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  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (33)

    弟子たる者の覚悟(ルカ一四25~35)イエスがこの譬を語り給うたのは、エルサレムの上京の途中である。「多くの人々イエスと共に行きし」イエスと共にエルサレムに行くことは立派なことではあるが、イエスは表面のみでは満足なさらず、更に精神の中に探りを入れ給うのである。〔26〕これは弟子となる条件である。弟子とは普通の信者とは異なって、どこまでもイエスと共に行く者であり、またキリストの福音のために命を捨てるもので...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (32)

    婚宴の座における婚宴の譬話(ルカ一四7~24)ユダヤ人の習慣として座席を選ぶことは、非常に煩雑であった。特に婚宴の席においてはそれが甚だしい。ユダヤ人の上座は真中であった。「上座を選ぶを見て」探られる言葉である。わたしたちの間ではそのようなことがないか。〔8~9〕箴言二十九章二十三節のように、自らを高くする者は低くせられ亡びに到る。しかし自ら謙る者は、主の来り給う時高くされるのである。従ってわたしたち...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (31)

    水腫を患える人癒される(ルカ一四1~6)パリサイ人はさも宗教家らしく熱心家らしくイエスを招いた。しかしながら、彼らがイエスを招いたのは心よりではない。「人々彼をうかがいたり」これはキリストを待ち望む精神ではなくて、キリストをうかがう精神である。そのような人は決して神の恵みを受けることはできない。〔2~4〕「彼ら黙然たり」学者、理屈を張る連中でしばしばこのようなことを演ずることがある。三歳の幼な子にも知...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (30)

    ヘロデのたばかりと主の答え(ルカ一三31~35)ヘロデは自らの言葉を貫き、人の栄えを求めようとしてついに正しきヨハネの首を取った故に、良心に責められ、その心には平和がなかった(マルコ六26)。ここにイエスの名声を聞き、また彼が奇跡を行うのを見てヘロデの心は動揺し、ついにイエスをもってヨハネの死より甦れる者となすに至った(マルコ六16)。彼の心中に不安があるのは当然である。故に彼は、イエスを他のところに退け...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (29)

    十八年病んだ女癒される(ルカ一三10~17)「女よ、汝はその病いより放さる……」この女は十八年病んだ、実に気の毒な女である。わたしたちは一日病んでも実に苦しい。しかしながら十八年とは実に長いことである。人間の側からは望みのないこの女が、キリストによって癒された。何という幸福なことであろう。「置きければ……」英訳には両手を置いたとある。その時「直ちに伸びて神を讃美せり」ハレルヤ。これを霊的に味うならば、わた...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (28)

    実を結ばないいちじくの話(ルカ一三6~9)この譬話はユダヤ人を戒めるために、主が語り給うたのである。ぶどう園とは異邦人のことで、いちじくはユダヤ人を指す。「来りてこれを求むれども、得ざりければ」神は実を求めに来り給う。これは記憶すべきことである。ユダヤ人は、他の国民より栄えを現わさねばならない者であり、また造り主なる神を拝すべきものである。しかしながら、バアルやアシタロテや金の小牛に仕え、これを拝し...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (27)

    神は私たちの必要を満たし給うこと(ルカ一一22~31)註釈はマタイ伝六章においてなしたのでこれを略し、ただ異なる点のみを言う。〔29〕今日、有形的側面において信者も未信者もほとんど違いのないことは、キリストの嘆き給うところである。魂の悪い時には神に願うが、金のない時また身体の病気の時には、異邦人と異なるところのないことは悲しむべきことである。「ただ神の国を求めよ……」これは、神の国には肉体の恵みも含むこと...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (26)

    唖の悪魔追い出される(ルカ一一14~26)この奇跡は、マタイによる福音書九章三十二節と同じであると言う者と、同十二章二十二節と同じものであると言う人があるが、いづれであるか明らかでない。註解はマタイ伝の時になしたので略す。愚かな富める者の譬話(ルカ一二16~21)〔15〕真実の安心は所有の高さによるものではない。この御言葉は多くの場合、未信者に当てはめるが、今日信者、伝道者の内にもこのような人がたくさんいる...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (25)

    ラザロ甦らさる(ヨハネ一一1~46)ラザロの住んだベタニヤは、聖書中にも神の恵みの現われたところである。またこの地は神の栄えが現われる機会のあったところである。なぜならば、そのところにはイエスを重んじ、イエスを信ずる三人の兄妹があったからである。第一、ルカによる福音書一○38~42には、イエスは真の教師として現われている。またマリアは学ぶ者として現われた。すなわちマリヤは善き方を選び、キリストに心を奪われ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (24)

    イエス、ヨルダンの向うに退き給う(ヨハネ一〇40~42)このヨハネがバプテスマを施したところは、イエスにとって記念すべきところである。実にこのところは厳かなまた静かな幸福なところであった。〔41、42〕これはヨハネにとって幸いなことである。なぜならば彼がこのところにおいて伝道した種は、今このところで芽生えたのである。ヨハネはすでに牢に死んだ。けれども、彼の労は空しくはならなかった。我らも我らの伝道が目前に...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (23)

    宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (22)

    イエス祈ることを教う(ルカ一一1~13)ここに弟子たちはキリストの祈りの力あるのを見て、祈ることを教えられんことを願った。これは実に善き願いである。次に注意すべきことは、主がこの祈りを教え給うたのはその文句ではなくてその精神である。「天に存す我らの父よ」これは目を天に上げわたしたちの父に願うのである。「御名を崇めさせ給え」第一に願うことは、神の御名が崇められることである。「御心の天になる如く」神の御...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (21)

    ベタニヤにおけるイエス(ルカ一〇38~42)〔38〕マルタは、実に主に対して熱心であった。ヨハネによる福音書にも、マルタが主に対して機敏に活動しているのを見る。「これを迎えて自己の家に入りぬ」主と主に属する者を家に迎え入れることは、実に幸福なことである。〔39〕「マリアと言える者あり、イエスの足下に座りてその道を聞けり」。またヨハネによる福音書十一章二十節では、マルタはイエスを迎えに行ったが、マリアはなお...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (20)

    善きサマリヤ人の譬(ルカ一〇25~37)場所はエルサレム。この話はたいへん恵みに感ずる。また非常に探られるところである。この律法学者は聖書をよく知っていた人で多分、キリストのことを聞いてどのような人物かをためそうとして来たものであろう。この人の仕打ちはたいへん悪いと言うほどではないが、キリストを試験したのであるから、実に無礼なことであった。「師よ、我何をなさば永生を受くべきや」これは実に大きな問題であ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (19)

    七十人の弟子帰り来る(ルカ一〇17~24)このところで、弟子たちが得意になったのは、人情の自然で、われわれの中にも成功する時にはこのようになることがある。なお、彼らは自分の成功を人の前に報告したのではなく、主の前に報告したのであるから、さほどとがめるには及ばないようであるが、主は彼らが慢心に陥ることを戒め給うたのである。「サタンの天より落つるを見し」とは、イエスが彼らに霊界の有様を告げたのである。〔19...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (18)

    羊の門また善き牧者なる基督(ヨハネ一〇1~21)囲いとは、昔のユダヤ教また今日のキリスト教である。神の備えた入口以外の所から入る者は盗人である。また門と牧者とは、離れることのできない関係にあるもので、牧者は必ず門より来るものである。〔4〕の「羊彼の声を知りてこれに従う」とは、キリストとその弟子の関係である。パリサイ人は、決してキリストの声を知らなかったから従わなかったのである。天国に入るには必ず門であ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (17)

    盲人の者癒される(ヨハネ九1~41)ヨハネによる福音書九章一節は前章の続きで、キリストが人々の中を通って行き給いしその途中の出来事である。ある批評家は、キリストが人々を恐れて逃げたと言うが、イエスは命が欲しくて逃げたのではない。まだ殺される時でなかったので去り給うたのである。それ故、途中で盲人の者に会えば、これを憐み癒し給うたのである。もし恐れて逃げるのならば、盲人がいても癒すどころではない。ここで...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (16)

    節の後の説教(ヨハネ八12~59)〔12〕イエスこそ、実に心霊界の太陽である。世の人は、自然界の太陽を知っているが、心霊界の太陽を知らない。実に悲しいことである。しかしながら、キリストを持つ者は、命の光を歩み得るのである。この所で、注意すべきことは、悪魔も光の使いのようになってくることである。それ故に、世の中に悪魔の与える光を、真実の光と思っている人がある。これは実に、危ないことである。それならば、わた...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (15)

    姦淫した女イエスの前に引き出される(ヨハネ八3~11)〔3〕このところで、学者とパリサイの人は、この女を訴えたけれど、自分たちは、返って恐ろしい者であった。彼らは実際罪を憎んで訴えたのではなく、自分たちが、律法に対して熱心であることを現わさんために、第二は、キリストを試みんためにこの様に訴えたのである。申命記二十二章二十二節を見れば、この様な者は、石で打ち殺すように書いてある。もし、律法を重んずるなら...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (14)

    イエス神殿で民を教え給う(ヨハネ七11~53)この時は、仮庵節であったが、これはただ儀式で、キリストを表わすものである。すなわちキリストは、わたしたちのためには仮庵節である。昔イスラエル人が、荒野を旅行する時仮庵の中に住んだ様に、わたしたちは、この世の荒野でキリストと言う天幕、すなわち仮庵に住むことができるのである。また、天に行ってからも、わたしたちの真実に安息するところは、キリストである。また、かの...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (13)

    イエス仮庵の祭りに臨まれる(ルカ九51~56)この時イエスは地上のみわざが殆ど終りに近ずいていた。丁度人が夕方今日の日は暮れると言うので、力一杯働く様子に似ている。しかも天に昇るとは言うもののその実は殺されるので、死が近ずいたのである。しかしキリストにとってはこの死が勝利の秘訣であり、彼はこれを確信しておられた。この時キリストは十字架の悲しさと、昇天の嬉しさ喜ぱしさが交互に混ると言うようなありさまであ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (12)

    七十人の弟子の派遣(ルカ一〇1~16)以前に十二弟子をつかわす時と同じなので詳しくは述べない。〔1~2〕主の御目には亡びる霊魂が見えている。またここで伝道の前に祈るべきことを教えられる。またキリストが行けと仰せられてから行くことである。二人で行ったことは大切なことであって、神の知恵を見る。その後主が伝道に行かれることは記憶すべきことである。〔3〕この「往け」との声を聞いて立つ時は、神の力が加わる。軽卒に...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (11)

    薄情な僕のたとえ(マタイ一八21~35)〔21〕これがペテロであったのが面白い。ペテロは弟子たちの中でも、出過ぎる方であった。主が何か仰せられると、彼は弟子たちの代表者となってイエスに向った。しかし何時でも出過ぎては頭を打たれた。多分彼は友人たちからきめつけられたのであろう。それがしゃくにさわって時には抑えたが、抑え切れずに主の前に持ち出したものであろう。これは潔められる以前のペテロである。すなわち一方...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (10)

    イエス弟子たちの欲望を叱責される(マタイ一八1~20)マルコ九34、弟子たちの頭からとかく大いならんとする分子が抜けなかった。やはり自分はどの位偉いのだろうと言う精神が残っていた。天国に入るにはまず幼な児のようにならねばならないが、天国にいる者はまた幼な児のようである。幼児について学ぶことは遜っていることである。幼児は人がこうだと言えばその通り信じるものである。このようでなければ神様と一致することは出...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (9)

    イエス再ぴその苦難を予言する(マタイ一七22~23)イエスがこの悪霊につかれた者、誰も癒すことの出来ない者を癒された時に、弟子たちの得意は、実に非常なものであった。彼らはこの調子では、間もなくキリストはエルサレムを占領し、自分たちは右大臣、左大臣の位でも得ることが出来ると思っていたであろう。ところがイエスは二三節に十字架のことを話された(ルカ九44)この「耳におさめよ」とは英語で、「沈み込ませよ」との意...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (8)

    イエス悪霊を追い出す(マタイ一七14~21)この三人の弟子は、山の上で恵みを受けたが、また山を下らねばならない。山の下には多くの悩んでいる者がいる(マルコ九22)を見れば「我らを憐みて助けよ」とある。すなわちこの子の父は、子の苦しみを自分の苦しみのように思っていた。丁度あのツロ・フェニキヤの女と同じ態度であった所を見ると、この人は確かに信仰を持っていたに相違ないが、全き信仰ではなかったらしい。〔16〕「こ...

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