10月も最終週、頼まれごとばかりで過ぎ去ったような月です。16日、生憎の雨模様の中、宮守町で花火を上げるということで時々愛妻のお供新コロ前の10月初旬は遠野市宮守町では「躍進みやもり祭」が行われており、昨年は中止となり、その代わりかどうかはわかりませんが、10発ほどの花火が同じ時期に打ち上げられました。今年は昨年以上の数が上がるので、ぜひ、見に来て!と、云うの事で三脚にカメラをセットし、雨合羽を着て傘もさして・・・頼まれなかったら、きっと・・・笑風も無く、雨ということで、後半は煙が漂いすっきり画像とはなりません。想像していたより多くの数が上がり、周辺の方々は楽しんだのではないでしょうか。先週辺りの事、国交省から全国道路・街路交通情勢調査自動車起終点調査と云うものが届き、24日と26日のぶんの車を所有している家族...なんて日だ!
14年前に一度訪ねたことがあった下宮守北端辺りの豊受神社。解体が決まり、その前にということで、権現さんの案内で、見学させて頂きました。神社の後方にため池があり、その東側の山には宮守氏が居た神成舘(宮守舘とも云う)永享9年(1437)、大槌孫三郎と気仙の岳波太郎連合軍に松崎町の横田城が攻められ、窮地に陥った遠野領主阿曽沼秀氏は三戸南部守行に救援を求めます。守行はこの神成舘に入り、出撃前に泊まっていたところ、連合軍の夜襲に遭い、達曽部まで引き返したところで方向転換し、馬越峠を通って附馬牛に入り、横田城の背後から連合軍を攻め、追い返しました。その後、守行は孫三郎を追って大槌へ入り、その戦いで矢を受け、亡くなります。その亡骸を葬ったところが現在の附馬牛町の東禅寺跡の傍ということになります。長い前置きでしたね~笑本題の豊...宮守町豊受神社
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