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仏道修行のゼロポイント https://zeropointbuddha.hatenablog.com/

ブッダの瞑想修行、その原像を古代インド世界の心象風景にまで遡って探求する。

ゴータマ・ブッダが説いたのは難しい『思想』などではなく、極めてシンプルな『実践』に他ありませんでした。 その実践の真実について、背後にある特殊古代インド的な心象風景に照らしながら論理的に追求していきます。 「脳と心とブッダの悟り」ブログの統合版。

パラシュラーマ
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2011/09/26

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  • 『外なる悪しき祭祀』とマーラ、『内なる善き祭祀』とブラフマー《30》

    『祭祀の内部化』という前回までに取り上げたテーマは、ブッダの瞑想法とそれに至る沙門シッダールタの内的遍歴を考える上で極めて重要な意味を持つものなので、繰り返しを恐れずに念を押していきたい。 バラモン教とは祭祀の宗教だった。 その祭祀とは、第一には『火の祭祀』であり、第二にはその火に捧げる『供犠の祭祀』であり、第三にはそれら火の犠牲祭と共にある『賛歌詠唱の祭祀』だ。 このような祭祀の万能性を主張したバラモン祭官たちは、自らを神をも超える超越的な力を持つ『神人』と標榜し、人々の願いの実現はおろか、大地や星宿の運行すら支配する力を持つと慢心していた。 そうして、そのような祭祀の絶対的な万能性を信じさ…

  • 『至高の内なる祭祀法』としての比丘サマナの瞑想修行道《29》

    ジャイナ教の開祖マハヴィーラなどに代表されるサマナ修道者が好んで行った苦行や、ブッダの瞑想行法が、バラモン教的な『外的祭祀』の代替となる『内部化された祭祀』だった、と前回までに書いた。 この点に関して、まずは典拠を示して、『内なる祭祀』というものが、具体的にどのような言葉で語られているのか、見てみたいと思う。 最初の参考文献は、山崎守一著 大蔵出版刊『沙門ブッダの成立』だ。この本はブッダが出家し修行した当時の北インドの宗教事情をよく捉えているもので、中でもジャイナ教の古文献を仏典と並行して引用し、そのディテールを際立たせている。 本書を入口に、様々なパーリ経典からの引用も絡めて、この『内部化さ…

  • 内部化された祭祀としての “苦行”と「坐の瞑想」《28》

    賛歌と言うバラモン教的な『瞑想実践』に対するオルタナティブとして提示されたのが『ブッダの瞑想法』であり、『賛歌のデバイスである(ヴィーナとしての)ウドガートリ祭官の身体』は『瞑想のデバイスである(ヴィーナとしての)比丘サマナの身体』と、完全に対置されていた。 バラモン教的な祭祀とブッダの瞑想行法が、具体的かつ実践的に『接続』しており、そのキーワードは『祭祀の内部化』である。 そのように、前回投稿の最後に書いた。 この『祭祀の内部化』とは一体何を意味するのか。この事はゴータマ・ブッダが当時の求道者たち、あるいはバラモンたちからしばしば “ヴェーダの達人”、あるいは "ブラフマンに等しい" と称賛…

  • 苦行者シッダールタの日常風景:「これはドゥッカの車輪である1」の補遺

    頭蓋内部には明確に車輪と重ね合されるような構造が存在し、その事実をシッダールタたち古代インドの求道者は知っていた可能性が高い。そう私は前に書いた。 今回はその根拠について若干追記して述べよう。 6本スポーク状に仕切られた脳内 当時、シッダールタが生活していた北インド一帯では、死者を葬る際には風葬が一般的だった。特別に身分のある場合は火葬が行われていたようだが、一般には人里からやや離れた森の中、その特定のエリアを墓場とし、地面の上に布にくるんだ遺体を放置し、腐るに任せていたようだ。この様な森を屍林(寒林 Śitavana梵)と呼ぶ。 そしてシッダールタの様に正統バラモン教から外れたサマナと呼ばれ…

  • 「賛歌」のオルタナティブとしての『ブッダの瞑想行法』《瞑想実践の科学27》

    ここまで私は、パーリ経典における数少ない実践的な瞑想ガイダンスの中で、最も重要なフレーズとして、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā(Maha Satipatthana Sutta)顔の周りに思念(サティ)をとどめて(春秋社:原始仏典Ⅱ)fixes his awareness in the area around the mouth(ゴエンカジー) に注目し、その最重要ワードとしてParimukham(顔、口の周りに)を取り出し、様々な考察を試みてきた。 そして、ParimukhamのコアとなるMukhaというパーリ単語について、その意味を紐とき、さらにその語源にまで遡…

  • ウドガートリ祭官の「歌詠瞑想」と“発声器官”《瞑想実践の科学26》

    今回は最も根源的かつ素朴な疑問から話を始めたい。それは、そもそもインドにおいて『瞑想』という時、その名称と営為はどこに起源するのか、という問題だ。 これについてはこれまでにも何回か取り上げたが、インダス文明の遺跡で発見された印章の彫刻に、ヨーガ行者が坐って瞑想している様な姿があり、これこそがその起源ではないか、と言われている。 Wikipediaより:インダスの印章に見る瞑想するヨーギの坐相 そこに、確かな文献的データがある訳ではない。インダス文明には一般に文字であろうと考えられるいくつもの図形の羅列が発見されているが、その意味内容は未だ解読されてはいないからだ。 だから、上の絵柄を見た上での…

  • 「身体とヴィーナ」における『発声器官』、そして『純粋呼吸瞑想』《瞑想実践の科学25》

    牛が「モ~」と鳴く時、その啼いている姿の全体像は、全身が一本の共鳴管、あるいはラッパの様に、腹腔・肺・気道・咽喉・口腔が一直線の管になったかのようにして、そのモ~という声を鳴らしている。 前二回にわたって、牛が鳴く姿と絡めて“Mukha”という言葉の意味する事について、様々な角度から考察してきた。 その中で私は、冒頭に再掲したように、牛が鳴く姿を一本の管楽器の様だと表現した。 身体の本質とは共鳴管(Hollow Tube)としての “Kha”、つまり『空処性』であり、その “Kha”という空処性の中で、音声は共鳴し、発せられる、という視点だ。 ここで思い出されるのは、以前に取り上げた、あの有名…

  • ”Mukha”の原像と『声門』という新たな焦点《瞑想実践の科学24》

    (本投稿には解剖学的画像が含まれます) 前回私は、『コップと言うものの本質とは一体何だろうか?』と設問し、その答えを例示した。それはすなわち、何らかの液体の容れ物である事を可能たらしめる "開口し奥行きのある空処性" だった。 同じように "Mukha" すなわち "口(くち=Mouth)" と言うものの本質とは一体何だろうか、と考えた時、それはコップと同様、正に「口」という表意文字に端的に表されている様に、ぽっかりと口を空けたその "空処性" に他ならない事が理解された。 もしそこに "空処" がなければ、どうやって水や食物が入る(飲食する)事が出来るだろうか? もしそこに "空間=スペース…

  • 『核心』としての「Kha」すなわち「空処」《瞑想実践の科学23》

    ブッダの瞑想法の原像を復元するに際して、もっとも重要であると考えられるパーリ経典の文言は、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā顔(口)の周りに、気付き(サティ)を、とどめて というものであり、中でも気づき(サティ)のポイントを明示するものとしてparimukhaṃがその焦点となる。 そしてpariは “周り” を意味し、muは牛が「モ~」と啼くその擬声語に由来し、mukhaという単語の原風景とは、牛がモ~と啼く、その鳴き声を発するところの鼻づら・口吻であった。 そして、parimukhamの中の最後に残されたkhaの語意について、先の投稿終盤に詳しく見ていった。 そこで…

  • アートマンの棲み処と「こころ」の所在

    (※本投稿には解剖学的な画像がふくまれます) 本ブログではこれまで、インド思想の核心とも言える「苦である輪廻からの解脱」、その立脚点である苦、すなわち『ドゥッカ Dukkha』という概念が、『車輪』という事物と密接に関わって生まれたという事実を繰り返し紹介してきた。 そして前回の投稿では、このDukkhaあるいはSukhaの焦点となる "Kha" が、仏教だけではなく汎インド教的な思想的核心部分を包含している事実を示唆した。 今回はその流れのひとつとして、まず苦からの解脱においてその解放される主体であるところの、ウパニシャッド的な『アートマン』について考えてみたい。 アートマンとはインド思想の…

  • "mukha" の原風景に見る「牛」と「Kha=空処」《瞑想実践の科学22》

    パーリ経典の多くで共有されている『サティを顔の周りに留めて坐る』という一節。繰り返し述べて来た事だが、これはブッダの瞑想法の原像について考究する時に、もっとも重要なものだと私は見ている。 ゴエンカ・ジーはこの『顔の周り=parimukham』を “口の周り” とし、「上唇の上から鼻腔にかけての三角形のエリア」と解釈した。 パオ・メソッドでも同様の気づきのポイントが採用されている事を考えると、これはゴエンカジーが、と言うよりも、レディ・サヤドウからウ・バ・キン師に至る系譜、あるいはそれをさらに遡るビルマの瞑想の伝統の中でその様に解釈されて来たと考えてもいいのかも知れない。 しかし、ここでひとつ問…

  • ゴエンカジーの偏頭痛と「Mukhaの周りに気づきを留めて」《瞑想実践の科学21》

    ブッダの瞑想行法、そのメソッドの焦点となるのは、“五官・六官の防護” である。それがこれまでの考察から導き出された結論だった。 そしてブッダの瞑想法と呼ばれる『止観』のうちの “止(サマタ)瞑想” 、その具体的なメソッドの焦点になるのが、五官六官が集住する「顔の周りに思念を留める」という事であり、それは牛・馬・象など動物の調御において急所となる、首から上の身体部位と重なり合うものであった。 そしてこの「六官を防護する為に顔の周りにサティを留める」という瞑想実践が、十二縁起という苦の連鎖の中で「六処において六入(アーサヴァの漏入)を防ぐ」事を実現し、その結果、続く触・受・愛・取・有・生・老死の苦…

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