市内丸1番37号)となっており、桜の名所でもあります。そこで、2021年4月15日(木)昼、観桜に出かけました。盛岡城は、南部利直により慶長年間(17世紀初頭)には総石垣の城としてほぼ完成し、3代藩主重直の寛永10年(1633)に完成しました。西を古北上川に接し、東に中津川の合流点に位置する花崗岩丘陵に築かれた連郭式平山城です。本丸の北側に二ノ丸・三ノ丸が配され、本丸と二ノ丸の間は空堀で仕切られ、現在は朱塗り橋(渡雲橋)が架かっていますが、当時は本丸御殿と大書院を結ぶ廊下橋が架けられていました。本丸を囲むように南から東へと腰曲輪・淡路丸・榊山曲輪が配されました。明治維新によりほとんどの建物が解体されて現在に至っていますが、石垣はよく保存されて威容を誇っ...桜の盛岡城跡公園

  • 山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―

    (その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち(その三)三、山木夜討ち(その四)四、国衙占領四、国衙占領九条兼実は頼朝反乱報を知った時、「去るころ新司の使を淩礫す〈時忠卿知行国なり〉、おおよそ伊豆・駿河両国を押領しおわんぬ」(『玉葉』治承4年9月3日条)と記しています。また、東国反乱を新田義重が報告してきたことを、中山忠親が、「義朝子伊豆国をす、武田太郎甲斐国を領す」(『山槐記』同年9月7日条)、と記しています。駿河国はともかく、ここで「押領」「伊豆国を領す」とは、たんに夜討ちの成功だけではなく、国の支配権、すなわち国衙行政権を曲がりなりにも頼朝が掌握したことを示しています。以上、山木夜討ちの成功で伊豆国目代山木兼隆を討取ったが、これだけで国衙行政権の掌握、すなわち反乱...山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―

  • 2021年鶴見川の紅桜

    新横浜付近での鶴見川と鳥山川との合流点上流の鳥山川土手には桜並木があります。新横浜元石川線のワールドカップ大橋左右には合流点近くのソメイヨシノとは別に少し早咲きの紅桜があります。この紅桜の写真をお見せします(2021年3月20日・土午後撮影)。(2021.03.22)2021年鶴見川の紅桜

  • 大仏切通し―歴史雑感〔63〕―

    2021年2月21日(日)午後、北条氏常磐亭跡に続き、大仏切通しを訪れました。本桐通しの建設年時は明確な史料が残されておず不明ですが、鎌倉中期と考えられています。本桐通しは、鎌倉の大仏谷から梶原を経て、鎌倉上つ道へと通じています。北条氏常磐亭跡から西へと少し歩き、仲ノ坂交差点で左折して上っていくと、世界救世教いづのめ教団鎌倉教会のある小道へと右に入り進むと、左が高徳院(大仏)、右が火の見下の道標識のある大仏切通しに出ます。写真1は、ここらから少しのところで火の見下へと切通し道を撮ったものです。尾根伝いの道となっています。写真2は、さらに進んで、左へと急な下りとなるところを捉えて撮ったものです。写真3は、尾根を堀切って切通しとしたところです。写真4は、次の切通しです。先は急な下りとなっており、ここで上ってくる兵を...大仏切通し―歴史雑感〔63〕―

  • 北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―

    2021年2月21日(日)午後、鎌倉市常磐の北条氏常磐亭跡を訪れました。1977年の発掘調査で、建物跡等が確認されて、1978年12月に国指定史跡になりました。本地は、「相州常磐御亭において和歌会あり」(『吾妻鏡』3年2月8日条)、とあるように、相州、すなわち当時の連署北条政村の別邸と考えることができます。鎌倉駅西口から京急バス鎌倉中央公園行・江ノ電バス桔梗山行きで一向同下車、前方へと道路北側です。写真1は、道路側から北に北条氏常磐亭跡を見たものです。さらにこの奥へと跡地は続きます。写真2は、東側の「タチンダイ」への道上からの跡地です。写真3は、「タチンダイ」への案内表示です。写真4は、本地の最奥「タチンダイ」入口から奥を見たところです。「タイチダイ」とは館台(たちのだい)の訛りでしょう。このように、北条氏常磐...北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―

  • 河津桜2021

    2021年2月20日(土)午前、河津町の河津川土手の川津桜を観賞しました。そこで、この写真をお見せします。最初の写真1は、上りの踊り子4号が河津川鉄橋を通過するところです。写真2~4は、河津川右岸の川津桜です。写真5は、上りの伊豆急リゾート21です。写真6・7は、アップした河津桜です。最後の写真8は、河津川河口への河津桜です。なお、フォトアルバム「河津町・河津桜2021」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng7wKSbukAYzbUcIBVQ?e=qpO1E0です。(2021.02.27)河津桜2021

  • 伊豆下田

    2021年2月19日(金)午後、下田市のホテルにチェックインする前に、ホテル近くの観光地を巡りました。最初は玉泉寺です。幕末に米領事館となったところです。写真1は、山門です。写真2は、間口7間半・奥行き7間の本堂です。嘉永6年(1848)創建で、安政3年(1856)8月から安政6年(1859)5月まで、最初の米国総領事館としてタウンセンド・ハリスが駐在しました。写真3は、英文のハリス記念碑です。1927年(昭和2)に本年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公子爵渋沢栄一等が建立しました。次いで弁天島へと移動しました。写真4は、弁天島斜交層理です。斜めに交差する縞模様の地層は斜交層理と呼ばれ、地層が右下へと斜交していることから、海流の向きが左から右へとなっていたことが分かります。写真5は、弁天島に隣接した公園内...伊豆下田

  • ソフィール踊り子1号

    2021年2月19日、ソフィール踊り子1号に乗車してきました。横浜発11時24分発・伊豆急下田13時29分着でした。この乗車中の写真をお見せします。写真1は、プレミアグリンの1B座席です。伊東を過ぎて撮ったもので、緊急事態宣言下ですが、ほぼ満席でした。写真2は、川奈駅での運転台を通した前方風景です。入線してきたのは上りの踊り子8号です。写真3は、伊豆高原駅を出て少し行ったところから撮った大島です。写真4は、海岸線に沿って走る片瀬白田・伊豆稲取間での運転台越しの前景です。写真5は、同区間での大島です。写真6は、続いて左から利島、鵜渡根島、新島、神津島です。写真7は、河津駅を出て運転台越しに前方に川津桜を捉えたものです。写真8は、河津川の河口寄りの川津桜です。最後の写真9は、伊豆急下田駅でのソフィール踊り子1号の先...ソフィール踊り子1号

  • 2020年度記事目次

    庚子年を終わるに当たって、2020年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、辛丑年がよいお年で。01.01茅ヶ崎杉山神社初詣01.06創作された『平家物語』一谷合戦の熊谷直実先陣争い―歴史雑感〔52〕―01.132020年西安交通大学日本語学科東北会新年会02.24武蔵国国府遺跡等―歴史雑感〔53〕―02.28湯河原梅林05.10源頼朝の偏諱を賜った武士(その一)―歴史雑感〔54〕―06.30蜂神社―歴史雑感〔55〕―07.02観自在王院―歴史雑感〔56〕―07.06毛越寺―歴史雑感〔57〕―07.07高館―歴史雑感〔58〕―07.16中尊寺―歴史雑感〔59〕―07.18柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―07.19無量光院跡―歴史雑感〔61〕―10.09栗駒山と出羽三山(1)―栗駒山須川湖10.11栗駒山と出羽...2020年度記事目次

  • 2019年度記事目次

    己亥年を終わるに当たって、2018年度(1~12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)、「2013年度記事目次」(2013年12月31日付)、「2014年度記事目次」(2014年12月31日付)、「2015年度記事目次」(2015年12月31日付)、「2016年度記事目次」(2016年12...2019年度記事目次

  • 2021年の中国の祝日―中国雑感〔53〕―

    明年の祝日(休日)に関して、2020年11月25日(水)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。この公示は例年12月でしたが、昨年から11月下旬と早まりました。国務院の通知原文は次のページです。http://www.gov.cn/zhengce/content/2020-11/25/content_5564127.htmです。また、カレンダー表示(「2个黄金周,5个小长假,2021年放假安排来了!」)は、http://www.gov.cn/xinwen/2020-11/25/content_5564513.htmです。これによる明年(2021年)の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組み...2021年の中国の祝日―中国雑感〔53〕―

  • 箱根強羅公園

    2020年11月26日(金)午前、強羅温泉からの帰り、箱根強羅公園を訪れました。開園時間は9~17時、入園料は550円です。写真1は、熱帯植物館の温室内のブーゲンビレアです。写真2は、サンデリアナです。写真3は、一番上(奥)の西門からの全景で、手前に音楽堂、その奥にヒマラヤ杉そびえています。紅葉はすでに落葉期に入っていますが、写真4は、わずかに紅葉を残している木です。写真5は、この木の拡大したものです。写真6は、噴水池です。写真7は、拡大した噴水です。最後の写真8は、箱根登山鉄道の最新車両3100型です。彫刻の森・小涌谷駅間です。(2020.11.29)箱根強羅公園

  • 栗駒山と出羽三山(5)―湯殿山神社

    2020年10月7日(水)午後、最後の湯殿山神社参拝です。本神社はその名の通り温泉源泉の湧き出る岩を御神体としています。参拝に先立ちお祓いを受けた後、裸足でご神体に至り参拝をします。写真1は、1993年10月竣工の湯殿山神社大鳥居です。最後の写真2は、参道入口に立つ「湯殿山本宮」石碑です。これ以降は神域として撮影禁止となっています。以上で、2日間の渡る観光は終わりで、白石蔵王駅から帰途です。(2020.10.15)栗駒山と出羽三山(5)―湯殿山神社

  • 栗駒山と出羽三山(4)―月山弥陀ヶ原

    2020年10月7日(水)午後、弁当昼食を兼ねて、月山弥陀ヶ原ハイキングです。90分の自由散歩です。写真1は、弥陀ヶ原ハイキングを始めて、間もなくなところで、振り返って撮ったものです。写真2は、さらに進み、眼下に鶴岡市と奥に日本海が見渡せるところで撮ったものです。写真3は、紅葉を主体に撮ったものです。写真4は、手前に小池を入れて撮ったものです。弥陀ヶ原は基本的に湿原で、所々に小池があります。写真5は、再度眼下に鶴岡市見下ろして撮ったものです。写真6は、月山御田原参籠所の月山中之宮です。写真7は、下りながら池群を撮ったものです。最後の写真8は、月山八合目駐車場に立てられた「磐梯朝日国立公園月山八合目」石碑からです。次いで、最後の観光地である湯殿山神社に向かいます。(2020.10.14)栗駒山と出羽三山(4)―月山弥陀ヶ原

  • 栗駒山と出羽三山(3)―羽黒神社

    2020年10月7日(水)、本日は出羽三山観光です。最初は羽黒山神社です。時間の関係で、山頂の本殿までは行かず、下の羽黒山五重塔までです。写真1は、出羽三山神社(羽黒山・月山・湯殿山)入口です。ここから羽黒山頂上へ至ります。写真2は、随神門です。本来は仁王門で、明治維新の神仏分離で改名されました。元禄8年(1695)に由利郡(秋田県)矢島藩主生駒氏が寄進したものです。写真3は、随神門から参道に続く羽黒山杉並木です。写真4は須賀の滝を背後に祓川神社です。写真5は、国宝の羽黒山五重塔です。応安5年(1372)、庄内の領主で、羽黒山別当の武藤政氏の再建と伝えられています。塔は総高約29.2m、塔身高(相輪を除く)は22.2mです。写真6は、右正面からの五重塔です。最後の写真7は、左背面からの五重塔です。次は月山弥陀ヶ...栗駒山と出羽三山(3)―羽黒神社

  • 栗駒山と出羽三山(2)―栗駒山須川高原

    2020年10月6日(水)午後、須川高原の紅葉を愛でるハイキングです。2時間の自由散策です。写真1は、栗駒山登山道入口から少し入ったところの須川高原温泉源泉です。写真2は、ゼッタ沢コースから北へと撮ったものです。写真3は、名残ヶ原に入ったところで俯瞰したものです。写真4は、名残ヶ原中央から右側を撮ったものです。ほぼ紅葉していますが、満開には早く8分程度です。写真5は、奥に栗駒山山頂へです。写真6は、山頂への道と分かれて、賽の磧への道からです。写真7は、賽の磧手前の湿原での右側の岩山です。写真8は、湿原途上で振り返って撮ったものです。写真9は、賽の磧です。最後の写真10は、周回した後、大日岩を振り返って撮ったものです。ハイキング後、須川高原温泉で温泉に浸りハイキングの汗を流しました。これで本日の観光は終わり、鳴子...栗駒山と出羽三山(2)―栗駒山須川高原

  • 栗駒山と熊野三山(1)―栗駒山須川湖

    クラブツーリズム主催の「〈ハイテク初級〉鳴子温泉宿泊出羽三山めぐりと紅葉の栗駒山ハイキング2日間」で、2020年10月6・7日、GoToトラベルの旅に行ってきました。まず、東京駅から白石蔵王駅まで東北新幹線で移動した後、バスで栗駒山須川高原に到着しました。昼食休憩を兼ねて、須川湖(朱沼)湖畔の散策から観光開始です。この須川湖の写真を3枚お見せします。次いで、午後は須川高原ハイキングです。(続く)(2020.10.09)栗駒山と熊野三山(1)―栗駒山須川湖

  • 無量光院跡―歴史雑感〔61〕―

    2020年6月26日(金)午前、平泉探訪の最後として無量光院跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立地内)を訪れました。『吾妻鏡』の記するところによれば、本院は宇治平等院を模して奥州藤原氏3代秀衡が建立し、新御堂と号しました。発掘調査により四囲は東西約240m、南北約270m、面積約6.5haと推定されています。境内は周囲を囲む土塁と3つの島を持つ園池から構成され、最も大きな中島に東向きに阿弥陀堂が建っていました。現在復元整備中で、全面的な立入りはできません。す。写真1は、道路側(東)から入ったところから園池を撮ったものです。中央が中島です。写真2は、南側へと撮ったものです。写真3は、南側から園池を撮ったものです。最後の写真4は、園池の中島を拡大したものです。以上で、平泉探訪は終わりです。奥州平泉氏が建立した寺院・居...無量光院跡―歴史雑感〔61〕―

  • 柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―

    2020年6月26日(金)午前、高館から南に国道4号線平泉バイパスを左(東)に見て歩くと、柳之御所跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所)に至ります。本御所は奥州藤原氏の政庁・居館とされる、『吾妻鏡』のいう「平泉館」と推定されています。周囲を空堀で囲まれた本御所(約5㏊)は、ほぼ北西・東南を主軸とする長径(南北)約350m強・短径(東西)約200m余の変形楕円形をした、大規模なものです。さらに、堀の北側に高館までの外郭部があり、以上の総面積は11.2㏊もあります。写真1は、柳之御所跡北入口(柳之御所史跡公園)から東に平泉バイパス方向へと遺跡を撮ったものです。これから遺跡を南へと行きます。写真2は、汚物廃棄穴群跡です。この周辺に40基ほどの跡が見つかっています。ここは御所跡の最北に位置しており、中心建物付近の汚物廃棄...柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―

  • 中尊寺―歴史雑感〔58〕―

    2020年6月26日(金)午前、伝源義経妻子墓に次いで、天台宗東北総本山の関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202)を参拝しました。慈覚大師円仁の創建と伝える本寺は奥州藤原氏初代清衡が平泉の関山に多宝寺・二階太堂・金色堂等を造営し、現在に至ります。ただ、現存するのは国宝金色堂のみです。写真1は、中尊寺入口です。月見坂の参道を上ります。写真2は、八幡堂です。源頼義が安倍氏追討をここ月見坂で祈願したといわれています。写真3は、辨慶堂です。写真4は、本堂です。写真5は、金色堂です。コンクリート製の覆堂で覆われています。写真6は、重要文化財の白山神社能楽殿です。白山宮(神社)は清衡が本寺の北の鎮守として造営したものです。能楽殿は嘉永6年(1853)に伊達藩主慶邦が再建寄進したものです。写真7は、同じく白山神社能楽...中尊寺―歴史雑感〔58〕―

  • 毛越寺―歴史雑感〔57〕―

    2020年6月25日(木)午後、観自在王院に続いて、西に隣接した医王山毛越寺金剛王院(岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58)を参拝しました。本寺は慈覚大師円仁創建と伝えています。奥州藤原氏2代基衡が久安6年(1150)末から保元元年(1156)までの約6年間に金堂円隆寺以下の建築物・庭園を建立したと推定されて、さらに3代秀衡が造営を継続しました。この様は、「基衡これを建立す。まず金堂円隆寺と号す。金銀を鏤し、紫檀赤木等を継ぎ、万宝を尽し、衆色を交える。本仏薬師丈六を安ず」(『吾妻鏡』文治5年9月17日条)等と記されています。しかし、奥州藤原氏滅亡(1189年)の37年後、嘉禄2年(1226)11月、金堂円隆寺以下が焼失しました。発掘調査により、金堂円隆寺以下の礎石が確認され、大泉ヶ池を中心とする庭園も修復整備され...毛越寺―歴史雑感〔57〕―

  • 観自在王院遺址―歴史雑感〔56〕―

    2020年6月25日(木)午後、平泉の観自在王院遺址(岩手県西磐井郡平泉町平泉志羅山)を訪れました。本寺院は奥州藤原氏第2代基衡の妻が建立したとされるものです。西に隣接して毛越寺があります。荒廃して水田となっていましたが、1954年(昭和29)から始まった発掘調査により、2棟の阿弥陀堂等の建物、浄土庭園の遺構が確認されました。本寺院は東西120m・南北240mの土塁で囲まれています。浄土庭園の池は舞鶴ヶ池と呼ばれ、修復整備されて、12世紀の庭園の様を見せてくれます。写真1は、南門跡を正面に北に本寺院跡を撮ったものです。写真2は、南門跡を入れて、西奥に毛越寺を捉えたものです。写真3は、北へと進み、舞鶴ヶ池を正面に捉えたものです。写真4は、舞鶴ヶ池です。手前の礎石は3間四方の伝普賢堂跡で、奥に橋が架かっているところ...観自在王院遺址―歴史雑感〔56〕―

  • 蜂神社―歴史雑感〔55〕―

    2020年6月25日(木)昼、蜂神社(岩手県紫波郡紫波町陣ヶ岡69)を参拝しました。本神社は標高136mの小丘陣ヶ岡に位置します。今日、二品陣岡蜂社に陣せしめ給う。しこうして北陸道追討使能員、実政等、出羽国狼唳を靡かせ、参加の間、軍士廿八万騎〈但し諸人郎従等を加う〉なり。(『吾妻鏡』文治5年9月4日条)とあるように、当地は文治5年(1189)の奥州合戦で、鎌倉幕府軍が中軍(東山道・源頼朝直卒)・東海道軍・北陸道軍の三軍が会同したところです。もちろん「廿八万騎」は虚構ですが、当時としては最大級の数万騎の軍勢が集結したことになります。この前日、奥州藤原氏当主の泰衡の首が届けられており。奥州藤原氏の滅亡が確定していたのです。すなわち、陣ヶ岡の蜂神社は歴史的な地です。最寄り駅はJR東日本・東北本線古館駅です。駅の南西に...蜂神社―歴史雑感〔55〕―

  • 源頼朝の偏諱を賜った武士(その一)―歴史雑感〔53〕―

    (その一)一、結城朝光(その二)二、北条泰時(その三)三、平賀朝雅鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の偏諱を受けた武士として、結城朝光(宗朝)、北条泰時(頼時)、平賀朝雅がいます。この3人は何故に偏諱を賜ったのでしょうか。この点を考えてみましょう。一、結城朝光治承4年(1180)8月に伊豆国で反乱に蜂起した源頼朝は石橋山合戦で一敗地の憂き目を被りますが、房総半島に脱出して、上総広常・千葉常胤等の参軍を得て再起して、武蔵国に進出します。この翌日、『吾妻鏡』同年9月2日条に、武衛御乳母故八田武者宗綱息女〈小山下野大掾政光の妻、寒河尼と号す〉、鍾愛末子を相い具し、隅田宿に参向す。さっそく御前に召し、往事を談じせしめ給う。かの子息をもって、昵近奉公致させしむべきの由望み申す。よりてこれを召しい出す。自ら首服を加え給う。御烏帽子を...源頼朝の偏諱を賜った武士(その一)―歴史雑感〔53〕―

  • 湯河原梅林

    2020年2月25日(火)午後、神奈川県湯河原町の幕山公園内の湯河原梅林に行ってきました。本年は暖かく例年より1週間あまり早い開花で、はや満開過ぎでした。「梅の宴」(2月1日~3月8日・9~18時)開催中で、入園料は200円です。JR湯河原駅からは箱根登山バス幕山公園行です。そこで、梅の写真をお見せします。(2020.02.28)湯河原梅林

  • 武蔵国国府遺跡等―歴史雑感〔52〕―

    2020年2月22日(土)午後、武蔵野文化協会主催の「発見・復元された武蔵国国司館跡を訪ねて」に参加して巡りました。13時30分にJR南部線西府駅前に集合しました。最初の訪問地は駅西北8分に位置する武蔵府中熊野神社古墳(府中市西府町2丁目9番地・熊野神社境内)です。本古墳は飛鳥時代(7世紀中頃)築造の上円下方墳で、一段目が一辺約32mの方形、二段目が一辺約23mの方形、三段目が直径約16mの円形、墳丘高が約6m、全体が多摩川石で葺かれていました。写真1は、西から見た古墳全景で、古墳の南に接して府中熊野神社本殿があります。写真2は、西北角から古墳全景です。ご覧のように、古墳は復元整備されています。但し、二段目の一辺と三段目の直径は古墳保護のため出土面より約1m大きくなっています。写真3は、南の神社本殿横からの古墳...武蔵国国府遺跡等―歴史雑感〔52〕―

  • 2020年西安交通大学日本語学科東北会

    春節(1月25日)を迎えるに当たって、2020年1月11日(土)、西安交通大学日本語学科東北会の2020年新年会を大連で開き、私も参席しました。この東北会新年会は、大連新年会が拡大したもので、大連新年会からは通算20年を経過しており、2期生以下の16名が集い大いに盛り上がりました。ウィスキーオンザロックに始まり、各種の酒を大いに飲み楽しみました。(2020.01.13)2020年西安交通大学日本語学科東北会

  • 創作された『平家物語』一谷合戦の熊谷直実先陣争い―歴史雑感〔52〕―

    武蔵武士熊谷直実は一谷合戦(福原合戦)で平敦盛を討取ったことで知られており、このことは『平家物語』に詳しく記述されており、物語化してです。同時に、『平家物語』(覚一本)巻第九・一二の懸において一谷口で平山季重と先陣争いをしたと記述されており、同様なことは『吾妻鏡』元暦元年二月七日条にも記述されています。しかし、これらの記述には大いなる疑問点もあり、改めて検討してみたいです。『平家物語』諸本の最古態本である『延慶本平家物語』では熊谷直実の先陣争いについては第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事に記述されています。これに関する全文は長文となるので、問題となる個所を以下に示します。其後城ノ内ヨリイサ終夜悪口シツル熊谷生取リニセムトテ、越中二郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、後藤内兵衛定綱、...創作された『平家物語』一谷合戦の熊谷直実先陣争い―歴史雑感〔52〕―

  • 茅ヶ崎杉山神社初詣

    2020年1月1日(午前)、都筑中央公園東端の高台に鎮座する茅ヶ崎杉山神社(横浜市都筑区茅ケ崎中央57)に初詣に行ってきました。都筑・港北区内に何か所かの杉山神社があり、『延喜式』武蔵国綴喜郡の式内小社杉山神社の有力論社とされているのが茅ヶ崎杉山神社です。写真1は、鳥居と上る参道です。参拝者が増えたため急な参道階段は閉鎖され、公園内の路を上って参拝します。写真2は、社殿に参拝する人が見えたところで撮ったものです。ここに来るまで30分以上かかりました。写真3は、ようやく参拝の列に並んで社殿を撮ったものです。写真4は、参拝する人で、一度に3人しか参拝できません。社殿の右側では奥で破魔矢等、手前で御神籤、右では御神酒・甘酒・蜜柑が振舞われています。写真5は、これに社殿を入れて撮ったものです最後の写真6は、参拝後、戻る...茅ヶ崎杉山神社初詣

  • 能登

    2泊3日のツァーで能登観光をしてきました。航空便の関係で観光自体は2日目の2019年12月18日(水)でした。朝に穴水温泉を出発して最初の観光地は能登金剛です。写真1は、巌門です。写真2は、千畳敷岩から南を撮ったものです。左の岩上端に鳥が止まっています。写真3は、千畳敷岩です。次はのと鉄道乗車です。写真4は、乗車する中島駅に入線する気動車です。終点の穴水駅手前のトンネル内がイルミネーションで装飾されています。これを撮ったのが、写真5です。海岸沿いを北上して着いたのが見附島(軍艦島)です。写真6は、島に延びる磯を入れて撮ったものです。写真7も、見附島です。さらに北上して、能登半島最北端の禄剛崎に着きました。写真8は、日本海を背景に禄剛埼灯台を撮ったものです。明治16年(1883)7月10日に初点灯しました。水面高...能登

  • 妙本寺―歴史雑感〔51〕―

    2019年12月15日(日)午後、日蓮宗長興山妙本寺(神奈川県鎌倉市大町1-15-1)を訪れました。開基は比企能員の末子比企三郎能本でで、文応3年(1260)の創建といいます。この地は源頼朝の乳母比企尼、すなわち比企氏の館跡でした。本寺のある谷戸を比企谷といいます。建仁3年(1203)9月2日、比企尼の甥で比企氏当主の能員は北条時政名越亭で暗殺され、次いで比企氏館は攻撃され、これにより比企氏は族滅し、2代将軍頼家の嫡子一幡(能員の娘若狭局所生)は殺害されます。以上により、頼家は廃されて、同母弟実朝が3代将軍となります。写真1は、「南妙法蓮華経・妙本寺」石碑から参道の奥に総門(18世紀中頃)を見たものです。右隣は八角堂で、現在は幼稚園となっています。写真2は、祖師堂(天保9年〔1838〕)です。写真3は、祖師堂右...妙本寺―歴史雑感〔51〕―

  • 2019年横浜公園の紅葉

    横浜スタジアムに隣接した横浜公園(横浜市中区横浜公園)は面積約6.38haで、市内では山手公園の次に古い西洋式公園(1876年開園)です。こぢんまりとしていますが、紅葉樹があります。そこで、この紅葉をお見せします(2019年12月6日撮影)。なお、最後の写真は公園に隣接した日本大通りの銀杏並木です。(2019.12.09)2019年横浜公園の紅葉

  • 2020年の中国の祝日―中国雑感〔52〕―

    明年の祝日(休日)に関して、2019年11月21日(木)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。この公示は例年12月でしたが、本年は11月21日と最速でした。国務院の通知原文は次のページです。http://www.gov.cn/zhengce/content/2019-11/21/content_5454164.htmまた、カレンダー表示(「一休5天,十一休8天,一图看懂2020年放假安排!」)は、http://www.gov.cn/xinwen/2019-11/21/content_5454242.htm(92020nennです。これによる明年(2020年)の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基...2020年の中国の祝日―中国雑感〔52〕―

  • 2019年秋終末の天府広場―成都雑感〔249〕―

    2004年から開始された地下鉄工事に伴い、天府広場は再開発され、2007年2月に新装オープンがなされ、2010年10月に地下鉄1号線開通により天府広場站が開業し、次いで2013年9月に地下鉄2号線が開通して、乗換駅となり天府広場は完成しました。2019年10月19日(土)午後、天府広場に久しぶりに訪れたので、これを紹介します。写真1は、広場南東角から入って撮ったものです。右から毛沢東立像、東魚眼龍騰噴泉(地下が商店街と地下鉄入口となっています)、西魚眼龍騰噴泉を写し込んでいます。写真2は、東魚眼龍騰噴泉を中心に地下を写し込んだものです。最後の写真3は、毛沢東立像を背景に記念写真を撮る親子を写し込んだものです。以上3枚の写真には全て毛沢東立像を入れています。(2019.11.04)2019年秋終末の天府広場―成都雑感〔249〕―

  • 2019年秋週末の春熙路―成都雑感〔148〕―

    中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、歩行者専用道として今日に至っています。2019年10月19日(土)午前、春熙路に出てみました。そこで、秋週末の春熙路の様子をお見せします。写真1は、春熙路西段の西端から撮ったものです。後ろ右側が2007年5月に開業した成都伊勢丹です。西段は地下鉄春熙路站に隣接しているからか、最も人出が多かったです。写真2は、成都伊勢丹を背景に小姐を撮ったものです。写真3は、イトーヨーカドー海外支店第1号の春熙店(1997年開業)の「物産節」と名付けた露店です。写真4は、露店で買い求めたものを食している風景です。写真5は、小姐を撮ったものですが、右側の子の服装は唐代を模したもので、初めて見ました。写真6は、春熙路北段の小姐です。写真7は...2019年秋週末の春熙路―成都雑感〔148〕―

  • 再訪大慈寺―成都雑感〔147〕―

    2019年10月18日(金)午後、大慈寺(古大聖慈寺)を参観しました。2013年3月以来です。当時は寺周辺を再開発中(太古里)で、寺自体も修復中でした。そこで、改めて本寺を紹介します。本寺は3・4世紀創建と伝え、1600年余の歴史を持つとされています。歴史的には唐代の三蔵玄奘(602~64)が武徳5(622)年春に受戒したことで知られています。そして、南宋の代、涪州人(重慶市涪陵区、旧涪江郡蘭溪邑)の蘭渓道隆(1213~78)が13歳にて本寺で出家しました。道隆はその後、寛元4(1246)年に日本に渡り、建長5(1253)年、時の執権北条時頼の創建した鎌倉の建長寺の開山となり、日本に純禅を伝来した僧として名を残します。このように、歴史に名を残した高僧が若くして修行したのが本寺であり、日本とも関係があるのです。本...再訪大慈寺―成都雑感〔147〕―

  • 再訪宝光寺―成都雑感〔164〕―

    2019年10月18日(金)午前、宝光寺を参観しました。2007年7月以来でした。そこで、改めて宝光寺を紹介します。宝光寺は後漢創設と伝えられ、長江四大禅林の名刹です。成都市の北郊19kmの新都区に位置しています。約10haの敷地内に、1塔5殿16院(庭)があります。舎利宝塔、山門殿・天王殿・七仏宝殿・大雄宝殿・蔵経楼です。拝観は夏季が8時から17時20分、冬季が8時から17時までとなっており、拝観料は5元です。宝光寺は後漢創立と伝えられ、最初「大石寺」と称していました。史書の確実な記載の最初は唐代の開元元(713)年ですから、伝えはともかく、1300年あまりの歴史をもつ古刹です。唐末の黄巣の乱で、四川に逃れた僖宗が当寺を行宮として滞在し、この関係で寺と舎利塔を建て直し、中和元(881)年、寺名も「宝光寺」と改...再訪宝光寺―成都雑感〔164〕―

  • 論文作成について―成都雑感〔163〕―

    2019年10月17日(木)午後、西南交通大学での卒業論文の論題提出は12月ですから、犀浦キャンパスで、日本語学科学部生及び院生への講義「論文作成について」を行ないました。そこで、この概略を紹介します。A.論文とは研究論文とは、未知の問題設定(問)により、これを根拠に基づいて論証して、解決(答)するものです。すなわち、問題設定・論証・結論の3段階からなり、根幹は論証部分にあります。しかし、研究水準に達していない学部生の卒業論文では未知の問題設定は無理であり、これは求めません。既知の問題設定でもいいことにします。ただし、論証は自身の頭で考え出したものでなければなりません。たとえ、結果として先行論文があったとしても。さて、問題設定はどのようにして見つけるのでしょうか。まず、何といっても自身に興味のないことでは無理で...論文作成について―成都雑感〔163〕―

  • 2019年9月27日九寨溝観光再度一部再開―四川雑感〔28〕―

    九寨溝風景区は、2017年8月8日、九寨溝地震で池崩壊等の重大な損傷を受けて、即日閉鎖されました。復旧工事により、2018年3月8日、観光が部分再開されました。しかし、同年6月25日夜の豪雨により、再度損傷を受け、再度閉鎖となりました。このため、景区内の道路の全面改修等、全面的な復旧工事を行なってきました。この結果、2019年9月27日、再度一部観光を再開しました。これは九寨溝管理局が2019年9月23日に「九寨沟景区关于部分区域恢复开放(试运行)的公告」で公示されたものです。公示全文は、https://www.jiuzhai.com/news/notice/6743-2019-09-23-10-38-38です。公示内容の概要は、1.開放区域如溝の的扎如寺、樹正溝(火花海を除く)、日則溝(諾日朗瀑布から五花海ま...2019年9月27日九寨溝観光再度一部再開―四川雑感〔28〕―

  • さきたま風土記の丘・下―歴史雑感〔50〕―

    7日(土)午後はさきたま古墳公園見学です。本公園は埼玉古墳群を保存整備したものです。まず、埼玉県立さいたま史跡の博物館(埼玉県行田市大字埼玉4834入館料200円・開館時間9~16時30分・休館日月曜日等)見学です。写真1は、稲毛山古墳出土太刀です。国宝金錯銘鉄剣は撮影不可のため載せられませんが。写真2は、動物埴輪です。この他、各古墳から出土した武具・馬具・各種埴輪・土器・鏡等が展示されています。次いで、古墳巡りです。写真3は、瓦塚古墳です。長方形の二重環濠を持つ、墳丘全長73mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と推定されています。写真4は、愛宕山古墳です。長方形の二重環濠を持つ、本古墳群で最小の墳丘全長53mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と推定されています。写真5は、丸墓山古墳です。直径105mの日本最大の円...さきたま風土記の丘・下―歴史雑感〔50〕―

  • さきたま風土記の丘・上―歴史雑感〔49〕―

    2019年9月7日(土)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「武蔵野古代ロマン・さきたま風土記の丘をめぐる」で、埼玉県の史跡を巡りました。9時にJR桶川駅に集合して、見学開始です。最初の見学地は観福寺(埼玉県行田市南河原1500-1)の国指定史跡「南河原石塔婆」です。一谷合戦での生田口先駆けで戦死したと『平家物語』で語られている私市党河原太郎次郎兄弟の供養板碑との伝承を持つ、2基の板碑が国指定となって、本寺の山門左横にある覆屋に保存管理されています。写真1は、左側の文応2年2月銘の板碑です。来迎印を結ぶ阿弥陀如来が左右に観音・勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像が線刻されています。台上高236cm・幅65cm・厚9cmです。写真2は、右側の文永2年(1265)2月銘の板碑です。脇侍を従えた地蔵菩薩が線刻されています。...さきたま風土記の丘・上―歴史雑感〔49〕―

  • 比企氏伝承地―歴史雑感〔48〕―

    源頼朝の乳母として公私に渡り支援をした比企尼を頂点とする、比企氏は鎌倉幕府の有力御家人として位置しました。そして、2代将軍頼家の乳母も輩出し、当主能員の娘若狭局が頼家長男一幡を出生しました。これにより頼家の外戚家として比企氏が位置しました。しかし、これに脅威を感じた頼朝外戚家の北条氏は、建仁3年(1203)9月2日、能員の暗殺を発端として、クーデターで比企氏本宗を滅亡させ、頼家を失脚させ、3代将軍に同母弟実朝を擁立しました。いわゆる比企氏の乱です。比企氏の本貫は武蔵国比企郡であり、当地には比企に関連の伝承が多く残されています。そこで、一部の伝承地を、2019年8月26日(月)午後、訪れたので、これを紹介します。写真1は、国道307号から少し北に入ったところにある、曹洞宗扇谷山宗悟寺(埼玉県東松山市大字大谷400...比企氏伝承地―歴史雑感〔48〕―

  • 五女山―中国雑感〔51〕―

    一、長春二、長白山北線三、長白山西線四、五女山7月1日(日)午前は世界文化遺産「五女山城」観光です。五女山は遼寧省桓仁満族自治県桓仁鎮(県城)の北約8kmに位置する海抜804mの山です。五女山に築かれたのが五女山城です。漢元帝建昭2年(紀元前37年)、北扶余王子朱蒙がこの地に逃れて、五女山上に高句麗国の都城として築いたのが五女山城です。この当時は迄升骨城と称していました。五女山城は南北長約1500m・南北長3~500mの不規則な楔形をしており、山頂部の内城と山麓部の外城からなっています。西暦3年に高句麗国2代琉璃明王が現在の集安に都城を移転しました。2004年7月、五女山城は「高句麗王城、王陵及貴族墓葬」の一つとして世界文化遺産に登録されました。写真1は、朝ホテルから撮った五女山全景です。五女山景区游客中心には...五女山―中国雑感〔51〕―

  • 長白山西線―中国雑感〔50〕―

    30日(日)は長白山西線観光です。景区内バスを降り、1440段余の階段を上り西線観景台に向かいます。50分余をかけて12時40分に観景台に着きました。「登頂成功我真棒!」「海抜2470米」と記した大きな表示板があります。写真1は、観景台に上がったところにある中朝国境を示す5号定界碑(実際の国境は観景台の少し南)です。2009年との表示が下にあります写真2は、景観台からの天池です。本日も霧のため景観を得られません。それでも中国人観光客はご覧のように記念写真を撮っています。写真3は、下る途上で景区内バス終点を見下ろして撮ったものです。登山道は登りと下りとに分れていますが。バイキングの昼食を済ませ、錦江大峡谷に移動します。錦江大峡谷は火山大爆発の火砕流・噴石・火山灰等の堆積物が流水で浸食されて、幅約2~300m・深さ...長白山西線―中国雑感〔50〕―

  • 長白山北線―中国雑感〔49〕―

    一、長春二、長白山北線三、長白山西線四、五女山29日(土)は終日長白山北線観光です。長白山(朝鮮名白頭山)は中華人民共和国と朝鮮民主主義共和国の国境線上に位置します。天池はカルデラ湖で天池を囲んで16峰があり、南側の2749mの白頭峰(朝鮮領内)が最高峰です。まず天池を目指します。景区内専用バスを降り、数分の登りで北線の天池景観台に至ります。写真1は、その途上での上る人々です。残念ながら、ご覧のように雨模様で、人々は雨支度で、雨と霧で視界が開けません。写真2は、10時50分頃天池景観台での天池を見下ろして撮ったものですが、完全に霧で覆われて全く見ることが出来ません。天池から下り少し早めのバイキングの昼食を取り、次の長白瀑布を目指します。瀑布の下流に位置するのが聚龍泉です。70度以上の47か所の源泉口を有する温泉...長白山北線―中国雑感〔49〕―

  • 長春―中国雑感〔48〕―

    一、長春クラブツーリズム主催「色彩豊かな長白山と世界遺産五女山城6日間」(2019年6月27日〔木〕~7月2日〔火〕)中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、27日(木)午後成田発瀋陽着(南方航空)夜瀋陽発長春着(高速電車)長春泊28日(金)午前長春観光(八大部・杏花沌公園・牡丹園)午後長白山へ長白山泊29日(土)終日長白山北線観光(天池・長白山瀑布・緑淵潭・小天池・地下森林)長白山泊30日(日)午前長白山西線観光(天池・錦江大峡谷)午後桓仁へ桓仁泊1日(月)午前五女山城観光午後瀋陽へ瀋陽泊2日(火)朝瀋陽発成田着(南方航空)です。最初の観光地は吉林省省都長春市観光です。長春市は旧満州帝国首都であったので、この関係が観光主体です。まず、旧満州国関係の建築物です。八大部(軍事・司法・経済・交通・興農・文教・外...長春―中国雑感〔48〕―

  • 再訪小机城―歴史雑感〔47〕―

    2019年6月16日(日)午後、小机城を再訪しました。本城は2017年に日本続名城百選に選定されました。小机城が歴史上に見えるのは15世紀後半の長尾景春の乱です。関東管領山内顕定に反した景春方が本城に蜂起して、太田道灌に攻略されます。その後廃城となりますが、16世紀に入り、後北条氏の武蔵国進出に伴い、この拠点として再築城されます。後北条氏2代目の氏綱の代に笠原信為が城代となり、小机衆が組織され、南武蔵における後北条氏の支城としての役割を果たしました。1590(天正18)年の豊臣秀吉の進攻に備えて、修築がなされて、現状はそれを伝えていると思われます。そして、後北条氏の滅亡後、廃城となりました。第三京浜道路建設に伴い、城址は東西に分断され破壊を受けましたが、現在、「小机城址市民の森」として、整備・保護されています。...再訪小机城―歴史雑感〔47〕―

  • 善通寺―歴史雑感〔45〕―

    2019年5月29日(水)午前、香川県の真言宗善通寺派総本山五岳山善通寺(善通寺市善通寺町3-3-1)を参拝しました。そこで、ここでの写真をお見せします。写真1は、駐車場からの善通寺の誕生院(西院)への西入口に当たる斉世橋です。写真2は、寺内に入り南ある御影堂です。写真3は、仁王門で、ここまでが空海誕生の地とされる誕生院です。写真4は、中門を潜り伽藍(東院)に入り、右手に見える鐘楼と高約43mの五重塔(重要文化財)です。写真5は、元禄12年(1699)に再建された金堂(重要文化財)です。本尊薬師如来坐像が鎮座します。写真6は、正面に南面する金堂、右に五重塔です。写真7は、寺内南大門の寺内左横の樹齢千数百年という大楠です。幹周11m、高30mです。写真8は、正門である南大門です。写真9は、高2.8の五層塔の足利尊...善通寺―歴史雑感〔45〕―

  • 大山祇神社―歴史雑感〔45〕―

    2019年5月28日(火)午前、愛媛県の大山祇神社(今治市大三島町宮浦3327)を参拝しました。そこで、この写真を見せします。写真1は、境内の入口に位置している二の鳥居です。写真2は、二の酉に左横に立っている社号石です。伊藤博文の筆になります写真3は、総門・翼舎です。写真4は、樹齢2600年とされる神木の於知命御手植の楠(天然記念物)です。幹周11.1m、根周り20m、樹高約15.6mです。この他同様な、古楠が境内にあります。写真5は、神門です。写真6は、室町時代応永34年(1427年)に再建された拝殿(重要文化財)です。最後の写真7は、「河野通有の楠」です。伊予国の有力御家人であった河野通有が、弘安の役への出陣に際して、参拝した時に兜を掛けたと伝える楠です。(2019.06.12)大山祇神社―歴史雑感〔45〕―

  • 厳島神社―歴史雑感〔44〕―

    2019年5月27日(月)午後、世界文化遺産に登録されている広島県廿日市市宮島町1-1の厳島神社に参拝をしました。そこで、ここでの写真をお見せします。写真1は、表参道商店街を過ぎたところの石鳥居です。ここから海岸に沿った参道となります。写真2は、参道が左に曲がる所から撮った高さ16mの大鳥居(重要文化財)です。写真に見るように、『延喜式』神名帳の記載により裏側には「伊都伎島神社」の額が掲げられています。なお、表側の額は「嚴嶋神社」です。写真3は、参拝入口からの西回廊から見た平舞台(国宝)で、中央が右楽坊(国宝)です。写真4は、鏡の池です。満潮時には海水が入り池となります。奥に見えるのは左が千畳閣、右が五重塔です。写真5は、右に西回廊(国宝)を撮ったもので、左に出ている部分は客神社本殿の祓殿で、拝殿と祓殿の間を西...厳島神社―歴史雑感〔44〕―

  • 平林寺&法台寺―歴史雑感〔42〕―

    2019年5月18日〔土〕、武蔵野文化協会主催の「武蔵野の雑木林と時宗板碑を探る」に参加しました。平林寺(埼玉県新座市野火止3-1-1)と法台寺(埼玉県新座市道場1-10-13)を巡るものです。10時、平林寺前に集合して散策開始です。最初の訪問地は臨済宗妙心寺派の別格本山の金鳳山平林禅寺です。本寺は南北朝期の永和元年(1375)に武蔵国騎西郡渋江郷金重村(埼玉県岩槻市)に岩槻領主の太田氏により建立されました。小田原攻めの際、火災で過半が焼失しましたが、徳川家康の関東入部で保護を受け再建されました。元和4年(1618)に大檀那大河内秀綱が本寺で葬送され、大河内氏の霊廟となりました。孫の信綱は川越藩主となり野火止の原野に移転を企てたが果たせず、この思いは子の輝綱により寛文3年(1663)に移転がなされて今日に至って...平林寺&法台寺―歴史雑感〔42〕―

  • 周公廟―中国雑感〔47〕―

    周公廟―中国雑感〔47〕―2019年4月8日(月)午後、周公廟(陕西省宝鶏市岐山県周五路)を参観しました。周公廟は宝鶏市岐山県城西北約7.5kmの鳳凰山南麓に位置しています。周公廟は周人発祥地である周原の一角を占めています。入場時間は9時半~19時(2~10月)・9時半~17時半(11~1月)です。入場料は70元です。岐山県城からは岐山汽車站(岐山客運汽車站北)から岐山202路に乗車して、終点の周公廟站(2停留所)下車です。30分弱です。写真1は、周公廟正面です。写真2は、周公廟山門に対面している2本の老唐柏の右側の樹です。樹齢約1300年の古木です。写真3は、周公正殿の前殿である献殿内での発掘展示の周公東征鼎です。他に新邑戈等が展示されています。献殿の前には周公立像があります。写真4は、中央の周公正殿(主殿)...周公廟―中国雑感〔47〕―

  • 宝鶏先秦陵園博物館―中国雑感〔46〕―

    2019年4月8日(月)午前、宝鶏先秦陵園博物館(陝西省宝鶏市鳳翔兼南指揮鎮)を参観しました。本博物館は、秦公一号墓、すなわち秦始皇帝14代祖の穆公の4世孫景公墓遺址上に建てられたものです。本墓は1977年に発掘調査がなされ、全長300m・幅38.8m・深さ24.5m・面積5334㎡の大墓で、春秋後期(約2千5百余年前)の秦景公(秦公一号墓)と分かりました。本館は2000年に民間博物館(秦公一号大墓遺址博物館)として開館し、2007年9月18日、国有の宝鶏先秦陵園博物館となりました。開館時間は9時~18時(4~10月)・9時~17時半(11~3月)、入館料は30元です。鳳翔県城からは紙坊城際線の鳳翔南関站(鳳翔汽車站から南に約200m弱)乗車で、8停留所目の西村站下車、南に約150mです。所要時間約30分です。...宝鶏先秦陵園博物館―中国雑感〔46〕―

  • 大唐西市博物館―中国雑感〔45〕―

    2019年4月4日(金)午後、大唐西市博物館(陝西省西安市蓮湖区労働南路118号)を参観しました。本博物館は、2010年4月7日、唐長安城のシルクロードとの交易点である西市遺址上に開館しました。開館時間は夏季9時~17時30分(4~10月)・冬季9時~17時(11~3月)で、閉館日は月曜日と旧暦大晦日です。1~3階の展示は午前・午後毎に500人が無料です。4階の特別展示(不時)は30元です。入場券は入口に南面した建物の票務室で旅券提示の上で受け取ります。また、大きな荷物は票務室東側ロッカーに預けます。写真1は、南からの建物正面です。地下鉄2号線永寧門站(南面南側)からはA2出口から南門に向かい環城南路西段へと曲り行ったところのバス停南門外站(ここまで約400m)から800路に乗り、6停留所目の草陽村站で下車し、...大唐西市博物館―中国雑感〔45〕―

  • 西安交通大学日語系1期生卒業30周年同窓会

    2019年4月6日(土)・7日(日)の両日、西安交通大学日語系1期生の卒業30周年同窓会を西安で行ないました。今回の同窓会は大学主催の「西安交通大学1989届校友紀念畢業30周年」(西安交通大学1989年校友卒業30周年記念)活動への参加でもありました。本活動は卒業30周年の校友を対象として毎年行なわれているもので、本年は1989年卒業生が対象となりました。日語系からは7人が集いました。6日午前はまず四大発明広場に集まりました。写真1は、図書館を背にした卒業生のサインパネルを背景としたものです。皆さん大学の30周年記念Tシャツを着ています。次いで校内を巡り各所で記念撮影をしました。写真2は、この最初で折からの満開の東道の八重桜並木です。「科技日51」班の看板を持ってです。写真3は、東花園で学位服での記念撮影で、...西安交通大学日語系1期生卒業30周年同窓会

  • 2019年三ツ池公園の桜

    桜名所百選として知られる神奈川県立三ツ池公園(横浜市鶴見区三ツ池公園1-1)の桜を久しぶりに観賞してきました。北入口から入り、下の池・中の池・上の池と順に南側を巡り、次いで北側から戻りました。そこで、本公園の桜の写真をその順でお見せします。本公園の桜は基本的に染井吉野ですが、少数ながら緋色の横浜緋桜もあります。撮影は、2019年4月2日(火)午前です。なお、フォトアルバム「2019年三ツ池公園の桜」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngv4k770qkr-yzGWaDwです。2019年三ツ池公園の桜

  • 2019年大倉山梅林

    「熱海梅園」(2019年1月27日付)に続いて大倉山梅林の梅をご覧にかけます。撮影は、2019年2月24日(日)午前です。写真1は、梅林上の道路からの全景です。写真2は、野梅です。写真3は、八重寒梅です。写真4は、玉筵です。写真5は、冬日野です。写真6は、淡路枝垂です。写真7は、白加賀です。写真8は、鹿児島梅です。なお、フォトアルバム「2019年大倉山梅林」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngvdr7UnaQ8NeUgN1rAです。(2019.02.26)2019年大倉山梅林

  • 伊豆山神社

    2019年1月24日(木)、伊豆山神社(静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1)を参詣しました。本神社は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、拷幡千千姫尊、瓊瓊杵尊を祭神とし、伊豆大権現・走湯大権現・走湯山・伊豆山等とも称されていました。平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せました。そして、関八州総鎮護とされています。JR熱海駅からは東海バス(伊豆山神社・七尾行)で伊豆山神社前下車で、鳥居前です。本神社は鎌倉幕府初代将軍源頼朝と深い縁を有していました。平家六波羅政権に対する反乱蹶起に当たって、走湯山住侶覚淵を頼朝は招き、千部法華経読誦が日付(蹶起日)までに満たないが、大丈夫かと問うと、覚淵は八百部で大丈夫とし、蹶起は成功すると請負います。かくて、頼朝は自信を付けます(『吾妻鏡』治承4年7月5日条)。次いで、山木夜討ちに成...伊豆山神社

  • 熱海梅園

    2019年1月23日(水)午後、熱海梅園に寒梅に行きました。本梅園は59品種・472本の梅があり、長い時期梅がみられます。1月上旬~3月上旬にかけて梅まつりが開催されます。この間は入場料300円(熱海市の宿泊者は100円)がかかります。開園時間は8時半~16時です。続いて梅の写真をお見せします。品種名を記したのはこれが確認できたものです。未開紅新冬至一重野梅(2019.01.27)熱海梅園

  • 2019年西安交通大学日本語学科東北会新年会

    春節(2月5日)を迎えるに当たって、2019年1月19日(土)、西安交通大学日本語学科東北会の2019年新年会を大連で開き、私も参席しました。この東北会新年会には2期生以下の15名が集い大いに盛り上がりました。私自身は白酒を大いに飲まされて愉快になりました。(2019.01.22)2019年西安交通大学日本語学科東北会新年会

  • 鶴見神社初詣

    2019年1月1日(火)午前、横浜市内では最古創建とされる鶴見神社(横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1)に初詣に行ってきました。本神社の本殿は杉山大明神(祭神五十猛命)と天王宮(祭神素戔嗚尊)の二社相殿となっています。写真1は、参拝の行列です。普段は閑散としていますが、初詣とあって、神社外の道路まで行列は続いています。帰りには鳥居から100m近く行列が伸びていました。写真2は、手水舎を入れて撮ったものです。写真3は、本殿と参拝する人々です。最後の写真4は、狛犬を入れて本殿と参拝者を撮ったものです。(2019.01.01)鶴見神社初詣

  • 2018年度記事目次

    戊戌年を終わるに当たって、2017年度(1~12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)、「2013年度記事目次」(2013年12月31日付)、「2014年度記事目次」(2014年12月31日付)、「2015年度記事目次」(2015年12月31日付)、「2016年度記事目次」(2016年12...2018年度記事目次

  • 鎌倉史跡散策―歴史雑感〔41〕―

    2018年12月15日(土)、武蔵野文化協会主催の「師走の古都鎌倉を訪ねて」で、鎌倉の史跡等を巡りました。10時半に鎌倉駅西口に集合して散策開始です。最初の見学地は駅西北の鎌倉歴史文化交流館(入場料300円開館時間10~16時休館日日・祝)です。写真1は、2中世展示室の永福寺関係出土品です。上が永福寺遺址からの出土品です。下が寺正面の東側の山頂尾根にある経塚遺址からの出土品です。左から水晶数珠・白磁有蓋小壺・銅製經筒です。写真2は、特別展示「出土漆器の美」の漆器椀です。写真3は、左から漆塗刷毛・漆塗篦・漆パレットです。写真4は、漆器皿松喰鶴文です。以上で見学を終わり、駅に戻り昼食時間としました。昼食後、徒歩で若宮大路に面した北条氏小町邸遺址に向かいます。これは鶴岡八幡宮前交差点手前の「M’sArkカマクラ」内に...鎌倉史跡散策―歴史雑感〔41〕―

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