屋ね塗装の二人明るい空に輝いて見えましたなんか心が明るくなりました仕事する人の姿っていいですね
ふと遠い遠い昔のあの子とのことを思い出しました。私が4歳、あの子も4歳お隣の可愛い女の子でした。なんということもないんですけどもハルジオンの咲いていていた夕暮れの枯れた丸太に二人ならんで腰か掛けていたときのことが思い浮かぶんですよ。5歳になった時の春私は父の仕事の移動で別れてしまいそれ以来ずっと会っていないんですけども、二人とも80歳近い爺とばばちゃんになったときふとしたことでお会いしてその頃のことを話すとちゃんと覚えていてくださって「あれって幼い二人の初恋だったのかしら?」と笑っていました。私の懐かしいほんわかした思い出です。ハルジオンの花美しく野に咲いて
植え終わった田んぼの苗も活着してもう初夏ですよねコロナ禍のせいでしょうか近頃大気が澄んで飯豊連峰が綺麗に見える日が多くなりました、。2011年の東日本大震災のときも飯豊連峰が綺麗に見える日が続きました。理由はよく分かるんですけど「大きな災害があると」空気が澄んで遠くの山が綺麗に見えるその気持ちはあまりいいもんではありませんね。コロナ禍は人類に莫大な被害を与えていますけどそのうちかならず沈静するでしょうね、有力な国々がみなその国の英知と莫大な富をつかって核戦力とその運搬システムのミサイル、そしてその防御システムのイージスの研究開発にしのぎを削っています。そんな馬鹿げた恐ろしいことを地球規模のコロナウイルス禍の経験を機にやめて欲しいと私は思います。たいていの人は「そんなこと人類が出来るはずがない」と思っていると思い...残雪の飯豊(いいで)が空に輝いて
私の散歩道のひとつに隣の集落の下政所地区があります。その方面の楽しみのひとつに下政所の鎮守さまの白簱八幡神社があります。拝殿はそんなに大きくはないんですが、広い圃場の中に鬱蒼と茂る欅の林に囲まれて神さびて荘厳な感じがします。神社略記によりますと源頼義・義家朝臣がこの地に宿陣(じんがまえ)し八流の白旗をたて八幡神社を祭ったとあります。考古民俗歴史の権威でいらしゃって多くの業績を残され瑞宝双光章を受賞なさった古川利意先生の「会津坂下町の歴史」によりますと会津坂下町下政所は蜷川莊の政所のあったところで、重福寺のある本曲輪を幅広い堀で取り巻く中世の楯の形を備えている。政所は政庁として政治の拠点だっただけではありません、莊内の百姓が会議を開く場所でもあったし、いざとならば立てこもる場所でもあたのです。白旗神社は莊内の者が...白旗八幡と政所遺跡を訪ねて
植え終わる圃場が広々と見えていました静かな村の初夏ですね畦に咲く花の白さが輝いて
明るく美しい菜の花が咲いていました晩春の散歩道嬉しくなって摂りました遠い日の思いよみがえらせて
のどかなカッコーの声を聞きましたもう初夏なんですよね昨年は昆虫が激減したためカッコーが托卵しようとする川辺のヨシキリが少なくなったためでしょうねかカッコーの声が聞けませんでした。今年はカッコーの声を聞くことが出来ていい年になりそうな気がします。植え終わる田んぼの遠く村見えて
晴れ渡る空が嬉しく輝いて久方ぶりの田植えが再開されました何日も何日も冷たい雨の日が続いて田植えができなかったんですいきいきと田植えの準備をなさる人たちです。たぶん田植え機の上の青い服装の人と、軽トラの近くで白い服を着た人が田植えをす二人で、黒めのの服装で苗の準備をなさっている二人が自分の田んぼの田植えを頼んだ人だと思いますいろんな田植えがありますね。向こうの畦に立って小さく見えている人が自分の田んぼの田植えをたのんだ人だと思います大型の新品の田植機ですね。ぴかぴか光ってスピードも速いです雨降り続く日の前に植えられた田んぼの苗をはもう活着しています晴れ渡る空の金上集落です。うれしくて明るくて豊かな感じでいっぱいです晴れ渡る空が嬉しく輝いて
パソコン室はストーブを焚いてようやく24℃、連日の冷たい雨の寒い日が続いていて田植え作業も止まっています。コロナウイルスの心配はあまりない会津ですけども気が滅入ります。連日の雨降る窓辺侘しくて
若いお母さんは赤ちゃんをおんぶしているんですコロナなどいない綺麗な空気ですからマスクなど必要ないんです母さんと一緒楽しい田舎の散歩道
今朝5時目覚めて窓をを明けてみると昨日に続いて冷たい雨が降っていましたそしてふと明智光秀の「ときはいま雨が下しる皐月かな」の句が思い浮かびました。NHK日曜日の連続ドラマ「麒麟がいく」の影響なんでしょうか。よく言いふるされている話に、この句は光秀が信長に命じられて秀吉の援軍に行く前におこなわれた連歌「愛宕百韻」で光秀が発句に詠んだ句で「土岐(明智)は今天をとろうと思っている5月です」とする意味が隠されていて、土岐(明智)が本能寺にいる信長を殺害して天下をとると言う祈りがこめられているというのがありますよね。あまりにもよくできているお話ですよね。少し前まではボケ老の爺いも信じていましたよ、おもしろいお話ですからでもこれってテレビドラマ「麒麟がいく」の楽しみを乱しますね。ごめんなさい。「愛宕百韻」明智光秀の発句に思う
明るく輝いて見えてます静かに田植えが進んでいます苗を運んでいらっしゃる奥様の許可を頂いて摂りました。田植機は少し小型に見えましたけどすごいスピード田植えが進んでいました。広い田んぼもあっという間に田植えが終わってしまいます。こちらは馴染みの方の田植えです。遠くに苗を運んでいらっしゃる奥様の軽トラが見えています会津の田植えはどこもお二人だけで進んでいます。しっかりと協力なさっている姿がとても暖かく見えています植え終わったばかりの田んぼです。注意して見ないと苗は見えませこちらはもう苗が活着した田ンぼです。遠くの集落が静かです集落の田植えにはコロナや三蜜など全く関係がありません。綺麗な空気ですから私を含めてマスクしているひとなどたれもいません。でも町のスーパーにいってみると展示されている商品にはなんの変化もありません...田植え前の圃場の緑広々と
古い時代この道は坂下茶屋町から和泉河原経て来る道と合わさって青津山崎船場を経て喜多方にいたる湯殿山参拝の大事な道でした。どなたさんか知りませんけど蔦や柴の藪に隠れていた道しるべを藪を綺麗に苅り払って下さってよく見えるようにして下さいました。嬉しいことですなおその道標の側面はかすかに大正九□青年団□□と読み取ることが出来ます。藪にかくれてみんな忘れてしまっていた道しるべを誰もが見ることができるようにして下さった方、史跡を大事になさる立派な方なんですね。感謝しなければならないと思います。ふるさとの古道に昔懐かしむ
これって私のふるさと奥会津の言葉です「私はもう驚いてしまったんですよ」という意味のつぶやきですなんとまあ、田んぼ一面のレンゲの花なんですよ。感動のあまり思わず自分のふるさとの言葉でつぶやいてしまったんです。レンズをマニュアルにしてしっかりとしたピントで撮ればいいのに、感動のあまりオートのピントで撮ってしまったんです。近くの花がボケています。ぼんやり者の私のしたことがピントの甘い写真になってしまっています。撮り直しもできないし、悔しいです。レンゲの花いっぱいの田んぼといえば60年ほど昔の田んぼの春を思い出します。その頃の田んぼの春はカラシナやレンゲの花が一面に咲いていて綺麗だったように思います。レンゲは豆科の植物ですから根に根瘤バクタリアがついていていて空気中の窒素を固定するんでよね、レンゲを鋤き込むと田んぼの窒...おらはたまげてしまったでや
墓碑に「昭和50年5月12日成田博」とあるお墓なんですよ句碑には「大阿賀を越ゆれば他郷あげ雲雀青芦」とあります「お名前は成田博62歳俳号は青芦」昭和50年(1975年)お亡くなりになられたんですね。私が48歳の時でした。成田さんは私より14歳ほど年上の方で金上集落の名家にお生まれになりました。若くして海兵団に入られ海軍中尉で終戦をお迎えになりました。復員されてからは県の地方事務所にお勤めになられ、定年で退職なさってからは私の家の隣に家を新築なさって奥さまと暮らしていらしゃいました。人生経験豊かな温和な方で未熟な私たち夫婦をなにかと優しくご指導下さいました。でも12歳も年齢が離れていましたし私もまだ現役の忙しい身でもありましたのでそれほどの深いおつきあいはありませんでした。私が現役をはなれ退職後は野仏など撮っ楽し...句碑のある墓懐かしむ散歩道
中政所西側の農道のお墓に近いところに車が1台駐車出来るほどの小さな空き地があってそこに新緑の小さな林が茂っていました。この道は今は一本道の農道ですけどこの場所の圃場が大掛かりな基盤整備がなされる前はこの場所が三叉路になっていたんですよ。この空き地から和泉河原へまっすぐな道が出来ていたんです。坂下町の緑町から中政所を通ってきた道と茶屋町から和泉河原を通ってきた路がこの場所で一緒になっていたのです昨日の散歩でこの場所が綺麗に刈り払われているのに驚きました。刈り払われる前は道の左側は柴木や蔦などの藪で覆われていてガードレールの半分ほどと小さな石の碑のようなものははっきりとは見えなかったんです。でも私はその石の碑のようなもがなんの碑なんだろうと興味を持ってはいたんですけど藪に覆われていて見るみることが出来なかったんです...古い道しるべに昔を思い懐かしむ
外付けのハードデスクの写真を繰って楽しみましたこの写真は80歳代の半ば頃取りあげ峠の頂きから旧スキー場への尾根道の最後の登り坂なんですあの頃は元気でした。こんな坂っすいすいと登って行ったんですね。春の尾根道には綺麗な花がいろいろ咲いていましたシュンランの花ですよね。地味な花なんですけど私の大好きな花なんですよそしてツクバネウツギの花ですツクバネウツギの実は昔お正月に女の子が羽根突きをして遊んだ羽根の形をしているのでつけられた名前ですこれは尾根道に咲くスミレです。なんという名のスミレなんでしょうねそしてこれはテンの糞です。尾根道の真ん中や倒木の上などに目立つように残されています目立つところに糞をするのは自分のテリトリーを出張するためとも言われています私は野生のテンを二度ほど見ています。一度は愛犬マル(シベリアンハ...朝からの雨とコロナの鬱にまけないように
澄みきった空に飯豊連峰が綺麗に見えていまし2~3日ぶりの散歩でしたけど圃場の変化に驚きました。広い圃場は見事に耕耘されていて水が入ればすぐにでも田植えができるようになっていました。トラクターで耕耘なさるご主人と、苗床の手入れをなさる奥様のお二人のお仕事のご様子です。コロナの惑いなど見えません。集落の新緑の色も爽やかに明るくなりました苗床の苗の緑も綺麗に育苗されています。一列みたいに見えますけども田植機に載せる苗箱の苗が2列に綺麗に並べられているんです。もういつでも田植えが出来る状態になっています。広い圃場の田植えは用水堀の上流の圃場から始まって下流の圃場に移っていくんです。この集落でも2~3日うちには田植えが始まると思います。ポンプ小屋跡の桜の緑も濃くなりました会津の集落にはコロナの惑いや影響などは見えません。...新緑の会津の空は爽やかです
雲ひとつ見えない会津の空が澄みきっています心配していた老体のコロナ感染もあるいはしないですむかもしれないと爺ばばの二人の顔も明るくなりました。コロナ終束の兆しがかすかに見えてきたように
あれれ・・私はいつのまにか93歳4ヶ月の古老になってしまいました私は大正が昭和に改元されて9日めの昭和2年(1927)1月3日に生まれました。昭和の初年は幼い子供でしたけど懐かしい思い出がいっぱいあるんですよ。これは昭和の初め頃の懐かしい写真です「肥え引き」というんです。当時の農業では金肥と言われる化学肥料は少なくて水田は馬や牛の小屋に敷かれて馬や牛の糞尿がいっぱいある藁と毎朝ご飯前に刈り取った草を積んで堆肥にした物を肥料にしていました。その堆肥を圃場に運ぶために、まだ深く消え残っている雪が固くしまっている四月の初日に集落で話し合って集落の農家が一斉に大きな橇に堆肥を積んで圃場に運んだのです。数日続く「肥え引き」と言われる作業です。集落から圃場までには行きの橇道と帰りの橇道の二筋のメインの橇道ができて肥え引きの...思い返せば昭和は遠いですけども
93歳の老体の長い年月を生きてきましたから振り返るといろんな思いが湧いてくるんですよ会津も五月になって広い圃場に稲作の始まる様子が見えてくるようになりました大型のトラクターと軽トラで熟年のお二人が田んぼ耕耘の準備をなさっています私は会津の農村は昭和の63年、平成の31年の間に大きく変化(進歩)したと思っているんです。昭和20年(1945)8月あの狂気の太平洋戦争が敗戦で終わりました。よく人々は勝てるはずもない戦争に日本を引きずりこんだ帝国陸海軍指導部の愚かさを言いますけど、私はそればかりではなくて当時の日本の権力者が国民の人権を無視して奴隷のようにあつかったことが大きな罪悪だったと思っているのです。当時の陸軍では招集令状で入隊してきた新兵の二等兵をことあるごとに鉄拳で殴りたたきのめし。海軍では入隊してきた新兵を...コロナ禍の嵐の中に私生きていますけど
たれ一人会いませんからコロナウイルスなどいないきれいな散歩道です、一歩二歩三歩と歩数を数えて歩くんですよ。300歩で約5分の見当です。道脇の野の花が綺麗です。ヒメジョオンの花でしょうかあまり好きでない西洋タンポポですけども群落でなく一輪二輪で咲いていると趣きがありますね。新緑の綺麗な集落樋口分(ひぐちぶん)ですあちこちシャッターなど切りながら約2時間、4000歩から5000歩の楽しみながらの散歩道なんですよ春の野を私一人で歩む散歩道
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